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罪人の館と眠りの切符




劇場の中で喝采に包まれるような音が響いている。

立ち止まりぎくりとしたネアに、隣に立った魔物が顔を顰めた。



見上げた邸宅の壮麗な玄関ホールには雪がはらはらと降っていて、天井画に描かれているのは雪食い鳥たちだろうか。


吊るされたシャンデリアの明かりが滲むように揺れ光り、目を細める。

わあっと、どこかでまた喝采が聞こえた。




「これはこれは、ようこそおいで下さいました」




少し離れた位置に立ち、そう微笑んだのは屋敷の主人だろうか。


豪奢な刺繍のある黒いジレは、白いシャツとの対比が鮮やかだが、どこか暗い印象を与える。

前髪を後ろに撫でつけた襟足までの髪は銀髪で、黒い布で目元を覆い隠していた。


それは一種の装いであったのかもしれないが、ネアはふと、断頭台に送られる貴人に用意される目隠しのようだと考えてしまった。



どことなくアルテアに雰囲気が似ているような気もしたが、深い夜闇の底を覗くような仄暗さではなく、賑やかな街並みの路地裏に凝る闇のような、奇妙な騒々しさがある。


一人だけれど一人ではないような不思議な存在感に、背筋がぞくりと冷えた。




「歌乞い様と、その契約の魔物様」



そう呟き、悦に入ったような微笑みを深めた目隠しの男は、胸に片手を当てて深々と一礼する。


恭しくも見えるお辞儀であるが、演技がかった仕草はどこか、こちらを見てけたけたと笑う道化のよう。

ずっと昔にもこんな雰囲気の場所に踏み込んだ事があるような気がしたが、どうしても思い出せなかった。


あの時は、サーカスのテントのようだったけれど。



「いい品物が入っていると聞いている」

「ええ、ええ、勿論ですとも。早速、新しい葡萄酒を開けましょう。幾つかある窓の内でも、今宵は私のお気に入りの窓が開く予定です。お客人は、どのような罪を気に入られるでしょうかね。いやはや、素晴らしいお客を迎えられました」

「注文票はこちらだ」

「………ふむふむ。このような罪人であれば、何人か。ですが、最も執念深いと言えばやはり、水仙でしょう。苛烈や残忍と聞けば別の花もおりますが、執念深いのは水仙を措いて他にありますまい」



最後の言葉はどこか独白のようで、にいっとつり上がった唇はやけに赤く見えた。


これはもうホラー映画などの定番の登場人物ではあるまいかと眉を寄せていると、隣の魔物がぐいっと腕にかけているネアの手を引いた。



「くれぐれも、この屋敷の中では離れないように」

 

振り返ってそう告げたのは、隣に立つ背中の真ん中くらいまでの黒髪を一本に結んだ魔物だ。

瞳は鮮やかな青である。


「……………ええ。そうしますね」

「天井から垂らされた吊り輪や、足元の硝子にも気を付けておくといい。…………そういう場所だ。そこかしこに、何かの残骸がある」



そう言われて頷いていると、案内の為にこちらに背中を向けていた屋敷の主人が振り返った。

後頭部できっちりリボン結びにされた黒い布が、銀色の髪との対比ではっとする程に鮮やかで、悍ましい気配であるのにどこか清廉にも見える。



「おやおや、そちらの魔物様は、当家へのお越しは初めてではないようですね」

「三度目だ。どの時代にどのような姿や名前かまでは、明かしはしないが」


だが、そう告げる言葉にいつもの響きや気配はない。

話し方の変化も擬態の内なのか、黒髪の魔物はふうっと憂鬱そうに首を振る。


「それを今回は、歌乞いを連れられてのご訪問となりましたか。どのような罪を対価としてお持ちいただいたのかは存じ上げませんが、歌乞いのお客は初めてですので、実に興味深い」

「こいつは、ただの同伴者だ。だが、契約の魔物は歌乞いをそうそう一人にはしないものだろう?」

「ええ、そのように聞いております。であれば、こうしてお連れされるのが至極真っ当でございましょう」



かつこつと歩く廊下は随分と広く、どこまでも続く石床には、ぼうっと壁灯の光が映っている。


この屋敷の中は、外観で想像するよりも遥かに広いのだろう。

だが、迎えに出た男以外には誰もいないのか、聞こえてくる喝采と音楽の他には音はなく、しんと静まり返っている。


言葉にし難いのだが、喝采と音楽が聞こえてくるのに、ぞっとするような静けさが落ちていると感じてしまうのだ。




(人外者の領域らしい……………)



