ふりふり鼠と硝子球の街並み
「ありゃ。どうしたんだい?」
ネアが中庭に面した窓に張り付いていると、通りかかったのはノアであった。
そろりと振り返り手招きすれば、おやっと眉を持ち上げて青紫色の瞳を瞠る。
すぐにこちらに来てくれ、隣に並んだ魔物の香りや気配に、ふと、当たり前になったものの近しさを思う。
視線を揃える為にちらりと隣の魔物を見上げると、ノアはいつものようににっこりと微笑んだ。
「…………あの薔薇の影に、ふりふり鼠がいるのですよ」
「どこどこ。………あ、本当だ。妖精かな。………あ、何か転がしてるぞ」
「うむ。きらきらする丸いものを持っているので、どんな素敵なものだろうと監視していました」
「シルはどうしたんだい?」
「………ここに」
ネアが胸元に収めたムグリスディノを示せば、ノアもこくりと頷いてくれた。
すやすや眠る魔物は、昨晩は少し忙しかったのでお疲れなのだ。
ふかふかむくむくと丸まり、幸せそうにくぴくぴしている姿を見ると、ネアは伴侶をムグリス姿で持ち運べることの恩恵を噛み締めざるを得ない。
「昨日はさ、久し振りに僕もひやりとしたよ」
そう呟いたのはノアだ。
二人は、窓の外のふりふり鼠の動向を注視しながら、長い戦いがあった昨晩の事を思う。
「水仙に追われた領民さんを助けた騎士さんも、今日はお休みなのですよね」
「うん。誤解が解けて良かったけど、まさかの人違いで祟ろうとするのは凄いよね。犯人は、今頃水仙まみれだろうなぁ………」
「今回の事件は恐ろしいあるあるなので、私もぞっとしてしまいました。素早く立ち去っていった方が真犯人で、被害者さんがこちらを見た際に現場に取り残されていたことで犯人扱いされてしまうだなんて、あの方はどれだけ恐ろしかったでしょう」
「水仙だからねぇ………」
「水仙でしたものね………」
もう少しで咲きほころぶ水仙の蕾を踏みつけて立ち去ったのは、勿論、ウィームの領民ではなかった。
ウィームの領民であれば、水仙の系譜の者達の恐ろしさは嫌と言う程知っている。
なので、領内で起きるこの手の事件は、植物の系譜の力が左程強くない土地から来た観光客や商人達の、うっかりで起きる事が多い。
しかしながら、大事な蕾を失った水仙の妖精が立ち上がり復讐を誓った時、そこに取り残されていたのは、水仙を踏み付けた犯人を慌てて呼び止めようとしたまま、よりにもよってうっかり振り返ってしまった無実のウィームの領民だったのだ。
かくして水仙は、その男性を呪うべく走って追いかけてきた。
無実ながらに犯人扱いされてしまった男性が走って逃げ切れたのは、ウィーム領民だったからこそと言えるだろう。
だが、相手はあの水仙である。
恐怖のあまりに混乱したその男性は、兄に助けを求めてリーエンベルクに向かって来てしまい、その様子を見た街の騎士達が慌ててリーエンベルクに連絡を入れた。
相手が水仙ともなると生半可な者では対処出来ず、ディノが説得の為に騎士達の前に出てくれたのだ。
(ただでさえ、怒らせると怖い水仙さんなのだ。説得して犯人は別の人なのだと納得させるまでに二刻もかかってしまって、ディノはすっかり弱ってしまうことに………)
何しろ、障りを受けないように落ち着かせつつ、到底冷静ではない相手に、勘違いで無関係の人を追いかけていることを理解させなければならない。
今更人違いだと認めたくない水仙の妖精はたいそう荒ぶり、ディノは、ひたすらに魔物らしい感じで対応しつつ、内心はとても怯えていたのだとか。
全てが解決して部屋に戻って来たディノは、力なく羽織りものになるとぺそりと項垂れてしまった。
なのでネアは、そんな魔物を沢山撫でてやり、大事に大事にして寝かしつけたのだが、夜が明けてもまだくたくたで、ムグリスディノになるとこてんと眠ってしまっている。
もしや障りを受けたのだろうかと慌ててアルテアに診て貰ったのだが、幸いにも疲れ果てているだけらしい。
それはそうなるだろうと告げたアルテアの暗い声からすると、荒ぶる水仙相手ともなれば、このくらいは想定の範囲内の影響に違いなかった。
「そう言えば、アルテアは、もう帰ったのかい?」
「はい。昨日の今日だからと、ノア達がギルドの会議から帰ってくるまでの間だけの滞在でしたので、リーエンベルクに水仙さんの影響がないと分かり、ノア達が戻ってくるとお帰りになられましたよ」
