序章 境界の朝
黒板の右端に、白いチョークで一本の曲線が引かれていた。
縦軸は物価、横軸は時間。曲線は左上からゆるやかに下り、途中でいったん平らになり、それからまた下へ沈んでいく。
「物価が下がる。それ自体は、消費者にとっては悪い話に聞こえませんね」
教壇の老教授は、チョークの粉のついた指で曲線の底を叩いた。四月から毎週同じ教室で聞いてきた、少しかすれた声だった。
「ところが、物価が下がり続けると人々が予想し始めると、話が変わる。来月のほうが安いなら、今月は買わない。企業は売れないから作らない。作らないから雇わない。雇わないから、給料が出ない。給料が出ないから、さらに買わない」
教授は曲線の脇に、小さな矢印を円く並べた。矢印は一周して、また最初の矢印の尾に噛みついた。
「借金をしている人にとってはもっと悪い。借りた額は名目で決まっているから、物価が下がれば、返すべき金の重みは実質的に増えていく。これがデフレーションの怖さです。お金が、使われずに、止まる」
林修平は、ノートの隅に同じ円を描き写した。
大学四年の後期、最後の講義だった。前列には真面目な学生が数人、後ろの席には出席だけ取りに来た顔がちらほら見える。窓の外では、葉を落とした欅が冬の陽を受けていた。
「さて、では中央銀行は何をするか。ここから先は、皆さんが四年間で学んできたことです。信用創造、金融政策、期待。教科書の章立てでいえば、ばらばらに並んでいる話が、この円の中でつながっている」
教授はそこで一度チョークを置き、教室を見渡した。
「最後の講義なので、一つだけ言っておきます。経済学は、答えを覚える学問ではありません。人々が何を予想し、どう動き、制度がそれをどう変えるか。それを考える道具です。道具は、使わなければ錆びます」
修平は顔を上げた。教授の視線はもう次の列へ移っていた。自分に向けられた言葉ではない。それでも、その一文だけは、ノートの余白に書き留めた。
道具は、使わなければ錆びる。
◇
四年間の成果が、立派なものだったとは思わない。
卒業研究は、国が公表している物価と雇用の統計を集め、簡単な時系列分析をしたものだった。指導教員には「手堅い」と言われた。褒め言葉なのか、それ以上のものではないという意味なのかは、最後まで分からなかった。
金融論は好きだった。経済学史も好きだった。ニューケインジアン・モデルは式の意味を追うのがやっとで、大学院へ進んだ同期が黒板いっぱいに書く推定の話には、途中からついていけなくなった。自分は研究者になる人間ではない、と三年の終わりには分かっていた。
それでも、大学で学んだことが嫌いになったわけではない。
修平にはもう一つ、誰にもあまり話したことのない関心があった。
宋代の制度史である。
きっかけは高校の世界史の資料集だった。科挙の試験場を描いた挿絵の横に、小さく「宋代に殿試が定着」と書かれていた。その一行が妙に気になって、図書館で新書を借り、そこから専門書へ手を伸ばした。宋という王朝は、武力で天下を取ったあと、国家を文官に委ねた。試験で選んだ官僚に、財政を、裁判を、軍の統制さえ委ねた。紙幣を使い、商業税で国を回し、官職を細かく分けて互いを牽制させた。
面白い、と思った。英雄の物語ではなく、制度の物語だった。
その延長で、修平には少し変わった趣味があった。
一人暮らしの部屋の机の引き出しに、自作の双六のような紙束が入っている。正確には、同好の士が作ってネットで配布していた「科挙官僚の人生ゲーム」を、自分で改造したものだった。
駒は一人の士人だ。賽を振って経書を読み、解試を受け、省試を受け、殿試の順位で最初の官階が決まる。そこから先が本番である。寄禄官の官階を一つずつ上げながら、実際に就く職と差遣は別に動く。知県として地方へ出され、転運司の属官として帳簿と格闘し、運が良ければ中央へ呼び戻される。左遷の目が出れば、嶺南の小さな州へ飛ばされる。
