夜水晶のベルと雪のインク
その日のネアは、仕事でウィームの森に来ていた。
リーエンベルクの後方に広がる禁足地の森ではなく、街の奥に広がる街道沿いの豊かな森である。
土地の生態系だけでなく、魔術基盤にも植物の生育が左右されるこの世界では、森は広がってゆく方向によって色や形を変える事が多い。
この森もそうで、禁足地の森よりは中階層を占める花々は少ないようだ。
オークの木に似た背の高い木々が生い茂っているのだが、随分と背の高い木々なので、見上げる程に高い天井の大聖堂の中を歩いているような気分になる。
ブルーベリーのような紫紺色の実がなっていて、秋には小さな花火のような水色の花が咲くそうだ。
領外からやってくる者達は、禁足地の森よりもこちらの森を恐れるらしい。
確かに、背の高い木々の生い茂る深い森は、花々の咲き乱れる禁足地の森より荘厳な空気に包まれているので、どこか人ならざるものたちの余所余所しさに触れるように感じるのだろう。
ウィームの森らしく人外者も多く、禁足地の森を知らない者達からすれば充分に深い森と言える。
他領から来る者達からは神殿の森と呼ばれているらしいと教えてくれたのはヒルドで、森と湖のシーでもある彼は、そう言い出した者達に呆れていたようだ。
「それは当然だろう。森というものの在り方を思えば、神殿と比較されるのは嬉しくはないだろうからな」
ネアの話にそう微笑んだのは、本日のお仕事に付き合ってくれるウィリアムだ。
というよりも今回は、ウィームでこの仕事が行われると聞きつけ、終焉の魔物から立ち会わせて欲しいと申し出があったらしい。
砂色の髪に擬態したウィリアムは、終焉というものの在り方の一つとして己の存在感を希釈出来る魔物だが、シンプルなウール地のコートを着ている姿は貴族の子弟の森歩きのようで、立ち振る舞いから、きっとお仕事は騎士などをしているのかなという雰囲気までを出している。
ざくりと積もったばかりの雪を踏む靴先も、優美だが実用向きの形状であった。
(本日採取に向かう雪のインクは、冬の系譜。そして、冬告げの舞踏会でウィリアムさんが呼ばれるように、冬の系譜の中には終焉の資質を持つものも多いのだそうだ……………)
だからこそ、終焉の魔物は本日の仕事に同行してくれている。
この穏やかな雪の森の奥には、系譜の王が立ち会いを必要としている収穫物があるのだ。
何が待ち受けているのだろうとどきどきする胸を押さえ、ネアは、ひらりと物陰から襲い掛かってきた冬カワセミを滅ぼした。
「神殿という名称も、どちらかと言えば人間が、人ならざるものの力を借り受ける為の装置ですしね」
「ああ。中階位の森の系譜くらいであれば許容出来ても、それ以上の者達へは不敬となる命名だな。神殿のようだとか、神殿を思わせるという表現くらいまでなら、表現の一端として何の問題もないんだがな」
「名付けになっている事が、問題なのですよね?」
「名前は、一種の檻としても扱えるんだ。豊かな森を、神殿の枠組みに押し込もうとする行為になる」
「何の対価も支払わず、檻に入れるような枠組みを作る命名をされるようなものなのですね……………」
「そんな風に考える人間は珍しい。ウィリアムが、悪い影響を与えていないといいんだが」
「ん?ギード?」
ちょっと聞き捨てならないぞという風に振り返った友人に、不思議そうに瞳を瞠ったのは、同じく立候補型の本日の同行者であるギードだ。
しゃりんと揺れる大振りな耳飾りはシャンデリアのようで、紫と緑の混ざったような瞳はオーロラの色をしている。
ネアから見ると、毛皮のコートを羽織っていても雪のウィームで大丈夫だろうかという、どこかうだるような熱い夏の夜を思わせる異国風の装いだが、しっかりと毛皮で裏打ちされたブーツを履いているし、異国風の素晴らしい刺繍のある袖口も、裏側に森狼の毛色を思わせる毛皮が見えた。
それでもなぜか、この魔物を見ていると豊かな夏の森や、オアシスの夜、青々とした草原の夜明けを思わせるのだから不思議ではないか。
ネアがそう言えば、そんなに綺麗なものを連想していいのだろうかと、ギードは嬉しそうにしてくれていた。
「私の周りには人外者の方が多いので、思考の一端にその価値観の影響を受けているのかもしれませんね。それに、同族も、人外者と関わるような立場の方が多いのです」
