雨音と来訪者
ざぁざぁと雨音が響く。
ネアはその夜、使い魔の所有する家に魔術洗浄の為のお泊りとなっており、窓から、見知らぬ国の不思議な街並みをじっくり眺めていた。
手元にはカードが広げてあり、リーエンベルクでお留守番の伴侶に、窓から見える不思議な獣のことを事細かく説明しているところだ。
窓から落ちる光は青く滲み、ぼうっと切り取られる部屋の中のオレンジ色の明かりの輪が窓硝子に映っている。
“直立歩行の鬣のある山羊さんのような、おかしな生き物なのですよ!”
“であれば、雨外しだろう。雨の中を歩いて、雨の当たらない場所を作る精霊の一種だね”
“まぁ。精霊さんなのですね。凛々しい感じと、少しだけ不穏な感じがするのに、当たり前のように街の景色に溶け込んでいるのがとても不思議で、ついつい目で追いかけてしまいます”
“怖くはないかい?怖いと感じたら、アルテアに言うんだよ”
そんな風に書いてくれる優しい伴侶に、ネアは微笑みを深める。
現在、家主な使い魔は、ご主人様の魔術洗浄を終えての入浴中だ。
ネアは魔術でえいっと綺麗にして貰えたので入浴の必要はないらしく、いつもの立派なお屋敷とは違う距離感であるので、お泊りお風呂がない事にどこかほっとしていた。
たいそう強欲に生きているように見えても、一人上手な人間は、少しばかり繊細なのである。
雨の向こう側で、ちかりと街の灯りが揺れた。
雨外しの体に遮られていた街灯の光が届くようになったからなのだが、そんな風景の変化もどこか不思議で見入ってしまう。
仕事で訪れた罪人の館でのことはそうそう忘れられないような気がしたが、こうして窓の外を見ているだけで、雨の色と雨音でひたひたと満たされ、瞼の裏の景色が塗り替えられてゆくようだ。
上手く言えないが、不思議な瑞々しさがあって、冷たい水を飲み干すように心地良い。
“はい。窓越しなので、不思議だなぁと思うくらいで済んでいます。この街は運河が多くて、建物の造りは似ているのに、街の構造がウィームとは全然違っているのですよ”
“側陸地には、他にも大きな都市が幾つかあるよ。こちらの大陸とは、現れる者達の姿形も少し違うから、また今度出掛けてみようか”
“ふふ。ディノとのお出掛けは大好きですが、新しい場所に行くのも楽しみですね”
“ずるい……………”
“なぜ急に弱ってしまうのだ……………”
ここは安全な場所だから、こんな風に過ごすのは安らかだった。
アルテアは長風呂のようだが、この後には晩餐が待っているし、何しろ窓の外を見ているだけで面白い。
そんな事を考えて、あの大きな獣はどこまで歩いてゆくのだろうとふすふすと息を荒げていた人間は、ふと、誰かがこの部屋の窓をじっと見上げているような気がした。
(気のせい………だろうか)
幸いにも、ネアが座っている位置は少し窓から離れているし、運河を挟んで対岸にある建物の窓から、この部屋が丸見えになるということもなさそうだ。
であれば誰の視線だろうと考え、首を傾げる。
怖いものがどこかにいるというよりは、青く滲む雨の夕闇の中に一つの小さな物語が過ぎさったような、そんな感覚であった。
この街は三層の構造になっており、この部屋のある複合住宅は高台に位置する。
その下に広がる街並みは細やかに水路で分割されており、雨外しが歩いているのはその中だ。
ずっと奥にはお城のような壮麗な白い建物が連なる区画があるが、そちらはどこか現実離れした装いであまり生活感がないように見えた。
(とは言えここは、中流階級の区画なのではないかな……………)
この家は、それでも四部屋はあるのだが、白という色を用いているあたり、あの白い建物群の区画が、上流階級の居住区なのではないだろうか。
その場合は、眼下に広がる運河の街並みが一般階級の区画なのだろうが、そちらも綺麗に整っているので、比較的豊かな国なのだろう。
そんな街を一望出来る高台の部屋が、とても素敵な場所に思え、ネアはむふんと頬を緩める。
「……………なんだ、まだそこにいたのか」
「あの窓の外の獣さんは、雨外しさんというのですよ!」
