第91話 『テスト明けの海と、遠くからの視線』
1986年5月31日(土) <風間悠真>
放課後、授業を終えたオレたちは音楽室に集まっていた。窓から差し込む西日が、床に落ちたスティックの影を長く伸ばしている。
「……で、結局ルークのパート、どう組み込む?」
祐介がベースを膝に乗せたまま、腕を組んで言った。
「8曲全部に入れたら練習時間が足りないって。絞ろうぜ」
やりたい曲は山ほどある。でも、技術的な面と時間的な制約があるんだ。
「ギターソロで見せ場があるのは、蓮の『Doctor Doctor』だろ。あそこにツインで絡ませれば一番映えると思うけどな」
オレがそう言うとルークが乗り気な顔を見せた。
「湊の『Rock You Like A Hurricane』も、イントロのリフだけツインにしたら厚みが出るよ」
蓮がドラムスティックを回しながら提案する。湊は黙ってチューニングを合わせていた。
中間試験明けの初練習は、案の定こんな調子でなかなか決まらない。
オレは譜面台に向かいながら、半分上の空であいづちを打つ。
絵美……今日、海に行きたいって言ってたな。
昨日の電話で蓮から練習再開を告げられたあと、オレは絵美に声をかけていた。6人合同デートの反省から、個別で予定を組むようにしている。今日は放課後が練習、そのあとが絵美との約束だ。
本来なら一刻も早くしたいし、やってしまいたい。そう下半身が雄叫びを上げているが、冷静に51脳が判断を下す。こうやって格好をつけてはいるが、実際の中身は51歳なのに、体は中学生なんだ。抗うには相当な精神力が必要だ。今さらながら、ひしひしと感じる。
つまり、美咲や凪咲が一番進んでいるからその二人をどんどん先に進めた方が、一人に対する目標を早く達成できる。
要するに、「やれる」っていうことだ。
でも、何事も急ぎすぎるのは良くない。急ぎすぎると全部がポシャる可能性があるからだ。そうなってしまうと元も子もない。
『落ち着け、落ち着け』と、51脳が中学生能に冷静に諭した。
「悠真、聞いてる?」
祐介が顔をのぞきこんできた。
「あ、ああ。『Tragedy』と蓮の『Doctor Doctor』にツイン入れよう。異論は?」
オレがとっさに答えると、祐介はため息をつきながら肩をすくめた。
「お前が一番聞いてなかっただろ」
バレたか。
練習は夕方前に一区切りつき、オレは自転車を押しながら音楽室を出た。
約束していた公園に着くと、夕方の淡い光の中で絵美はもう待っていた。白いワンピースに薄手のカーディガンを羽織り、麦わら帽子を手に持っている。
うんとね、マジでまさに『気まぐれオレンジ☆ロード』だな。
これであの漫画の時代背景? つまり当時の定番のコーディネートが実在したことが証明された。いや、待てよ。実在というか、当時の漫画は当時に発売されているから、当たり前か。
まあ、そんなことはどうでもいい。
「お待たせ」
「ううん、今来たところ」
定番のやりとりに、二人で顔を見合わせて笑う。
「今日は部活、大丈夫だったのか?」
「うん、自由参加の日だから。……でも、普段はちゃんと出てるよ? 大会も近いし」
絵美は慌てたように付け加えた。
部活動は委員会の決定で基本的に自由参加になったけど、高校進学の内申のこともあって、みんな適当にサボっているわけじゃない。絵美も卓球部の練習には普段からちゃんと顔を出している。今日はその自由参加の権利を、オレのために使ってくれたということだ。
当然絵美だけじゃない。美咲も凪咲も純美も菜々子も同じだ。礼子だけは部活に入っていないので例外だったけど、その気になれば抜け駆けできたはずだ。
でも他の5人との兼ね合いとか、まあ、なんていうのかな? 変なパワーバランスがあったから、不思議と出し抜くような行動は起こさない。
「今日はどこ行くんだっけ?」
「玉の浜。まだ遊泳シーズンじゃないから、人も少ないと思う」
「魚、まだいるかな」
絵美がのんびりと聞いてきた。この辺りで育てば魚なんて見慣れた景色の一部でしかないはずなのに、わざわざ尋ねてくるのが絵美らしい。
自転車の荷台に絵美を乗せて海沿いの道を走る。
潮の匂いが強くなるにつれて、背中に回った絵美の腕の力も、少しずつ強くなっていく気がした。