「それなら、二つの目を持つといい。あんたは、人間の立場でものを考える事が多い領主と一緒にいるから、元々そちら側の目も持っていると思うが、今みたいな話し方を小さな国や集落ですると、人間に化けた別の生き物だと思われて警戒されることがある」
「まぁ、そうなのですね。…………それは、用心しなければいけなさそうです。一緒にお仕事をするのは大抵がディノですので、私の不用意な言動で、大事な伴侶を危険に晒す訳にはいきません」
ギードの忠告がこちらを案じての事であると分かると、ネアはしっかりと頷き、この言葉を覚えておかなければならないと自分に言い聞かせた。
どちらに傾くのだとしても、人外者達が人間などより余程物知りでも、視野が偏る程厄介なことはない。
ましてやネアは人間なので、そちら側の視点を維持出来なくなれば、色々と支障も出るだろう。
嗜好や思想は個人の自由だが、様々な領域に関わる事が多い身の上なので、物を見る目は広く持っておきたいところだ。
「ウィームやこの国なら大丈夫だと思う。でも、魔物や精霊が身近な存在ではないままに暮らすような国の人間達は、とても用心深いんだ。そのせいで、異端者に対して攻撃的になる事もある。あんたは人間だから、どこかに出掛けた時に危ない目に遭わないように注意した方がいい。………その、シルハーンが危険な目に遭うというよりは、あんたが危ない目に遭うとシルハーンが悲しむ」
「はい。気を付けますね。ギードさん、気付いて下さって有難うございます」
「そうか。そういう危険もあるんだな」
「……………ウィリアムは、そういう部分が少し大雑把だ。それと、教会や神殿への見方が、少し偏っている。ネアにそちらの話をするときには、あまり私情を挟まない方がいいかもしれない」
「うーん。あまり自覚はないが、そうなのかもしれないな。確かに、疫病も好まないが、宗教絡みの粛清程に不得手なものはない」
「それは、俺もだ。…………俺達は何も言っていないのに、名前を借りて誰かを殺すのはやめて欲しい」
(……………そうか。そんな事もあるのだわ)
見慣れた組み合わせではないからこそ、ネアは、新鮮な気持ちで二人のやり取りを聞いていた。
高位の人外者の名の下に粛清を行うのも、信仰の領域の不条理なのだろう。
言われてみれば、確かにネアの知る歴史にもそのような出来事がある。
この世界では、名前を使われる側の人外者の困惑も聞けてしまうらしい。
終焉や絶望などはよく利用されてしまうらしく、疫病のローンにもその傾向があるそうだ。
他にも、豊穣や月の魔物、葡萄の妖精達など、元より残忍な一面もあるが、人間の判断で勝手に贄を捧げられやすい魔物というものもいる。
なお、今代の犠牲については、治める土地の住人の特性を踏まえ、グレアムが敢えてそのように振舞っている傾向があるようだ。
幸いにもディノは、贄などを捧げられてしまうには人間からの認知がふわっとしており、大多数の信者を纏める信仰の看板としては不向きであるらしい。
それを聞いたネアは、大事な魔物がおかしなものを捧げられておらずに少しだけほっとしてしまった。
「雪インクの件も、こんな風にぎりぎりになってからネアに向かわせるということは、収穫近くまで話をしていなかっただろう。夏には、今年はウィームだと思うと話しておいたのに」
「いや、エーダリアと、雪インクの話はしていたんだがな。最終的に、立ち会いの話をするところまで詰めていなかった」
「……………ウィリアム。それが忘れていたと言うんだぞ」
「だよな。すまない」
ちょっぴり叱られてしまい、たじたじになっているウィリアムに、ネアはこっそり微笑んだ。
ウィリアムとアルテアでは、どちらも年長者のように振舞う事があるが、ギードとウィリアムだと、一貫してギードの方が年長者らしい口調となる。
年齢的にはウィリアムの方が上なのだが、互いの気質の組み合わせなのだろう。
それでいて、ギードの穏やかな口調はとても柔らかく聞こえるので、おっとりとした兄としっかりものの弟のような、或いは、おっとりしているがしっかりものの弟に叱られる兄のような関係に見えるのだ。
ギードに叱られるウィリアムを見ていると、古くからの友人同士という感じが強く、ネアはついついほっこりしてしまう。
(でも、ギードさんとグレアムさんでは、グレアムさんの方が年長者に感じられるのに、グレアムさんとウィリアムさんでは、同じくらいの年齢に感じられるのが不思議だな……………)