「知っている。…………この時間からは少し冷えるぞ。もう少ししたら椅子の位置を元に戻しておけよ」
「お母さんです……………」
「やめろ……………」
入浴を終えて部屋に戻ってきたアルテアは、珍しくまだ髪の毛を湿らせているようで、シンプルな白いシャツに黒いパンツというノアめいた装いであった。
だが、そんな服装におやっと思ってしまってから、この青い部屋に似合うのはそのような装いだなと腑に落ちる。
(どうしてだろう。…………普段のアルテアさんのような装いだと、この部屋では少し過分だという感じがしてしまうのだ……………)
であれば、今の自分はどうだろう。
そう考えてぎくりとしたネアは、すぐさまお部屋に見合った寛ぎの装いに着替えるのだと立ち上がる。
器用に片方の眉を持ち上げてみせた使い魔に、相応しい装いに着替えるのだと宣言してみせれば、なぜか渋面になるではないか。
「ほお。何に着替えるつもりだ?」
「この場合は、ダリルさんのくれた部屋着でしょうか?」
「……………却下だ。俺が作ってやったのがあるだろうが」
「あの薔薇色がかった素敵さだと、このお部屋では少し気取った感じになってしまうので、もう少し肩の力を抜いたような装いがいいのです」
「だったら、ダリルのものも違うだろうな」
「まぁ。ダリルさんから貰った部屋着は、用途に合わせての三着あるのですよ?」
「……………見せてみろ」
そう言うので、ネアは金庫から、お出かけ部屋着の一枚を取り出してみる。
春夏でも着用可能なしっとりさらりとしたニットのような生地を使ったこの部屋着は、どんな場面でも着られるように工夫された、七分丈の袖のワンピース型のものだ。
襟元も開き過ぎておらず、フリルやレースなどの装飾もないすっきりしたものだが、胸下部分からふわりと広がったスカートの形が綺麗でご機嫌になってしまう可愛さなのだ。
(うん。色も紺色だし、こんな夜にぴったりなのではないだろうか!)
「……………却下だな」
「なぬ。なぜですか?保温性も高く、体に吸い付くようにぴったりする素敵に柔らかな生地なのですよ?」
「食事には向かないだろうが。着替えるのはその後にしろ」
「ぐぬぅ。一人だけ、異国のお部屋気分を味わっていてずるいのだ……………」
ネアは抗議の為にじたばたしたが、そうするといっそうに渋面になった使い魔に頬っぺたを摘ままれてしまったので、どうやら危険は頬にもあったようだ。
使い魔のお宅はご主人様のお宅なのに、なぜ伸びやかな装いが許されないのかと眉を寄せていると、じりりりと、はっとする程に透明な音が部屋に響いた。
「……………おい。七年だぞ……………」
「む?今の音は、お客様が鳴らす呼び鈴のようなものでしょうか?」
「くそ。……………まだこの街にいたのかよ」
「そして、何かたいへん個人的で、尚且つ拗れた感じのお客様だという感じがします。恋人さんに違いないので、私は衣装棚にでも隠れていましょうか?」
「妙な勘違いをするな。……………いいか、ここから動くなよ。……………いや、こっちに来い。何も喋るなよ。音も立てるな」
「……………ほわ。なぜに連行されるのでしょう。二人だけでお話して下さい…………」
呼び鈴を鳴らしたのは誰だろう。
こちらも珍しいアルテアの反応に眉を寄せたネアは、なぜか玄関の方に連れてゆかれてしまい、お風呂上りなアルテアの腕の中に設置され、訪問客がいるであろう扉の向こうに向かい合わせになる。
とても巻き込まないで欲しいのだが、賢い人間は、ならぬと言われた禁忌は犯さないので、唸り声を上げる事も出来ずに連行されてしまった。
「……………二度とここを訪ねるなと言った筈だぞ」
扉が近くなったからだろう。
先程の部屋の中よりも雨音が大きく聞こえ、そう声を発したのはアルテアからであった。
誰がいるのかも尋ねはしないのだなと思えば、魔術での確認などが既に行われているのかもしれない。
「お久し振りね、愛しい方。ねぇ、その扉を開いて私を迎え入れて下さいな。一度はあなたの寵愛に叶った身ですもの、きっとやはり君だったかとその心を満たして差し上げるわ」
(……………っ、)
