ホットワインとウィームの額縁
だしんと音がして、暗い聖堂の中で、積み上げられた書類に押印がなされる。
重たい金属の台座の音に、じわりと滲んだインクの赤い色。
これは、一人の人間の生死の行方を決定付ける特別な書類であったが、それを何の感慨もなく押してのけた片眼鏡の男は、死の執行に手慣れていた。
かりかりと音を立てて押印の横にサインを書き入れる姿には誠実そうな趣きさえあったが、ガーウィンの中で、この男程に極刑を下す事に慣れた者はいないだろう。
何しろ、死の訪れを司る精霊の王族であるのだから、これまでに持ち運んできた終焉は、一つの国や文化圏の人間の理解を超えているに違いない。
だが、多くの人間達は、彼がその舌鋒程に酷薄なものを持つとは知らずにいる。
だが、そんな変わり者で我が儘な精霊だが、それでも小さな感慨は持つのだろう。
でなければあのような愚かな事はするまい。
「で?何の用だ」
「お前が、とある魔物を呪ったと聞いて確認に来た迄だ。暇潰しかもしれんが、後で拗れても知らんぞ。……………はぁ。この聖女はいまいちだな」
「以前から思っていたが、その味を定める要因はどうなっているんだ?聖女としてはこの上なく優秀だった娘だが、お前はまずいと言う」
「さてな、そればかりは明かせんよ。何しろ美味い砂糖はいつだって不足している。秘伝のレシピを誰かに明かす程、俺はお人よしじゃない」
「………明かしたところで、誰もどうにもしないだろう」
呆れたような声音に、そうでもないのさと微笑んだ。
こちらを見たリシャード枢機卿ことナインは、誰もこんなものは食わないぞと呆れた目をしているが、その表情の大半は如何にも表面的な物であった。
言葉に出すほどに興味を持っている訳ではないが、教区に暮らす精霊として、自分の領域から収穫を得ている魔物の嗜好を可能であれば知っておきたかったのだろう。
個人の興味というよりは、あくまでも土地の管理の一環に過ぎない義務的な質問である。
だが、魔物は、己が何を望むのかなどはそう簡単に明かしはしないものなのだ。
その欲求や執着を、心のままに容易く明かしてしまう精霊達とは違う。
(それにしても、不味いな………)
ざりりと、皿の上のあまり美味しくない砂糖を噛み締め、稀代の聖女と呼ばれた人間の顛末を思った。
この砂糖の山になってしまった少女は、ガーウィンで生まれ、ガーウィンで育まれた元男爵家の娘だ。
信心深い両親の手で幼い頃より教会に預けられていたが、信仰の系譜の魔術の扱いに長けており、ここ数年は聖女の称号を得るまでにその階位を上げていた。
鹿角の聖女と呼ばれた修復の魔物を祀り上げている教会組織に於いて、聖女の称号は、その殆どが魔物との契約を得た歌乞いに与えられる。
だが、ごく稀に、その他の要素で鹿角の聖女を彷彿とさせることで聖女の称号を得る者がいて、この人間の場合は、信仰の系譜から得る祝福の潤沢さから聖女と呼ばれるようになっていた。
しかし、十七年ぶりに現れた歌乞いではない聖女として持て囃されていた少女は、とある教会組織の権力者への恋情で、越えてはならない一線を越えたらしい。
細かな事情に興味はないが、その結果、一転して剪定対象に格下げとなった。
(……………教会の中には、人間に混ざって人外者が数多く暮らしている)
それは、教会で暮らしている多くの聖職者達にとっては暗黙の了解であった。
だからこそ、この教区の中では、彼等の秘密を脅かさずに従順な信徒でなければならない。
鹿角の聖女を祭壇の中央に置いてはいるものの、それ以外の土地に古くから根付いた信仰を司る神殿も同時に信仰の対象としている教会では、その他の人外者達にも敬意を払う。
人間が持たない魔術を司る者達に、信徒として傅き祭り上げるのだから、自らの意思で教会の敷地内に留まる人ならざる者達の静かな暮らしを損なうような事は、決してあってはならないのだ。
とは言え、この聖女も、思いもしなかったに違いない。