そんな三人は、かつてのディノのお城で、どんな日々を送っていたのだろう。
時々ディノが話してくれるが、こんな様子を見ていると、ちょっと覗いてみたいなと思ってしまう。
その時のことだった。
しゃりんと、どこかで澄んだ音が響いた。
今度のものはギードの耳飾りの結晶石が触れ合う音ではなく、この森の木々にかけられた夜水晶のベルが鳴ったのだろう。
はっとして周囲を見回したネアに、こちらを見たウィリアムが、近いなと呟く。
しっかり手を繋いで貰っているので危険はないが、この後で取り扱う品物の事を思えば緊張はあった。
ネアが任されているのは、この森の中の夜水晶のベルの群生地に向かい、響き落ちるベルの音が溶け込んだ雪より花開く雪椿から、封印庫の魔術師達が使う雪のインクを採取する作業だ。
雪椿は種類の多い花だが、今回探している終焉の系譜の雪椿は、一年の内で三日間しか咲かない。
たいへん珍しい花で、その花蜜から採取出来る雪インクは、特殊な死者の名簿に罪人の名前を記す際や、障りなどを残しているかもしれない故人の名前を記す際に使われるものだ。
終焉の系譜の魔術を宿すので、様々な終焉周りの障りを受けずに使うのに最適なのだが、その反面、悪用されると厄介なものでもあった。
「一番厄介なのは、付与魔術なんだ。雪椿に吐息を吹きかけ、生の息吹を与えることで生まれるのが雪インクなんだが、その際に、付与魔術を混ぜ込んでインクの性質を変えてしまう事件が時々起こる」
「確か、出来上がったインクには何も出来ないのですよね?」
「ああ。魔術の円環が綺麗に閉じるからな。だからこそ、雪インクを悪用したい者がいれば、自ら収穫しに来るか、誰かのインクの収穫に介入するかのどちらかなんだ」
過去に変質した雪インクが引き起こした事件の中で最も有名なのが、二百年程前に、ロクマリアの王宮に仕えていた高名な宰相が命を落とした事件なのだそうだ。
その時は、雪インクの中から、生きている者の名前を記してはならないという誓約が引き剥がされており、悪意を持った者達に、そのインクで名前を書かれてしまった宰相は、三日後に狂死してしまったという。
ウィームもそうではあるが、多くの国や地域に於いて、雪インクの使用そのものは決して珍しいものではない。
何しろ、死に纏わる名簿や記述の中で、荒ぶってはならない死者からの障りを受けないように名前を封じる力を持つインクなので、厳重な管理を必要とする一方で、使うべきところでは惜しみなく使わなければ意味がないからだ。
これ迄の様々な時代で活用方法に変更がなされてきたが、近年では、インクそのものに制限をかけた方が安全なのでと、雪インクを収穫するインク壺に様々な魔術が丹念に織り込まれるようになった。
さくさくと雪を踏みながら森を歩けば、あちこちに、森の生き物達がいた。
擬態している終焉の魔物の頭に雪玉を落とそうとした悪戯妖精には、くすりと笑ったギードが、駄目だよと声をかけている。
慈愛に満ちた優しい声音は、多くの時間を森で過ごしているギードならではだろう。
「ディノが一緒に来られなかったのも、インクが出来上がる時に、ディノの魔術の影響で成分などを変質させてしまう事があるからなのですよね」
「ああ。シルハーンは、良くも悪くも、雪インクの生成過程に影響を及ぼしかねないからな。加えて、雪椿そのものにも影響が出てしまうかもしれない」
「確かに、……………うっかり喜んでしまい、お花を結晶化させてしまうこともあるかもしれません」
「シルハーンは一緒に来られなかったが、誰かがインクに悪さをしようとしても、俺とギードが一緒なら安心だからな」
「はい!」
今回のウィリアムとギードの同行は、それぞれの系譜の王達の立ち会いと監視にあたる。
雪インクの収穫は終焉の系譜の季節行事のようなもので、とある死の精霊の託宣で示される場所での収穫には、必ず立ち会うようにしているらしい。
(そんな託宣の中に、今年はウィームが入っていたという訳なのだけれど……………)
立ち会いが必要な箇所を定める精霊は、死の精霊の中で、代々予言や託宣などを司る女性なのだという。
その女性が指定した場所では、毎年、程度に差はあるものの何かの問題が見付かる事も多く、ウィリアム達は、昨年から微細な予兆が出ていたというウィームに真っ先に駆けつけてくれた。