「うんうん、懐いてきたね。………ネア、お兄ちゃんの為にも、ずっとアルテアの心を掴んでいてね」
「………早く、告白出来るといいですねぇ」
「予防接種まで待って………」
「むぅ。漂流物の訪れとやらの前には、アルテアさんに帰ってきて欲しいのです。そちらの予定に間に合うように告白を終えて下さいね?」
「ありゃ。来年にしちゃう?」
「……………どんどん先延ばしになってゆくのはなぜなのだ」
そんなやり取りをしていると、先程の鼠がふりふりとお尻を揺らすような独特な動きで、硝子玉のようなものを一生懸命に転がしながら花壇の下から出てきた。
ネアは、きっと素敵な物を大事に運んでいるに違いないと考え、ずっと目を光らせていたのだが、ここで、思わぬ事が起こる。
ふりふりと歩いてきた妖精鼠が、花壇から少し離れた雪の上に、硝子玉を放置して立ち去ってしまったのだ。
「……………む。ふりふり鼠があんなに大事に運んでいた硝子玉を、放置してゆきました」
「……………うーん。もしかして、運搬じゃなく排除かなぁ」
「なぬ。という事は、あまり良くない品物である可能性もあるのですね?」
「うん。ほら、辻なんかに呪物を置き去りにしていく手法があるのは知っているよね?あの場所も、庭園内の通路とは言えなくないから、敢えてその場所に放置することで、誰かに取らせるようにしたってことも考えられるんだ。こりゃ、あれが何なのかを見てきた方がいいな」
であればと、二人は庭園に出てみる事にした。
空はしっとりとした天鵞絨の灰色だが、今迄であればこんな空模様の日には必ず雪が降ったので、今日のような、雪雲なのに雪の降らない冬の終わりの日を重ねてゆっくりと春に近付いてゆくのかもしれない。
少しの寂しさを覚えながらも問題の場所に行けば、周囲に先程のふりふり鼠の気配はなく、ぽこんと綺麗な硝子玉が雪の上に置き去りにされていた。
見た限りは何の変哲もないただの硝子玉に思えるが、ノアには念の為に近付かないようにと言われ、ネアはこくりと頷く。
少し手前で立ち止まったノアが、じっと雪の上に置かれた硝子玉を見つめている。
「何かありそうですか?」
「…………作られた物なのは間違いないかな。でも、魔術の反応がかなり希薄なんだよね。特別な結晶石を使われているただの硝子玉の可能性も出てきたぞ……………」
「むむむ…………」
その時、雲間からの陽光が僅かに差し込み、雪の上の硝子玉がきらりと光った。
何でもない硝子玉でも、こんな風に魔術があり人ならざる者達が暮らす世界では、どこか不思議な魔術道具のように見えるのだなと感心していると、ふわりと温度のない風がどこからか吹き込む。
「……………ほわ」
そしてネアは、見知らぬ街に立っていた。
みぃみぃと、聞きなれない声で鳴く鳥が頭上を飛んでゆく。
茶色いカモメのような鳥に見えたが、見た事もないこの世界の固有種かもしれない。
尾羽に鮮やかな黄色が見え、青い青い空が眩しかった。
久し振りにこんな目に遭ったのだなと思い、けれどもなぜか、いつものような焦燥感がない。
それを不思議に思いながら、頼もしい魔物の存在を確認した。
(……………ディノは)
ノアの姿が見えないので、慌てて胸元の生地を押し下げると、すやすや眠っているムグリスディノがいる。
ほっとしてまた周囲を見回せば、下り坂の下の方に鮮やかな赤い旗を上げた市場が見えた。
どう見てもウィームではないが、ディノが一緒なら大丈夫だろう。
そう考えるとすっかり安心してしまい、ネアは、ふすんと息を吐く。
ネアが立っているのは見知らぬ街の坂の上で、歩道の石畳は優しい砂色をしている。
大きな建物の横の歩道のようだが、個人の邸宅などではなく公共の施設らしきもののようだ。
灌木の茂みを僅かに揺らす風があり、歩道と道の間は膝くらいの高さの柵が立てられている。
街並みの向こうに少しだけ海が見えたが、力強い青色から深い海なのだろうなと考えた。
古い街並みには見えるが、美しい街ではないか。
ただし、見覚えがないので、どのような状態にある国なのかまでは判断が付かない。
とは言え周囲には人影もなく、のんびりとした日差しの角度を見ていると、正午過ぎくらいの時間のようだ。
