176. 穏やかな昼食となります(本編)
ぐおん、ぐおん。
海の方から響いてくるのは奇妙な地響きにも似た音で、恐らく船の軋む音なのだろう。
ぞわりと肌が粟立ったので、ネアは自分が迫り来る何かに怯えているのかと思ったが、どうやら気温自体が下がり始めたようだ。
ネアは、これからやっとこのあわいを楽しみ、気持ちを上げるところだったのだと足踏みしてお粥のお店を凝視したが、その途端、お持ち帰り出来ますという看板を見付けてしまった。
「アンセルム神父、お宿のようなところはありますでしょうか?」
「ええ。この辺りであれば、恐らく、角の灰色の建物かあの青い屋根の建物が………レイノ?!」
ネアはここで、手を繋いだエーダリアを引っ張って、しゅばんとお粥のお店の店頭にある、お持ち帰り用の小窓の前に駆け込み、海鮮粥と帆立粥を注文した。
店仕舞いの直前のお客にぎょっとした店主は、ネアの厳しい眼差しに覚悟の程を感じ取ったのだろう。
白い歯を見せてにやりと笑うと、任せておけと応えてくれた。
幸い二店舗目の絨毯の店で買い物をしたばかりなので、こちらのあわいの細かいお金を持っている。
持ち帰り用の入れ物はウィームにあるスープ専門店のお持ち帰りカップと同じような、しっかりと蓋が出来る形状で、持ち運びでお粥が溢れる心配はなさそうだ。
ネアは、いきなりの展開にまだ呆然としているエーダリアにお財布を渡して支払いを任せると、その隙に、店頭に並んだトッピング用のあれこれをご自由にお取り下さいの小さな紙袋に放り込んだ。
この紙袋がまた優秀で、水分を通さない素材になっている。
(刻んだ燻製味付き卵に、揚げたお肉のようなもの。刻み野菜に、辛いけれど美味しそうな調味料、これはお魚を甘辛く煮込んで細かく煎ったようなものかな………)
「はいよ!とろみがあるから、冷め難い。安全なところに行ってから食べるといいよ」
「はい。有難うございます。こんなにいい匂いなのですから、絶対に美味しくいただきますね」
「はは。あの帆船が見えてるってのに、度胸のあるお嬢さんだ。もし、これから待機用の遮蔽宿を探すなら、青屋根のビシワスはまだ部屋が空いている筈だよ。あの宿屋は、昨晩まで泊まっていたジャマラズの船団が港を出たばかりだからな」
「まぁ、頼もしい情報を有難うございます!では、そちらに伺ってみますね」
「西通りの粥屋に勧められたと言えば、持ち込みにも文句は言われないからな」
「ふふ、これで完璧ですね」
お粥のお店の店主は、なかなかに素早く支払いを終えてくれたエーダリアに、頼もしい妹さんだねぇと笑っている。
エーダリアも、ここはそういう事にしておこうと思ったのか、こくりと頷いていた。
「ささ、これで避難の準備が整いました。後はお宿に向かうばかりです!」
なぜか、どこか無防備なくらいの困惑の眼差しで立っていたアンセルムに、ネアはそう報告する。
なお、食事の受け渡しはたいへん繊細なものなので、ネアが買ったお粥は二人分だ。
人間と違い何を食べるのかがいまいちよく分からない精霊なので、ここは我慢していただこう。
「…………むむ、もしかして、神父様もお粥を買いたいのですか?」
「なんだ、あんたも買うのかい。早くしてくれ」
「………僕の可愛い弟子とは、随分な対応の差がありませんか?あ、僕はこの海老とブロッコリーのお粥にします」
ネアが話しかけた事で我に返ったのか、アンセルムはいつものほんわりした微笑みに戻り、お粥を買っている。
そちらの海老のお粥は、迷っていた品物であると少しだけ悔しい気持ちになったネアだが、お粥となればやはり、旨味がしっかり出てくれそうな具材がいい。
加えて、海鮮粥の方にきっと海老も入っている筈だ。
「はぁ。僕のレイノは逞し過ぎやしませんか?ほら、こんな時は、もうちょっと怯えて僕の手を取ってくれるとばかり………」