そして、扉の向こうから聞こえてきたのは、鈴を鳴らすような美しい少女の声音だった。
備えるとしても痴情のもつれくらいだったネアは、その声に宿る、冷え冷えとした狂気にぞくりとする。
場違いなくらいに無垢な声は、まるであの罪人の館で聞こえてくる音楽のようだが、ほんの少しだけ残されている執着や憤りのような気配が、辛うじてその存在を生身のものに繋いでいた。
「埋める必要のある欠落なんぞ、残っているものか。不要だからこそ締め出されたのを忘れたのか」
「あら、でもまた、ここに戻ってきてくれたのでしょう?いいのよ、許してあげるわ。だって、ずっとあなたを待っていたのだもの。部屋の窓に明かりが灯ったのを見て、困った人ねと思っていたの」
「……………不要だと言わなかったか?悪いが、恩寵を手に入れたんでな。余分で暇を潰す時間も惜しい」
「……………あら」
(……………あ、)
不意に、扉の向こうの声がぐっと低くなった。
ネアは、もう扉の方を見ているのは無理であると、アルテアの胸に顔を埋めてしまい、ついでにお風呂上がりの魔物のいい匂いも堪能させていただく。
しかし、ここからどうなってしまうのだろうと息を詰めていれば、どう言う訳か、扉の声の主は唐突に声に滲ませた喜びを削ぎ落したらしい。
「……………そうなの。恩寵を得てしまったのね。であればもう無理ね。……………まぁ、残念だわ。私はあなたがとても好きだったのよ。美しくて怖い人で、皆が欲しがっていた素敵なものだったのですもの。でも私は、私より優先する者を持つ男性は好きじゃないの。……………もうあなたの願い事は叶えてあげられないから、また誰か探さなきゃ」
こつこつ。
石床を踏む音がして、扉の前に立った誰かが去ってゆく。
ひどく奇妙な感覚だが、今すぐにこの扉を開いても安心だと思えるような、冷淡なくらいの無関心が、最後の言葉にはありありと浮かんでいた。
「……………やれやれだな。……………それと、お前はその情緒をどうにかしろ」
「ぐぬ。なぜお守り代わりにされたのに、情緒を貶されるのでしょう」
「手を離せば、有り得ないところからも何かを引き起こすのがお前だろうが。そうならないようにしてやったんだぞ」
「まぁ。…………とても怯えているので、ご主人様を、お守り代わりに抱き締めていたのではなかったのですか?」
「何でだよ」
うんざりしたような顔でそう言われ、ネアは、本当だろうかと疑惑の眼差しで使い魔を見上げた。
向かい合ったまま伸び上がって見上げていると、すっと細められた赤紫色の瞳が、ぞくりとするような色香を孕む。
体を屈められ、おや祝福かなと目を瞠っていると、首筋に触れる吐息がある。
「ぎゃむ!首を噛むのはやめるのだ!!その頬っぺたを引き千切りますよ!」
「その、欠片の情緒もない返答が、いっそ清々しい程だな………」
「何かを噛んでいたいのなら、狐さんのチーズボールを持っているので、お口に押し込んで差し上げましょうか?」
「いいか、やめろ。絶対にだ」
とは言えそのまま運搬されるようで、先程の部屋に戻されながら、ネアは、あの女性についてはもういいのかなと首を傾げた。
元の部屋にネアを解き放つと、アルテアはまだ乾かしきれていなかったらしい髪の毛の水気を魔術で払ってしまい、白いシャツの袖を丁寧に折り上げている。
晩餐の準備の気配を感じ、ネアはにんまりした。
「先程の方は、恋人さんだったのですか?」
「さてな」
「思っていたよりあっさり立ち去ってしまいましたが、実は少し寂しかったりしません?」
「……………お前な」
「もし、やはりもう一度会っておきたいと思う場合は、私はお部屋で待っているので、出掛けてきてもいいのですからね」
「ほお。その場合、お前の晩餐はなくなるが、それでいいんだな?」
「あら、ご主人様の晩餐の準備をせずに出かけるのは、規則上許されていない筈です」
「何の規則だよ」
「使い魔と一緒の……………、むぅ。あれは、使い魔の餌を忘れて出掛けてはいけないという項目でした」
ちょっと違ったがまぁいいかと頷いていると、ひと掬いの髪を手に取られ、アルテアがそこに唇を寄せる。
