影の庭と黒スグリ 1
「まぁ、このような事もあるでしょう。最近は比較的穏やかに過ごしてきましたからね」
ネアが淡々とそう告げたのは、見たこともない深い森の中であった。
とは言え、ひっそりと静まり返っているものの、奥には石造りの建物などもあるので、未開の森という訳ではないのだろう。
どの家にも絵本の中のような星飾りのランプが軒下にあり、遠くまでぺかりと光る。
だが、不思議なことに、この森にはネア達以外の生き物の気配があまり感じられない。
がらんどうの森というよりは、あまりにも深い眠りに包まれた森だという気がした。
こちらの住人達にとっては、ぐっすり眠っているような時間なのかもしれない。
「そんな訳ないだろうが。ほんの数日前まで、厄介事が起きていたのをもう忘れたのか!」
「あらあら、今日は少し攻撃的になっている使い魔さんなのですね。私は、あちらに見えるきらきらした結晶石を見てきますので、まずはお茶などを飲み心を落ち着けていて下さい」
にっこり微笑んだネアがそう言えば、なぜか選択の魔物は呆然とこちらを見た。
本日の選択の魔物は、カシミヤめいた艶のあるチャコールグレーのコートは膝下丈で、紋章のような細工のある白蝶貝的な素材を使ったボタンが美しいお洒落玄人な装いだ。
細身のパンツはよく見ると黒一色ではなく、光の加減で微かに見えるくらいのストライプ模様がある。
革の紐靴に、トップハットと銀色の握りのある杖を持ち、クラヴァットはリボンのようなお洒落結びで、コートの後ろ側のギャザーが仕立ての美しさを際立たせている。
(このような装いという事は、アルビクロムかしら……)
こちらの世界に落とされて何年か経つと、ネアにもそのような事が読み解けるようになってきた。
アルビクロムの貴族階級の者達の装いは、ネアハーレイの生まれた国の人達が好んでいた服装によく似ている。
ヴェルリアの装いには、どこか暗さを感じる艶やかで色鮮やかな布地や宝石のブローチなど異国風のひと匙が加わり、ガーウィンの人々の装いは、禁欲的な雰囲気のある聖職者の装いのエッセンスが入る。
勿論、判断が難しい土地の装いもあるのだが、ウィームよりも裾丈を上げた紳士用のコートや、チェック模様や箱プリーツのスカートなどが出てくると、おやアルビクロムかなと思うようになった。
(という事は、アルテアさんは直前までアルビクロムにいたのだろうか)
見知らぬ場所に迷い込み、そこで出会ったのが本日のアルテアである。
ただし、黒髪を一本結びにした砂色の瞳の男性に擬態したアルテアにはそちらの領域での可愛らしい同行者がいるので、今は周囲に音の壁を展開し、こっそりお話中なのだ。
「今日のお仕事では、軍人さんにならないのですか?」
「………放っておけ。領域外にまで、踏み込むなよ」
「ふむ。こちらに悪さが及ばねば気にはなりません。お洒落なコートが素敵だなと思うくらいなので、ここからは別行動にしましょうね」
「………は?」
かくしてネアは、とてもよく出来たご主人様であるので、そのような提案をしたのだ。
それなのにアルテアは、なぜか怪訝そうに目を瞠ると、まるで悪事を暴こうとするかのようにじっと見つめてくるではないか。
とは言えこちらの主張は伝えてしまったので、ネアは、先程から気になっている大きなニワトコの木の下の結晶石の方に向かう事にした。
大きく迫り出した枝は、ごつごつとした木肌から芽吹いたばかりの若い枝にだけ、星屑のような白い花を咲かせている。
さくりと踏む足元には白灰色の落ち葉が積もっていたが、階位の高さを示す為の白とは何かが違うような気がした。
不思議なところだ。
ネアは今日、騎士の一人が暴れボラボラに手を焼いていると聞きつけ、その救出に向かったディノ達と共にリーエンベルク前広場に出たところで、きらきらと光る不思議な糸がふわりと落ちてきたことに気付き、ぎょっとした直後にはここにいたのだ。
同じ森にアルテアがいたのには驚いたが、そう言えば今日は見かけないなと思っていたアルテアが、アルビクロムで仕事をしていたらしいのも意外であった。
最近も揺らぎはあったが、しっかりと線引きの対岸に立つ使い魔を見るのは、久し振りという気がする。
