205. 騎士の祝福を貰います(本編)
「まずは、これを。俺の領域から切り出したものだが、祝福を可視化したような物だと思ってくれ。これから、俺の魔術領域の円環に入る。その際に、俺の手の中の物だと記す、魔術の上での許可証のような役割を担うようになる」
「はい。………まぁ、なんて繊細で綺麗なのでしょう」
ウィリアムがふわりと頭にかけてくれたのは、まるで、花嫁のヴェールのような白いレースだった。
縁取りの精緻さは夢のような美しさで、過分な装飾ではない代わりに、惚れ惚れとするような儚い美しさがある。
頭にしっかりたっぷりかけても腰の少し上くらいまである大きさで、ネアは、うっとりとその表面を撫でた。
(こんなヴェールをかけて貰えるのなら、もう少し白っぽいドレスを着てくれば良かったな………)
そんな後悔の念も抱きつつ、ネアは、そのまま普通に歩けるぞとなった湖面の上をひたひたと歩き、湖の真ん中にエスコートされる。
ひらりと揺れるネアのドレスは湖面に映るのだが、なぜか、ウィリアムの姿だけは映らない。
それが不安でぎゅっと手を掴んでしまうと、おやっと目を瞠ったウィリアムが微笑みを深めた。
「怖いか?」
「いえ、爪先がぐらりとするかと思ったのですが、少しも揺らがずに、とても安定しているのですね」
「これは、リーエンベルクで言う魔術基盤のようなものだからな。湖に見えるが、実際には魔術の表層なんだ。だからこそ、同一資質である俺は映らない」
「むむ、それでだったのですね!ウィリアムさんがいなくなると困るので、ぎゅっとしてしまいました」
「最初に説明しておけば良かったな」
「………こうして上に立つと、すとんと落ち込んでしまいそうな透明さで、けれども、宝石のように硬質にも思えます。………どこか、ざわりとした不思議な高揚感があるのはなぜでしょう?」
そう問いかけると、こちらを見たウィリアムの瞳が光の尾を引くようで、ネアは、湖の上は思っていたよりも暗いのだなと気付いた。
「祝祭の場に近い魔術を整えてあるからだろう。俺の領域のものではないが、………表層は夏至祭に近い形で、湖面を挟んだ裏側には、イブメリアに近しい魔術を組んである」
「まぁ。…………とても、複雑なのですね」
「ああ。ただ、湖面の反対側の場を作ってくれたのは、シルハーンだがな」
「ディノも参加しているのです?」
それは知らなかったぞと驚きに目を瞠ると、必要であれば使うものとして、予め渡されていたのだそうだ。
ネアが、終焉というものは複雑に祝祭とも結ぶのだろうと考えて重々しく頷いていると、こちらを見て微笑んだウィリアムが、この舞台を選んだ説明をしてくれた。
「今回増やした手順は、夏至祭のダンスのようなものだと思っていい。……………ネアの中にある、…………恐らく、前の世界での記憶に紐付くものだろう。……………その終焉の器を作っているものの要素の一つに、夏至祭の夜があるんだ。なので、その形を踏襲してダンスを踊る事になる」
「まぁ。ディノの伴侶になってから踊れていなかった、夏至祭のダンスが出来てしまうのですね」
「ああ。儀式的な側面で行うものだが、それと同等だと思ってくれ。………夏至祭の音楽は確か、」
そう呟いたウィリアムが視線をどこかに向けると、しゅわんと現れたのは、音楽の小箱だ。
リーエンベルクでよく使う小箱とは違い、金細工の重厚な装飾の物である。