「もう少しさ、あちら側の建物の修復を進めたいんだ」
不意にそんな声が聞こえた。
しかしネアはなぜか、そう話しているのは誰だろうと眉を顰めたものの、やはり身の危険などは感じないのだ。
ネアのすぐ後ろにいるような声の近さだったので慌てて振り返りはしたが、そこには誰もいなかった。
けれども不思議なことに、長い髪を風に揺らした白いシャツ姿の女性が視界の端に見えたような気がして目を瞬く。
どう説明すればいいのか分からないが、唐突に、今のネアが見ているのは、その女性が見ていた物だと言うような気がして、小さく息を呑んだ。
「それに、嵐が来ると、あちら側の区画はまた浸水する。古い石組みの家を少しでも修復しておかなければ、いつか大きな嵐が来て、海水が引かなくなった時に、これまでになかったような被害を出す日が出て来るかもしれない」
「であれば、マレの地区から始めた方がいいかもしれないね。あちらの地区にはお年寄りが多い」
「住人の入れ替えがあれば良かったのだけれど、古い世代の人達が多いよね。後から家を建てた若い家族の方が利便性のいい区画で、お年寄りばかりが海に沈む区画なのはどうなんだ?」
「あの辺りの住人は、引っ越したがらないんだ。家族と共に暮らした家を手放すのは難しいだろうし、長い間この街の港と海と共に暮らしてきた人達だからなぁ」
「頑固者共め」
そう言い、小さく笑ったのは男性だという気がした。
相変わらず姿は見えないが、視界の端に、今度は、ちらりと石鑿を持ったごつごつとした手が見えたのだ。
道具を持ち長い間仕事をしてきた人の手は滑らかとは言い難かったが、きっと温かく優しい手なのだろう。
そう考えてしまうのは、ネアに視界を提供している女性が、その男性のことを大切に思っているからかもしれない。
「海の向こうに雨雲がある。午後からは強い雨になるだろうな」
「ああ。咲いたばかりの薔薇が散ってしまわないといいけれど」
「夜の漁までに雨が上がればいいが、そうでなけりゃ、酒場が船乗りたちで溢れちまう」
「はは。仕方がないさ。船に乗れない雨の日は、他にすることがない」
「家に帰ればいいと、俺は思うがな。……………まぁ、稼いだ金で美味い酒を飲むばかりの日っていうものも、あいつ等にとっては息抜きなのかもしれんが」
「いいじゃないか。それ以外の日は、彼等のお陰で私達が美味い魚を食べられているんだ」
「……………まさかとは思うが、あいつと……………」
「またその話か。あいつは幼馴染だよ。そういう関係じゃないって何度も説明しただろう。……………それにあんたは、大聖堂の修復が終わったら、王都に行くんだろう?」
つきりと、小さく鈍く胸が痛む。
白いシャツの女性は、隣に立つ男性がどこか遠くに行ってしまう事を知っていて、別れ難く思っているようだ。
ずっと一緒にいた相手ではないけれど、それでも数年の間共に仕事をしてきた。
これからもずっとそうだとばかり思っていて、この男が王都から派遣された職人であることをすっかり忘れていたのだ。
(……………そんな感情が、どこからか零れ落ちてくる)
それはとても不思議な気分だった。
読んでいる物語の中に立っているような。どこか観客としての役割を感じるからだろう。
「さてなぁ。……………この街に残る事も考えてみたりもするが、誰かさん次第だな」
「……………上司とそのような話をしているのか?」
「はぁ。とんでもない鈍さだな……………」
「んん?」
(……………あ、)
そんなやり取りが続けば、こっそりどきどきしていたネアは、にっこりしてしまった。
少なくとも男性の方は、隣の女性が頷けば街に残るつもりでいる。
とは言え、女性の抱いていてる淡い想いが、生活を変えてしまうであろう関係を結ぶ結論を持ってくるものかどうかは分からないが、二人の思いが同じ方向を見ているのは嬉しい事ではないか。
気紛れに覗き見るだけの誰かの物語でも、ネアは、いつだってハッピーエンドがいいのだ。
「……………いい街だな。裕福ではないが、皆で助け合えば、日々の食事には困らないだけの暮らしと、仕事が休みの日に飲みに行けるだけの蓄えを可能にするだけの収穫や産業がある。古い街並みだが、学院や病院も整備されていて、海鉱石と貝細工を求める王都からの商人も絶えない。……………俺の借りている部屋からは、夜明け前に大聖堂の鐘の音が聞こえて窓を開けると、漁船が漁に出てゆくのが見えるんだ。海竜が遠くを飛んでゆく姿があって、海風の妖精達が踊っているのも見える」