そちらには関わらないようにして、まずはこの場所の観察を済ませてしまおう。
(…………周囲の木の葉は青々としているのだから、落ちてきてから暫くするとこの色になるのだろうか)
他の要因で色を変えたという事もあり得るので、このようにして自然なものを変質させるものがあるかもしれないという懸念は常に持っておくべきだろうか。
こうして白灰色が足下に広がっているのに、黒を背景にして色を散らばせたような独特な景色の色だ。
ネアは、子供の頃にやったことのあるお絵描きの授業のことを思い出した。
スケッチブックに好きな色を虹のように塗り、その上から、画面全体を黒いクレヨンで塗り潰す。
その後、細い金属のペンで黒いクレヨンを削って絵を描くと、下から色鮮やかな線描が現れるのだ。
(まるで、あの絵の色のよう………)
「フェルディアード様?」
「……………もう少し、そちらで待っていていただけますか?」
「承知いたしました。もし問題があるようでしたら、お呼びいただければ対処いたします」
背後からはそんなやり取りが聞こえてきて、ネアは、やれやれと溜め息を吐く。
やはりアルテアは、アルビクロムでの仕事中か、アルビクロムという森の中で過ごしている際にこちらに呼び落とされたのだろう。
しっかり姿形までを変えた擬態の選択の魔物は、別の名前で呼ばれているだけではなく、その名前を呼ぶ者を排除せずにいるので、あまり近付かないようにしている。
本人からも領域内に立ち入るなと注意されたが、ネアとて、よく分からない遊び場に飛び込むような社交性はないのだ。
(先程のやり取りは音の壁を使っていたけれど、この先は、使い魔さんではなく、一度くらい会ったことはあるかなという人という感じでいいのかな………)
何しろ今の選択の魔物の隣には、けぶるような金糸の髪の少女がいる。
こちらに話しかけてきたからには、見ず知らずの他人ということにはしないのだろうが、それでも適切な距離を保つようにしておいた方が良さそうだ。
アルテアの同行者は、はっとする程に美しい少女で、どこか硬質な眼差しが、女性ものの軍服めいた服装によく似合っていた。
大変絵になる少女なので、この容貌を覚えておいて、帰ったらエーダリア達に聞いてみよう。
とある人を見て、これは、名もない誰かである筈はないと感じる事がある。
この少女については、まさしくそんな確信を抱いてしまうのだから、アルテアにとっても特別な人物なのは間違いない。
「この艶々きらきらした物は、ばきんと折って持って帰れるのでしょうか」
「さて、試してみますか?」
そして、ネアの隣には、そう微笑んだウィームの街の騎士服の男性がいる。
濃紺を主とした水色の装飾刺繍のある騎士服に、青灰色のスエードのような質感の革のブーツ。
ゆるやかに波打つ砂色の髪を、幅広の天鵞絨の黒いリボンで結んでいる。
フェルディアード様とやらになっている選択の魔物が、冷ややかに目を細めてこちらを見ているが、動じた様子もなくネアに微笑みかけてくれるだけでなく、実はこの騎士はネアとはとても仲良しなのだ。
「では、………えいっ!」
「………折れましたね。手を見せて下さい。………ふむ。何ともないようだ」
「折ってしまうと、この内側で揺らぐようなきらきらした光が消えるかなとも思ったのですが、問題ないようですね。安心して収穫出来そうです」
こちらを見る淡いラベンダー色の瞳にははっとするくらいに鮮やかな水色の虹彩模様があり、ぞくりとするような美貌だが、色の宿す強さからは人間なのだなと思わせる。
オレンジ水のような、清しくも微かに甘い、精製された香料の香りがするのは、どのような理由なのだろうか。
「こっそり金庫に入れておきますね。なお、ここは見知らぬ土地ですので、何か備えておいた方が良いでしょうか?」
「であれば、遠距離、近距離それぞれの武器になるものと、解毒剤のようなものがあればすぐに取り出せるようにしておいて下さい」
「はい。では、………そのような物を取り出しておきます!」
その指示に従いネアが用意したのは、きりん札にウィリアムから貰ったナイフ、ジッタの店の一口薬草パンの解毒用のものだ。
ジッタの店のパンについては、魔物の薬で運用していた解毒剤よりも、誰かの手に渡った時に悪用され難いという利点がある為、見知らぬ人が近くにいる今回はこちらとさせていただいた。