「青い屋根のお宿は、……この路地から行けそうですね」
「レイノ、こちらから回った方がいいだろう。あの手の路地は通り抜け出来ない事もある。ここは大事を取ろう」
「はい!」
「レイノ、もう少し僕に構ってくれてもいいんですよ?!」
「む?」
かくしてネア達は、美味しそうな昼食も手に入れ、店主に教えて貰った宿に向かう事にした。
いざ辿り着いてみれば、なかなか壮麗な石造りの三階建ての建物のエントランスのお宿は、どちらかと言えば壮麗なホテルという感じだろうか。
そんなホテルで部屋を借りるとなると、そうではなくて早く帰りたいのだという遣る瀬無い気持ちになったが、この手の展開の正解は分かっているつもりだ。
アンセルムが他の案を出さずに宿に触れたように、あのお粥屋さんの主人がこの宿を教えてくれたように、得体の知れないものの訪れがある時には、遮蔽空間に籠城するのがこの世界の鉄則なのである。
「さて、部屋を借りる手続きは僕がしましょう。この手の土地では、客の階位を見ますからね。レイノの方があわいでの階位は高いですが、これだけ魔物や精霊の気配のする施設ですから、僕が宿泊手続きをした方がいいでしょう」
「…………むぅ。では、お任せします」
「はは、その渋々といった感じが、レイノは可愛いんですよねぇ」
エントランスにはドアマンがいる、なかなかに立派なホテルだ。
ネアは少しだけ、手にお粥の入れ物を持っている事を後悔したが、食事の美味しさは格調の高さに比例しない。
狩りの女王の目で見て、あのお店は間違いなく美味しいに違いないと判断したのだから、過去の自分を信じようではないか。
「…………レイノ」
「む…………」
ここで、エーダリアが目配せをしてくれたので、ネアは仲間達と離れるのは遺憾であるがと、お粥の入れ物をエーダリアに持っていて貰い、少し離れた位置にある宿泊客用の長椅子にえいやっと遮蔽布をかけた。
ぎょっとした従業員をエーダリアが苦笑して宥めている内に、その中に潜り込んでアルテアと分け合っているカードを開く。
“どこにいる?もうすぐ、街に入るぞ”
“海から何かが来ますので、ビシワスというホテルに部屋を取っています。これからお部屋に向かいます”
案の定、カードにはアルテアのメッセージが揺れていた。
実は先程から、遮蔽空間に避難してしまう事を懸念していたネアは、やっと返事を入れられてほっと一息吐く。
書き殴るような返事の仕方であったし、部屋番号も記載出来ていないが、優秀な使い魔はきっとすぐに駆け付けてくれるだろう。
わかったという返事がすぐに浮かび上がり、ネアはにんまりとする。
なので、すっと立ち上がり布を片付けると、何をしているのかと詰め寄らんとしていたホテルの従業員にも、朗らかに微笑みかけられた。
「まぁ、お騒がせしました。どうしても、下がってきた靴下を引き上げたかったのですが、さすがにここでは恥ずかしくて」
そう微笑めば、ネアが女性であるだけに、男性の従業員も打つ手はないようだ。
困ったように笑い、そうでしたかと引き下がる。
ネアは、エーダリアに預けていたお粥を受け取りつつ、任務を終えたのだという誇らしげな目をしてみせた。
勿論、チェックインの手続きをしているアンセルムも、後ろでネア達がこそこそしている事には気付いているだろう。
だが、実際にどこに金庫があり、どのような道具を使っているのかが知られなければいいのだ。
今回は、こちらの背景については把握している相手なので、そのあたりがやり易い。
(それに、エーダリア様が、私がどのような道具を持っていて、どのような事を考えるかを先読みしてくれて良かった…………)
その辺りはエーダリアも、最前線で任務に就いた事もある魔術師なのだ。
加えてダリルの教育も受けているので、気性から想像する以上に、このような場面での立ち回りに長けている。