何度も己の立場を利用し領域を犯してきた相手が、仮にも死の精霊だと知っていたのなら、多少愚かな人間であっても、望んで近付くような事はなかった筈だ。
だが、それを知らずに大胆にもリシャード枢機卿の寝所にまで忍び込んだ聖女は、結果として、内々に処分というスタンプを自身の管理書類に押され、こうして皿の上の砂糖となっている。
グラフィーツとて寝所まで入り込むような女は御免だが、その聖女を、書類を整えるよりも早く聖女を食らう魔物に下げ渡した枢機卿は、どれだけ辟易とさせられたものか。
束ねて処理済みの箱に投げ込まれた書類は、そこに記された名前の人間と同じように、今後もナインから顧みられることはない。
おまけに、大して美味くもないとなれば、聖女になるだけ無駄だったと言わざるを得ないだろう。
(まぁ、そんな人間だからこそ、この味なんだろうが………)
迂闊で稚拙で、何の旨みもない。
これであれば、市販の砂糖でも食べている方がましだが、一度皿に乗せた砂糖は残さずに食べる事にしている。
残りの砂糖やシロップは畑に撒くとして、次の収穫の時にはもう少し土壌を豊かにしてからの方が良さそうだ。
「魔物を呪った事は何度かあるが、どの案件に対する問い合わせだ?」
「選択の魔物に、稚拙な呪いを送り付けたらしいな」
分かっていた筈だが、わざとらしくそう問いかけたナインは、得心気味に頷いてみせた。
こうして質問の主語をはっきりとさせる事で、こちらがどのような意図でこの話題に触れたのかを測りたかったのだろう。
曖昧にせずに問いかけを続けるのであれば、それだけ今回の事に関心を寄せているのだと分かる。
「…………ああ、誕生日ならずの呪いのことか。どこから聞いた?」
「ウィームのとある組織からとだけ言えば、おおよその想像は付くだろう」
「その条件だけでも、思い当たる組織が多過ぎるな…………」
「かもしれん」
ちらりとこちらを見た片眼鏡の男が、小さく微笑む。
次の書類には別の印を押し、先程とは違う箱に重ね置くテーブルに、目が眩む程の高みから落ちてくるのは、ステンドグラスを透かした月の光だ。
月の光の輪にテーブルの上の燭台の炎の明かりを重ねたその中で、ガーウィンの枢機卿の一人である精霊は、気紛れで選択の魔物を呪う程に暇ではないと前置きをした。
「だが、魔物の執着は、特に相手が人間である場合は、その相手を殺しやすい」
「…………運命の疵か」
思いがけない返答に、さすがに瞠目する。
「そのようなものだ。系譜の王という訳ではないし、この身の資質に於いて膝を折るような事はないが、それでも一応は雇用主だ。また、選択の魔物の崩壊などを招くような事態となり、世界の運行に支障をきたすような事があっても困る。俺は、終焉の王のように、己の資質に辟易とはしていないのでな」
「そのもしもがあれば、真っ先に起こるのは万象の崩壊だ。アルテア一人でどうこうという問題にすらならないだろう」
「だからこそだ。その引き金を引くのが、彼であって欲しくはない」
「ほお、意外な事もあるものだな。思っていた以上の執着だ」
そう言えば、ナインは大仰に肩を竦めてみせた。
その仕草にはからりとした了承があり、精霊はこのようなものなのかとあらためて考える切っ掛けになりそうだ。
「これ迄と同じように、これからの時間も長くなるだろう。そんな中で、互いに愉快に思う事が近しく、仕事の情報を同じ鮮明さで交換出来る相手を失うのは、存外に疲れるからな。先にも言ったが、俺は、この世界の在り方も今の暮らしも気に入っている。長い時間を過ごす事にうんざりしている者も多いが、まだまだ愉快に暮らしているところだ」
歌乞いを亡くしたお前は、違う意見かもしれないがなと付け加えたナインに、そうかもしれないがそうではないかもしれないと答え、さして美味くもない砂糖を噛んだ。
はらはらと、舞い落ちる白い花びらのような雪を見ている。
灰色の空を見上げて、手袋をはめた手で一片の雪片を受け止めたのは、何度季節を重ねても、このウィームの雪が彼女の降らせた雪を思い起こさせるからだ。