玉の浜に着いたころには日はだいぶ傾いていた。予想通り人影はまばらで、真夏とは打って変わって静かに波の音だけが響いている。
「わあ……」
絵美が波打ち際にしゃがみこみ、浅瀬を見下ろす。小さな魚の群れが、透き通った水の中で銀色に光っていた。見慣れているはずの景色なのに、今日はなぜか特別に見える。
「悠真~、見て。すごくきれい」
「ほんとだ」
オレは絵美の隣にしゃがみ、同じ方向を見る。肩が触れそうな距離に、二人とも動かなかった。
「見て、あれ多分キビナゴだよ。潮が満ちてくる時間になると、浅いところまで群れで入ってくるの」
「へえ、キビナゴって、揚げて食べるやつか?」
「うん! 大きくなると沖のほうに出て回遊魚になるんだけど、小さいうちはこうやって岸の近くにいるんだって。おじいちゃんが漁師だから、昔からよく教えてもらってたの」
「うんうん、なるほど」
「あ、オヤビンくんだ」
絵美は少し先の岩場を指さした。黄色い体に黒い線が何本も入った小魚が、せわしなく泳ぎ回っている。
「オヤビンくん?」
「うん、オヤビッチャっていう魚のこと。黄色くて、黒い線が5本あるの。気が強くて、縄張りに入ると追いかけてくるんだよ」
「へえ、それで、オヤビンくんなのか」
「うん! なんかボスっぽいでしょ」
女の子らしくて可愛らしい、こういうところはやっぱり好きだよね。嫌いな男子っているんだろうか。いや、おそらくいないだろう。
絵美の話は止まらない。潮の満ち引きで集まる魚の種類が変わることや、満月の夜は漁が盛んになること。港のおじさんの船が一番早く帰ってくる理由。
「へぇ、それで?」
「それでね、満月の夜に獲れる魚は脂が乗っててすごく美味しいんだって。お父さんがいつも自慢してるの」
「なるほど。……すごいね、絵美、物知りだな」
素直にそう言うと、絵美は少し照れたように笑った。
「あのね……」
絵美がぽつりと口を開く。
「中間試験の前、由美子先輩の話、したでしょ」
「ああ……!」
この『ああ』は、もちろん相槌の『ああ』じゃない。
ああ……! なんでいきなり? の『ああ』だ。
「私……あれからずっと考えてたの。悠真のこと、ちゃんと知りたいなって」
絵美のほおが、潮風のせいだけじゃなく赤く染まっている。
「大人っぽい悠真も、子供っぽいところも、全部」
いつもより口数が多い絵美に、オレは少し驚いた。普段は「……」で言葉を濁すことが多いのに。
「オレも、絵美のこともっと知りたいよ」
素直にそう言うと、絵美は目を丸くしてから、小さく笑った。
「……うん」
波が二人の足元まで寄せては返す。手を伸ばせば届く距離に、絵美の手があった。
あああ! でもこの状況はそんな感じだろう? 間違いないね! そうだ、そうに違いない。
キスをしようとしているのか、キスを待っているのか、どっちかはっきり分からないけど、そんな雰囲気と距離感だ。
!
キスをして、いや、その最中に遠くの岩場のほうから視線を感じた。
岩に腰かけた人影がこっちを見ている。長い髪が潮風になびいていた。
まさか……。
いやいや、まさかまさかまさか……。
人影はゆっくりと背を向けて岩場の向こうへ去っていった。顔は見えなかったが、なぜか確信がある。
「悠真、どうしたの?」
「いや……何でもない」
絵美に向き直ったが、胸の奥はまだざわついたままだった。
その夜、自室のベッドで、オレは昼間の光景を思い返していた。
あの後ろ姿は、間違いなく由美子先輩だった。
絵美との距離は今日でまた少し縮まったんだけど、素直に喜べない自分がいる。
「……ちゃんと、確かめないとな」
そうつぶやいて、オレは目を閉じた。
次回予告 第92話 『視線の正体』
中間試験明け、バンド「NYG」の練習が放課後に再開した。
曲順やルークのツインギターの組込みに悩みながらも練習を終えたオレは、6人の中で一番進展が遅れている絵美を誘って玉の浜へ向かった。
自由参加になった部活動を休んでまで来てくれた絵美は、いつになくよく話してキビナゴやオヤビッチャの話をしてくれたし、由美子先輩のことを気にしていることも打ち明けてくれた。
二人の距離が縮まりかけたその時、岩場からの視線に気づく。
次回、その視線の正体——由美子先輩との再会が波乱を巻き起こす。