それは多分、あまり幸福な事ではないのだけれど、今のネア達にとっては必要な才能だった。
「おや、僕のレイノは、また何か悪さをしていましたね?」
「………むぅ。なぜ保護者風に叱られるのでしょう。そして、僕のという表現は正しくありません」
「それは勿論、レイノが僕の可愛い弟子だからですよ」
「過去を引き摺り過ぎなのだという気がしますが、お部屋を取ってくれた事には感謝しています。…………ところで、アンセルム神父が取ったお部屋に入れて貰う事は、何かまずい結びを付けたりはしませんか?」
「おや、僕の可愛い子は疑い深いですねぇ。こんな場面でそれを警戒されて別の部屋に行かれても面倒なので、そのような工作はしていませんよ。何なら、もう一度名前を使っての誓約をしましょうか」
「はい。ではお願いします」
「うーん。信用がありませんねぇ…………」
アンセルムはにこにこしながら誓約を交わしてくれたが、エーダリアは少しだけひやりとしたようだ。
どれだけ気安く会話していても、相手は高位の精霊である。
不興を買う事はないようにとエーダリアが警戒するのは尤もなのだが、ネアのポケットにはきりん札があるのだ。
その備えがネアだけでなく、エーダリアにもあるこの状況は、いつものネアのちょっとした旅模様よりは戦い易いのだった。
(…………そう言えば、あの船は何を運んできたのだろう)
そう考えかけ、ネアは愕然とした。
思考をそちらに向けただけなのに、ぞわりと肌が粟立ったのだ。
それはつまり、上陸するのは、思考面でも触れない方がいいものなのだろう。
モナの街に現れるという海からやってくるものの事を思い出し、少しだけ怖くなった。
入り口の森には怪物がいて、海からは、時折、得体のしれないものがやって来る。
美しい絨毯やそれに携わり働く人々は健やかなのに、この土地の仕組みにはどこか陰鬱な閉塞感が漂う。
だが、また少し視点を変えてみれば、そのような土地など幾らでもあるのかもしれない。
人間の領域の外側には不思議や危険が幾らでもある世界なのだから、それこそ、城壁の外側には危険しかないという土地もあるだろう。
三人が部屋に向かうホテルの廊下には、美しい青い絨毯が敷かれていて、全ての窓にカーテンが下ろされている。
ますます、見てはいけないものなのだろうかと思ったが、建物内部にいる人間を、外側のものに認識させない為かもしれない。
(もし、街に来たばかりで、そのようなものに対処する術を持たず、宿を取れるような階位もなかったなら…………)
例えば、もしかすると、アルテアは今も外にいるかもしれない。
だが彼は高位の魔物で、どのような事が身を危険に晒すかの判断も出来るだろうし、絨毯のあわいに入るにあたり、ある程度の戦術を持った上でこちらに来ているだろう。
だが、最初のネアのように何も知らず、更には絨毯を買うだけの資金もなくこのあわいに放り出されたなら、ここは、充分に恐ろしいばかりの場所になるに違いないのだ。
「さて、この奥の部屋ですね」
「そう言えば、このお宿では、従業員の方の部屋までの案内などはないのですね?」
「いえ、僕が断ったんですよ。案内図で部屋の位置を探るのには慣れていますし、お喋りに惑わされずにどのような対策を取っているのかを見極めたかったですからね」
「部屋の位置を探る事に慣れている理由はさておき、何か気になることがあるのです?」
そう首を傾げたネアに、僅かに眉を寄せたのはエーダリアだった。
「…………贄としての役割を、どこに持たせているのかを考えておられるのですか?」
「おや、リア君は賢いですね。………その通り。ここは、カルウィのとある港町の影絵でもある。あの海辺にもね、時折、よく分からないものがやって来たり漂着したりするんですよ。旧世界の跡地から大きく離れたヴェルクレアの海沿いとは違い、カルウィの側は、古い海域に近いですからね」