小腹が空いた時にも活躍するので、とても重宝している香草白パンのような素敵な冒険のお供である。
これで万全だと二人でにっこりしていると、さくりと落ち葉を踏む音がして、ざっくりとした説明から、この森の入り口にネア達と同じような状況で放り出されたらしい知り合いだが、今はあんまり知らない誰かなフェルディアード氏が立つ。
「…………お前達がここに招かれたのは、俺からの縁であるらしい。彼女を起点として、お前も呼び落とされたようだな」
「ああ、やはりそうでしたか。召喚の糸がかけられた際には驚きましたが、巻き添えだったのですね」
どこか尊大で冷ややかなフェルディアードの言葉に、ネアと一緒に屈んでくれていた騎士が立ち上がる。
柔和な微笑みは理知的で、魔物である事を隠した相手ではその眼差しに萎縮することもない。
「彼女は、こちらで引き取ろう。同じ糸にかけられたばかりではなく、知らなくもない相手だからな」
「であれば、僕と彼女はしっかりとした知り合いですので、お引き取りいただかなくて結構ですよ。………レイノ、それでいいかい?」
「はい。とても信頼している方ですので、私はこちらにおりますね」
ネアの返答にフェルディアードの表情が険しくなったが、控えめにこちらに歩み寄り、窺うように見上げてきた軍服の少女に気付くと、僅かに目元を緩めた。
少女は、自分の方を見たフェルディアードに、生真面目そうな青い瞳を向ける。
なお、現在のネアは髪色をラベンダー色がかった淡い灰色にしていて、水色の瞳に擬態させて貰っている。
「その女性は、こちらで保護もしくは確保した方が良い方なのですか?」
「………確保になると考えたのはなぜだ?」
「フェルディアード様が、個人的な事情からこのような振る舞いをなされるとは思えません。であれば、政治的なお立場からかと」
「彼女が、蔑ろに出来ない派閥に属しているのは確かだ。ある程度丁重に連れ帰らないと、こちらも面倒な事になる」
「………承知しました。そのような立場を、ご自身でも理解されていると良いのですが」
(………成る程。アルテアさんの今の説明からだと、そのような理解になるのだわ)
この少女にも、ネア達がフェルディアード氏の手を借りるつもりがないことは伝わったのだろう。
そこで彼女は、ネアは、それなりに責任のある立場にいながらも、危機管理が出来ない人間なのだろうと考えたようだ。
巧妙に真実を避けながら、嘘を吐く訳でもなく器用に誘導する話術に感心しつつ、それでもネアは、向かい合った男性の手を取るつもりはなかった。
(先程の会話は、この先どのような設定で接しても、領域外の問題なので上手く回避しろという事なのだろう。それなら、出来るだけ距離を取るのが一番なのだと思う)
寧ろ、ネアのこの対応こそが、本来のフェルディアード氏のご指定の振る舞いなのだから。
「ここは、隔離地のような場所だろう。街の騎士を一人付けているくらいでは、いざというときに対処が遅れかねない。こちらと共に行動するのが賢明だと思うが?」
「折角ですが、あなたとは、親しくお付き合いをさせていただいているという訳でもないので、今回のご同行の提案は遠慮させていただきますね。ノイエルがいれば私はとても心強いので、お手を煩わせる必要もないでしょう」
「………随分と親しいようだが、その騎士の階位でこの森を抜けるのに値すると?」
「はい。その点に於いては、私は全面的にノイエルを信頼していますから。ですのでどうか、こちらのことはお気になさらず」
にっこり微笑んでそう重ねると、凍えるような不愉快そうな眼差しを当てられる。
思い通りにいかないことにはむしゃくしゃする系の人物設定なのかなと考え、とは言えこれ以上の応酬があると面倒なので、ネアはもうこの会話は終わらせていいかなと、ぷいと視線を逸らした。
軍服の少女の方がむっとしたような表情を見せたので、恐らく、こちらの印象は散々なものだろう。
野生に帰っている使い魔の自由を確保してやるのも、なかなかに大変な作業だ。
(あの牽制がなければ、何だかよく分からない事件に巻き込まれた被害者同士として、この子と仲良くなれたかもしれないのに………!)