ネアは、ぎょっとして目を瞬き、慌てて髪の毛を取り戻した。
「く、臭くありません!!入浴していなくても、先程魔術で、綺麗にして貰ったばかりなのですよ?!」
「祝福をかけておいてやったんだ。お前には俺の守護があると、念の為にな」
「…………もしやあの方は、帰ったふりをして荒ぶりそうなのですか?」
「いや、それはないな。ジュシアームは、立ち去るという宣言をした場合は、二度と戻らない」
「じゅしあーむ……………」
それは、雨の日にだけ咲く、白い百合の精霊なのだそうだ。
儚げで美しいその乙女達は、心を捧げた男の為に、二つの願いを叶える。
それは犠牲の魔術領域でもあるが、願い事を磨耗するにあたっての対価は必要ない、ただ、乙女達の愛情によって与えられる贈り物だという。
十年前にこの街を訪れた選択の魔物は、そんな乙女の献身を魔術に置き換えて使う為に、先程の女性と三日間だけ恋人になったのだそうだ。
「思いがけない邪悪さでした。前髪のちび結びの刑にしてもいいかもしれません」
「…………お前は、その手の問題は気にしなかったんじゃないのか?」
「勿論、お二人の間の事であれば、私の与り知らぬ問題でしかありません。どのような顛末にせよ、お二人でどうぞというばかりなのですが、今回は私が巻き込まれ、怯えた魔物さんに首を噛まれたので既に当事者なのですよ?」
ネアがそう言えば、どこからか白い琺瑯のバットに入った魚を取り出していた使い魔は、はっとするような酷薄な微笑みを浮かべて、知ったことではないなと言うではないか。
しかし、噛まれると場合によっては儚くなってしまうのに噛まれた人間が、怒りのあまりにずばんと弾むと、怒らせてはいけない偉大なる狩りの女王だと思い出したのか、お口の中に切ったばかりのサラミを押し込んでくれた。
「むぐ。…………謝罪の為の献上があるのは、とても良い事です」
「ったく。もう弾むなよ」
「ということは、弾むとサラミが貰える運用なのです?」
「何でだよ」
アルテアがひょいと指先を動かすと、どこからともなく、静かなピアノの曲が流れ始める。
部屋のあちら側には備え付けの音楽の小箱のような魔術道具があり、百曲程度の音楽が備えてあるらしい。
この家には滅多に来ないので最低限のものしか揃えていないと聞けば、充分に素敵なお宅の内装に、ネアは怪訝な目をしてしまった。
「あれは、生き物というよりも、一つの魔術の形に近しい。雨の日の夜にだけ宿る、魔術の問いかけのようなものだ。魂のない精霊の一種だな」
料理を始めながら、先程の女性について、アルテアはそう教えてくれた。
ネアにはほこほこと湯気を立てるミルクティーが振舞われ、少しざらつきのある青い陶器のカップを持ち、一番素敵な具合の美味しさを一口いただく。
「………まぁ。魂のない精霊さんもいるのですか?」
「こちらからの制御を受け付けない、条件反射型の、幻影や白昼夢に近い存在だからな。だからこそ、繋いでおけばそこから魔術の成果だけを持ち帰る事も出来る」
「むぐ。………ぐぬぬ、…………魔術に明るくない私ですので、きちんと理解出来ているかどうかは分かりませんが、使い魔さんが、実在しない女性の方とお付き合いをしていたというのは把握しました」
「おい、その言い方をやめろ。魔術の収穫のようなものだぞ」
「幻影の中の女性に、恋をしていました?」
「そっちもだ」
「言葉としては間違いではないのに、我が儘なのだ……………」
もう一度やり直そうにも、未練があろうとも、相手がそのような存在であれば仕方がない。
ネアは、だからあの時、立ち去る少女が二度と戻ってこないと感じたのだなと思えば、やはりこの世界には不思議な事が沢山あるようだ。
ことこととお鍋の中の料理が煮込まれる音に、じゅわっとフライパンで弾ける油の音。
オーブンには火が入り、チーズの蕩けるいい匂いが鼻孔に届く。
ネアは、カウンターのようになった厨房に向かい合わせになる椅子に腰かけ、手際よく鮮やかに進んでゆく料理の様を、じっと見つめている。
どきどきと高鳴る胸をそっと押さえれば、こちらを見たアルテアがふっと微笑みを深めた。