「という事は、窓から籠を下げたりもします?」
「ああ、その風習も知っていましたか。やっぱり、僕のレイノが一番賢いかな。あれはね、籠目の模様を術式に見立てるんですが、カルウィではその術式を、建物の装飾や絨毯模様などに描き出します。幾何学模様が好まれるのは、その為ですね。対するヴェルクレアは、そのような図式を守護術式としては扱わないので、幾何学模様は好まないでしょう?いや、寧ろ禁止していると言ってもいい土地すらあるかな」
「それについては、幾何学模様が、カルウィで育まれた魔術の図式だからだと聞いています」
そう言えばと、ネアは遠い目をした。
アンセルムは教義などに向いた資質を持つ、教会組織の神父として暮らしている。
教えるという役割には慣れていて、尚且つ人間よりもはるかに潤沢な知識を有しているのだ。
魔術師としての知識欲を持つエーダリアには、無視し難い相手かもしれない。
懐きませんようにと思いつつ、ネアもその先の言葉を待った。
「その通り。ですからあの模様は、何も考えずに大陸のこちら側に持ち込んでいい物ではない。カルウィとカルウィを含む大陸のあちら側に特化した術式陣は、土地の特性を変えると、大部分が意味を成さなくなる。それどころか、よくない反応をするものすらあるかもしれない。カルウィ側も、それを逆手に取って、絨毯の売買をしている部分もありますからね。それにまぁ、ヴェルクレア側も、仮想敵国たるカルウィの術式陣には敏感でしょう」
「……………だからこそ、この海辺の街では絨毯作りがいっそうに盛んになったのですね。海から来るものを退ける為に」
「そして術式の効果も試せますからね。では、なぜ僕がこの建物を調べようとしたのかは、分かりますか?」
「影絵である以上は何らかの性質を引き継いでいる筈なのに、このあわいには、カルウィの守護術印を持たない施設が幾つもある。………そういう事でしょうか?」
「まぁ、………つまりここは、意図的に守りが弱められている可能性もあるのですね?」
「その可能性もあると思って、自分で調べてみたかったんですよ。餌箱に入れられては堪りませんからね。…………ですが、今回は問題なさそうです」
そう言われてほっと安堵の息を吐いたが、アンセルムの言い方だと、大丈夫ではない時もあるのだろう。
であれば、土地独自の守りを持たないこの建物は、餌箱として機能する事もあるのかもしれない。
(例えば、…………過去にそのような事を行っていただとか、………当番制だったりさえもするのかもしれない)
「あわいの番人、なのかもしれないのだな」
「あわいの番人………?」
「ああ。悪しきものや災いがやってくる土地の影絵を敢えて作り、その中で贄を捧げておく犠牲の魔術の手法だ。管理外でそのような影絵が出来ると、甚大な被害を出す事がある。そうならないように、予め用意して鎮めておくという魔術儀式の一種だな。………だからこそ、魔術の潤沢な土地ではなくとも、大きな災いや古い忌み日などを有する土地は影絵になり易いのだ」
「………となるとこのあわいは、意図的に作られた可能性もあるのですか?」
「ま、半々ってところでしょうねぇ。重なる要素で上手く剥離したものがあったので、あわいに育ってしまった事も利用して、より効率的に贄が捧げられるようにしてあるのかもしれませんよ。あの手の訪問型の災いは、及ぼす障りの上限が決まっている事が多いんです。あわいで少し宥めておけば、外での被害を減らせる可能性もある。………もしくは、そうなるように予め魔術で因果付けておくことも、因果の精霊の力を借りれば可能でしょう」
(…………そんな事も出来るのだ)
やはり、なんと複雑で難解で、美しい代わりに恐ろしい世界だろう。
知った事で知られては堪らないが、知らずして失うものはどれだけ多いことか。