ネアは、今ではもう、そう考えられるようになった。

大きな力と古きより生きる者としての叡智を持つ人ならざる者であれば、これだけ広い屋敷をたった一人で管理するのも容易いし、誰もいない筈の屋敷に喝采も響くだろう。


現にネアの良く知る魔物達は、自分達の屋敷や城を、使用人の手を借りずに管理している事が多かった。



それでも、ひたりと冷たい汗が背中を伝う。



どこからともなく流れてくる音楽が、ずっと楽し気な旋律であるのがどうにも居心地が悪い。


夏至祭の妖精達のダンスのような、明るいがそら恐ろしい音楽ならまだしも、聴こえるのは、晴れやかな青空の下を弾むように歩く日にこそ相応しい、奇妙な程に屈託のない旋律なのだ。


真っ直ぐに続く廊下の両脇にはアーチ型の部屋の扉があって、少し先には開いている扉もあった。


廊下に落ちる細長い部屋の明かりの前を通る時、その部屋の中を覗かずにいられるだろうか。

そうして齎されるものをどうか見ずに済みますようにと思ってしまうくらいには、ここは、異質な空気に包まれていた。



「こちらの扉の向こうに広がるのは、羨望の罪でございます。数日前に、自分の姉を羨み貶めた狡猾な妹の罪人が手に入りまして、それはもう、悍ましい声で鳴くのですよ」

「入用の物とは違うようだが、注文票には目を通しているのだろうか?」

「勿論でございますとも。ですが、当家は、罪人の温室や宝石箱のようなもの。希少で美しく愚かな生き物達をこんなに沢山集めておりますのに、どうしてお見せせずにいられましょうか」

「扉を開いておくのは、毒を滴らせる為ではないか。罪や欲程に、生き物が染まりやすい物はない。客を獲物に変えるのはやめておけ」



こつりと、杖が床を鳴らした。

冷ややかなアルテアの声に、目隠しの男は楽しそうに笑う。


背の高い男だが、後ろから見ると僅かに背中の上の辺りが丸まっている。

そんな老齢の印がまた、老いた狼のような鋭く狡猾な印象を強めていた。



「…………ああ、相変わらずあなたは、気難しくていらっしゃる。アージュ殿、勿論、お目当ての品物の部屋にもお連れしますとも」

「俺が歌乞いを連れていると知っているのであれば、扉を閉じておけ。歌乞いの魔物がどれだけ狭量なのかを、知らない訳もないだろう」

「ですが、その一線を揺るがす罪もまた、甘美な毒の甘さでありましょう。夜は長く、様々な道具や罪が揃えられております。その結びだからこその罪の味を知って帰るのも、宜しいのでは?」

「興味はないな。必要なばかりの買い物には、時間をかけない主義だ」



きっぱりと首を横に振った漆黒のスリーピース姿の魔物に、目隠しの男は肩を竦めてみせた。



「享楽や姦淫を司る罪の部屋も、強欲や破壊を司る罪の部屋もございますのに、寂しい限りではありませんか。ですが、お客様のご要望に応えるのも、私の役目なのでしょう。……………狭量さを選ぶのであれば、恋人を骨の一欠片まで食べてしまった、哀れな夏雨の精霊もおりますよ」

「損ない易いものを損なったところで、何の意外性もないだろうよ」

「はは、これはこれはやはり手厳しい」



ネアは一言も喋らずに、アルテアの腕に手をかけ、エスコートを受けながら廊下を歩いていた。

今夜の仕事に同伴してくれているのはアルテアなのだが、前を歩く魔物は、アルテアがネアの契約の魔物だと信じているようだ。


ネアが歌乞いである事と、アルテアが契約を交わした魔物であることに間違いはないので、今回はこの組み合わせで任務に当たる事となった。


この屋敷が罪人の集積所である以上、捕縛や封印の魔術を動かしてしまうディノはとても相性が悪く、ノアは、常連として魔術の材料を購入に来る場所なので、今後の取引の為にもあまり関わる事は出来ない。