目を閉じて思い浮かべずとも、穏やかな声で語られた情景が見えるようだった。
ここはどこだろうと考え、そんな疑問を握り締める思考のどこかで、この二人がいたのは随分昔なのではないかとも考える。
こうして見ているのはずっと昔のいつかの日で、ネアはただ、そんな光景の中に少しの間だけ迷い込んでいるのではないだろうか。
そう考えて、古い映画を見るような言葉にし尽せない思いに心を揺らしていると、後方から声がかかった。
「……………いたいた。ネア、大丈夫かい?」
振り返れば、この周囲の景色が消えてしまうことはないままに、ノアが立っている。
こちらを見てほっとしたように微笑むと、すかさずネアを持ち上げた。
慌ててその肩に手をかけると、ネアは、視線が高くなったお陰で、坂の下にある賑やかな街並みが隅々まで見渡せるようになっていた。
「ほわ。……………ノアです」
「うん。陽光を浴びて、あの硝子玉に閉じ込められた記憶が魔術展開したんだね」
「ここは、あの硝子玉の中の記憶なのですか?」
「うん。何だろうと思っていたけど、雨の結晶だったみたいだね。随分昔のものだから、表面の魔術が摩耗してただの硝子玉みたいになっていたんじゃないかな。誰かが雨水を紡いで魔術結晶にして、そこに宿った記憶をずっと持っていた物だと思うよ。あの古さからすると、持ち主が死んだ後に何らかの形でウィームに運ばれたか、嵐なんかで吹き飛んできたのかもしれないしね」
そうして、どこからかウィームにやって来たものを、あの鼠が見付けたのだろう。
不思議なご縁に目を丸くし、ネアは、ゆっくりと頷く。
「となれば、随分と古い物なのですね」
「うん。そんなに前の物にしては状態もいいし、…………いい記憶だね。穏やかで、特別なものではなくて、でも、きっととても大事にされていたものだ」
「ええ。じんわりと胸に沁み込むような、温かな記憶なのです。ノアにも、このお二人の声が聞こえますか?」
「うん。それなのに姿が見えないってことは、二人分の記憶を雨から紡いだんだろうなぁ」
「まぁ。お二人のものを……………」
だとすれば、ネア達が見ている記憶を宿した雨の結晶を持っていたのは、この二人だったのではないだろうか。
ノア曰くこれは、陽光を浴びて内側の記憶が透過されたことで、その煌めきを目にしたネアが記憶の投影の中に立った状態なのだそうだ。
それに気付いたノアも、光の影に入りこちらに来てくれたらしい。
決して長くはない宿された記憶の上映が終われば、自然に元の場所に戻る、白昼夢の舞台ようなもの。
「……………どうしたんだ?さっきから、……………少し変だぞ」
「ああ。……………いや、ここまで言っても、お前は気付かないのかと思ってな」
「もしかして、……………本当は王都に帰りたいのに、ここに残るように言われて困っているのか?」
「何でそうなるんだ?!俺は、お前とこの街で所帯を持ちたいって言ってるんだろうが!!」
「は……………え、……………ええ?!」
姿の見えない二人のやり取りは続いており、どうやら、一向に気付いてくれない女性に、男性の側が焦れてしまい、言うべき事を強引に伝えたようだ。
双方ぎゃっとなっての大混乱のやり取りが続き、ネア達は顔を見合わせてくすりと笑うと、成る程、こんな日の記憶なので大事にされていたのだろうと得心する。
(ああ、良かったな……………。この二人はきっと幸せになるのだろう)
幸いにも、きちんと望み合う形での両想いだったようで、ハッピーエンドで終わりほっと胸を撫で下ろした。
二人は高台にある古い工房で共に暮らす事になり、男性は、大聖堂の修復を終えてもこの街に留まり、古い街の整備をしてゆくという、王都にとっても大事な拠点となる港で国の仕事をしてゆくようだ。
どうやら一人でこの街に来たのではなく、王都からの依頼を受け、十人以上の石工の仲間達と来ていたようだが、その内の一人も、美味しい魚料理から離れられずに街に残る決断をしたらしい。
そんな職人たちの決断を受け入れられる体制があるのなら、恐らくここは、いい国だったのではないだろうか。