ネアが窓辺に視線を向けると、アンセルムが、カーテンの内側を見てご覧なさいと教えてくれる。
「まぁ、……幾何学模様です。この建物には似合わない雰囲気のものですので、敢えてカーテンの裏に施されたのですね?」
「外壁や道を封じる為の廊下の絨毯には、そのような意匠はないでしょう?つまり、どちらにも転べる仕様なんですよ、この宿は」
「そして今回は、侵入を防ぐようにされているのですね………」
「よしよし、怖かったですね。レイノ、僕が抱き締めてあげましょう!」
「お粥を持っているので、遠慮しますね」
「あ、そんなにあっさり…………」
確かに、アンセルムが意図したように従業員を交えずにこの建物の中を歩けば、あちこちにさり気なく置かれた仕掛けを見付ける事が出来た。
壁に飾られた大きな花器の中には、魔除けの香木が生けられている。
額縁に収め飾られた絨毯の切れ端は、この土地の歴史を伝える為の展示のようだが、それ自体も護符となる。
どれもこれも、付け足したり取り除いたりする事が可能な範囲で、例えば絨毯を思わせるような綺麗な壁のレリーフなどに、予め施されたその意匠はない。
(…………もしかすると、カルウィ風の建築ではない建物を餌箱にする事によって、他の国から来た人達を中心に贄を割り振れるのかもしれない)
闊達さと、その背面の凄惨さ。
まさにカルウィの文化を基盤にしたあわいなのだと思えば、やはり不安の根のようなものが残る。
エーダリアは、あらためてこのあわいの成り立ちを知り、何かを考えている様子であった。
もしかすると、国内では然程事例が多くないものの、今後の絨毯のあわいの利用に注意を促すのかもしれない。
何しろここにいるのは、ガレンエンガディンなのだ。
「さて、この部屋ですね。…………ん?レイノ?」
「ま、窓の向こうを何かが横切ったような気がしたのです………。ですが、気にかけない方がいいのでしょうか?」
アンセルムが鍵を開けている際に少しだけもしゃもしゃしたネアは、振り向いた死の精霊の怪訝そうな顔に慌ててそう説明した。
眉を持ち上げて窓の方を見たアンセルムは、薄く微笑んでから、あまり近付かない方がいいでしょうねと呟く。
「さぁ、早く遮蔽された部屋に入ってしまいましょう。レイノも、よく分からないものの餌食にはなりたくないでしょう?」
「…………む。むぐ。その通りですので、致し方ありませんね。私や、私の守らんとするものを損なってはなりませんよ?」
「はは、勿論そんな酷い事はしませんよ。この部屋の中にいる君達の事は、決して損なわず、僕がしっかり守ると約束しましょう。その代わり、外からやって来る災いはきっちり排除しなければですね」
アンセルムの微笑みは柔和だが、陽が翳ってきたのか薄暗くなった部屋に入ると、逆光になった顔の中で紫の瞳は静かな炎のように煌めく。
銀縁の眼鏡の生真面目な印象は、どきりとする程に冷ややかな美貌の縁取りとなった。
ネアは、隣で僅かに体を強張らせたエーダリアにぴったり寄り添い、そんなアンセルムに微笑みかける。
「…………ええ、その通りですね。さて、お粥がすっかり冷めてしまう前に、お部屋で昼食にしましょうか」
「…………レイノ」
「ふふ、リア様は、海鮮のお粥か帆立のお粥かを選んで下さいね」
「…………ああ。そうだな」
あの時は、一刻も早く買い物を済ませてしまおうと思っていたのでエーダリアの好みは聞かなかったが、恐らく帆立の方を選ぶだろう。
そう考えたネアは、運命の時を待った。
リーエンベルクでは時々帆立のタルタルなどが出るが、エーダリアが好んで食べていた記憶があるのだ。
また、沢山の具材が入っているような料理よりも、好きな食材を丁寧に楽しむ傾向がある。
ぱたんと後方で部屋の扉が閉まり、ざあっと扉に走ったのは青白い炎のような魔術刻印だろうか。