きらきら光る魔術の煌めきの尾を引き湖畔にことりと着地すると、ぱかりと蓋が開き、聞きなれた夏至祭の音楽が奏でられ始めた。
(ウィリアムさんが、このような形の魔術を使うのを見るのは、初めてかもしれない………)
普段は使わないような魔術に触れる姿に、あらためて、ここはウィリアムの領域なのだなと考え、ネアはいつもとは違う雰囲気の終焉の魔物を見上げる。
魔術基盤の上のウィリアムは、終焉としての容貌を鮮やかにしながらも、特異性を和らげて見知らぬ魔物のように見えた。
「このレースがぽとりと落ちてしまわないよう、髪の毛を留めた方がいいですか?」
「おっと。そうだな、落ちないようにしておこう。………それと、このダンスは、契約のある繋ぎを使って、騎士としてダンスに誘わせてくれ」
「はい。宜しくお願いします」
胸に手を当て、優雅に騎士のお辞儀をしたウィリアムの服装が、ざあっと衣摺れの音を立てて瞬きの間に優美な騎士服に変わっていた。
いつもの軍服と同じ白なので、今まさに、ネアの憧れの白い騎士服の騎士が誕生したと言っても過言ではない。
鋭く息を吸い、興奮のあまりにぜいぜいしている人間に微笑みかける仕草までが、憧れた騎士との出会いそのものだったので、ネアは、この特別な贈り物を大事に持ち帰ろうと、目をかっと見開いてお相手を凝視する。
「ネア…………?」
「こ、子供の頃から、白い騎士服の騎士さんが憧れだったのです。とても貴重な体験なので、じっと観察してしまいますね………」
「こんなものでよければ、いつでも」
「ほ、本当ですか?!」
「ああ。俺は、ネアの騎士だからな。………お望みのままに、我が主」
「むふぅ!」
にっこり微笑んで騎士らしく約束してくれたウィリアムに、預けた手の甲に口付けを落とされる。
お伽話の中で憧れた場面のまさかの再現に、ネアは、大興奮で最初のステップを踏んだ。
これまでに踊ってきた相手を思えば今更なのだが、憧れの白装いの騎士とダンスを踊っているのだと思うと、じわじわと喜びが込み上げてきて、どうしても口元がふにゃりとなってしまう。
優雅でどこか物悲しく、けれどもいつものダンスよりも少し早い旋律に、心の奥にざわりと不安を残すような夏至祭の音楽は、ここではないどこかに誘う道標のようだ。
しっかりとしたリードに身を預けて踊っている内に、あの美しい離宮の部屋は、いつの間にか見えなくなっていた。
深い森の中には、細やかな光の雪がはらはらと落ちる。
ぼうっと燃えるように。
或いは、さらりと崩れ落ちるように。
(……………森の中だ)
ここはもういつかの暗い夜の森の中で、夏至祭の喧騒は遠くにある。
誰も来ない遺跡の横にある暗い湖の上で、ネアは、ぼうっと明かりを灯すような、白い騎士服の魔物と踊っていた。
踊りながら微笑みかけてくれるひとは、見た事もないような美しい男性で、前髪の下に翳る瞳はぞくりとするくらいに暗い。
そんなウィリアムを見上げて踊るダンスは、くるりと回されるターンで、視界の端に頭にかけられたレースがひらりと白く揺れる。
花嫁のヴェールにも似ているが、感じられるのは、魔術の中に息づくどこかひたむきで力強い儀式の気配ばかりで、華やかに祝い踊るというよりは神聖で仄暗い誓いの儀式に思えた。
踊る。
輪の中でひらりと舞う白いヴェールと、ウィリアムのケープが重なり、けれども湖面に映るのはネアばかり。