官階と実際の仕事が別に動く、というのが、宋の官制のいちばん分かりにくく、いちばん面白いところだった。友人に説明しようとして、三分で相手の目が死んだことがある。それ以来、この遊びは一人でやるものになった。
卒業論文の提出を終えた冬の夜、修平は久しぶりにその紙束を広げた。
駒は、地方の通判まで進んでいた。次の賽の目次第で、知州へ上がるか、中央の閑職へ回されるか。
「……ここで監察に引っかかるのか」
出た目は、御史の弾劾だった。駒は一段階降格され、遠方の州の監当官へ回された。
修平は苦笑して、紙束をしまった。
ゲームの中の自分は、何度でもやり直せる。現実の自分は、春から会社員になる。
◇
卒業式の日は、よく晴れていた。
式典そのものは退屈だった。学長の祝辞は例年とほとんど同じだと先輩から聞いていたし、実際、どこかで聞いたような言葉が続いた。修平は講堂の二階席から、式服の列を眺めていた。
同期の多くは、四月からそれぞれの会社へ散っていく。銀行へ行く者、役所へ行く者、メーカーへ行く者。大学院へ残る者も数人いる。修平の就職先は、特別に華やかでもなく、特別に地味でもない、普通の会社だった。
面接で経済学を学んだ理由を聞かれて、「世の中のお金の流れがどう人の暮らしに届くのかを知りたかったから」と答えた。嘘ではない。ただ、それを会社でどう使うのかは、まだ自分でもよく分かっていなかった。
式のあと、研究室の後輩たちが花束をくれた。指導教員は一人ずつと握手をし、修平の番になると、少しだけ考えるような顔をした。
「林くんは、資料を最後まで読む人だったね」
「……それは、褒められているんでしょうか」
「褒めているよ。案外、それができる人は少ない。社会に出てもそうしなさい。数字の出どころを確かめてから物を言う人は、どこに行っても重宝される」
修平は頭を下げた。手堅い、という評価と、同じことを別の角度から言われた気がした。
夕方、駅までの道を一人で歩きながら、修平は思った。
学生であることが、今日で終わる。
これからは、学んだことを試験で答える側ではなく、現実の中で使う側へ回るのだ。大それた使命感ではない。世界を変えたいわけでも、国を動かしたいわけでもない。ただ、四年間で身につけた道具を、錆びさせないくらいには使いたい。
そのくらいの気持ちだった。
◇
四月一日の朝は、少し肌寒かった。
修平は目覚ましより五分早く起き、アイロンをかけておいたシャツに袖を通した。ネクタイは前夜に三回練習した結び方で、四回目にようやく形になった。
仕事用の鞄は、入社前に母が送ってくれたものだ。黒い合成革で、角がまだ固い。中に入れたものを、出がけにもう一度確かめた。
スマートフォン。充電は満タン。
ノートパソコン。入社前研修の資料と、卒業研究のデータと、読みかけの論文のPDFが入っている。会社から貸与されるものとは別に、大学時代から使ってきた自分の一台だった。研修中に手元で調べものをするかもしれないと思い、充電器とケーブルも一緒に鞄へ入れた。
筆記用具、手帳、社員証の引換書類。
玄関で靴を履き、部屋を振り返った。机の上には、片付け忘れた科挙の紙束の端がのぞいている。帰ったらしまおう、と思って、ドアを閉めた。
鍵をかけたとき、その「帰ったら」が来ないことを、修平は知らない。
◇
駅までの道は、この二年間、毎日のように歩いてきた道だった。
アパートの前の細い路地を抜け、住宅街の角を二つ曲がり、小さな公園の脇を通って、商店街の手前の交差点へ出る。朝のこの時間には、ゴミ出しの主婦や、ランドセルの小学生や、同じように駅へ向かう会社員とすれ違う。
その朝も、はじめはそうだった。
公園の脇の道へ入ったところで、ふと、人の気配が途切れた。
前にも後ろにも、誰もいない。いつもなら聞こえる、表通りの車の音も聞こえない。ほんの一瞬の、何でもない偶然の空白だった。春休みの朝なら、こういうこともあるだろう。修平は歩みを緩めもしなかった。
そのとき、音がした。
エンジン音、なのだと思う。後から考えれば、そうとしか言いようがない。