「この国の食材ばかりだ。あまり凝ったものを期待するなよ?」
「アクアパッツァがあり、チーズたっぷりのミートソースのグラタンがあり、挽肉とお野菜を包んで食べるクレープのようななにやつかがあります。…………充分なくらいの素敵な晩餐なのでは……………」
「土地の誓約で、こちら側の区画では使えない調味料が多い。香草類でどうにか出来る範囲だと、まぁこのくらいだろうな」
「香辛料の利用まで制限されてしまうのですか?」
「この土地に暮らす植物の系譜と、一部の香辛料の不仲で、利用するだけでも障りが出るようになっているからな。使うなではなく、使えない、だな」
「それは不便ではないかと思いましたが、あの方達も植物であると思えば、そんな風に制限を設けられた土地もあるのかもしれないのですね」
だとしても、その程度の障害であれば、選択の魔物の料理にはさしたる影響を与えていないかに見えた。
テーブルの上に並んだ料理はどれも美味しそうであったし、ネアは、取り分け用の平たいスプーンでお皿にやって来たグラタンだけでも幸せになれる自信がある。
薄く切り、バターを塗ってかりりと焼いたバケットもあり、テーブルの上は彩り豊かだ。
「あぐ!……………ふぁ」
一口頬張り幸せのあまりにふにゃんとなっていると、向かいの席で食事を始めたアルテアが、薄く微笑みを浮かべる。
「こんなものを、俺が得るとは思いもしなかったがな…………」
「む。……素晴らしい絶妙さの、チーズ具合からなる、最高のグラタンのことでしょうか?」
「何でだよ」
「お魚も美味しくて、このじゅわっとした汁の部分にバケットを浸しても素敵なのですよ。時折、旨味だけでいただく系の塩味の薄いアクアパッツァがあるのですが、私は、そちらには遺憾の意を示したく………」
「まぁ、好き好きだからな」
「ですが、今迄にいただいた中では、これが一番好きでふ………」
「…………だろうな」
甘辛く味付けされた挽肉は辛みがあり、野菜などと合わせて、生地が焼き上がってみれば何だかトルティーヤ風な皮で包んでいただく。
ナイフとフォークでいただく晩餐というよりは、手も使ってはぐはぐ食べる美味しさは、こんな異国での夜に相応しいのかもしれなかった。
きりりと冷えたシュプリは、白葡萄と檸檬の香りなのだそうだ。
美味しい食事にぴったりの控えめな立ち位置で、ごくごくと飲めてしまう。
「むぐ!…………チャタプと、先日の傾斜地の料理の間くらいの感じなのですね。……………お肉の味付けが美味しくて、手が止まりません…………」
「チャタプと言い出すと思って、トウモロコシと肉も少しだが焼いてある。ただ、春告げ前だからな。食い過ぎるなよ」
「…………ともころし!」
テーブルの下で爪先をぱたぱたさせ、ネアは、その夜の素敵な晩餐を綺麗に食べ尽くした。
片付けの際に食器棚を見ていて気付いたのだが、グラタン皿はなんと五種類も大きさがあり、他の料理との兼ね合いで適切な量を作れるようになっていたらしい。
やはり充分な揃えではないかと考えたネアは、もしかすると、三日間だけこの魔物の恋人であった白百合の乙女も、こうして美味しい晩餐をいただいたのかなと考えてしまう。
「いや、作らないだろ」
「なぬ。恋人さんともなれば、あれこれと料理をふるまったりはしないのですか?」
そう尋ねてしまってから、あの声の主は魔術のようなので、それでかなと考えていると、アルテアは思いがけない返答をした。
「擬態に必要な行為として料理を作る事は幾らでもあるが、それ以外の場面で、食事なんぞ作っていられるか」
「………これまでの恋人さんには、作りますよね?」
「過分な魔術付与になる。簡単な一品程度ならともかく、俺の手で作った事はまずないな。屋敷で食事をするにせよ、料理人を招けば済む」
「まぁ。……………アルテアさんが……………」
得意だから作ってるというよりも、アルテアの作り方は、好きで料理をする人のそれである。
であれば、本当は、誰かにその料理を振舞いたかったのではないだろうか。
(……………何と言うか、ディノやノアのような、愛情を差し出す先を探していた魔物さんとは違うのだけれど、それでも、このような部分もアルテアさんの一面なのだと思う……………)
