第四話 「ただ日常業務を繰り返しているだけでは、何も生まれないのさ」
自宅のリビングのドアを開けると、ソファーにパジャマ姿の姉が座っていた。
いつもは部屋に閉じこもり、ネット世界の住人と化している
18才浪人生兼引きこもりが、
リビングにいる光景には違和感がある。
俺が帰宅した事など気にも留めず、ソファーの上に体育座りをして膝に毛布をかけて、
ぼうっとテレビを観ている。
無駄な脂肪の無い体は、折れそうに細かった。
白い頬を隠す黒いストレートの髪が濡れていないところをみると、
風呂上りというわけではなさそうだ。
「姉貴、パジャマ、朝からずっと着替えてないだろ?」
俺の指摘に3秒ほど遅れて、姉の向日葵は面倒くさそうに答える。
「お風呂入る時に着替えるよ」
横着が板についているので、姉はテレビから目線を外さない。
「何見てるの」
「富士山から煙が出てるんだよ」
「へぇ」
テレビの画面は、夕暮れの富士山を映していて、山頂からは白煙が上がっていた。
一日中ネットを見ている姉は、世の中の動きに無駄に詳しい。
きっと富士山から白煙というニュースを知って、大画面で映像を見たくなったのだろう。
手に持ったリモコンでせわしなくザッピングしているが、
どこに変えても富士山を中継していた。
アニメを放送しているチャンネルが一つだけあるのは、いつもの事だった。
そんなことよりも…
「腹減ったよ」
富士山より俺の空腹の方が大事なニュースでしょ。
あんまんだけじゃ空腹に刺激を与えただけだし。
「冷蔵庫に色々入ってるよ。ご飯とかカレーとか」
このタイミングでカレーか…。
大きな木の陰に隠れた蒼生を思い出した。
「サラダとかある?」
蒼生が別れ際に言ったてたことが気になっていた。
栄養のバランスは確かに大切だ。
「12品目の野菜サラダってのが冷蔵庫に入ってる」
この姉は自宅警備員とはいえ、蒼生と肩を並べるくらいの健康ヲタクだった。
ネットで体にいい食材や料理を見つけては、次々とお取り寄せしている。
魚の干物、京都のおばんざい、産地直送野菜、漬物、お米など、
添加物を使っていない全国の美味しいのものが、
冷蔵庫に所狭しとコレクションされていた。
料理はめったにしないのだが、体にいいものを食べる事が姉のポリシーだった。
その資金は海外赴任している父親から毎月振り込まれている。
父は石油会社に勤めており、2年前から中東の現地法人に渡っていた。
母も同行していて家にいないので、姉の向日葵が食事の用意をしてくれていた。
俺がお皿を取り出そうと近づいたサイドボードの上には、
いくつもの父の写真が飾られている。
一番大きな額には、少し変色した紙焼きの写真が入っていて、
そこにはランニングシャツを着た男性が10人ほど、二列に並んで写っている。
その中の一人が約20年前の父だ。
駅伝選手だったことが父の自慢だった。
子供の頃からテレビ中継の駅伝を一緒に見て、母校の順位に一喜一憂した。
懐かしいなぁという言葉とともに当時の戦記を父に聞かされ、
「最近はコースの変更で4区の距離が少し短くなったんだよな」
と説明してくれたりする。
子供のころの俺は、そんな父に尊敬の念を抱いていたものだ。
しかし姉に言わせると、父は自分が人生の勝ち組だと思っていて、子供にも自分の人生をなぞらせようとしているだけなのだ、と。
俺はそんな風に考えた事も無く、父が描く未来予想図にそのまま乗っかっていた。
しかし去年、姉はそんな父の敷いたレールから外れることを宣言したのだ。
「親父には学歴と駅伝という過去の栄光にしかすがるものがない」と姉は言った。
「大学時代の実績が父の人生の終着点」であり、「過去の遺産で暮らしている人」だと言い切った。
女子陸上の長距離ランナーだった姉は、大学受験を前に進路に悩んでいた。