ただ、それが聞こえてきた方向がおかしかった。
公園の植え込みの側だった。車道ではない。車が入ってこられるような道はない。それなのに、低いうなりはまっすぐ修平のほうへ、ありえない角度から近づいてきた。
振り向いた。
一台の車が、そこにいた。
色も、形も、分からない。黒かったのか、白かったのか。セダンだったのか、ワゴンだったのか。運転席に誰かがいたのかどうかさえ、見えなかった。見えていたはずなのに、目がそれを形として掴まなかった。ただ、正面から、自分へ向かって迫ってくる塊だけがあった。
逃げる、という判断が頭に届く前に、体が勝手に縮こまった。
修平は腕で顔をかばい、目を伏せた。
鞄を抱えたまま、肩をすくめ、膝を折る。これから来る衝撃を、体が先に覚悟した。
一秒。
二秒。
何も来なかった。
激突の音も、跳ね飛ばされる感覚も、痛みもない。ブレーキの軋みも、タイヤがアスファルトを擦る音もない。エンジンのうなりは、始まったときと同じように唐突に消えていた。
静かだった。
静かすぎた。
修平は、腕の隙間で、じっと息を殺していた。
◇
はじめに気づいたのは、音だった。
さわさわと、何かが擦れ合う音がする。
風だ、と思った。風が、何かを揺らしている。ビルの谷間を抜ける風とは違う。もっと低く、もっと広く、地面すれすれを撫でていくような音だった。
その向こうで、鳥が鳴いた。
聞いたことのない声ではない。けれど、住宅街の電線に止まる鳥の声とも違う。遠くの、ずっと遠くの、どこか開けた場所から響いてくる声だった。
それから、匂いがした。
土の匂いだった。湿った土と、青い草と、水の匂い。どこかで何かが燃えているような、かすかな煙の匂いも混じっている。排気ガスの匂いはどこにもない。
修平は、ゆっくりと腕を下ろした。
目を開けた。
道路は、なかった。
公園の植え込みも、住宅街の塀も、電柱も、電線も、アパートも、何もなかった。
目の前には、田があった。
水を張ったばかりの、浅く光る田が、畦で区切られて、どこまでも続いていた。水面には空が映り、ところどころに、まだ植えられていない苗の束が置かれている。その向こうには、刈り残しの麦らしき黄色い畑があり、さらにその向こうに、低い丘と、ぼんやり霞んだ山の稜線があった。
修平は、しゃがんだ姿勢のまま、動けなかった。
頭のどこかが、ひどく冷静に状況を並べていた。
自分は、車に轢かれかけた。目を伏せた。目を開けた。そうしたら、ここにいた。
足元を見た。
革靴が、湿った畦道の土に半分沈んでいた。昨夜磨いた靴だった。スラックスの裾に、泥が跳ねている。
体を確かめた。腕も、足も、動く。どこも痛くない。血も出ていない。シャツもネクタイも、家を出たときのままだ。鞄は、腕の中にしっかりと抱えられていた。
車の痕跡を探した。タイヤの跡も、ぶつかった傷も、ガラスの破片も、何もない。畦の草は、誰にも踏まれていないように立っていた。
夢だ、と最初に思った。
次に、事故の衝撃で意識を失い、そのあいだに見ている幻だと思った。本当の自分は、今ごろ公園の脇の道で倒れていて、救急車のサイレンが近づいているのかもしれない。
修平は、畦の土に手をついた。
冷たかった。指の間から、湿った土がにじみ出る感触があった。爪の間に、細かい砂粒が入り込んだ。
風が吹いた。首筋を撫でる風は、四月一日の朝の東京のものよりずっと湿っていて、少し温かかった。田の水面に細かい波が立ち、映っていた空が揺れた。
遠くで、また鳥が鳴いた。
夢にしては、あまりに細部が多すぎた。幻にしては、あまりに手触りが確かすぎた。
修平は、手のひらについた土を見つめた。
数字の出どころを確かめてから物を言いなさい、と指導教員は言った。
今、自分の手元にある資料は、この土と、この風と、この匂いだけだった。
それらは全部、ここが現実だと言っていた。
修平は、ゆっくりと息を吐いた。
それから、まず周りを確かめようと、泥に沈んだ靴を畦から引き抜いた。