つまり、何かが起こるという事は、既に確定しているのである。
悪意ある介入などでなければいいなと思わずにはいられないが、果たして何が起こるのだろう。
事件が起きると分かっている場所にネアを出向かせるのはどうだろうと、この任務を引き受ける迄には様々な議論がなされたが、ウィリアムとギードが魔物としての質を全面に出した状態でも影響がないのはネアしかいなかったので、必然的に今年の収穫者はネアになった。
もし、何か大きな事件などが潜んでいた場合には、この二人には全力で対処を頼みたい。
そう考えたダリルがネアを指名し、最初は反対したエーダリアも、渋々折れたという経緯である。
なお、ディノについては、ウィリアムとギードが一緒であればという条件で送り出してくれた。
心配そうにうろうろしていたが、雪椿に影響を与えないよう、森の外でネア達の帰りを待っていてくれる。
(……………そろそろだろうか。ベルの音が近付いてきた)
しゃりん、しゃりしゃり。
しゃりん、しゃりん。
風に揺れて音が鳴るのか、囁き合うように音を立てるベルの音は、こんな森の中で聞くには不思議なものだろう。
いよいよだぞとごくりと息を呑み、ネアは背筋を伸ばした。
いざという時の為に武装もしているものの、実は一番緊張しているのが、インクの収穫である。
一輪の花にたった一滴しかない花蜜をインク壺に落とすと、それが深い藍色のインクになるというのだが、うっかり手を滑らせてその花蜜をこぼしてしまったり、よりにもよってその時にくしゃみが出たりしたらどうすればいいのか。
そんなもしもを考えてどきどきしていた人間は、大きな木の奥に開けた光景に目を丸くした。
「……………まぁ」
それはまるで、イブメリアの飾り木のようであった。
雪化粧の森の中なので尚更にそう感じるのかもしれないが、大きな木の、見上げるような高みにある枝から、細い金色の鎖のようなものが伸びている。
その先端には、釣り鐘草の花のような形をした淡く透き通った紫色の夜水晶のベルがぶら下がっていて、風に揺れてしゃりんと音を立てるのだ。
雪に覆われた森の中に突然現れた不思議な光景の美しさに、ネアは立ち尽くすばかりだった。
(綺麗……………)
きらきらしていて、時折しゃりんと音を立てる。
なんて不思議で美しい、謎めいたベルだろうか。
「ここが群生地だな。ネアは、見るのは初めてか?」
「……………は、はい!イブメリアのオーナメントのようで、なんて綺麗なのでしょう……………」
「この夜水晶のベルは、雪の日の夜に落ちてきた夜の欠片の中でも、より祝福の多いイブメリア前の季節のものだけを濾過する為に現れると言われている。祝福はベルの音にして拡散し、残った夜の残滓を真下の雪に落とすらしい」
「だから、このベルの音を聞いていると、どこか幸せな気持ちになるのでしょうか?」
「はは、そうかもしれないな」
森の中で理由のない幸福感を覚えたら、それはあまり良い反応ではない。
そう教えられてきたネアは、危なくはないと聞いていたものの警戒していたが、どうやら素直にうきうきしてもいいようだ。
木の上からぶら下がっている夜水晶のベルは一つではない。
群生地と言われるだけあり、数えきれない程のベルがオーナメントのように柔らかな風に揺れていた。
午前の光を受けて、澄んだ煌めきを宿すベルの美しさは勿論だが、こんな不思議な物が深い森の奥でしゃりりと音を立てている光景に圧倒されてしまう。
ネアは、感嘆の溜め息を吐き、ウィリアムとギードが周囲の気配を探る間、美しいベルをじっと見つめていた。
ゆっくりとゆっくりと、あのベルに向けて雪と一緒に落ちて来る夜はどんな姿をしているのだろう。
夜水晶のベルで濾過されたものが、祝福として戻されると聞けばベルの響きは美しいが、残って雪の上に落ちてゆく夜の欠片は何だか少し悲しいような気もする。
そして、その夜が落ちた場所には、それは美しい雪椿が育つのだ。
「こちらも、飾り木のようですね……………」
勿論、そこにはそんな雪椿の木があった。
ぶら下がった夜水晶のベルの群生地の真下に暗い雪曇りの空の下の薄暗い森の中で、僅かな雲間からの木漏れ日をスポットライトのように浴びて、一本の椿の木が生えていた。
葉色は深みのある青緑色で、真っ白な椿が咲いている。
真上でしゃりんとベルが鳴れば、また一つ花が開いた。
