賢治さん
「柴一。今日は仕事しないでよ」
目を覚ましてから起きあがった柴一が、大あくびをして背伸びをしたのを見計らって喜助は言葉を掛けた。
何でと表情だけで聞いた柴一に、喜助は帯を着付けながら笑みを浮かべた。
「明日話すって、昨日言わなかったっけ」
「ああ。そういや、言ってたな」
一晩寝て、落ち着きを取り戻したせいか、柴一は普段通りに顔を洗って朝食を摂るつもりだったらしい。
「何でこの子は、綺麗さっぱり忘れちゃうかな」
呆れながら喜助は、自分の布団を畳んで部屋の隅に置く。柴一が布団から出て帯を着付ける間に、喜助は柴一の布団も畳んで部屋の隅に重ねて置いた。
「ちょっと忘れただけじゃねえかよ。思い出せねえ程、忘れちゃいねえ」
「完全に言い訳だよね、素直にごめんなさいくらい言えないの」
呆れた口調だが、喜助の表情は楽しそうだ。
「嫌だね。言ってやんねえ」
「あ、そ。別に良いけど、用意終わったら出るよ」
へーいと返事をして柴一は、帯を着け終わると土間の隅に干していた手拭いを手に草履を履く。また井戸で顔を洗おうとすると表情に出した喜助を余所に、洗い盥を取ると外に出て、井戸に顔を洗いに行った。
「もう、井戸の水は綺麗じゃないから、水屋で買った水を使えって言ってるのに」
呟きながら、喜助は火鉢を四畳半の真ん中に置く。すぐに草履を履いて土間に置いてある洗い盥に水瓶から汲んだ水を入れると顔を洗い、掛けておいた手拭いで拭いた。
「あら、柴一ちゃんおはよう」
柴一が出た後で向かいのお縁が井戸に行ったのだろう、明るい声が聞こえた。
「お縁さん、おはよう」
お縁に捕まれば、暫く世間話に付き合わざるを得ない。話を切り上げるのはどうも苦手らしい柴一が、どうやって話を切り上げるか喜助は好奇心がそそられる。
「あら、悪いねえ。本当、柴一ちゃんは良い子に育ったわ」
水が、盥に注がれる音がした。柴一は井戸から汲んだ水を先にお縁の盥に注いだらしい。
「普通だと思うけど」
柴一が言葉を返すと、間を置かずに再び水が盥に注ぐ音がした。
「今日の若い者は、ハイカラなものに気が向いてさあ。柴一ちゃんみたいに、人を気遣うなんて気がありゃしない」
「そう言うハイカラな人が目立って見えるから、気遣い出来る人が目立たないだけだと思うけど」
「柴一ちゃんは、まだ若いから言えるんだよ。あたしくらいの歳になりゃあねえ、絶対に人のこと気遣わなくなった連中が多くなったって分かるもんなんだよ」
「ふーん。お縁さん、どうでも良いけど、洗濯するんじゃねえの」
「そうよ。でも、話は洗濯しながら出来るからねえ」
お縁の話は、長くなるのだ。切り上げようと試みた柴一の策は失敗したと思いながら、喜助は笑みを溢している。長引くようであれば、喜助が柴一に声をかけなければならないだろう。
「そういえば。昨日の朝、喜助さんを訪ねてきた男の人がいたねえ」
「親父を」
お縁の言葉に、喜助は不思議そうな表情になった。喜助の人付き合いは、ごく浅い付き合いでしかない。深い付き合いは壱と糸井さんくらいだろう。後は、魚屋などの商売人くらいで、売り買い程度の付き合いしかない者に、訪ねて来るような相手はいない。
「訪ねて来るような人、いたっけ」
「その人、昔からの知り合いだって言っていたよ。もうねえ、首が痛くなるくらい背が高くてさあ、怖そうに見えるんだけど、愛想良い人でねえ。人懐っこそうな笑顔で、喜助さん居ますかって聞くんだよ。だからこっちもつい笑顔になって、朝方出かけたよって答えたのさ」
「で、その人何て」
「分かりました。またお邪魔しますって言って、帰ってったよ」
「ふーん」
覚えがない。背の高い怖そうな人物の記憶は、喜助にはないのだ。三五〇年以上生きている喜助が、何度か会っただけの人物を何時までも覚えている訳がない。余程、強烈な印象がない限り無理だ。
「お縁さん。その人の名前聞いた」
「確か、賢治って言えば分かるって」
「ありがと」