そんな素敵な可能性をどれだけの無念さで諦めたのかは、またリーエンベルクで会った時にでも伝えておこう。
そしてネアは、一刻も早くこの場から離脱して、そんなリーエンベルクに帰りたいのだった。
(ディノは、大丈夫かしら………)
カードから連絡をしたいので、早くここから別行動とさせていただきたい。
ノイエルはそのあたりを心得ているが、不自然に立ち去る事も出来ずにいるのだろう。
こちらに落とされてすぐに、同じ広場にどすんと投げ出されたあの少女達がまだ起き上がれていない内にとネアに擬態を施してくれ、呼び合う名前を決めてくれたのはノイエルだ。
一緒に落とされた中に擬態中のアルテアがいたのは、嬉しい誤算と言える。
しかし、今回は残念ながら同行者ではない。
擬態の設定を外さずに、真っ先にこちらに注意を促したアルテアの優先順位はあちらにあるのだろう。
「………ここは、影の庭のようですね。森の奥にある集落の中心に向かってみましょうか。この手の隔離地の場合、必ずどこかに扉や通路があるんですよ」
「影の庭、という場所なのですね………」
「ええ。あの生き物達の集落の裏側にある、隔離地のようなものです。あまり報告例は多くないのですが、各集落ごとに存在しているという学説もあるのだとか」
相変わらず物知りなノイエルに教えられ、ネアは、あらためて周囲を見回してみた。
言われてみれば、この絵本の世界のような独特の家構えは、あの生き物の嗜好によく似ている。
「ふむ。………そして、そんな影の庭に引っ張り落とされたからには、我々をここに呼び出した方がいたりもするのでしょう」
「恐らくは。ただ、今迄に遭遇してきたものと同じだとは思わない方がいい。どちらかと言えば、変異体や亜種のようなものですから、油断はせずにいて下さい」
「まぁ。そんなものがいるのですね………?」
「何しろ、数が多いですからね。それだけ、本来の規格に合わない物も生まれやすくなる」
「そう言われると、分かり易いですね。であれば、武器はしっかりと握り締めておかねばなりません!」
「手も繋いでおきましょう。いざという時の為にね」
「はい!」
しっかり手を繋いでその場を離れようとすると、がさりと落ち葉を踏む音がして、淡い金髪が揺れた。
おやっと目を瞠ったネアの前に立ったのは、先程の軍服の少女だ。
「まぁ、どうされましたか?」
「状況を理解しておられないようですが、こちらでの別行動は承認出来ません。あなた方が下手に立ち回れば、我々全員の安全を脅かします」
「ふむ。そのご不安があるのですね。………であれば、我々はこのような事故は慣れていますし、大抵のものは滅ぼせると自負しているので、どうか安心して下さい」
「失礼ですが、………あなたは相当に可動域が低いのでは?魔術道具で生活を補われているので、さぞかし身分の高い方なのでしょう。ですが、その豊かさに甘やかされた身で切り抜けられる程、魔術の隔離地は優しくはありません」
そんな指摘にネアが微笑めば、青い瞳が怪訝そうにこちらを見る。
真面目な少女なのだろう。
思うように動かないネア達に苛立っているのに、その割には説得が丁寧で、手厳しいが問答無用ではない。
「そのように考えて下さったのですね。ですが、お話ししたように、我々はもっと厄介な隔離地もずかずかと踏み歩いてきたような者達なのです。有り体に言えば、見ず知らずの方々とご一緒するよりは安心して手札も増やせますし、あなた方の足を引っ張るほどに無能でもありません。ですので、どうぞお構いなくと申し上げさせていただきました。…………それと、この森にはどうやら、とても厄介な生き物が暮らしているようです。どうか、あなたの同行者の方を守って差し上げて下さいね」