塩の魔物が扱う魔術の為に必要な材料を揃える店の扉を、うっかり閉ざされてしまう訳にはいかないのだった。


その点、この店の取り扱うような品物は自分で調達することを好むアルテアは、幾つかの名前で顧客登録をしているのでと、今回の同行となった次第だ。

なぜネアが同伴せねばならないかと言えば、この屋敷の主人がお客を選ぶからである。



(今月は、歌乞いか針子しかお客を取らないのだとか………)




わあっと、また遠くで喝采が響いた。


がらんとした廊下の先のどの部屋からこの音が聞こえて来るものか、じわじわと嵩を増してゆく居心地の悪さは、人間とこの屋敷の相性の悪さなのかもしれない。



(でも、この屋敷のどこかに、水仙の妖精を怒らせたヴェルリアの商人がいる…………)



先日の水仙騒ぎの被害者なのだが、商人とは言え、名の知れた商会に在籍するような者ではなく、個人商店を営むまだ年若い青年であった。

水仙の蕾を踏み潰してしまい、水仙の妖精の恨みを買っていたものの、何とあの後そのまま逃げおおせてしまったらしい。



それはなぜか。



本来なら、翌日にも水仙に追いつかれるばかりだったその罪人が、今回はよりにもよって、この屋敷の主人に拾われてしまったのが、本日の任務の発端である。


憎き相手を掠め取られた水仙は、この青年を差し出さない限り鎮まらないだろうし、下手をすれば、広範囲に無差別の災いを齎す事も想定された。

よって今夜は、ネアとアルテアとで、この屋敷のお客となって件の罪人を購入しに来たのだ。


買い物であるので対価が必要になるのだが、この屋敷での罪人の売買には、お金や宝石が使えない。

屋敷の主人が気に入るような新しい罪を差し出し、そちらと交換で初めて商談が成立する。


この手の駆け引きや商談はアルテアが最も得意とする分野なので、何やら依頼事が続いてしまうなとエーダリアは頭を抱えていたが、今回もアルテアに同行の依頼を出していた。


幸運だったのは、例の水仙の住み家が、アルテアのご贔屓にしている道具屋の近くだったことだろうか。


支払い代金や報酬を取らない代わりに、少しだけ水仙の障りを受けてしまった店の扉の修繕費用をリーエンベルクが出すように要求したアルテア曰く、その店は儀式用の香木を取り扱う店なので、扉の状態はとても大事なのだそうだ。



(私がこの屋敷に滞在出来るのは、長くても半刻しかないのだから、それまでに買い物が終わるといいのだけれど…………)



それは、ノアが手がけてくれた魔術が正常に稼働するだけの時間で、その間だけは、ネアへの興味を逸らしておく事が可能なのだとか。

エーダリアの禁術に近しいが、屋敷の主人の食指の動かない属性を持たせてくれているらしい。




「では、こちらの扉は如何でしょう。藤の花の妖精ですが」

「藤の花の妖精は既に入手済みだ」

「………おや。確かに、そのような魔術証跡がございますね。これは残念。………となるとやはり、水仙ですかね」

「入手がないのなら、他の商人を当たる。出し惜しみはするなよ」

「それはもう、こうしてお忍びでいらしたのですから、是非にご用意させていただきますとも」



その言葉に、ネアはむむっと眉を寄せた。


(………そうか。見破られる程度に話し方を変えて擬態をしていたのは、アージュという名前の人が、擬態をしてこっそりもう一度買い物に来たという設定だったのだわ)


アルテアが用意した擬態は、話し方の変化と髪型の変化と。

けれども、その一重の罠を抜けるともうその先の擬態はないと思うものか、屋敷の主人はそこから先を掘り返しはしなかったのだろう。


幾重にも巡らせる駆け引きの盤上を眺め、こうして魔物達は、擬態と偽名を使いこなすのだなと得心していると、進行方向の少し先の扉がぎいっと開いた。



(……………あ、)


そこに咲きこぼれるのは、水仙の花だろうか。

であれば、あの部屋の中はどうなっているのだろう。


かつこつと床を鳴らして歩き、部屋の前に差し掛かると濃密な花の香りがした。



「では、お求めの罪人はこちらでしょうか」

「……………ほお。こいつも商人か」

「ええ。愚かな人間の若い男です。靴裏に呪いを貼り付け、命からがら走って逃げるその道半ばで、この男を迎え入れてその異変に気付き、戻って謝るべきだと諭した伴侶を縊り殺した哀れな男でして」

