幕間:火星軍
火星軍はオーストラリア大陸の、実に67%掌握していた。孤立した国連軍の中には投降し、火星の軍門に下るものも多くあった。火星軍オーストラリア方面軍司令官、イアン・プレゾフはそれを積極的に受け入れ勢力を拡大した。
(しかし……ここまで好意的に受け入れられているとは思わなかった)
アッシュは上昇するエレベーターの窓から見える街を見下ろしながら思った。移動のため使った軍用車を取り囲む人、人、人。罵声を浴びせられるかと、暴力を叩きつけられるかと思い身構えながら移動していた彼を待っていたのは、住民たちの笑顔だった。
街には自由があり、活気があった。確かにいつ火の粉が飛んでくるか分からない以上、センチ特有のピリピリした感じはこの街にもある。それでも、日本で浴びせられた剥き出しの憎悪に比べれば幾分かマシなものだった。
「大丈夫ですか、大尉。まだ、地球の環境に慣れていないんですか?」
副官のマルグリットが覗き込むような格好でアッシュの顔を見た。アッシュは半歩身を引き頭を振った。間近で見たマルグリットの愛らしい顔は、若いアッシュの心を掻き乱すには十分なものだった。
「な、何でもない。ただ統治とはどんなものか、少し考えていただけだ」
「確かに。この街は火星による理想的な統治のサンプルにはなりそうですね」
そう言いながらも、マルグリットの表情はどこか浮かないものだった。
「そうか、少尉。キミの暮らしていたコロニーは、国連軍に……」
「はい、コロニーごと破壊されました。開戦当初は、ルールも何もなかった……いや、いまでもないも同然かも知れませんが。あの時の方がずっと酷かった気がします。両親を亡くし、弟を抱いて何日も避難ポッドで宇宙を漂って……」
マルグリットは自分の体を抱いた。少しだけ、彼女は震えていた。
「私は人間が、この星で暮らす人間が根本的に嫌いなのかもしれません。私たちをあんな目に遭わせておきながら、衣食住が絶えることのない星でぬくぬくと暮らしている。それでもまだ満足出来ず、我々宇宙で暮らす人間から奪い取る。そんな人間が許せないのかもしれません。アッシュ大尉……あなたはどうですか?」
少しだけ恐怖と怯えを帯びた目で、マルグリットはアッシュのことを見た。瞬時に答えることは出来なかった。アッシュにはマルグリットのようなトラウマも、燃え上がる憎悪も存在しない。ただ、火星に住まう者として、他人より少しだけ恵まれた生まれを持つ者として、世界を良い方向に導きたいと思っただけだ。
回答するよりも前にエレベーターの扉が開いた。その頃にはマルグリットは元の笑顔を取り戻し、アッシュを先導するように歩き出した。
(どうすればいいのだろうな、俺は……)
そう思いながら光に乏しいビルを歩いて行く。かつては高級テナントビルとして使用されていたものを、火星軍が司令部として接収したのだ。無防備に見えるが、対空防御態勢は万全だ。例え火砲が撃ち込まれても問題はない。
その最奥部にあるオフィスがオーストラリア方面軍司令官、イアン・プレゾフの待つ部屋だ。追跡部隊である彼らは補給のためここを訪れた。本来ならば司令に目通りなど叶う立場ではないが、司令の方が彼らを呼び寄せた。
「アルス・シュナイダー大尉、到着いたしました」
「よく来てくれた、大尉。まあ、楽にしてくれ」
イアン・プレゾフは二人をにこやかに出迎えた。肩まで伸びる黒髪と髭の一本も生えていないきめ細やかな肌はまるで女性のようだった。少し垂れた目と薄く朱の差した唇。女性的な風貌だったが芯の強そうな表情と広い肩幅は男性的だ。総合すると中性的な男で、不思議な風格があった。
「キャバリアーを追跡するためここまで来てくれたことに感謝しよう。我々は国連軍の対処で手一杯、それに加えて厄介事を抱え込むことは出来なかった」
「ご謙遜を。こちらの戦力ならば残った敵を殲滅するのは容易いでしょう」
「殲滅するだけなら……あと後のことを考えなくていいなら、楽なのだがね」
笑みを浮かべたままため息を吐き、イアンは窓の外を見た。元々眺望が売りだったとアッシュは聞いていたが、彼が想像していたよりも見事なものだった。街の光と空の闇、星明りとが調和しえも言われぬ風景を作り上げていた。
「見たまえ、この下に広がっているのは単なる街でも、光の集合でもない。人の営みなんだ。もし同じ風景を作り上げたとしても、あそこに人がいなければもっと無味簡素な、ただの光へと変わっているだろう。人が重要なのだ」
「それは、つまり」
「現在国連軍統治下にあるあの場所にも、多くの人が暮らしている。想像してくれ、この光が一斉に、我々の敵意へと変わったとして、どうなるか」
アッシュは光の帯が自らを貫く光景を幻視し、身震いした。
「……もっとも、武力を持たない一般市民が我々に怒りを抱いたとしても、すぐにそれが我々にとっての不利益を生み出すことはないだろう。だがそれが醸成されていけば、いずれ取り返しのつかないことになるだろう」
「イアン司令はこの地に住まう人々のことを気遣っておいでで?」
マルグリットがやや唐突に、不躾とも思える質問をぶつけた。
「なに、私はこの戦争が誰にとっても最良の形で終わればいいとそう考えているだけだ。星間戦争の発端は実利の衝突だったが、それ以上に感情の衝突だった。地球は火星に住まう人々を人間として扱わず、火星に住まう人々は地球人を悪魔と罵った……怒りの先に待ち受けているのは止め処ない流血だ。我々がそれを証明してしまったのだ、この地でな」
オーストラリア大陸にも、否。この世界のどこにも質量兵器の爪痕が残っていない場所は存在しない。それがイアンの言う、憎しみの結末なのだ。
「キミたち若い人間がこの世界の未来を憂い、戦いに身を投じてくれたことに私はどんな言葉を掛ければいいのかよく分からない。激励すべきか、それともキミたちを戦わせてしまった己の無力を嘆くべきか。だが憎しみには囚われるな」
「私は……両親を、家族を彼らに奪われました。それでも?」
「開戦の責任はどちらかにあったのだろう。だがそこから先は、誰もが同じ痛みを背負っている。それを増やすべきではない、そう私は考えている」
イアンはアッシュの、マルグリットの顔を見た。マルグリットは納得し切れていない、だがアッシュの方は理解し切れていない。そんな表情をしていた。通じていない、それでもイアンは微笑んだ。
「納得しなくてもいい。ただ、私の言ったことを覚えていてくれればな」
「……はっ。了解いたしました、司令」
「ああ、ぜひ了解してほしいものだ。時間を取らせてしまったな」
二人は改めてイアンへ挨拶を返し、退出した。エレベーターに乗り込むまで、二人は無言だった。光の街がどんどんと近付いて来る。
「……大尉は、プレゾフ司令の言葉についてどう思いますか?」
聞いているのか、それとも独り言か。どちらともとれる声量とニュアンスでマルグリットは言った。アッシュは目を閉じて考え、やがて言った。
「……分からない。どうするべきか、俺には……分からないんだ」
マルグリットは落胆するようにため息を吐いた。




