13 夜行に乗って
「お母さん、先週の土曜日、修法が原でユキと会うた?」
「会った」
弁当のおかずの下拵えをしている母親に聞いてみると、簡単な返事があった。
「一緒にご飯、食べたんやってね。ユキが言うてた」
「うん。ユキちゃんと、そのお姉さんと、3人でね」
ユキのお姉さんは大学生で一人暮らしだけれど食事付きの下宿に住んでいるらしく、ユキもユキのお姉さんも料理に慣れていなかったらしい。
「材料入れて煮るだけやから大丈夫とは思ったけど、あんまりおっかなびっくりなもんやから」
見かねて手を出してしまった、とは母親の弁。おなかが減って早く食べたかったからね、と苦笑している。
「ユキは一人暮らしに憧れてるねんけど、ユキのお姉さんは家事が面倒なんやって。だから食事付きで風呂・トイレ共用の下宿に住んでるんよ。洗濯と自室の掃除だけでよくなるからって」
そう言うと母親は頷いた。
ご飯を食べながら(ほぼ姉妹が)お喋りをしていた時「私はバリバリ働くから家事やってくれる専業主夫と結婚したい」と言い出したユキの姉に、母親は「自分がしたくないものは、きっと他人もしたくない。いっそ家事は外注したらいい」と提案したところ、その後(主に姉妹で)随分と話が盛り上がったようだ。
「今は割と何でも外注できるやん?食事は冷凍食品とか宅配とか駆使すれば結構手、抜けるし、普段の掃除はロボット掃除機に任せて、月一回くらい掃除屋さんに来てもらうとかさ」
「うちもロボット掃除機、導入したら?」
ウチは朝に洗濯物を干す作業(父親担当)と風呂掃除(私担当)を除いて、家事の一切は母親がやっている。炊事と洗濯は毎日しないといけないので、どうしても掃除が後回しになりがちだ。床掃除だけでもロボットがやってくれたら、手間も省けるし毎日きれいだし、いいこと尽くめな気がする。
「ロボット掃除機って床にモノが落ちてない家でないと使えへんのよ」
「あ・・・あぁ。そこからか」
畳んだ洗濯物が並べてあったり、床に広げて読んでいた新聞が片付けられてなかったり。
我が家は汚部屋って程じゃないにしろ、雑然としている。
「先は長いな」
そう呟くと母親は可笑しそうに笑った。
「でも、まぁ、いつかは導入したいわ」
いつの間にか台所の片づけを終えた母親がリビングに入ってきた。
「お母さん、このへんの山は行き尽くしたんと違う?」
「流石にそんなことはないけどね」
このあたりはハイキングをする人が多くて、登山道も非常に多い。中でも縦走ルートや南側から登るルートは登山者が多く、気を遣うからと母親はあまり行かないらしい。比較的マイナーなルートを主に歩いているようだ。
かと言って人が殆ど通らないような場所は道が荒れてしまい、藪漕ぎ状態になったり、踏み跡が判らなくなって引き返すことになったりするそうで、そうなると行き辛くなってしまう。
「結局、同じような所ばっかり行ってるわ」
「たまには新しい場所に行きたくならへん?」
「そんな時は、車で少し遠くに行くねん」
小野アルプスとか有馬富士とか・・・と、近隣のハイキングコースを挙げる母親にふと思った。
「もっと高い山には登らんの?信州とかさ」
「森林限界超えたら興味ないけど」
母親は苦笑しながら続ける。
「行ってみたいところはあるよ。でも遠いところは・・・泊りがけになるやろ?」
「そう言や、日帰りばっかりやね」
一日休むとその日の仕事を前後の日に割り振らないといけない。時間内にギリギリで仕事を終わらせている状態だから、前後の日はたっぷり残業しないといけなくなる。それが嫌で(というか保育所や学童保育のお迎えがある時期は事実上無理だったのだ
と思う)極力休みを取らないのだと母親は言う。と言っても、土日を使って山に登って帰ってきて、翌日朝から出勤とかキツ過ぎるというのもわかる。
「就職する前は?」
「意外と忙しくて時間もなかったし、当然お金もなかった。車も持ってないし」
大学で取れる資格は出来る限り取ったらしいし、就職活動は就職氷河期で大変だったらしいし、学費の足しにするために暇があればバイトしてたというし、忙しかったのは嘘じゃないだろう。
「・・・大学の頃、ひとりで夜行で長野行って、一日歩いて、夜行で帰ってくるようなのを考えたことがあってんけど諦めた」
「なんで?」
「寝台車でもない夜行列車で寝てたら危ないから」
「危ない?」
「そりゃ、女の方が弱いから、襲う方からしたら襲い易いやろ?」
母親は当然のように言った。男女の体力や筋力の差は歴然としているから、特殊な場合(専門に鍛えている人とか)は別として、普通は女は力で男に勝てないのだと。
「強盗だけやなしに性犯罪者も居る訳やで。そっちの方が怖いわ」
露出狂や痴漢に遭ったことのない大人の女なんて居ないというのが母親の主張だ。全く居ないかどうかは判らないけれど、都市部で混雑した公共交通機関を毎日のように利用している女の子なら、一度くらいは痴漢被害に遭ってるんじゃないかという推測は誇張ではないと思う。非常に少数の人が物凄く多くの女の子に迷惑をかけているのだろうけれど、たとえ極少数とはいえ痴漢をはたらく奴が、ほとんどの女の子が犠牲になる程度の数だけ存在するというのは事実なのだ。万一、そういう変態に無防備な時に出くわしてしまったらと考えると確かに怖い。人気のない夜行列車なら強姦のおそれだってあるのだから。
「実際に被害に遭う確率はかなり低いだろうとは思うよ。でも遭ってしまった時の被害がデカすぎるやろ?下手したら後の人生、潰されるねんで」
だから母親は一人で夜行に乗るのは諦めてきた。気ままに動きたいとなると複数人でという選択肢は取りづらい。一人で安全に行こうとすると費用もしくは時間(一般的には費用も時間も)、それに手間がかかる。だから遠くの山は諦めてきたのだ。
「まぁ、今後は行ってもいいかもね。この見た目やったら大丈夫やろ?」
知ってるよ、お母さん。家でこっそり筋トレしてるの。絶対に行く気満々だよね。でも。
「お父さんが嫌がるんとちゃう?」
そうやね、と母親が苦笑する。
母親は相変わらず、一人でふらっと近所の山へ行く。
やっぱり日帰り。夜行で行って夜行で帰ってくる強行軍は未だに実現していない。
ということは、父親・・・母親が女に見えると信じて疑わない唯一の人間で、かつ、とびきりの心配性なのだ・・・が未だ反対しているに違いない。