「成る程な。……………海と火の魔術の匂いに、水仙の怨嗟だな」


廊下に落ちた部屋影を踏み、その中を覗き込むアルテアに続き、部屋の中に向かう。

しかし濃密な花の香りにうっと息を詰めそうになってしまい、すかさずアルテアに持ち上げられた。


「おやおや、やはり歌乞いを得た魔物は、甲斐甲斐しい」

「恩寵だ。この指先以外で摩耗されては堪らない」

「かもしれませんな。……………この通り、罪人は箱詰めにしております」



その声が耳に届く前に、ネアは目を閉じていた。



(そういう約束だったのだ)



罪人の部屋に入ったなら、すぐに持ち上げるので目を閉じているようにと言われている。

この屋敷での罪人の扱いは丁重だが、その捕縛や管理が、人間の理解と倫理の範囲内とは限らない。

精神にたいへん宜しくない影響を及ぼしかねないので、必ず目を閉じるようにと。



(罪人の存在は、毒なのだそうだ。罪そのものごと隔離して保存してある以上、そこにはどうしても罪そのものも宿るらしい。長く触れていたり、しっかり目に映してしまえば、抵抗力のない者は浸食されてしまうのだとか……………)



だからこそ、他の部屋の中も決して覗かないようにしていたのだが、案外、屋敷の主人の目隠しもそんな理由かもしれない。


とは言え、目を閉じていても伝わってくる濃密な水仙の香りに、この香りは大丈夫だろうかとはらはらしていると、ふっと耳朶に口付けが一つ落ちる。

屋敷の主人が何も言わないので、その目を盗んで落とされた慰めなのか、或いは、守護の効き目を上げておく為に気にせず為されたものなのか。



「……………鎖をこちらへ。ああ、そいつで構わない」

「お気に召される品物があって幸いです。では、お支払いはどのような罪で成されるのでしょうか」


じゃらじゃら、がしゃん。


重たい鎖の音を聞きながら、ネアは、最近金色の森でもこんな目に遭ったなと考えた。

冬の傾斜地や昨日の硝子玉の中の街のような気持のいいところもあるが、面倒な場所へのお出かけも多い冬の終わりである。


「歌乞いの客を求めていた以上、その界隈の支払いがいいんだろう。であれば、契約の魔物を裏切り教会に逃げ込んだ、歌乞いの罪人をくれてやる。散々その力と叡智を借りながら、自分の命が僅かにでも削れた途端、契約の魔物を嫌悪し、罠にかけ殺した女だ」

「……………ふむ。ふむ。…………それは、たいへんに宜しいですな。魔物の怨嗟と、指先の血と。罪を罪とも思わぬ高慢さと逃走者という符号が、お売りさせていただく罪人と揃って殊更に宜しい。であれば、その罪人で支払いといたしましょう。こちらの青年の包装はどうしますか?」

「瓶詰だな。木箱ありの、紙袋は黒だ」

「ええ。これでもかという厳重な封印術式の梱包でございますな。ですが、水仙ともなればそのようになるでしょう。……………やあ、お前。お前の新しいご主人様だ。所有されるのか売られるのか、切り刻まれて材料となるか、どのような顛末にせよ、水仙に出会わなければいいのだが」



その声に応える声は聞こえなかったが、商品として囚われたヴェルリアの青年が何も言わない事に、ネアはほっとしていた。

また、アルテアが対価として引き渡したらしい罪人の声が聞こえない事にもほっとする。


人間として、同族が取り引きされてゆくのを悍ましいと思うかと言えば、支払われてゆく女性の履歴を聞いた時の方が胸が悪くなったので、左程気にしていないらしい。

そして、水仙に会わないどころか、水仙のところに届けられてしまうのだから、あまりにも無情とも言えるだろう。



(……………でも、私はこういうものなのだ)



その冷淡さに今更驚きはしないが、こうして与えられた任務を全う出来る冷静さにはほっとする。

この世界の残酷さや獰猛さに触れる度、このようなことはこれから幾らでもあるだろう。

その度に心を痛めるような脆弱さを持たずに済んだことは、ネアにとっての幸いであったに違いない。



「これにて取り引き完了となります。この度は、チャジャックの館をご利用いただき、有難うございました。たいへんに良い対価をいただきましたので、こちらの罪への切符は、私からの贈り物といたしましょう」