「あんたにもそう見えるのなら、そのような側面もあるのかもしれない。元々、イブメリアの祝祭の魔術から生まれる、夜の濾過装置だからな」
「群生地という表現をするからには、植物の系譜のものなのでしょうか?お仕事を任せて下さった方は物知りなのですが、その方も、どのような区分の物なのかが特定されていないのだと仰っていました」
「植物のように生えてくるとは聞いているが、ベルの部分は、花にも見えるだけで本物の夜水晶のベルだからな。だが、役目を終えると枯れてしまうし、切り離して持ち帰ろうとしても枯れてしまう。俺にもよく分からないが、狼はこのベルの音色が好きなんだ」
「むむ、謎がいっぱいですが、まずは、無事に雪椿を発見しましたので、インクの収穫に向かうべきですね!」
「ああ。でも、もう少し待っていてくれ。……………ウィリアム、そちらは問題はなさそうか?」
「………ああ。近くに魔術干渉の気配はないな。周囲に森の生き物達はいるが、それくらいだろう。……………となると、事前の変質か。ネア、インクを収穫する際に、選んだ花を俺に見せてくれるか?」
「はい!…………どの花でもいいそうなので、選んだ一輪の花から、花蜜をひと雫採取すればいいそうなのです。今、インク瓶を取り出しますね。……………ふぁ」
ここでネアは、ぬっと雪椿の木の奥から現れた生き物の大きさに目を丸くした。
手を繋いでいたウィリアムがさっと前に出てくれるが、椿の木の高さがネアの身長の二倍程度と考えると、顔を出した生き物は、そんな椿の木よりもずっと大きい。
差し込んだ木漏れ日と夜水晶のベルが光を集めるせいで、雪椿の奥はぐっと暗くなっており、死角になるような形で、その向こうに生き物がいることに気付かなかったのだ。
「……………俺は、初めて見る生き物だ。ウィリアム、見た事があるか?」
「鹿の仲間……………でいいのかな。俺も初めて見る」
「…………お顔の感じはカモシカのようですが、…………角に沢山のオーナメントがかかっているので、どこかの飾り木に突っ込んだのでなければ、祝祭周りの獣さんなのでしょうか?」
「多分それでいいと思うんだが……………。しまったな。雪インクの警戒ばかりをしていて、見知らぬ生き物の特定に向いている者がいないのか……………」
「む……………」
「すまない。俺もそういうのは苦手なんだ。ただ、森で暮らしているけれど、あまり見ないような生き物なのは分かる。祝祭の固有種だとしたら、現れる期間が短いから知られていない生き物が多いからな……………」
「なにやつなのだ……………」
その不思議なカモシカのような生き物は、雪椿の後ろから、静かな黒い目でネア達を見ていたが、こちらが害をなすような生き物ではないと判断したらしい。
次の瞬間、大きく口を開けると、ぱくりと雪椿の枝を食べてしまった。
「ん?……………雪椿を食べるのか?」
「ぎゃ!インクを収穫しなければいけないので、た、食べてはいけません!!なぜ、食べる速度を上げたのだ!!」
「……………ああ、そういう意味で、今年はウィームが選ばれたのか。ウィリアム、託宣が示した異変は、この生き物の出現だろう」
思っていたよりもほのぼのとした理由だと分かり、ギードはほっとしたようだ。
しかし、目の前で収穫しなければならない花を食べられ続けているネアは、それどころではなかった。
おまけに、ウィリアムと手を繋いだまま慌てて雪椿に突進すると、お食事中だった謎生物は、追い払われるどころか、ブモーと鳴いて威嚇するではないか。
ダナエ程ではないが、雪竜くらいの大きさはあるので、だしだしと足踏みをされると雪煙が上がり、視界を奪われたネアはウィリアムのコートの中に逃げ込む。
「ぷは!……………お、おのれ、荒くれものです!」
「……………これは、参ったな。祝祭の系譜の生き物を傷付ける訳にはいかないが、…………雪インクは、木に咲いている花からしか取れないんだったよな」
「はい………。このままだと、大事な雪椿を食べ尽くされるばかりか、近付くと荒れ狂うので、枝についている花からの蜜の採取という繊細な作業が出来ません……………」
ネアが手に持っているインク壺は、決して大きな物ではない。
手元が狂って花蜜をこぼしたらどうしようと考えていたくらいなのに、巨大カモシカのような生き物と戦いながらインクを採取するのはまず無理だろう。
(でも、……………このままでは、雪椿が根こそぎなくなってしまう!!)
