第一話 「なかなかいい色をしていましたよ!」
ギュルギュルギュル…。
腸の中が軋む。
俺の腹部は限界に達していた。
もう無理だ…。
3年B組金八先生が歩きそうな、この河原には、
川沿いに大きな木が一本生えていた。
あそこなら、大丈夫かもしれない…。
高校の制服のポケットに手を入れて、
数日前に駅前でもらったポケットティッシュの感触を確かめた。
状況は整っている。
俺は土手を降り、そのまま雑草をかき分け、
大きな木に向かう細い一本道を小走りした。
木の高さは10m以上。高校生がすっかり隠れる位の太さもある。
その木蔭には草が生えていなかった。
木から半径3mは地面が焦げたようにむき出しになっている。
木の裏手に回ると、そこは土手の上から、ちょうど目隠しになる。
さっとあたりを見回すが、木の周りに人はいない。川の向こう側にも人影はない。
道徳やマナーが問われる行為だが、個人の健康や尊厳こそが優先されるべきだろう。
俺はためらうことなくポケットティッシュを取り出した。
ベルトを外すのと、しゃがみこむのは、ほぼ同時だった。
清々しい開放感を味わった。
ダムから一斉に汚水が放流される。
勝った。全身から喜びがじわじわと漲ってくる。
初夏の夕暮れに聞こえるカラスの声。
背後には川のせせらぎ。
喧しい夏虫の音。
自然が奏でる合奏曲を楽しんでいた。
あとは土をかけて証拠を隠滅してしまえばいい。
これで完全犯罪が成立だ。
その時、
背後に人の気配を感じた。
草を踏む、ガサガサとした音。
「ふーん」
何かに感心するような女子の声。
誰かがいる、すると――。
「なかなか健康的ですね…」
はっきりとした声が聞こえた。
戦慄が全身を突き抜ける。
反射的に振り返ると、女の子がニコニコと笑いながら草むらにしゃがんでいた。
「うわぁ、あ、あ、あ…」
見つかった!
何なんだ、これは!
女の子は、ただ嬉しそうにこちらを眺めていた。
何、何なの、この子?
なんでここにいるの?何でじっと見てるの?
あまりの異常な事態に頭のシステムがショートした。
「な、な何?」
俺はアヒル歩きになって何とか木の反対側に隠れ、
自らの恥部をかろうじてガードした。
俺の激しい動揺とは対称的に、女の子は落ち着いていた。
地面の上に無防備にさらされた「俺の作品」をじっと見ている。
ちょっと見た感じでは、高校一年生…同い年くらいだろうか。
第一印象は可愛いらしい小柄な少女。
色白で目がクリクリしていて、肩まである栗色の髪はふんわりウェーブががっていて―
全体的にほわほわした感じの女の子だった。
会った瞬間から俺の記憶媒体は高速スキャンされているのだが、
知り合いではないと思う。
それだけは救いだろう。
その柔らかい空気の女の子は、木陰に隠れている俺の顔をじっと見た。
どういうわけか笑みを浮かべて、俺と目を合わせている。
全身が総毛立った。これは一体何なんだ。
あまりの緊張に耐えかねて、俺は女の子に声をかけた。
「ちょっ、ちょっと、すみません…」
混乱のあまり、なぜか敬語で謝っている俺。
この状況を理解するのに、俺の脳内CPUは限界を超えていた。
河原で大きい方をするという、ものすごく後ろめたい行為を発見されたため、
条件反射的に謝ってしまったのだが、
別に俺は彼女に悪いことをしたわけではない。
屈辱とショックのあまりこの娘にへりくだってはいるものの、
そもそもなんでこの子はここにいて、しかも俺の醜態を堂々と観察しているのだ。
これ、男と女の立場が逆なら、間違いなく犯罪だろ。
少し強く出たっていいはずだ。
「ちょっと…見ないでくれます?……っていうか何でそこにいるんですか?」
「あの、ちょっと珍しかったもので」
可愛いい声が、ほんわかと響く。
なんでずっと見てるんだ。
普通こういう時、女子は見て見ぬふりするものなんじゃないのか。
しかも、どうしてこの子は、この場から離れようとしないんだ…。
あれっひょっとして…。
変質者―――。
急に背中に冷たいものが流れた。
まさか、ナイフとか持ってないよな。
可愛い顔で佇む少女に底知れぬ恐ろしさを感じた。
これは下手に刺激してはいけない…。
「あの、もういいんじゃないですか。もう終わったので――」
俺は相手を刺激しないよう丁重に申し出て、この場からお引き取り願おうと試みた。
「あたしのことは気にしないでください。大丈夫ですので」