みぃみぃと、またあの海鳥が鳴きながら飛んでゆく。
ああ、確かに雨が近いのだろうなという雨待ち風が強まり、雑多だが優しい街の生活の香りがした。
遠くの海にカーテンのように落ちる光が美しく、ゴーンと、どこかの教会か聖堂で鐘の音が響いた。
そこで、記憶が途切れた。
「……………ほわ。戻ってきました」
ふっと視界が暗くなり、瞬きをするとそこはもう、リーエンベルクの庭である。
明度ががらりと変わるので眩暈のようにくらりとしたが、ノアに抱えられたままだったので倒れてしまうことはなかった。
「うん。終わったみたいだ。後で、エーダリアにも見せてあげるかな。異国の、……………多分、今から五百年程前の時代のものだと思うし、資料としても状態のいいものだと思うからね」
「ええ。きっと喜んでくれそうですね。ふりふり鼠さんが捨て置いたので心配してしまいましたが、悪い物ではなかったようです。……………む」
ふと、足元で動くものがあり視線を下げると、先程の鼠妖精が、ふりふりとお尻を揺らすような独特な歩き方で花壇から出て来るではないか。
そんな鼠妖精は、ネア達を見上げてちびこい両手を伸ばすと、尻尾の先で、雪の上に落ちたままの硝子玉をくいっと指し示す。
「ありゃ。そっちかぁ。……………成る程ね」
「むむ……………?」
「辻置きの作法じゃなくて、この雨の結晶石を、僕達に売りつけようっていう算段だったみたいだね。まぁ確かに、こんな道具に価値を見出すのは、彼等ではないんだろうけどさ。……………よいしょ。これでいいかな」
苦笑した塩の魔物が取り出したのは、一粒の、つやつやとした真っ赤な苺であった。
その苺を差し出すとふりふり鼠がびゃんと飛び上がって喜んだので、ネアを地面に下ろしてから、屈んだノアが、手渡してやっている。
大きな苺を貰ったふりふり鼠は、両手で抱えた苺を持って、素早くどこかへ走っていってしまった。
「さてはあの鼠さんは、なかなかの商売人だったのですね?」
「うん。僕達にあの道具を使わせる事で、強引に商売に持ち込んだみたいだね。雪鼠だけど独特な歩き方をするなぁと思ったけど、ありゃ、雪の上で歩くには体が重いんだね」
「……………なぬ。もしや、食べ過ぎ的な……………」
「そうそう。つまり、冬でもそれだけの食べ物を手に入れられるくらいに、やり手の個体なんだと思うよ」
「商売人な鼠さんでした……………」
ネアは、とは言え苺一個であんなに大喜びしてくれるのだから、可愛いものではないかと微笑む。
胸元で、もぞもぞと寝返りを打ったムグリスな伴侶を撫でてやると、ノアが雪の上から雨の結晶を拾い上げて戻ってきた。
白いハンカチに包まれたこの小さな魔術道具は、ガレンの長の目にはどのように映るのだろう。
こうして長い月日を経た遠く離れた国で、あの二人の幸せな一日の記憶が受け継がれるのは何だか不思議な事のような気がした。
「ここでの日々の暮らしは、あのように雨の結晶には出来ないのですか?」
「難しいだろうね。ほら、僕達もエーダリアも、あの手の結晶や道具に記憶を残すには、魔術階位がね」
「……………お道具の容量を超えてしまうようなものなのです?」
「うん。そういう部分は不自由さなんだろうけれど、ある程度の高位の者達の記憶を安易に残せないっていうのも、魔術の自衛作用なのかもしれないね」
「となると、狐さんは……………」
「ありゃ。……………そっちは大丈夫かな……………」
その後の雪解けを待って、とても張り切ったガレンの長の手によって何度かの実験が重ねられ、ボールを追いかけてしゃかしゃかと走ってゆく銀狐の記憶を宿した雨の結晶が造られ、エーダリアの宝物になったようだ。
さすがに中身が塩の魔物であるので流通させたり、他の者達に渡したりということは出来なかったのだが、契約者であるエーダリアには特別に授与されたらしい。
ネアは、じっとりした目で、三つ編みをしびびっと立てて震えている伴侶を見つめていたが、残念なことに、ムグリスはそこそこの魔術階位を誇るので、雨の記憶に姿を留めるのは難しいと言うではないか。
いつか、ご主人様の心をもふもふで満たす道具を作る為だけに、魔術階位の低い動物などに擬態して貰わねばいけないようだ。