恐るべき速さで、枝から花からむしゃむしゃと食べられてゆく雪椿に、ネアはへにゃりと眉を下げた。
折角、飾り木のようで綺麗だと思った木は、もう三分の一くらいが食べられてしまっている。
美しいものがなくなるのは悲しいが、お食事であればそれは自然の摂理である。
そちらは諦めるので、どうかひと雫の蜜を収穫させて欲しかった。
「ウィリアム、あの生き物の気を引けるかどうか、試してみる。あんたは、ネアのインク収穫に協力してやってくれ」
「ああ。気を付けてくれ。…………属性も系譜もよく見えない生き物だからな」
「なんとなく、…………祝祭の系譜の中でも、貪食などを司るようなものという感じがするな……………」
「おっと。貪食の資質か。……………となると、こちらの話は聞かなさそうな生き物だな……………」
かくして、雪インク収穫大作戦が決行されることになった。
ギードが背面から回り込んであの生き物の気を引いている隙に、ネア達は何としてもインクの収穫を行わねばならないのだが、そもそも、食事に夢中の生き物が、ギードに反応してくれるだろうか。
塩の魔物な銀狐ですら、お食事中にスープに浸かった胸毛をどうにかし給えと注意しても、こちらの声など全く聞こえていないくらいなのだ。
(それに、インクの管理上の問題もあって、ウィームで収穫される雪インクは、ウィームの住人にしか採取出来ないようになっているから……………!)
ネアの身体能力では難しいだろうと、ウィリアムに任せる訳にもいかず、ここばかりは、ネアが頑張るしかないのだ。
ギードはどうやってこのカモシカ風謎生物の気を引くのだろうと思っていたが、まずは、そのまま背後から近付いてみることにしたようだ。
素早く回り込んで背後から近付いた絶望の魔物に気付くと、カモシカ風謎生物はブモーと雄叫びを上げる。
ぱらぱらと上の枝葉に積もった雪が落ちてくるくらいの声量に、近くにいた小さな生き物達がぴゃっと逃げ出してゆくのが見えた。
「ま、負けません!」
しかし、この隙にと雪椿に近付いたネア達は、思いがけない素早い動きを見せた謎生物を出し抜く事は出来なかった。
ウィリアムが咄嗟に排他結界を展開してくれなければ、威嚇の為に蹴り上げられた雪の塊が直撃してしまい、危うく儚くなるところだったに違いない。
直接人間を襲うような生き物ではなさそうだが、美味しい雪椿には絶対近付けさせないという鉄の意志が覗える攻撃具合である。
得てして、食べ物を守り抜かんとする野生動物は、とても強いのだ。
「すまない、尻尾を掴むが、少しの間だけ、我慢していてくれ」
「ネア、ギードが押さえている内に!」
「は、はい!」
「……………っ?!」
「ぎゃ!ギードさんが!!……………っ、」
「っ、ネア!」
一度は、ギードが直接押さえ込みにいってくれたのだが、祝祭の系譜の生き物は大きな力を持っていることが多いからか、ばしんと蹴り飛ばされてしまった。
穏やかな佇まいではあるが、ギードは高位の魔物である。
そんな魔物がいとも簡単に遠くに吹き飛ばされた姿にぎょっとしたネア達も、怒り狂ったカモシカ風の謎生物が蹴り上げた雪をかぶって真っ白になってしまう。
ばさばさと落ちてきた雪に埋まってしまった乙女は、すぐにウィリアムに救出されたが、その隙に雪椿はもう半分までになってしまっていた。
「ギ、ギードさんは?!」
「無事のようだ。ネア、どこも怪我はしていないな?」
「はい。雪まみれになりましたが、怪我などはないようです。……………くっ、ここはもう、森のなかまのおやつしかありません!食いしん坊ならこれで……………」
「…………使い魔用の餌か。やむを得ないが、…………っ?!」