「いや、俺は気にしますので。あの…恥ずかしいでしょ?」
「恥ずかしいんですか?」
えぇっ? さっきから何だ、その反応。
「あの、こんな姿を見られたら、普通は嫌でしょ?」
「私は問題ないんですけど…」
「そうですか。俺は問題大ありなんですけど…」
「あっそうなんですね、すみません」
急に申し訳なさそうな態度になり、女の子は恥ずかしそうに頭を下げた。
「お願いしますから、ちょっと離れててもらえませんか?」
「はい、どのくらい離れればいいんですか?」
そんなことまで説明するのか…。
「その草むらのもっと向こうとか、俺の姿が見えないところです」
「分かりました」
女の子は数歩後ずさり雑草の陰に隠れたのだが、
すぐにひょこっと隙間から顔を出した。
完全に視界から消えて下さい、とお願いしたかったのが、
ここは早くこの場から退散した方が良さそうだ。
俺は急いで手に持ったポケットティッシュを正しく使い、
身支度を整えて二人の間に無造作に置かれた「我が作品」を土で覆った。
小さい山の形を足で整えて顔を上げると、女の子は草むらの中に立っていた。
身長は思ったより小さい。服装は膝上丈の青いワンピースだった。
とても変質者とは思えない、爽やかな格好をしていた。
俺は物的証拠を隠ぺいし、ズボンも履いたので、ちょっと気持ちが大きくなっていた。
正直なところ女の子の可愛さも、少し気にはなっている。
「ねぇ、なんで君はまだそこにいるの?」
「いや、感心したんですよ」
「感心?」
本当に満足げな顔をして、その子は続けた。
「ちゃんとお礼を言った方がいいのかなとか、
何か迷惑そうだったので一応謝った方がいいのかな、
とかいろいろ考えちゃって」
へへっ、と可愛く照れ笑いした。
うん。
やっぱりこの娘、おかしい。
感性が全く理解できない。
「いや、お礼も謝罪もいらないから」
そう告げると、彼女はすみませんと謝罪した。
少しずつ恐怖心と羞恥心が薄れてきた俺は、なんだかさっきの屈辱がだんだんと腹立たしくなってきた。ちょっとこの子に反撃してみたくなる。
「それにしてもさぁ、なんで見てたの、変でしょ?」
「変…ごめんなさい。でもそんな所でしている人も、変なんですよね?」
返り討ちしてきた…。
「でもふつう、女の子は見ないでしょ?」
「ふつう?…でも、ふつうは、そんな場所でしないんですよね?」
「そりゃそうだけど…。これは仕方なかったんだよ」
俺がため息まじりに弱った表情を見せると、女の子はほんわりと笑った。
「でも、いいことですよ。感心しました」
何がいい事なんだ! 感心されてる意味も分からん…。はぁ…。
「確かにさ」
素直に俺は負けを認めることにした。
「こんな場所でやったら、いけないんだけどね」
俺が反省を口にすると、彼女は突然、キッとした真面目な表情に変わった。
「だから地球の人間はダメなんですよ」
地球…の人間?
はぁ、やっぱり逝っちゃってる娘なのかな…。
でもここは一応、ツッコんでおかないと。
「宇宙人かよ!」
ちょっと呆れ気味に返したこの言葉に、毅然としていた彼女が、
えっ…と言葉に詰まり、面食らったかのような顔で、動揺を見せ始めた。
おいまさか、「実は…」とか言い出すんじゃないだろうな。
それは勘弁してくれ…。
女の子は、どうしようと独り言をつぶやきモジモジした後、
大きくうなずくと意を決した目で俺を見つめた。
「実は…私はこの星の人間じゃないんです」
あぁ!やっぱり…。そう来ましたか…。
「内緒にしなくちゃいけなかったんですけど。良く分かりましたね」
やばい。
この子、本当にヤバい子だ。かかわらない方がいい。
俺はカバンを強く握りしめた。
「そうなんだ、へぇスゴイね。あの…俺、もう帰るから、じゃあね」
可能な限りの笑顔を見せて軽く手を挙げると、
俺は彼女に背を向けて土手を一気に駆け上がった。
後ろから追いかけてくる足音は聞こえない。
土手の上にたどり着いてから、木のあたりを見返すと、
彼女はさみしそうな表情で俺を見ていた。
ちょっと可哀そうな事をしたような、うしろめたさを感じなくもない。
「じゃあね」
夕暮れに少し赤く染まった女の子に、俺は手を振った。
そのまま土手の上を歩きだすと、河川敷から女の子の声が聞こえた。
「なかなかいい色をしてましたよ!」
これが、俺と蒼生はるかとの出会いだった。