それがこのホテルの元からの仕様なのか、アンセルムが重ねてかけた排他結界のようなものなのかは分からない。
(確かに、アンセルム神父は部屋に入る私達を損なわないとは約束してくれたけれど、………この避難はそもそも、やって来る者から身を隠すという意味もある。そこに重ねて、新しく加わる者を排除するという約束をさせたのだ…………)
エーダリアもそれに気付き、心配そうにしている。
合流する予定であるアルテアの姿が、まだどこにもないからだろう。
だがネアは、素知らぬ顔で食事の出来そうなテーブルを囲んだ長椅子に座り、隣に座ったエーダリアと食事に向かう。
部屋の中をぐるりと見回ってきたアンセルムは、向かいの席に座った。
「リア様は、どちらのお粥にしますか?」
「…………そうだな、お前はどちらが食べたいのだ?」
「ふふ。このような場合は、さっとお好きな方を選んでいいのですよ。私にも確固たる主張があれば、こちらは渡さないのだと最初に言いますから」
「であれば、…………帆立の方をいいだろうか」
「はい。リア様は帆立ですね!良かったですね、ちびふわ。ほら、こちらのお粥には海老がありますよ!」
「…………フキュフ」
ネアがそう呼びかけ、髪の毛の下から黒いちびちびふわふわしたものが顔を出すと、エーダリアだけでなく、アンセルムもぐりんと勢いよく顔を上げた。
二人に凝視された黒ちびふわはどこか諦観の目をしていたが、ネアがお粥の入れ物の蓋を開けて、案の定入っていた海老を見せるとちびこい前足を伸ばしてしまっている。
「二個あるので、一個ずつですよ。もし、もっと食べたい場合は、アンセルム神父のお粥を狙うのです」
「フキュフ?!」
「ちょ、ちょっと待って下さい!レイノ、それは…………」
「私の可愛いちびふわなのです。この部屋の中に入った私の大事なものは損なわないという約束なので、ちびふわもちびふわの本体も、虐めてはなりませんからね?」
「…………まさか」
「そ、そうか。間に合っていたのだな…………」
「ふふ。ちびふわは可愛いですねぇ。あの絨毯のとろふわ具合も素晴らしかったですが、この毛並みも…………ふぇっく。私の絨毯…………」
「フキュフ?!」
ご主人様が突然情緒不安定になった事に驚いたのか、肩の上のちびふわがててっと走り回る。
肩の上で運動会をされると、ふさふさ尻尾がぱたぱたしてしまい、ネアはむがっとなる。
しかし、尻尾を掴んでふわふわのお腹を撫でてしまおうと思ったところ、ぽふんと音がして擬態が解けてしまった。
「…………ほわ、お腹撫での野望が」
「やめろ」
そこに立っていたのは、漆黒のコートを羽織った黒髪のアルテアだ。
擬態をしなくても大きな問題はないアンセルムと違い、こちらはさすがに白い髪を隠したのだろう。
素晴らしい仕立てのコートに思わず目が行ってしまい、ネアははっとした。
いざゆかんと蓋を開けたばかりのお粥を放置するなど、決して許される事ではないのだ。
「その、……諸々は、お粥をいただいてからにしましょうか」
「いいか、損失や損傷があるのなら、きちんと報告しろ」
「…………むぐぐ。………私は、人生で初めて心を奪われた素敵な絨毯と、悲しくもさようならしたばかりなのです。アルテアさんがもし、素敵な木蓮の絨毯などを入手したいと考えていたら…………」
「これだろうな」
「わ、わたしのじゅうたん!!」
そして、今度こそネアは、お粥の事が頭から吹き飛んでしまった。
アルテアがどこからともなく取り出したのは、ネアが手放した筈の木蓮の絨毯ではないか。
おまけに、ネアが迷ったのに買えずにいた、ステンドグラス枠の模様のある絨毯まで持っている。
びゃっと椅子から飛び上がったネアの手に、くるりとお持ち帰り用に巻いた絨毯を渡しつつ、アルテアは、どこか呆れ顔だ。
ネアの手の中に戻ってきた絨毯は相変わらずとろりとするような素晴らしい肌触りであったし、薔薇のいい香りがした。
