たまには釘も刺しておく
話が終わり、糸井さんと共に柴一達がいる中の間の障子を引くと、柴一達は他の職人の作った錺の評価を話していた。
「柴一、帰るよ」
声をかけてみるが、呼ばれたのも気付かずに話に夢中になっている。
「柴一」
もう一度声をかけると、気付いた真乃が柴一の右袖を引っ張り、漸く柴一も喜助がいることに気付く。
「終わったのかよ」
「終わったよ、だから声を掛けんだけど柴一全然気付いてくれないし。夢中になるのは良いけど、お父さんが来たのも気付かないっていうのは、どうかと思うよ」
喜助が呆れた表情で言う。
「仕方ねえじゃねえかよ、話してたんだからさ」
柴一が口を尖らせると、喜助は満面の笑みを浮かべた。
「夢中になっても良いけど、夢中になり過ぎてたらお父さん後ろから抱きしめて、可愛い可愛いって頭撫でちゃうから」
途端に嫌だと言わんばかりの表情で、柴一が喜助を見た。
「止めろ、変態親父」
「別に変態じゃないし。それに、小さい頃にしてあげたら大喜びして、もう一回とか言ってたけど」
「何時の話だよ」
呆れ気味に言った柴一に、喜助はえっとねと呟いている。
「一二年くらい前かなあ」
「だから、覚えてねえっつうの。覚えてねえ時の話するなよ」
喜助の言葉を聞いた途端、噛みつかんばかりの勢いで言葉を返した柴一は膨れっ面になってしまう。
「柴一ちゃん、膨れっ面直さないと、おじちゃんに揶揄われ続けるよ」
真乃の言葉にそんなこと言われたってと、呟いて柴一はそっぽを向いてしまった。
これ以上揶揄うと、柴一は暫く口を利いてくれなくなりそうだ。今日は止めておこうかと思うと、喜助は笑みを浮かべた。
「柴一、もういいから帰ろうか」
膨れっ面のままの柴一が、無言で立ち上がる。話はしてくれなさそうだが、喜助の言葉はきちんと聞いてくれるらしいと分かると、店の土間へ歩き出す。
「では、須堂様。後はよろしくお願い致します」
土間で草履を履く喜助に糸井さんが言葉を掛けると、無言でうなずいて店の入り口で止まる。遅れて草履を履いた柴一が、お邪魔しましたと頭を下げるのを見計らって、喜助はそのまま店の外に出る。
糸井さんの店を出て、小走りで横に並んだ柴一が喜助の顔を見上げた。
「なあ。糸井さんの依頼、何だったんだよ」
何時もは自分からは聞こうとしない柴一が、珍しく依頼の話を振ってきた。店では膨れっ面だった柴一も、機嫌は直ったらしい。
「ん、幽霊。神田と日本橋に、男と女の幽霊が出るってさ。言っておくけど、絶対に付いて行こうなんて思わないでよ」
喜助が返す言葉も、何時もより一言多い。真乃に尾行しろとでも言われたのではないかと思っての事だが、念のため言っておくべきだろう。柴一が分かってるよと不貞腐れた表情を出して見せた。
「だったら良いよ。糸井さんと話す前に、真乃ちゃんが知りたそうにしていたから、柴一は尻を叩かれたかと思ったんだけど、気のせいみたいだね」
柔らかい笑みを見せた喜助は、仕方ないと表情に出して見せると柴一を見る。
「柴一が真乃ちゃんから尻を叩かれそうだから、一度くらいは見せても良いかな。行けそうな時は連れて行ってあげるから、今回だけは絶対に来ないようにね」
両手を袖に隠しながらもう一度念を押した喜助は、何処からか向けられた視線に気付いて立ち止まった。視線の方向を探りながら、自分の視線を柴一から外して正面に向けながら笑みを消す。
一歩を踏み出そうとしてすぐに気付いた柴一が、不思議そうな表情をしながら喜助を見上げている。
「親父」
声をかけた柴一の声にも答えずに、何ら変わらない筈の通りを見詰めながら、喜助は視線の主を探す。遠巻きに、喜助達を観察するような視線。悪意がある訳ではないが、不快に感じる。
「親父、どうしたんだよ」
無意識に鋭い視線で宙を睨んでしまっていたのか、柴一が不安そうに喜助に声をかける。
「親父ってば」
余程不安になったのか、柴一は袖を引っ張りながらもう一度声をかけた。
無理か。内心溜息を吐きながら、喜助は視線を柴一に戻すと無言のままじっと見詰めた。
「親父」
表情すら出さないまま見詰めている喜助に、不安そうに柴一が呟いた。何を言っていいのか分からない様子で、喜助の顔を見ている。
どう揶揄おうかと思案して、喜助は満面の笑みを柴一に見せた。
「何、その顔。可愛過ぎなんですけど」
一瞬、何を言われたのか分からずに、柴一は不安そうな表情のまま喜助を見詰めてしまっている。漸く何を言われたのか理解すると同時に、柴一の右頬が引き攣った。
「やっぱり、柴一は素直で可愛いね。ちょっと揶揄ったら思った通りの反応してくれるんだもん、お父さん楽しい」
「くそ親父、いっぺん死んでこい」
人の気持ちも考えないで。吐き捨てるように言って、柴一は大股で通りへと歩き出す。くすくす笑いながら、柴一以上に大股で歩いた喜助は柴一の横に並んだ。
「本当、可愛い。怒らないんだよ、柴一。楽しませてくれたお礼に、茶屋で団子でも食べて帰ろう、ね」
頬を膨らませて睨み上げた柴一は、柔らかい笑顔で見ていた喜助に仕方ないと言わんばかりの表情を見せた。
「言っとくけど、団子で騙されないからな」
「良く言うよ。甘い物に目がないくせに」
「うるせえ」
柔らかい笑顔のまま言い返した喜助に、そっぽを向きながら言った柴一が、一歩だけ先に煉瓦街の通りへと出たのである。