「ぎゃむ?!」
しかし、カモシカ風生物は、森のなかまのおやつはお気に召さなかったようだ。
ネアがその袋を取り出した途端、またしても雪をかけられてしまう。
今回はウィリアムが排他結界で防いでくれたが、そうそう簡単に雪椿からは引き離せないようだ。
「ギード、俺と交代してくれ。力比べなら、俺が押さえにいった方がいい」
「……………俺は、あんたほど早く排他結界を展開出来ないが、それでも大丈夫か?」
「……………そうか、それはまずいな」
ウィリアム達が心配しているのは、ネアの身の安全だろう。
花蜜を採取しながらになるので、予め防御壁を展開しておくわけにはいかない。
何しろ相手は、変質を避けねばならない繊細な収穫物なのである。
「ここはもう、時間勝負です。もし埋まってしまっても、ギードさんがいれば掘り出してくれますので、インクの収穫を優先してもいいのではないでしょうか?」
「次こそ攻撃してこないという保証はないんだぞ?……………だが、俺が押さえきればいいだけではあるな」
「……………いっそ、グレアムを呼ぶか?」
「ん?グレアムを?」
「グレアムは、こういう獣の扱いが上手かっただろう」
「ああ、……………だが、彼が来るまでに花が残っているかどうか……………」
「ぎゃ!そんなに食べてはいけません!一輪の花からだけ蜜を貰ったら、もうお好きにどうぞとしますので、少し待つのだ!!」
とは言え、必死にそう説得していてもネアも分かっていた。
特に花の部分を美味しそうに食べているカモシカ風生物にとっては、蜜とて美味しいご馳走なのである。
一滴たりとも渡さぬという冷ややかな目を向けられ、ネアは、大好きな祝祭に属する生き物を狩るべきかどうかで暫し悩んだ。
「……………どうしたんだ?」
その時の事だ。
不意に後方から誰かに声をかけられ、ネア達は、はっとしたように振り返る。
そこに立っていたのは、白灰色の毛皮のコートを羽織った旅の装いのアレクシスで、どこからかの帰りにふらりと通りかかったという感じがした。
こちらを見ている黒紫の瞳に、ネアは、ここから反撃出来るかもしれないと目を輝かせる。
「アレクシスさん!……………あ、あやつめが、花蜜を貰いにきた雪椿を食べてしまうのです!!」
「ああ、今年のウィームの雪インクの収穫か。それなら、俺が代わろう。雪犬は食べ物を前にすると気が荒くなるからな」
「……………いぬ?」
「鹿の仲間に見えるが、頭の角のようなものが、雪犬の王冠なんだ。インク瓶はあるか?」
「は、はい!……………む、犬?」
「あの生き物を押さえるのは、俺がやろうと思うがそれでいいか?」
「いや、丁度試作のスープがある。こちらで大丈夫だろう」
スープの魔術師とは言え、さすがに一人ではと思ったのだろう。
ウィリアムが共闘を提案してくれたが、アレクシスは微笑んで首を横に振ると、どこからかほかほかと湯気を立てるスープの入ったお鍋を取り出した。
はっとしたように動きを止めた雪犬が、その鍋を凝視している。
「花蜜をひと雫貰う代わりに、このスープと交換でどうだろう。雪瓜と雪結晶を使った、雪牛の新鮮なチーズのスープだ」
「……………じゅるり」
そんな呼びかけは、思わず食いしん坊な淑女も反応してしまったが、雪犬にも効果絶大だったらしい。
ブモーと声を上げた雪犬は、尻尾と思わしきものをぶんぶん振り回し、そちら側にいたギードが、吹き飛ばされないように慌てて避難している。
今更気付いた事だが、夜の欠片を濾過する役割だけを持っている夜水晶のベルは、これだけ雪犬が荒れ狂っていても揺れてぶつかってしまうような事はなかった。
(……………このスープで、大人しくなってくれそう?)