そして父に、いったん人生のエスカレーターから降りると告げたのだ。
父から猛反発を受けた姉は、そのまま自室に閉じこもった。
父が赴任先の中東に戻った後でも、そのまま部屋に籠り続け、
浪人という肩書に隠れて新しい道を築くための時間を稼いでいる…らしい。
姉は時々部屋から出て来ては、高校で陸上を続ける俺に嫌味を言った。
「陽太の人生は親父のように、このまま大学行って、陸上続けて、
どこかそれなりの会社に入る、という流れだな」
別に悪くない人生のはずなのだが、姉が言うと何だか面白味のないものに聞こえてくる。
確かに今俺が進んでいる道は、まさに姉が言う通りのものだった。
ただ、そんな風に見透かされたように言われてしまうと、反発したい気持ちも芽生えてくる。
「そんことにはならねぇよ」と姉に言ってはみるが、
「どうだかね」と一笑に付された。
とは言え、朝起きてから一度も服を着替えていない人の説教は、あまり聞きたくない。
「じゃあ姉貴はいつまでそうしているつもりなんだよ」
「勇太みたいに、ただ日常業務を繰り返しているだけでは、何も生まれないのさ」
何だかはぐらかされた。
どんだけ偉いんだか…。
そんな勝手な自説を振りかざす姉だが、俺に人生を踏み外されては困るようで、
「陽太はせいぜい親父の期待を裏切らないでくれよ。じゃないと私に負担がかかるから」
なるだけ父親の関心を姉に向けさせるな、とも言っていた。
自室に籠城してからの姉は、父から腫物に触るような扱いを受けている。
姉によると、これは自ら勝ち取った立場らしく、むやみに侵されたくないらしい。
メールの着信音が鳴った。
送り主は刈安のぞみ。
「右ひざの経過良好!」とあった。
姉貴と比べてどれだけ前向きな人生を歩んでいるんだろう、この子は。
「大会に間に合うな、あと二週間!」
そう書いて元気づけると、すぐに返信が来た。
「蒼生ちゃんとは、仲良くなれた?」
その文面にちょっと慌てる。あれは仲良くなったと言えるのか?
「まあまあ」
と適当にごまかした。
秘密を共有したなんて言えるはずがない。
一緒に抱えた秘密――。
蒼生との間に起きたこの2日間の出来事は、一体どういう事なのか。
ここは年長者の意見を参考にしてみたい。
姉貴さぁ、と呼びかけたが返事はない。
聞こえているものとの判断して、会話を続ける。
「人がうんこしているところって見たいものなのか?」
姉は、ガックリという擬音をつけたくなるほど大きなリアクションで首を垂れると、
深く溜息をついた。
ちゃんと聞こえてるじゃないか。
残念そうに顔を曇らせた姉は、今日初めてテレビから目を離した。
「お前、大丈夫か?」
引きこもり続ける姉が心配するくらい、それは異常な行為なのだろう。
そりゃそうだよな、やっぱり変だよな。
自分の常識が間違っていないと証明できてホッとする。
あれっ、姉貴がまだ俺から視線を逸らさない…。
「陽太、お前まさか…」
姉貴にあらぬ誤解を抱かせてしまったらしい。
「いやいや深い意味はないから」
慌ててごまかしてみたものの、
「お前、まさかノゾキとかしてるのか?」
と、姉に蔑んだ目でニラまれた。
「えっ…勘違いするな!そういうことじゃないから!!」
動揺しまくりで完全否定する空回りな俺に、姉は諭すように言った。
「悪い友達に誘われて犯罪に手を染めるような事はするなよ」
当たり前だ。むしろ俺は被害者だし…。
マズイ。完全に変質者扱いされている。
早くこの話題は打ち切らないと…。
姉貴を一発で黙らせる最良の攻撃…。
「姉貴もさ、たとえ悪い友達でも、人に会わないと…。
このまま彼氏が出来ないで人生終わるぞ」
その一言で、テレビ画面に顔を戻した姉は、完全黙秘に入った。
テレビでは、健康番組が高齢者の尿漏れを特集していた。