「………私の、同行者を?」
「ええ。互いに互いの仲間を。それがより効率的で、尚且つ心にも優しい運用だと思います。………むむ!王様カワセミを発見したので、私はちょっと失礼しますね!」
「ちょ………?!」
背後から慌てたような声が聞こえてきたが、ネアは、視界をさっと横切った王様カワセミを見逃すような愚鈍な狩人ではなかった。
手を繋いだままのノイエルを引っ張ってそちらに駆け付けると、気付いて体を起こし、こちらを威嚇していた王様カワセミをむんずと鷲掴みにする。
そのまま、ぶんぶんと振り回せば、すぐに獲物は大人しくなった。
「狩りました!」
「相変わらず、……容赦のない鮮やかな狩り方ですね。怪我などはされていませんか?」
「はい。この通りとても儚い敵なのです。ただ、こやつはカワセミよりも高く売れるので、良い稼ぎになるのですよ」
「それは頼もしい」
「ふふ。これで、ずっと欲しかったライラックの花蜜の飴を買えます。綺麗な瓶に入った美味しい飴なのですが、お値段がとても優しくないので、贅沢をすると決めた時にしか買えない物でしたから………」
思わぬ臨時収入にご機嫌になっていたネアは、フェルディアードと先程の少女が、いきなり王様カワセミを狩ってしまったネア達にびっくりしたのか、何やら深刻そうな様子で話し込んでいる姿を視界の端に捉えた。
それに気付いたノイエルが、ふっと薄く微笑む。
「どのような関係かなと思いましたが、あちらはあちらで、なかなか気に入られているらしい。………それと、あの少女の父親は、対ウィームの過激派に近い議員です。念の為に、この事故そのものが罠である可能性も残しておきましょう」
「あちらでの目的の為に、利用されたということですね?」
「今回の巻き込まれ方を見るに、さすがにそれはないと思いますが、……あちらにも、そう思わせる事が出来るくらいの技量はありますからね。よりによって今日、何の備えもなくこのような事に巻き込まれているというのが、少し不自然に感じられます」
「………ええ。よりにもよって今日というのは、私も考えていたのです。どう考えても事故り易い日ですが、それでも外せないお仕事だったのかもしれません。目的あってのことかもしれませんね。………む」
その時、てててと足下を走ってゆく生き物がいた。
黒い艶々とした毛皮のそれは、どこからどう見てもちび毛皮エリンギなボラボラの幼体だったので、やはりここはボラボラの土地なのだろう。
ボラボラ祭りの日にきらりとした細い糸がかけられ、見知らぬ土地に落とされるという現象は、以前にも体験済みである。
ここには目立ったボラボラの姿はないが、この事故がボラボラ関連なのは間違いない。
(………アルテアさんは、大丈夫だろうか。………今日はこちらに気を割くだけでも負担だろうから、出来るだけ離れていて、お仕事に専念させて差し上げよう。もし、悪さをしようとして、私達が巻き込まれたのだとしても、ある程度離れておいた方が良さそうだし)
だが、何よりもの問題は、ここに暮らしているボラボラ達が通常のものとは異なる特徴のあるボラボラで、尚且つ、そんな場所にネア達が呼び落とされたという事だ。
先程のアルテアの主張が作戦の上のものでなければ、どうやらネアは、アルテアにかけられた糸の巻き添えで落とされたらしい。
アルビクロムにいたに違いないアルテア達の巻き添えが、ウィームにいたネア達というのも驚きだが、ごく稀にそのような連鎖型の魔術事故があると教えて貰った事がある。
使い魔と主人もそうだが、他にも、双子や同じ名前の者達など、魔術的な繋がりがある事で同じ影響を受けるという報告例は少なくはない。