(……選択の魔物は、まるで歌乞いを得たような有様だと話していたな…………)
だからナインは、その運命に小さな疵を付けた。
聞いた話によると、誕生日そのものは行われているが、呪いの影響は確かに出たらしい。
だが、結果的にどこかで何かが損なわれたのなら、運命の疵は無事に役目を果たした事になる。
この先のどこかで望ましくない分岐が選択された際には、そのほんの僅かな運命の疵が運命を変えるだろう。
そもそも、選択に纏わる事柄を得意とする上に、アルテアはネアの歌乞いの魔物ではないが、ナインがそのようだと認識をしたのであれば、認知そのものに運命が引き摺られる事もあり得る。
そのいつかの為に、己の歌乞いを失う事が多い魔物には、必要なものだったのかもしれない。
ウィーム中央では、先日、歌乞いを亡くした一人の魔物がひっそり崩壊したそうだ。
崩壊したのは、六年も共に暮らしながら己の矜持の高さから歌乞いに思いを告げなかった愚かな男で、とうとう通じ合わないままに喪われた日々は、その魔物のこれからの未来を永遠に閉ざした。
それでもいいのだと、男は言ったという。
彼女がいない未来など欲しくはないし、だからもう、どちらにせよ生きていても仕方ないのだと。
だがそれは、己の崩壊が土地を損なわないようにと最期の手伝いを依頼されたアクスの魔物が知るばかりの事で、人間達に、姿を晦ました契約の魔物の顛末が告げられる事はない。
とある工房に暮らし、器用な指先を持つ彫金師の隣に寄り添っていた魔物が、そこまで一人の人間を愛していたと知る者も少ないだろう。
何も知らない人間達は、やはり契約の魔物は薄情だと言うのかもしれない。
「……………ふん。愚か者め」
そう呟き、唇の端を持ち上げた。
グラフィーツは、この通りを自分の歌乞いと一緒に歩いた事がある。
その記憶に残したままの死者の日にも、自分だけの物にするべく、彼女の記憶からは持ち去ったイブメリアの影絵でも。
グラフィーツは、共に暮らす日々の中で、己の歌乞いへの執着や心を偽った事はないし、魂を安定させる為とは言え、指輪を切り出して与え、朝から晩までその世話を楽しんだ。
手放してやると決めていて、手放す日が決まっていたからこそ、決して共に過ごす時間を無駄にはしなかった。
だから、彼女と過ごした日々に後悔は一つもない。
もう少し地上に上がれる時間があれば、もっとしてやれた事があったのにと思う事はあったが、それは後悔ではなく願望だ。
この手に成し得る可能な限りの全てを、その手のひらに載せてやったという自負はあるし、自分に出来なかった事までを願う程に強欲ではない。
寧ろそれは、グラフィーツからのものではなくなってしまう。
己の持つ全てをくれてやったからこそ、たった一人の恩寵を救えずに呪いに取り殺されても、彼女の死を知った日にどれだけ慟哭したとしても、選んできた道筋に後悔はなかった。
その呪いを背負っていない彼女というもしもを考えれば、彼女は、グラフィーツと出会う事もなかった。
だから、彼女を滅ぼした呪いも含めたその全てが、グラフィーツの手に入れた恩寵なのだろう。
あの人間は、通常の歌乞いよりもずっと長く生きた。
ましてや、白持ちの魔物の歌乞いとしては、奇跡と言える程に。
それを知っているだけで充分だし、最初からこうするのだと決めていたように、壊れた呪いの残滓から彼女だった筈の魂の欠片を拾い上げて死者の国に運んだ日に、グラフィーツは、とうとう彼女に全てをくれてやると決めた日に描いた筋書きの全てを回収したのである。
エンドロールが流れ、一つの物語が終わった。
たった一つの恩寵を得た魔物は幕を引き、そこからはもう、彼女と過ごした日々を思いながら過ごす余生のようなものだ。
「……………まぁ、お久し振りです?」
雑踏の中で声を掛けられ振り返ると、万象と連れ立ったネアが立っていた。
