第1話 氷の揺り籠、鉄の意志
春という言葉は、このカルナ村においては単なる暦上の記号に過ぎない。
朝、ルナ・カーヴィルが井戸の蓋を開けると、そこには厚さ三寸はあろうかという硬い氷が張っていた。鉄の天秤棒を叩きつけ、氷を砕く。
飛び散った氷片が頬を切り、熱い血が一筋流れる。その熱だけが、自分がまだ凍りついていない証明のように感じられた。ルナは眉一つ動かさず、ただ、指先の感覚とともに消えゆく『弱さ』を、冷たい井戸の底へ沈めた。
「冷たい……」
指先の感覚を奪う冷気は、この村の貧しさと停滞そのものだった。ルナは、今は亡き父がかつてこの井戸を掘りながら漏らした言葉を思い出す。
『ルナ、この村の冬を、お前の代で終わらせてくれ。凍えるのは、我々だけで十分だ』
父の遺言は、村を救えなかった無念とともに、ルナの胸の奥で消えない種火となっていた。
(奪われる側であることをやめる。それは、父様のような無力な犠牲を二度と出さないということよ)
彼女は砕いた氷の破片を強く握りしめた。その痛みだけが、彼女を折れそうな現実から繋ぎ止めていた。
この村の土は痩せ、空気は刺すように冷たい。王国最北端に位置するカルナ村は、地図上では王国の領土だが、王都の貴族たちにとっては「税を搾り取ることすら効率が悪い捨てられた地」だった 。
「……ルナ姉、また無理してる」
背後から声をかけたのは、末妹のミリアだった。十四歳になったばかりの彼女は、寒さで赤くなった鼻を啜りながら、古い毛布を肩に羽織っている 。
「無理をしなければ、今夜の粥の分すら稼げないわ。ミリア、貴女は薬草の選別を。少しでも鮮度が落ちれば、行商人は値を叩いてくる」
ルナの声は、氷よりも冷たく、そして硬い。十八歳の彼女は、亡き両親に代わってこの家を、そして三姉妹の運命を背負っていた 。
家の中に入ると、次女のフィオナが錆びついた大剣を一心不乱に磨いていた。十六歳の彼女の腕には、女性とは思えぬほどしなやかで強靭な筋肉が宿っている 。
「ルナ姉、準備はできてる。いつでも行けるよ」
フィオナの瞳には、この村を覆う停滞と絶望を切り裂こうとする、野生の灯火が宿っていた 。
三姉妹が目指すのは、冒険者としての成功ではない。それは手段に過ぎない。
ルナが胸に秘めているのは、もっと果てしない野望――この村を、そして虐げられる全ての辺境を、王国の歪な支配から解き放つ「覇道」である。
朝食は、干し肉を削り入れた薄い麦の粥だけだった。それを静かに胃に流し込み、三人は村の外れにある「断罪の森」を見据えた。そこには、王国の正規兵ですら足を踏み入れるのをためらう魔獣の巣窟がある。
「いい、二人とも。私たちは今日、この村を捨てるのではない。この村を救うための鍵を奪いに行くのよ」
ルナは、大切に保管していた古い魔導書を手に取った。それは先祖が王都から持ち帰ったとされる、唯一の財産だ。
三人が村を出ようとしたその時、村長が数人の村人を連れて現れた 。
「ルナ……本当に行くのか。王都までの道は、魔物だけではない。人の皮を被った獣も多いのだぞ」
村長の言葉には、慈愛と、そして諦念が混じっていた。この村から出た若者の大半は、二度と戻らないか、変わり果てた姿で発見されるからだ。
「村長様、心配はいりません」
ルナは、かつて見たこともないような冷徹な微笑を浮かべた。
「私たちは、奪われる側であることをやめるために行くのです。次にこの村の門を叩く時、私たちは貴方たちを跪かせる存在になっているかもしれません。それでも――この冷たい風の中で死ぬよりは、マシだと思いませんか?」
その言葉の苛烈さに、村人たちは沈黙した。
三姉妹は一歩、また一歩と、雪解けの泥道を踏みしめていく。
背後に広がるカルナ村の情景を、ルナは一度も振り返らなかった。
目的地である交易町ドレミアまでの道のりは、徒歩で三日 。
だが、その初日の夕暮れ、彼女たちの前に最初の「壁」が現れた。
それは、腹を空かせたグレイウルフの群れではない。
王国の紋章を刻んだ鎧を纏い、行き交う民から路銀を巻き上げる「公認の盗賊」――王国の徴税騎士たちだった。
「おい、そこの娘ども。こんな辺境の娘が、何故そんな上等な魔導書と剣を持っている? 盗品だろう。没収させてもらうぞ」
先頭に立つ男が、下卑た笑みを浮かべて馬を進めてくる。
ルナの隣で、フィオナが剣の柄に手をかけた。ミリアは震えながらも、弓の弦を指にかける 。
「待ちなさい、フィオナ」
ルナが制する。彼女は一歩前へ出ると、騎士を冷ややかに見上げた。
「これは我がカーヴィル家の家宝です。没収される正当な理由を、王国の法典に基づいて説明していただけますか?」
「法だと? この地では俺の言葉が法だ!」
騎士が剣を抜こうとした瞬間、ルナの瞳が青白く発光した。
それは、未熟な村娘が放つ魔法ではなかった。
極寒の地で十八年間、己の血を凍らせるようにして練り上げてきた、純粋な殺意の結晶。
「……ならば、貴方の法が、私の魔力よりも強固であることを祈りなさい」
ルナが指先を振ると、騎士の足元の地面が瞬時に凍りついた。馬が驚き、騎士を振り落とす。
落馬した騎士の首筋に、フィオナの錆びた大剣が突きつけられた。
「動くな。次動いたら、その中身のない頭を胴体から切り離すよ」
フィオナの声に、遊びは一切なかった。
徴税騎士たちは、自分たちが相手にしているのが単なる村娘ではないことを、その時ようやく理解した。
彼女たちは、虐げられた者の代表ではない。
これから王国の秩序そのものを食い破り、新たな理を打ち立てる「獣」の産声だった。
騎士たちを追い払い、ルナは汚れた手袋を脱いだ。
「……行きましょう。王都は、もっと汚れているはずよ」
三姉妹の影が、沈みゆく夕日に長く伸びる。
彼女たちの覇道は、今、血と氷の匂いと共に幕を開けた。
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完結済み作品です。
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