踊る。
そしてまた、見えなくなる。
「………ネア?」
「ウィリアムさんを、しっかりと捕まえておかないといけないような気がしました。もう少し、くっついて踊っていてもいいですか?」
問いかけた先で淡く微笑むのは、人間が容易に捕らえられる生き物ではないのだろう。
その領域の輪の中に入ったネアもまた、そう簡単に外側には戻れないのかもしれない。
吐息を吐くような微笑みはいつもより密やかで、磨き抜かれた刃物のように鋭いのにとろりと甘かった。
(きっと、預けたこの手を引き抜いて逃げようとしたら、この身を滅ぼす相手なのだろう)
けれどもネアは、そうしようとは思わなかった。
そうするべきかどうかはもう、ずっと昔に確かめたのだから。
「ネアは迷わないな」
「ふふ。迷わなくていいのだと、もう知っていますから。それに今日は、私が少しばかり強欲になってしまう誕生日の取り戻しの日なのです。なのでウィリアムさんは、こうしてぎゅっとして、捕まえておくのですよ」
「………そうだな」
ふっと微笑みを深め、ウィリアムは頷く。
だが、いつものウィリアムの微笑みが、誰もが知るからりとした強い酒なら、ここにいる終焉の魔物は、肌にぞくりとするような背徳的な温度が宿る、無銘の酒のよう。
「祝福と守護の手法としてダンスがあるのは知っていたのですが、ウィリアムさんの守護でダンスを踊るようになるとは思っていませんでした」
「この祝祭の型をつけた守護と祝福の輪を閉じるには、別の方法もあったんだが、…………そちらは少し危ういからな」
「危険な方法もあったのですね……」
「夏至祭の恋人達のダンスは、儀式の形として受け入れられるよう、人間向けに簡略化された魔術儀式なんだ。本来は、もう少し親密な形での恋人達の結びになる」
「ふむ。……………む………」
ウィリアムが何を示したのかに気付いてしまい、ネアは、気恥ずかしさを誤魔化すようにわたわたと余分なステップを踏んでしまった。
くすりと微笑む気配がして顔を上げると、魔物らしいぞくりとするような白金色の瞳がこちらを見ている。
「そちらだと、困るだろう?」
耳元で囁くように問いかけられ、ネアは、ああこれは終焉という絵柄の事象でありながらも、世界のあちこちで悪さをする魔物達と同じ生き物なのだと唸りそうになる。
「こ、こまります!」
「そう思って、騎士としての繋ぎからのダンスにしたんだ。終焉の要素を入れて結ぶなら前者だが、騎士の誓いの文言にも終焉に結ぶ一節がある。代用可能な契約があって良かったんだろう」
「よ、良かったでふ!」
「はは、そんなに緊張しなくても、ネアが怖がるような事はしないからな?」
「ふぐ…………」
「それとも、試してみるか?」
「む、むがー!」
「はは、冗談だよ」
だが、そんな会話を持ちながらのダンスもまた、なかなかに親密なものではないか。
ネアは、男女の秘め事を魔術の選択肢としてさらりと会話に載せてしまったウィリアムを見習い、このような場合は華麗に流すのだと自分に言い聞かせたが、ついついぐるると威嚇してどうにかしようとしてしまう。
とても悲しいことだが、何しろ家族の中に銀狐とムグリスがいるので、淑女の自己表現が多少そちら寄りになっても仕方がないのかもしれない。
(ウィリアムさんのように、下手に恥じらわずに大人な感じに茶化してしまえたらいいのに………!)