そこに立つ人間は、グラフィーツの唯一には似ていないが、彼女の向こうにはいつだって、たった一人だけと決めた女の面影が浮かぶ。
これからもずっと、この額縁の向こう側にあの日々を思い、これがある限りはなかなかに愉快な余生となるだろう。
ナインが絶望の魔物と行っている交換日記の記録などを宝物としているように、グラフィーツにはグラフィーツの、残された人生の楽しみ方があるのだ。
「シルハーン、ご無沙汰しております」
「おや、そう長い不在ではなかったようだけれどね」
「かもしれません。………そうそう、ナインは、己がかけた呪いを、運命の疵だと話しておりました」
「………そうなのだね。悪意はなさそうだったから、どうしてなのかなと考えていたのだけれど、あの精霊もそんな風に考える事があるとは思わなかった」
「……………む?」
不思議そうに首を傾げたネアに、シルハーンが微笑みかける。
擬態した青灰色の髪に結ばれたリボンは、グラフィーツにとっての首から下げた銀のスプーンで、いつも砂糖を食べる白い皿で、愛用の薔薇結晶の義手のようなものなのだろう。
「誕生日ならずの呪いは、ナインなりの、アルテアの運命の管理であったようだよ。声をかけて事情を説明する程に慎重になったり、自分の何かを削る程の執着ではないにせよ、顔見知りとして手をかけるということもあるのかもしれないね」
「まぁ、そのような理由だったのですね。………時折失念してしまいますが、あの我が儘な方が同じ名前を共有してお仕事をしているくらいなのですから、アルテアさんの事を気に入っていない筈もなかったのです。……………豆を贈るのはやめておきます?」
「それは、君の好きなようにしていいよ。ナインの事は、あまり好きではないのだろう?」
「ええ。では、大箱ではなくて小箱で送ることにしますね」
そう微笑んだ少女は、他者がどうであれ自分はこうなのだという明瞭な線引きを付ける事に躊躇いもない。
くっきりと引かれた線の内側で自分の持ち物を抱えているのは、一度、手のひらの中の自分以外の全てを失った事があるからだろう。
「………イブメリアの時期は、やめておいた方がいいぞ」
「ふふ。勿論ですよ。私は、イブメリアが大好きです。教会が主催する催しの多い時期ですし、あの方の仮の名前の治める土地で、イブメリアのミサなどが滞ったら困りますからね」
ずっと昔に、同じように微笑んだ少女がいた。
彼女が何よりも好きだったのもイブメリアの祝祭の季節で、それなのになぜか、どの季節が好きかと問われると、初夏が好きだと考えてしまうのだと不思議そうに首を傾げていた。
彼女は本来、ネアと同じようにイブメリアの愛し子であった。
誰かが、人間の身には過ぎたるその祝祭を治める者の庇護から遠ざけんとした事で、イブメリアの愛し子になり損ねた人間であった。
それは、大きな祝福が同時に大きな障りにもなり得るからこそ取られた措置で、同じように祝祭の愛し子として生まれながらも、名付けの祝福が影響して祝祭からの祝福を受け取れなかったネアは、そんなところも彼女とよく似ている。
(だが今は、ネアは立派なクロムフェルツの愛し子になった。可動域が上がらない限り、生きている間はずっと飾り木の祝福を受け取れるのだろう…………)
グラフィーツの唯一と同じ道筋を辿った人間の満願成就の額縁の向こうに見えるのは、色褪せる事はない、グラフィーツのたった一人の歌乞い。
それが在る限り、この人間はグラフィーツに残された短くはない日々を愉快にする、大事な子供であり続けるのだろう。
最後に共に過ごした屋敷の窓から外を見ながら、振り返って微笑む彼女の姿を思い出す。
“先生、ずっとずっと元気でいてね。これからも、美味しいお砂糖を沢山食べて、あのウィームで美味しいケーキを食べたりして。……それと、ウィームは大事にして下さいね。私にとっても、もう大事な国で、先生に連れていって貰った思い出の土地だから”
そんな願いを残されたなら、ふざけるなと怒る者もいるだろう。