そんな事を考えていたら、ふっと視界が翳った。
ゆるりと顔を持ち上げると、綺麗なラベンダー色の瞳がこちらを見下ろしている。
「………この隙に、少しだけ音の壁を立ち上げたよ。ってことだから、シルには僕から連絡しておいたからね」
「まぁ、そちらのカードから連絡出来たのですか?」
「さっき、アルテアが僕の妹と話をしていた隙にね。因みに、君はあの女の子のことを気に入っているみたいだけれど、身の上がきな臭いから、あまり距離を狭めないこと」
「むぅ。良さそうなお嬢さんにしか見えません………」
「当人の心根が腐っていなくても、思考や思想の長年の強制によって、常識の相違が過ぎる相手もいる。彼女はね、ウィーム王家は穢れた人外者混ざりの血筋。そういう思想の家の出なんだ。種族の純血への信仰みたいなものは、アルビクロムでは珍しくないけれど」
「それは、あまり人外者が近しくないからこそ、なのですよね………」
「日常に近しくないからこそ、悍ましく感じるんだろうね。こればかりは土地柄もあるから、単純に愚かさばかりだと責められないけれど。………おっと、戻すよ」
あちらの会話が終わりそうになったのだろう。
潜めていた声を元に戻し、街の騎士のノイエルに戻ったネアの大事な家族は、にっこりと微笑む。
こちらに塩の魔物がいるということを明かさないのは、もし、今回の事件がアルテアの企みだった場合に備えてなのだろう。
ネアとしては、いくら選択の魔物でも、系譜の生き物なのに天敵に近いボラボラを使ってまで悪さはしないだろうと考えていたが、ここでネアの経験値程度の判断で、もしもの可能性を排除はするまい。
完全な屋内飼いの獣にはならず、こちら側と対岸と、常にその二つの選択肢を持っているのが、あの魔物の資質なのだ。
ごおん。
どこかで、何と響きの悪い鐘の音だろうという音が響いた。
その途端に、かたかたかさかさと落ち葉が揺れ始め、どおんと鈍く大きな音が聞こえる。
どおん、どおん。
「これは………」
重なる地響きが足音だと気付いたネアは、慌ててノイエルの手をぎゅうっと握る。
背筋がぞわぞわとする不穏な足音に、持ち上げて貰いたいくらいだが、残念ながら、人間はそうそう簡単に人一人を抱き上げたままではいられない。
ノイエルが、人間の騎士としてここにいる以上は、幾つかの手厚さと甘えを諦めるしかなかった。
どおん。
一際大きく響いた大きな地響きに、立っているだけのネアの体までもがびりりと揺れた。
だいぶ近くなったなと息を詰めていると、森の向こうからゆっくりと黒い影のようなものが立ち上がる。
その姿を見たネアは、とても見慣れた光景に呆然としてしまった。
「…………ぎゃふ」
「………これは、………完全に悪変していますね」
「と言うか、市場に売られている房のままのきのこ感を出した、巨大ボラボラ束ですね……。………は!あちらは………」
ネアは思わずフェルディアードの方を振り返ってしまったが、明らかに顔色は悪いものの、擬態はしっかりと維持しているようだ。
先程の少女は、そんなフェルディアードに怯えたように体を寄せており、整った透明感のある美貌がどこか無垢な頼りなさを見せている。
「………これだけ色々な要素が立て込んでしまっていて、果たして、お茶の時間までにお家に戻れるでしょうか」
「こちらでも善処しましょう。僕も、出来れば今日は家にいたいですからね」
ふうっと覚悟の息を吐いたネアの頭を、ノイエルがふわりと撫でてゆく。
ふと、フェルディアードという人物に扮したアルテアがこちらを見ていたような気がしたが、気のせいだったのかもしれない。