とは言えこちらは有史以前からご存命の御長寿な生き物で、対するネアの人生経験はまだちょっぴりである。
差がついても仕方ないのだと考えていると、また一つ大きな試練がやってきた。
「………むぐ」
「ネア、………急にダンスが硬くなったな。もう少し背中を緩めて、…………そう。いい子だ」
「………むぐぐ」
夏至祭のダンスは、軽やかだがテンポが速いので、ぐっと抱き寄せられて体が密着することも多い。
ネアはここで、前の会話を引き摺り、不恰好にもだもだしてしまうあまり、ステップを踏み間違えてウィリアムを薙ぎ倒さないようにと細心の注意を払った。
何しろこれは、楽しみの為のダンスではない。
純然たる魔術の儀式なのだ。
(不思議なところで、美しくて眩いくらいの暗さに満ちていて、………音楽のグラスの中でたぷんと回されてゆくよう)
くらりと翳る視界に豊かな音の波に呑まれてダンスに没頭すると、ひらりひらりと、頭にかけたレースのヴェールが揺れる。
ふと顔を上げると、きらきらとしたものがはらりと落ちて来て、こつりと踵を鳴らしてダンスが終わったばかりのネアは、思わず手を伸ばしてしまった。
(……………あ、)
けれどもその煌めきは、ネアが触れる前にぼうっと燃え上がって消えてしまった。
柔らかく、夜闇に溶け込むように。
心を騒つかせる美しい音楽の余韻が消えると、己の心との闘いもあったからか、いつもより息が上がってぜいぜいしているネアに、ウィリアムが小さく笑う。
親指の背で顎の輪郭を撫で上げられ、ゆっくりと身を屈めるようにして落とされた口付けは、何度目の祝福を重ねたのだろうか。
「むぐ!」
「………さすがに、あの後も俺の守護を完全な空席にはしていなかったが、これからは配分が向こう側に傾かないよう、こうして同じ魔術要素を指定した上で、重ねて守護と祝福をかけてある。ネアは終焉の子供だが、本来ならそれは、俺ではない領域の終焉のものだ」
「……………私が触れたのは、生まれ育った世界のもの、という認識なのですね」
「ああ。……………だから、俺以外を選ばないように、念入りにな」
伸ばされた指先が、唇の端に触れる。
そう言えば、ウィリアムは食事の後に手袋を戻していなかったのだなと考え、ネアは、もう二度とあちら側には帰らないのだときりりと頷いた。
(…………あ、………いつの間にか、先程の湖に戻っている)
夢から覚めたように、振り返ると先程の部屋の窓辺が見えた。
目を瞬きウィリアムを見上げると、こちらを見てふつりと笑ったウィリアムは、どこか温度のない整った暗さを持ついつもの終焉の魔物の顔よりも、遥かに魔物らしい艶やかな暗い目でそっと囁く。
「無事に一つ目の円環を閉じられたな。………もし、このままネアを閉じ込めてしまいたくなったらどうしようかと思ったが、………俺は、こうやって過ごす時間の方が好きらしい」
「まぁ。閉じ込められたら、あの素敵な香水を使う機会を奪われるので、私は暴れてしまったかもしれません」
「いや、終焉の性みたいなものなんだ。………何だろうな、持ち帰りたくなるみたいだな」
「狐さんが、長椅子の下にヒルドさんの室内履きを隠すような感じですね!」
「ネア、さすがに俺も、それと一緒にされるのは堪えるぞ?」
「む?」
はらはらと、どこからか風に混ざるのはブーゲンビリアの花だろうか。
それとも、この色の薔薇やライラックも、どこかに咲いているのかもしれない。
暗い夜はくらりと翳った円環から明けて、先程までの景色が離宮に戻ってきた。
(もしかしてあの森は、………私が、森の女神に会いに行った湖だったのだろうか………)
ふとそんなことを考えたが、何となく、円環を閉ざした後なのだから、もう触れない方がいいような気がした。
けれどもきっと、ネアにとってのあちら側の終焉は、ネアハーレイの森を訪れた夏至祭の日に、どれだけ願っても魔法はないのだと知ってしまったあの夏至祭の夜だったのかもしれない。
「体調に変化があったり、何か気になることはないな?」
