第32話 鋼の合併、あるいは新世界の定款(ていかん)
ガリア帝国の首都グラズヘイムを包んでいた、あの不気味な紫色の霧は完全に消え去っていた。後に残されたのは、かつての威容を失い、魔力という名の「通貨」を使い果たして沈黙した、巨大な抜け殻のような都市である。
アイゼン商会の飛空艇「アイゼン・グローリー号」がその中央広場に降り立ったとき、出迎えたのは武装した兵士ではなく、絶望に打ちひしがれ、明日からの生活さえ見えない市民と、誇りをへし折られた官僚たちだった。
「……さて。これより、ガリア帝国の『事後処理』を開始するわ」
ルナはタラップを降り、石畳を鋭く鳴らして歩き出した。彼女の背後には、重装甲をカチャカチャと鳴らすフィオナと、周囲の不安な心を鎮めるように穏やかな鼻歌を口ずさむミリアが続いている。
皇帝オーガストが座していた玉座の間。そこは今や、ルナによって設置された臨時の「経営統合本部」と化していた。
ルナは、帝国の重臣たちを前に、一枚の膨大な書類を広げた。それは、帝国の資産、負債、そしてこれからの統治体制を記した「新大陸定款」である。
「陛下、そして諸侯の皆様。改めて申し上げます。ガリア帝国は、法的に『破産』しました。現在、この国が抱える全インフラ、土地、そして国民の安全保障能力は、すべてアイゼン商会が管理する『大陸復興基金』へと譲渡されます」
「馬鹿な……! それでは、我々はただの雇われ人に成り下がると言うのか!」
一人の侯爵が叫んだが、ルナの冷徹な一言がそれを遮った。
「『成り下がる』? 勘違いしないでちょうだい。貴方たちは今日この瞬間まで、国民の魔力を搾取し、それを無駄な軍備と贅沢に費やしてきた『無能な経営陣』なのよ。普通なら即刻解雇だけれど、私は貴方たちに『再雇用のチャンス』を与えているの。この国の内情を知る事務員としてね」
ルナが提示したのは、帝国の貴族階級を解体し、彼らを「地方行政官」という名の実務職に再配置する構造改革だった。特権を奪い、代わりに「成果に応じた給与」を保証する。それは、血筋という名の『縁故採用』を廃し、実力主義の『プロフェッショナル組織』へと帝国を強制的に脱皮させる試みだった。
一方、王城の中庭では、フィオナが別の「問題」に対処していた。
帝国の誇りである黄金騎士団。彼らは、戦う目的を失い、自決さえ考えかねない危うい沈黙の中にいた。その中心には、皇太子アリスが膝を突き、折れた聖剣をじっと見つめていた。
「……フィオナ・カーヴィル。私を笑いに来たのか。剣も、国も、守るべき民の魔力さえ失った、この無力な男を」
「笑うわけないじゃん。あんた、あんなに強かったのにさ」
フィオナは、アリスの隣にどっかと腰を下ろした。
「でもね、アリス。剣ってのは、誰かを叩き伏せるためだけにあるんじゃないんだよ。ルナ姉が言ってた。『これからの時代、最強の力は“維持”だ』ってね」
フィオナがアリスに手渡したのは、重厚な魔鋼製の「工具セット」だった。
「帝国騎士団は、今日から『大陸広域設備保全隊』に再編される。あんたたちのその頑丈な体と高い魔力制御能力は、これから大陸中に張り巡らされる琥珀魔力のパイプラインを守り、修理するために使うんだ。……敵を斬るより、壊れたインフラを直す方が、よっぽど高度な技術がいるんだよ?」
「……保全隊、だと? この私が、職人になれと言うのか」
「そうだよ。プライドで腹は膨れないけど、自分の手で直した水路から水が流れるのを見たら、きっと聖剣を振るうよりスカッとするはずだよ。……やってみる気、ある?」
フィオナの屈託のない笑顔と、差し出された無骨な工具。アリスは戸惑いながらも、その重みを受け取った。それは、武力という名の『サンクコスト』を捨て、平和のための『人的資本』へと投資し直した瞬間だった。
街の中央広場では、ミリアが民衆の「心の復興」を担当していた。
突然の国の崩壊、そして未知のエネルギーへの切り替え。市民たちが抱く不安は、放っておけば暴動という名の『カントリー・リスク』に発展しかねない。
「……みんな、大丈夫だよ。琥珀色の光は、みんなを傷つけたりしない」
ミリアは、簡易設置されたステージの上で、優しく語りかけた。
「今までの魔法は、誰かから奪うための力だったかもしれない。でも、これからの力は、みんなが捨てたものから生まれた、みんなを温めるための力なの。……聴いて、この光の音を」
ミリアがハープを奏でると、街中のポストから漏れる琥珀色の光が、その音色に呼応して柔らかく明滅した。
それは、単なる照明ではない。不安を取り除き、人々の脳波を安定させる『精神衛生管理システム』としての機能も備えていたのだ。
「……不思議。この光を見ていると、なんだか明日も頑張れる気がしてくるわ」
一人の母親が、子供を抱きしめながら涙を流した。
ミリアが行っているのは、宗教的な救済ではない。高度な音響工学と魔力調律を用いた、『広報活動』と『メンタルヘルス・ケア』の融合だった。
数日後。グラズヘイムの最上階で、ルナ、フィオナ、ミリアの三人は、夕日に染まる大陸を見渡していた。
もはやそこには「王国」も「帝国」も存在しない。あるのは、アイゼン商会という『プラットフォーム』の上に成り立つ、一つの経済共同体だった。
「……ルナ姉、これで本当に終わったの?」
フィオナが、少しだけ寂しそうに尋ねる。
「いいえ。これは『創業』が終わっただけよ。これからは、この巨大な組織を維持し、成長させ続けるための『運用』のフェーズに入るわ」
ルナの手元にある端末には、新しい世界の「定款」が記されていた。
魔力の私有を禁じ、全大陸の循環網に帰属させること(資源の共有化)。
全ての紛争は武力ではなく、アイゼン商会が仲裁する経済評価によって決着させること(紛争のコスト化)。
廃棄物は最大の資源であり、これを管理する者が世界を導くこと(循環型社会の徹底)。
「……これって、私たちが世界の神様になっちゃったってこと?」
ミリアが首を傾げると、ルナは小さく首を振った。
「いいえ。私たちは神様じゃない。……私たちは、この世界という名の巨大な会社の、ただの『管理人』に過ぎないわ」
ルナは眼鏡を直し、再びモニターに向き合った。
彼女の目には、すでに次の課題が映っていた。大陸全体の物流網の再構築、教育格差の是正、そして――帝国が放出した魔力の残滓が引き起こすかもしれない、未知の生態系変化への対策。
「……さあ、仕事に戻りましょう。世界を救うのは一度きりでいいけれど、世界を『経営』するのは一生続く仕事なんだから」
三姉妹は、血塗られた戦争に終止符を打ち、鋼の論理と琥珀の光による「新世界」を立ち上げた。
それは、剣が魔法を凌駕する物語ではなく、『意志ある経営』が絶望を駆逐した、新たな神話の始まりだった。
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