「……………っ、おい!」

「では、またのお越しを楽しみにしております」



何か余分なものをつけられてしまったのか、苛立ったようなアルテアの声が聞こえる。

ぞっとして体を強張らせていると、耳元をぎゅおんと通り過ぎてゆく強い風のような音がした。



(……………遠ざかってゆく)


ネアは目を閉じたままだが、そんな気がした。

あの奇妙で悍ましい館も、喝采や朗らかな音楽も。

その全てがどこかに立ち去ってゆき、がらんとした空虚さと、僅かばかりの雪の匂いが残る。


ややあって、ふうっと息を吐く音が聞こえた。



「……………もう目を開けてもいいぞ。あの罪人は、あわいを経由してシャーロックに届けさせる。お前は、幾つかの経由地を経て、今日は洗浄をかねての泊まりだ」

「はい。そう聞いています。……………何か、迷惑な品物をおまけにされてしまったのです?」

「…………罪の切符の一つだな。……………くそ、切っていきやがったか」

「なぬ。では私は、きりんさんなどを手にしておいた方が……………」

「やめろ。……………だが、手を貸してやったんだ、多少は我慢しろよ」

「何をなのだ」



目を開けば、そこははらはらと雪の降る山の中であった。

お目当てだった品物は既に配送の魔物に預けてあると言われれば、人外者らしい魔術での受け渡しがあったのだろう。


無事に目的は果たしたが、これからネア達は、魔術洗浄を兼ねてアルテアの屋敷に向かう事になる。

訪れた場所の特性的に、すぐにリーエンベルクに帰る訳にはいかない。

万全の遮蔽を誇る安全な我が家だからこそ、持ち込みには慎重にならねばいけないのだ。



(……………切ってあったということは、切符を切って、使用済みのような状態にしてあるという事なのだろか……………)



そう考えて乗り物になっている魔物をじっと見つめてみたが、あまり変化があるようには思えなかった。

だが、強いて言えば、珍しく眠そうにも見えるので、お昼寝の罪などを預けられたのだろうか。



「ディノに、終わった事を連絡しておきますね。アルテアさん、ご協力いただき有難うございました」

「ああ。……………経由で、一度カルウィを踏む。グレアムと連携済だが、手を離すなよ」

「はい!」



淡い転移を踏めば、目まぐるしく風景が変わった。

むわっとするような熱い砂の匂いのする神殿のような場所から、ざざんと波の打ち寄せる小さな南洋の島の浜辺を抜け、その次に出たのは、ざあざあと強い雨の降る街中であった。