「ということは、このダンスで、何かを変えたり、削ったりしたのでしょうか?」
「いや、与えられた災厄も祝福も、ネアがネアである為の均衡の一つだ。今のダンスは、俺の守護や祝福が、向こう側の終焉に道を繋げないようにする為のものなんだが、輪の閉じ方に無理があると、違和感が現れるかもしれない」
「…………であれば、………そのような感じはしないようです。上手く言えませんが、中身を蓋に挟まずにきちんと閉められたような気がしました」
「よし。それならこちらは問題ないな」
(そうか。その扉も、あの日々も、やはりずっと私の中にあるのだ)
そう分かると、ネアはとても安堵した。
それはやはり、どのようなものであれ、ネアを作り上げたものなので、後から下段の石積みを引っこ抜くような事はしたくない。
我が儘かもしれないが、ネアは、この世界で生まれ変わりたい訳ではなかったのだろう。
ネアハーレイとネアの間に二度と渡って戻れない橋があっても、橋の向こう側を壊してしまえば、恐らくこちら側も歪んでしまう。
あの、報われないネアハーレイを抱えたまま、そこから離脱して幸せになりたかったのだと思う。
「何となくですが、勝手な想像で、このような守護は、えいっと一度にかけてしまうものだと思っていました。………例えば、カップの中に紅茶を注ぐような感じに」
「うーん、どちらかと言えば、料理や音楽、或いは油絵のような工程だな。ある程度の反応や仕上がりを見ながら、一つずつの要素を重ねていくんだ。アルテアもそうだっただろう?」
そう尋ねたウィリアムは、いつものウィリアムという感じがした。
ネアは、ふむふむそうやって誰かに響く言葉を選ぶと、いつもの顔になるのだなと心の観察記録をつけておく。
「はい。アルテアさんも丁寧でした。ただ、ノアは……しゅばんという感じでしたよ?」
「………ノアベルトの固有魔術は、俺にもよくわからない部分があるからな。元は俺と同じ王族相当の魔物だが、かつては、どちらかと言えばシルハーンに近いと思っていたくらいだ。どんな方法だったんだ?」
「きらきら光る素敵な飴玉をお口にぽいと入れて貰い、家族相当の祝福を貰っておしまいでした」
「……………そうなのか」
塩の魔物の守護の再構築方法に困惑していたようだが、ウィリアムは、また手を繋いでくれて、二人で湖から離宮の方へ戻ってくる。
頭の上にかけて貰っていたヴェールは、いつの間にか消えていた。
(でも、面白いな。アルテアさんの場合は、リンデルのお返しがあったけれど、ウィリアムさんの守護の方が、儀式的な要素を重ねてゆくのだわ……………)
「残りの工程は、あちら側の庭にしよう。あまり凝った物は作れなかったんだが、デザートは林檎のパウンドケーキでいいか?」
「パウンドケーキ様!」
もうないものだとばかり思っていたケーキの登場に、ネアは、ウィリアムの手をぎゅむっと握りしめて、たすたすと足踏みをしてしまう。
どこか秘密を囁くように耳元に唇を寄せたウィリアムが、焼きたてのパウンドケーキには、バニラアイスも添えられると教えてくれたので、その組み合わせがどれだけ偉大かを知る人間は感動に打ち震えた。
「あちらにテーブルを出して、少しだけ休憩するか。その前にパウンドケーキを取りにいかないとな」
「はい!」
オーブンから取り出したパウンドケーキを型から出して、表面にナイフが入るさくりという音を聞きながらお皿を見つめる時間は、どれだけ幸せだっただろう。
ネアは、くすんだ青色と温かみのある砂色の床石の厨房にも恋をしてしまい、離宮らしい広さのその中で、焼きたてのパウンドケーキをお口に入れて貰ったりと、素敵な時間を過ごした。
ウィリアムは先程の騎士服のままだが、ケープを外して襟元を寛げ、騎士の休憩時間のようなのんびりとした雰囲気になっていて、ネアは引き続き騎士との時間を堪能してしまった。
花の咲き誇る庭にテーブルを出し、二人はバニラアイスと一緒にお皿に載せた林檎のパウンドケーキを食べ、濃いめの紅茶を飲んでまた少しお喋りをする。