息を詰めて見守るネア達の前で、にっこり微笑んだアレクシスは、そのまま真っ直ぐに歩いてゆき、雪椿の横に鍋を置くと、雪犬ががふがふとスープを飲んでいる間に簡単に雪インクの収穫を済ませてくれた。
「収穫は無事に済んだからな」
「ほわ……………アレクシスさん、有難うございました。あの美味しそうなスープは、あやつめに振舞ってしまって良かったのですか?」
「ああ。獣用の物だし、試作品だったから、どこかで魔術階位の高い獣を捕まえて飲ませようとは思っていたんだ。それに、雪犬の王冠の林檎が手に入ったしな」
「なぬ。…………角部分に引っかかっている、オーナメントのようなものの中にあった林檎です……………」
いつの間にか、アレクシスの手の中には、小ぶりな赤い林檎がある。
ネアはオーナメントだと思っていたが、王冠に実っているものなのだという。
「雪犬は、好物を見付けた時にしか立ち止まらないんだ。今回は、ネアの声を聞いてこちらに来てみて幸運だった」
「こちらこそ、有難うございました。ウィリアムさんとギードさんが協力してくれたのですが、私がインクの収穫を行わねばならないということもあり、苦戦していたところだったのです」
「というより、祝祭の特性だろう。雪犬は、イブメリアを待ち遠しく思う人々の逸る気持ちから派生した生き物だから、高位の魔物でも十人くらいでかからないと動きを止めるのは難しいだろう」
なぜにそんな物知りなのかの理由は、恐らくスープの素材探しをしているからに違いないアレクシスから、そんな事を聞かされ、ウィリアムとギードは、顔を見合わせて苦笑していた。
「それでだったのか。ギード、一人で押さえようとしていて跳ね飛ばされていたが、大丈夫か?」
「ああ。びっくりしたが、怪我などはしていない。随分と力が強いなと思ったが、それが資質だったんだな…………」
「ふぁ。お二人がどこか遠くに跳ね飛ばされてしまわないで、良かったです……………」
アレクシスに渡されたインク瓶の中では、綺麗な夜の色がとぷんと揺れていた。
たった一滴の花蜜が、この後の一年で使われるだけのインクの量になるのだから、このインク瓶も不思議な魔術を宿しているのだろう。
その後、この森で素材集めをしているというアレクシスと別れ、森の外で待っていてくれたディノと合流したネア達は、ダリルにインクを届け、雪犬の情報も共有しておいた。
雪犬は、見ると幸運を貰えるという祝祭の吉兆なのだそうだ。
だが、走り去る際に目の前の物を全て跳ね飛ばしてゆくので、近付くのは危険な生き物であるらしい。
何年か前に一度、街の騎士が遭遇してしまい、跳ね飛ばされて亡くなったという。
それを聞いたネアが、ばしんと蹴り飛ばされたギードの内臓は大丈夫だろうかと震え上がってしまったので、おろおろするご主人様を労おうとした伴侶の魔物の提案で、ネア達はなぜかリーエンベルクに戻る前にザハでケーキを食べてゆく運びになった。
ギードは、絶望の魔物が入店して何か影響があるといけないと帰ろうとしていたのだが、インクを受け取りに来ていた封印庫の魔術師が、人間への擬態が完全になる術符を一枚くれたので、そちらを使っての訪問となった。
「これはこれは……………」
ザハの扉を開き入店すれば、今日は店に出ていたらしいおじさま給仕が、嬉しそうに目を瞠る。
擬態をしていても、そこに揃うのがかつての友人たちなのは一目瞭然で、図らずも、懐かしい顔ぶれが店に揃う事になった。
ちょっぴり張り切ったらしい犠牲の魔物は、ネア達をたまたま空いていた個室に通してくれた。
仕事の後の美味しいケーキの時間は、もしかしたら、見ると幸運になると言われる雪犬のお陰なのかもしれない。
明日のお話は、少し短めとなります!