だがグラフィーツは、やるべきことはやり尽くしたし、彼女と過ごした日々に満足していた。
相変わらず、先生とばかり呼ばれる事に多少の不服はあったが、訂正させると慌ててこの名前を呼んだ。
彼女を喪ってもこれからも生きてゆけると知ったのだから、残された願いを叶えてゆくのは吝かではない。
幸いにもウィームには、グラフィーツの余生を豊かにする、このウィームの歌乞いがいる。
ずっとずっと、この先も。
「ネア、久し振りに、古い屋台が出ている。左端の赤い屋根の屋台のホットワインは、店主が気紛れで十年に一度くらいしか店を出さないそうだが、かなり味がいいぞ」
「………な、なぬ。あの、お店の前に綺麗な飾り木のあるところですか?!」
「ああ。祝祭の系譜の妖精が開く店だからな。俺も、それを買いに来たところだ」
「い、行きます!…………ディノ、今日はそちらのお店のホットワインにしてもいいですか?」
「うん。そうしようか。…………グラフィーツ、この子に店のことを教えてくれて有難う」
「いえ。ついでですからね」
「ふふ。美味しい情報を教えて貰ったので、次の授業までには、課題曲の最初の小節の音階を完璧にしておきますね」
「…………それは期待していない。あの音階の矯正は、そうそう簡単にはいかないだろう」
「そ、そんなことはありません…………!私とて、素晴らしい音楽を指先から紡ぎ上げる事が出来るのですよ?」
足踏みをしている人間にやれやれと苦笑し、万象に一礼してからその場を離れた。
シルハーン達は、まずは、こちらに声をかける前に並ぼうとしていた、イブメリアの焼き菓子の屋台に先に並ぶようだ。
歌乞いを得た魔物は狭量なものだが、シルハーンには目立った周辺排除の傾向はあまりない。
前の世界層の万象と同じ轍を踏まないように、多くの祝福を編み上げようとしていると聞いたが、グラフィーツを排除しないのは、こちらの執着が自分の伴侶を脅かすものではないと見極めての事だろう。
伴侶に三つ編みを持たせている魔物は、多くの事に不慣れで、時折酷く無防備な魔物にも見えるが、その実、世界が芽吹いた時からずっとたった一人の万象でもあった魔物の王である。
世界の運行には何かと不確定な要素も多いものだが、シルハーンが伴侶でいる限り、あの人間はきっと健やかなままだろう。
ましてやもう、イブメリアに向ける無垢な思いや喜びを気に入られ、最大の祝祭を司る、クロムフェルツの愛し子にもなったくらいなのだ。
クロムフェルツの愛し子は少なくはないが、子供の頃から変わらずにずっとそうあれる者は殆どいない。
それは、大人になると人々の心からイブメリアへの憧憬が失われるからではなく、世界の誕生の日に定められた祝祭として、イブメリアが無垢なる子供達をより手厚く慈しむ事を望まれてきた祝祭だからこそであるそうだが、それを知る者も、もうそう多くはないだろう。
ふうっと白い息を吐き、踏み固められた雪の道を歩き、雪の日特有の灰青の空気の中で煌めく、飾り木のオーナメントの輝きを見ていた。
目当ての屋台の前には数人の客がいたが、古参のウィーム住人として見慣れた顔ばかりだ。
屋台の柱にかけられたリースには、赤く塗られた松ぼっくりとインスの実が飾られている。
(………あの日にも、この屋台が出ていた)
グラフィーツの歌乞いは、あまり酒には強くないと言うので、子供用の葡萄ジュースを使った物を買ってやり、雪の降る街のイブメリアの夜を二人で手を繋いで歩いた。
影絵の中の時間の流れは潤沢で、ずっと彼女が観たがっていた、イブメリアの歌劇場の演目に連れていってやることも出来た。
ほんの僅かな時間の奥にどれだけの思い出を隠していたのかを、その時間を持ち去られた彼女が記憶し続ける事はなかったが、グラフィーツの手の中には、グラフィーツだけの宝物がいつまでも残る。
例えばこの、湯気を立てているカップの中のホットワインのように。
「……………甘いな」