お代わりもしてしまったネアの檸檬色のお皿が空っぽになると、ウィリアムがゆっくりと立ち上がった。
「次は、音楽なのですよね。……………もしや…………」
「歌を贈れると良かったんだが、そうなると、今度は違う方向の儀式に傾き過ぎるからな」
「違う方向………なのです?」
「乾杯、食事、ダンス、………そこに加えて歌を贈る行為は、最も多くの者達に受け継がれてきた一般的な、伴侶選びの愛情の儀式の受け渡しにもなる。こちらまで重ねると、シルハーンの領域だ」
「ふむ。結婚式のようになってしまうのですね。それはさすがに、私としても貰い過ぎだという感じで申し訳ないので、もう少し緩めたものでいただけるものがあれば嬉しいです」
「そうだな。………どうせネアに贈るなら、シルハーンの事がなければ、もうそちらでも良かったんだが」
「だ、駄目ですよ!そのような領域のものは、ぞんざいに放り投げてはいけないのです!」
ネアは、職業上の経験を積みたいからと、生涯に一度しか出来ない結婚をしてしまった魔物を知っている。
たった一つの大事な機会なのに、ウィリアムにまでそんな理由で切り出されたら、罪悪感で心が擦り切れてしまうだろう。
慌てて、事例を挙げてそのような無謀さを発揮してはいけないと厳重に言い含めておけば、ウィリアムは、アイザックが余計だったなと苦笑していた。
「さて、次は音楽だ。ピアノとバイオリンで迷ったんだが、バイオリンは戦場で演奏することも多い。そちらの終焉の要素が入り込まないよう、ピアノにしよう」
「はい。ウィリアムさんのピアノが、また聴けてしまうのですね……………」
お皿がいつの間にか片されている事に目を瞬いてから、またあの素晴らしい演奏が聴けるのだとびょいんと跳ねると、悪戯っぽく微笑んだウィリアムから、どんな曲がいいかのリクエストを取られた。
すっかり演奏会気分になってしまったネアは、聴かせて貰ったことのある曲にするべきか、それともまた新しい驚きを得てしまうべきかで悩んでしまう。
「それなら、どちらも弾こうか。夕刻までは、まだ時間があるからな」
「まぁ、いいのですか?」
「最後の守護と祝福の円環は、ゆっくりと時間をかけて閉じてゆく方法もあるからな。せっかくネアと二人きりで過ごせる時間なんだ。そちらの方がいいかもしれない」
「で、では、前に弾いて貰った曲も聴きたいです!」
「少し待っていてくれ、まず、ピアノを移動させないとなんだが、……………この辺りでいいか」
「ふぁ!ピアノが現れました!!」
ネアはとても邪悪な人間なので、もしここで、如何にも終焉の魔物の離宮にありそうな、豪華絢爛な白いピアノなどが現れたら、やはりそうきたかと、何となく生温い気分になってしまったかもしれない。
だが、ウィリアムが持ち込んだのは、見た事もないような素朴な木のピアノで、その風合いの美しさにおおっとなってしまった。
「古いピアノだが、気に入って使っているんだ。元はアルテアが持ち込んだ物で、音楽の妖精が作ったピアノだと聞いている」
「お手入れをされながら使い込まれた風合いがしっかりと見えて、なんて素敵なピアノなのでしょう。これは大事にしてしまいますね……………」
白い騎士服から、白い軍服へ。
ぱっと入れ替わるのではなく、流れるように装いを変える魔物の姿にまたしてもおおっとなりながら、ネアは、用意して貰った、たった一人の観客席に陣取った。
その後の時間をどう説明すればいいのかは、もはやネアにも分からない。
相変わらずの技量はもはや音楽の響きを持った世界の奔流のようで、繊細で激しく、そして官能的な旋律の中で、とろとろと心まで蕩けてしまいそうなほど。
指先から爪先までくたくたにされたネアは、聴いてみたいとリクエストした曲でも儚く打ちのめされてしまった。
素敵なドレスを着て誕生日のお祝いに来たのだという自負がなければ、用意して貰った椅子からずり落ちてしまったかもしれない。
鍵盤にばらばらと落ちる指先に、捲った袖から見える腕の筋や横顔にかかる影。