どこかの建物のエントランスのようだが、石造りの街並みを思えば、なかなかに豊かな都市なのだろう。

主要な都市に立ち並ぶ建物の高さで、だいたいの暮らしぶりの想像もつくものだ。



「…………くそ。……………切符の分の剥離は、難しいか」


小さく呻いたアルテアに、ネアはそっと額に手を当ててみる。

幸いにも熱はないようだが、怪訝そうに見返されてしまった。


「お昼寝します?」

「……………どんなおかしな結論を出したのかはさて置き、最悪の提案だな」

「むぅ……………」



びしゃびしゃ、ざあざあと打ち付ける雨音は、どこか秘密めいたヴェールのよう。

ネアは、アルテアが階段を登っている間に、ディノ達への任務完了の連絡を書き入れてしまい、ぱたんとカードを閉じると、首飾りの金庫に戻した。


その際にきりん符を取り出すかどうか迷ったが、アルテアが必要ないと言うのなら、ひとまずは大丈夫だろう。



じゃらりと鍵束の音がしてかちりと開錠の音が続く。

ぎいっと開かれた扉の奥にあったのは、ウィーム中央にあるグレアムなおじさま給仕の住まいのような、決して豪奢ではないが手狭過ぎもしない複合住宅の一部屋だ。


暫く留守にしていたのだろう、僅かな空気の澱みにはけれども乾燥したラベンダーのような香りがして、アルテアが何かを呟くと部屋に明かりが入る。

ネアが乗り物乗車のまま入れるのだから、人外者用に天井の高い造りなのだろう。



「……………アルテアさんが、このような複合住宅の部屋をお持ちなのは、少し意外でした」

「用途に応じて、種類も幾つか揃えているからな。まずは、魔術洗浄だな。……………素足になっておけ。……………俺は、少し隣の部屋にいる」

「……………誰かに来て貰いますか?」

「その手の付与じゃない。放っておけ」

「だとしても、もし何かの症状が出ているのなら、ディノのお薬を飲んでおきます?傷薬などがあるのですが……………」

「いいか。その傷薬は、塗布用だ。飲用じゃないと、何度言えば分かる」


指をかけ、襟元のクラヴァットを緩めながら顔を顰めたアルテアに、びしりとおでこを指先で弾かれ、ネアはぐるると唸り声を上げたまま、応接間らしき部屋に取り残された。

アルテアは奥の寝室のある部屋に向かうようなので、着替えなどをするのだろう。



靴と靴下を脱ぎながら、ネアは、くあっと欠伸をした。

まだまだこれから魔術洗浄が必要なので、決して寛いでいる場合ではないのだが、雨の影に青く染まった部屋はどこか居心地が良く、灯された部屋の明かりの温かなオレンジの光は、間接照明のような優しいものだ。


ふかふかだが柔らかすぎない長椅子に座ってくたりとしていると、俄かに眠たくなってくる。



「……………むぅ」



だが、目を閉じるとあの屋敷で聞こえた喝采や音楽が思い出されてしまい、ネアは小さく唸った。

アルテアにしては珍しく、着替えなどに時間がかかっているのか、まだこちらの部屋に戻ってくる様子はない。


お茶やお茶菓子の提供もないのも珍しい事なので、首飾りの金庫から何かを出していただくことも考えたものの、魔術洗浄前なのでやめておいた。



脱いだ靴を揃え、靴下はその中にギュッと押し込んでおけば、また淡い眠りの波がやってくる。

これはまさか、アルテアに切られた切符の影響が出ているのだろうかと考え、ふしゅんと息を吐いた。

そして、比較的大雑把で怠惰な人間に、これ以上の抵抗は難しかったようだ。



「むぐ!」



ネアは、長椅子にこてんとなって目を閉じ、ざあざあと聞こえる窓の向こうの雨音に耳を澄ます。

未だに意識は働いているので起きている筈なのだが、もしかするとこれはもう眠りの縁に立っているのかもしれない。


そんな事を考えていたら、誰かの気配がふっと揺れ、さらさらとした髪の毛が頬に触れた。

部屋の温度はひんやりしているくらいなのに、唇に触れた吐息は、なぜか温度が高いような気がする。

もしかして熱があるのだろうかとぼんやり思ったものの、まだ瞼を開く程に意識が覚醒しておらず、その後んぐっと触れた温度にああやはり熱があるようだぞと考えた。



「にゅぐ……………」


目を開くと、僅かな窓の外からの光と、就寝時に向くぐらいの部屋の明かりを背に、逆光になるようなアルテアがいる。


ぞくりとする程に鮮やかな赤紫色の瞳を見上げ、ネアは、何かを言おうとした。

付与された罪の切符は結局何だったのかと考え、僅かに眉を寄せる。



しかしその途端、ぐぅぅとお腹が鳴ってしまい、ネアは慌てて両手で押さえた。

鮮やかな色の瞳を瞠ったアルテアが、呆れたような表情になった。



「……………お前な」

「し、仕方がないのですよ。魔術洗浄前のおやつはいけないかなと思い、待っていたのですから」

「ったく。……………始めるぞ。それと、情緒がないのは今更だが、この状況で寝るのだけはやめろ。……………危機意識がないにも程があるぞ」

「使い魔さんのお家なので、せいぜい鼻を乱暴に扱われるぐらいですよ?ですが、私はとても繊細なので、乙女の鼻に何かをされたら怒り狂ってきりん符を取り出します」

「……………やめろ。………魔術洗浄をするぞ」

「はい。おやつはその後ですか?」

「……………俺の気が向けばな」

「ぐるる!!」



静かな雨音の中で、ネアはもう一度だけ窓の外を見た。

大きな獣のような不思議な生き物がゆっくりと街中を歩いていったような気がしたが、すぐに見えなくなってしまったので定かではない。



















繁忙期の為、明日3/31の更新はお休みとなります。

TwitterでSSの更新をさせていただきますので、宜しければご覧下さい!

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