ディノが、アルテアが終身雇用の使い魔になった頃に、やっとこちら側の資質に触れる相手が現れたのかなと話していたことを思い出し、ネアは、不思議な巡り合わせについて思いを馳せた。
例えばノアだって、エーダリアやヒルドに出会わなければ、今程に伸びやかに暮らしてはいないだろう。
かつては決して勤勉な魔物ではなかった塩の魔物が、今はウィーム領主の執務に度々同行している。
けれどもそんな一面も魔物達の全てではなく、例えばネアが、目の前に座った使い魔の魔物らしい残忍さや魔物らしい無尽蔵さばかりを好んでいれば、己の役回りに失望したかもしれない。
「デザートは、上に生クリームと苺の載ったケーキのようなムースです!」
「使える材料でとなると、この手の物が作りやすい。…………おい、弾むな」
「あぐ!………むふぅ。……………む。なにやつなのだ!」
「は………?」
美味しいケーキムースをぱくりといただいていたネアは、窓の外からじっとこちらを見る生き物を発見してしまい、ぐるると唸った。
食事をしているテーブルからも、大きな窓が見えるのだ。
そこにいたのは、けばけば麦藁帽子的な謎生物だが、ぴょこんとした狐の耳と尻尾めいたものがある。
つぶらな瞳をきらきらさせてネアの手元のケーキを凝視した上、窓の外でもがもがしていたようだが、無言で立ち上がったアルテアがしゃっとカーテンを閉めてしまい、そのまま視界から隔絶された。
「アルテアさん、今の謎帽子は、なにものなのでしょう……………」
「さぁな。どうせ植物の精霊の一種だろう。この国は、その系譜の力が強い。階位としては魔物が高く、街の一画を専用居住区にしている程だが、大衆としての力を得ているのは精霊達だな」
「…………ふと気になったのですが、もしかするとここは、精霊さんの街なのですか?」
「いや。だが、専用居住区の外側は、人間と精霊が半々だな。竜と妖精は隣国に多く、この国には殆どいない。太陽の系譜の力を有する土地は、日当たりによって分布が偏るからな」
またしてもの新しい情報に、ネアは目を瞬いた。
ざあざあと雨が降る青い夜の中にいるので、ここが、太陽の系譜の力が強いという感覚が及ばなかったのだ。
「私の住まいのある大陸も、そうして何かに偏るということはあるのですか?」
「あちらは、土地ごとの不均一で、大陸そのものの偏りはないな。大陸の五分の一もない側陸地のような場所だからこそ、一つの系譜に偏るということがあるんだろう」
「それでなのですね…………」
だから、この国には植物の系譜の精霊が多いのだろうか。
そんな事を考えながらデザートも食べ終え、青い雨の光を滲ませる夜と、ぼんやり柔らかなオレンジ色の光の中で、アルテアがこの国で見かけた様々な生き物の話を聞きながら夜を過ごした。
途中で何度か魔術洗浄の洗い残しがないか確認され、就寝の頃合いには、漸く完了したようだ。
念の為に明日の朝にも確認をし、これで無事にリーエンベルクに帰れるようになる。
「この国は植物の力が強いが、妖精の系譜が弱い。もし、あの商人を引き取った事でいらない縁に触れていた場合は、術式陣の中に水仙が咲いた筈だ」
「もしそうなっても、妖精さんの力はあまり及ばないという意味で、この国だったのですか?」
「ああ。……………それと、お前は壁側だぞ」
「……………ぎゅ、窓側がいいです」
「ほお。その場合は、俺が抱え込んで眠る羽目になるが、それでもいいのか?」
「ぐるるる……………」
夜の真ん中で、大きな寝台のどちら側で眠るかを議論し、ふかふかの寝台にぱたりと横になる。
個別包装に感謝しつつ、窓側の青い光の中で眠れる使い魔を少しばかり羨んだ。
なお、罪の切符とやらの効果が残っているので、寝台の中央に設けられた境界線は、決して越えてはならないらしい。
あまりにも繰り返し注意喚起されるので、ネアは、ぐっすり眠りたい魔物を寝台から落としたりはしないと宣言してやらねばならず、なんと繊細な魔物だろうと、ほんの少しだけむしゃくしゃしたのだった。