子供用のホットワインを頼んだグラフィーツに、店主は、いつも顔を顰めてそれを頼むのだねと微笑んでいた。
最初に出会ったのは影絵の中であったので、グラフィーツがなぜその注文をするようになったのかは知らないだろうが、それでも、店を出す度に子供用のホットワインを買いに来るお客として覚えているのだろう。
甘い食べ物や砂糖は好きだが、飲み物については、どちらかと言えば葡萄酒を使ったものの方が好みだ。それでも、こればかりは特別な思い出の物なので、ゆっくりと時間をかけて飲むようにしている。
祝祭を控えた街の喧騒は耳に心地よく、どこからか、イブメリアのミサで捧げる聖歌を練習する子供達の歌声が聞こえてきた。
その響きを聞けば僅かに胸が軋んだが、この棘もまた、グラフィーツの唯一の恩寵がいたという証の一つ。
何度も何度も繰り返し、死者の日やイブメリアが来る度に、あの日々を思い出す。
イブメリアの日には歌劇場に足を運び、今宵も、あの屋台を見付けてすぐに歌劇場の席を押さえておいた。
愛おしくて愛おしくて死にたくなっても、恩寵を愛した日々が曇らずに残るから、世界はまだ美しい。
彼女が願ったように砂糖を食べ、ウィームの日々の巡りを眺め、生きてゆく。
「……………おい、おかしな動きはするなよ」
不意に、隣に立った男からそう言われ、眉を寄せた。
ゆっくりとそちらを見ると、隣にいるのはあまり特徴のない背の高い老人であったが、話しぶりからするとアルテアだろう。
灰色のコートにチェック柄のマフラーを巻いていて、少しだけ、グレアムの擬態を真似ているのだろうかと考える。
「個人的に贔屓にしている屋台のホットワインを、買いに来ただけだ」
「………まぁ、お前は、あの屋台が出ると必ずいるのは確かだな」
「あんたも、なかなかの頻度で来ているようだがな」
「あいつに、屋台の事を教えたのか」
「ああ。万象に挨拶をしたから、そのついでだ。毎年のイブメリアの歌劇は、俺の楽しみだからな」
「その日の楽しみから排除されないように媚びたというよりは、お前も、それなりにあいつを気に入っているんだろう。いささか妙な形ではあるようだがな」
「…………言っておくが、ニエークとは違うぞ。会に所属しているのは、あくまでも、ご主人様を見ながら食う砂糖が美味いからだ」
憮然としてそう言えば、アルテアは小さく苦笑したようだ。
声をかけられたので警戒されているのかと思ったが、こちらの関わり方は、引き続き気に障らない範疇で済んでいるらしい。
その指に嵌められたリンデルに気付き、この魔物も、自分が心を傾けた唯一と、これからもホットワインを飲んで街を歩いたりするのだろうと考えた。
(そうして、共に過ごすといい。その手を離さず、自分の愚かさで自分の取り分を落として壊すような無様な真似をせず、あの子供を守り続けるといい………)
そうすればきっと、これからもグラフィーツは、ウィームの歌乞いを通してあの日のウィームを歩くのだろう。
たった一人の歌乞いが望んだように、ここで生きてゆけるのだろう。
「先生、頼みました!二杯目なのですよ!!」
「おい………勝手に飲めばいいだろう」
「教えていただいたホットワインがあまりにも美味しかったので、お代わりをしたという報告に来たのです。因みに、私は子供用の葡萄ジュースのもので、ディノは、葡萄酒のものを水筒に入れてお持ち帰りも買って帰ると決めたのですよ」
「うん。とても飲みやすいのだね」
「そして、アルテアさんがいます。このお店のホットワインはとても美味しいので、買ってきてあげましょうか?」
「……………放っておけ」
「葡萄ジュースと、葡萄酒のどちらにしますか?気に入ってくれたら、再現などを試してみてもいいのですからね」
「ほお、それが目当てか」
「買ってきますね!」
「おい!」
「ネアが逃げた………」
(やれやれだな……………)
その様子を見守り、カップの中の飲み物をまた一口飲む。
夜の歌劇の後は、ザハの晩餐を予定している。
今夜はいい夜になりそうだ。