唇の端が持ち上がる様子を見てしまえば、何だか誰かの秘密を覗いてしまったような感覚になる。
ただひたすらその全てに溺れてゆけば、美しい音楽を楽しむという罪深い喜びで胸の中がいっぱいになるのだ。
(ああ、音楽だわ。………音楽が大好きで、こんなに素敵でわくわくして、胸がいっぱいになって、………)
グラフィーツ曰くネアのピアノはまだ未成熟らしいが、それでも、ここに座って終焉の魔物のピアノの演奏を聴いているのは、音楽家の娘である。
そう思えば、これだけの演奏に触れられることも誇らしく、ネアはふんすと胸を張った。
「…………最後の祝福は、………人間ならどこがいいんだろうな」
「む………」
あまりにも素晴らしい演奏に酔いしれてしまったので、気付けば演奏会は幕を閉じ、目の前にはそんな事で悩んでいるウィリアムがいる。
正面に立ち首を傾げた終焉の魔物に、ネアは、場所によって効果が変わるようなものなのだろうかと、こちらも首を傾げてしまう。
「ネアは、人間にとって、魂や命の宿るところと言われた場合、思い浮かぶ場所があるか?」
「………心臓、でしょうか。よく考えると頭などもそうなのかもしれませんが、何となく、魂は胸に宿るような気がしてしまうのです」
「それなら、頭と、喉と、心臓……胸部だな」
「…………なぬ。何が始まるのだ」
それは攻撃の手順ではないのだろうかと考えた人間がわなわなすると、くすりと笑ったウィリアムが、またどこかぞくりとするような凄艶な微笑みを浮かべる。
「この守護の再構築と、祝福の結びに。人間としての命や魂に繋がる場合に、祝福を落としておこうな」
「む、むぐ。………じりりと寄られると、なぜか逃げたくなるのでふ…………」
「おっと、逃げられると追い詰めて意地悪をしたくなるかもしれないぞ?」
「ぎゅわ。ウィリアムさんに追いかけられたら、どこかなくなってしまうかもしれないので、にげません………」
「はは、流石にそんな事はしないよ」
ひょいと脇の下に手を入れて持ち上げられるように立たされ、ネアはウィリアムと向かい合った。
花の咲き乱れる美しい庭園は、僅かに日が翳り、どこか秘密を隠すような不思議な青色の影に沈む。
「…………っ、」
額に一つ。
そして、ネアが喉を噛むのだけはなしだと竦み上がっている内に、唇で辿るように喉元に一つ。
そして、指先で襟元を押し下げるようにして胸元にも一つ。
吐息の温度のある口付けが落とされ、体を屈めていたウィリアムが顔を上げる。
「…………これでお終いだ」
「ぶ、無事に終わりました?」
「ああ。もう、大丈夫だからな」
「ふぁ。…………どこも、齧られていません………」
「歯を立てていいなら、それも試してみるか?………おっと、冗談だからな?そんな目で見ないでくれ」
「ぐるる…………」
「…………あの時に、俺がもう少し早く気付けていたのなら、不安定な状態でこれだけの日々を過ごさせることもなかったんだが」
けれどもウィリアムは、これだけの贈り物をくれたくせに、最後にそんなことを言うではないか。
何と困った魔物だろうかと思った人間は、この魔物にも祝福を贈っておくべきだと、頬に口付けを返そうとした。
「………ネア?」
「私の大事な騎士さんにも、祝福を授けておきますね。得てして、物語の中の主人公は、憧れの騎士さんの頬に祝福の口付けをおくるものなのですよ」
「それなら、遠慮なく貰っておこう」
白金色の瞳を揺らしてから、その無防備な驚きを隠すように微笑んで、ウィリアムがもう一度体を屈めてくれる。
だからネアは、今度はきっと、ディノと一緒にこの離宮に来てわいわいと仲良く過ごし、この魔物が、喪ったものを思い一人であの窓の向こうを見ないようにしてみせるのだと心に誓った。
とは言え、お礼にと言われてしっかりとした祝福返しを贈られるとわたわたしてしまうので、ネアは、自身の領域にいる時の終焉の魔物はちょっといけない感じだということも、あらためて学んでしまったのであった。