柴一が礼を言うのを合図に、喜助は土間から四畳半に上がった。すぐに帰ってくるだろう柴一を待つべく火鉢の奥に座った。
「親父」
引き戸を勢い良く開けて戻ってきた柴一に、態と火鉢に手をかざした喜助は不思議そうな表情をして見せる。
「顔を洗いに行ったのに、そんなに急いで帰って来る程、井戸は遠かったっけ」
「遠くねえ。それより、今お縁さんから聞いたけど、昨日の朝、首が痛くなる程背の高くて、怖そうだけど愛想の良い賢治さんって人が親父訪ねて来て、またお邪魔しますって帰って行ったって聞いたんだよ。親父知らねえのか」
柴一の言葉に怪訝そうにした喜助が、軽く首を捻った。
「賢治なんて名前の人、何人知ってると思ってるの。多すぎて分からないし、お縁さんは首が痛くなるくらい背が高いって言ったんでしょ。そんな背の高い人は、俺の記憶にはこれっぽっちもないよ」
「また来るって言ったのに」
「知らない。知ってたら、すぐに思い出すよ」
戸を閉めないまま、柴一は腕を組んで首を傾げた。
「じゃあ、誰なんだ」
「さあねえ。でも、相手は知ってるって感じだったんでしょ。だったら、待ってればまた現れるんじゃない。現に、またお邪魔しますって言葉を残したんだから」
「気になる」
「まあ、確かに。でも、その前に戸を閉めてくれる。寒いから」
喜助に言われて、柴一は思い出したように慌てて戸を閉めた。柴一が戸を閉めるのを見計らって、喜助は首を捻りながら腕を互いの両袖に通した。
「最初にあった賢治は、妖霊山の主の子かな。三つの頃と一三歳の頃。男の子だったけど、主の子はぱっと見ただけじゃ性別が分からないんだよね。金の髪だし、女の子みたいだったし、背も俺より低かった。次が、家康公が将軍になった頃かな。でもやっぱり背が低かったし、違うかな。その後に会った賢治さん達も皆背が低かったから違うな。あ、でも一人いたな。俺が生まれた故郷に近い町に住んでいた賢治さんって妖がいて、俺よりも背が高かったけど、その妖のことかな」
「いるじゃねえか」
洗い盥を流しに立てかけると、手拭いを天井から吊るしていた紐にかけながら聞いていた柴一は、喜助の返答にすかさず突っ込んでいる。
「否、確かにいたけど、その賢治さんがこっちに来れるのかは、俺も分からないなあ。でも、何時か会うだろうから良いか」
笑顔になった喜助は、立ち上がると土間へ行き草履を履いた。
「親父、火鉢の始末しろよ」
「大丈夫。最初から火を熾してないよ」
途端に呆れた顔をした柴一が、喜助の顔を見上げた。
「じゃあ何で、火鉢で暖まってたんだよ」
「そりゃあ、柴一を揶揄う為。でも揶揄う前に柴一が慌てて入って来たから、折角準備したのに意味がなくなったの」
柴一は頬を引き攣らせたが、言葉は返さなかった。
「さ、行こうか」
柴一の内心を知りつつも、喜助は満面の笑みを浮かべると左腕を柴一の背にまわして引き寄せた。
「って、何してんだよ気色悪い」
「気色悪いって、言わないでくれる。大樹に行くのに帯でも捕まえとかないと、柴一が途中で異界に迷い込みそうなんだもん」
喜助の言葉を聞いて、柴一は慌てて喜助の左脇の着物を掴んだ。くすくすと笑いながら喜助は、それにと言葉を続ける。
「それに、どうせ引き寄せるなら、自分の息子よりも色気のある女の方が良いに決まってる」
確かにと表情で言葉を返した柴一を、笑みを浮かべたまま見ていた喜助は、笑みを消して自分の右掌を上に向けてじっと見詰めだした。柴一が不思議そうに見ていても気にする様子を見せずに、ゆっくりと瞼を閉じて深呼吸する。
喜助の右手の向こうの景色が混ざるように左回りに円を描きながら歪んでいったのは、喜助がゆっくりと瞼を開いた時だった。
柴一が驚いた様子で、喜助の着物を強く握りしめている。
分からなくなるくらい歪んだ景色は、今度は右回りに円を戻して行く。
言葉もなく驚くだけの柴一の前で、景色は見なれた家から緑の草原へと変わって行った。