「シルハーンから、こちらに着いて余裕があれば、その絨毯を買い戻しておけと言われたが、成る程な。あの店の店主からも、階位上げに適した手持ちがあるのならば、店で買うのは同じラインのものにしておけと言われたぞ」
「あ、あの黒髪の素敵な店員さんなのです…………?」
「ほお?余分を増やそうとしているんじゃないだろうな?」
「あの方に、私の使い魔さんが後から来るかもしれないと伝えておいたのが、きっと良かったのでしょう。因みに、その方はとてもお家作りが好きで、絨毯などは大切に管理する方だという事も伝えておいたのですよ?」
それは、二軒目に適したお店を教えてくれた店員だからこその、ネアなりのひと仕掛けであった。
エーダリアのカード経由で、二軒目として勧められた店の名前を全て共有しておいたが、もしその情報が届かなくても、何だか親身だったあの店員からアルテアが情報を引き出せればと思ったのだ。
なお、その際には勿論、絨毯を大切にするような魔物であると、彼のお気に召すお客になるであろう事を重点的に伝えておいた。
あの黒髪の店員が、絨毯への情熱や愛情を持つ者こそを、大事に扱ってくれるような気がしたからだ。
「言うまでもないだろう。あいつは元々顔馴染みだ」
「なぬ。お知り合いだったのですか………?」
「ええと、その経緯よりも何よりも、…………僕としては、アルテアがあの毛だらけの生き物になって、この部屋に入り込んだことの説明の方が欲しいところですけれどね?!」
「そうだったな。後続がいると察した上で遮蔽に排他術式を重ねたんだ。今度の執務中に、ナイン宛のお前の報告書を引き継いでおいてやる」
「ははあ、成る程。わざと差し戻しするつもりでしょう?大人気ない真似はよして下さいよ。この通り僕は、可愛いレイノとリア君を守っていたんですから」
「…………だそうだが?」
疑わしそうな冷ややかな眼差しは魔物らしく、ネアはそんなアルテアに首を傾げる。
ネアの隣に座ったので、少しだけ長椅子の座り位置を詰めようとしたのだが、そのまま腕の中に収められてしまった。
「ふむ。時折挟まれる罠を煩わしく思う以外は、さしたるあたりさわりはなく、表面上のお付き合いとしてはまずまずでした」
「僕のレイノが冷たい!」
「あら、私にこの絨毯を手放させた以上は、踏み滅ぼされても仕方なかったのですよ?」
「…………す、すまない。やはり、私の絨毯を売っておけば良かったな…………」
「それに関しては、私自身が優先順位をつけたのですから、リア様はしょんぼりしないで下さいね!手にした絨毯にさしたる思い入れがない方こそが、気を利かせてくれるべきだったのです。とは言え、元々アンセルム神父はお友達でもありませんので、他人として考えればこのくらいの対応が妥当なところでしょう。完全に私の逆恨みでもあるのでした」
「………レイノ、その言い方の方が、もっと冷たいですからね…………?」
「今更だろうが。おい、近付くなよ」
「嫌だなぁ。すぐにこうして我が物顔だ。いいですか、ここにいるのがレイノである以上は、可愛い僕の弟子ですからね」
「おのれ、当人を置き去りに話を進めるのはやめていただきたい…………」
ディノがアルテアに買い戻すように頼んでくれた木蓮の絨毯は、ネアが手放したお店にまだあったそうだ。
殆ど入れ違いくらいで入店したと思われるので、もう少しあの店で時間を潰していれば、そこですぐに会えたのかもしれない。
その話を聞いたエーダリアが時差を計算しているのを見れば、こうして積み上げられてゆく経験と知識が、次の世代の誰かの助けとなるのだろう。
だがネアは、そんな事よりも大事な、腕の中に戻って来た木蓮の絨毯を抱き締めた。
なぜかアルテアは窓枠と藤の花の絨毯も渡してくれたので、両方をぎゅっとして抑えきれない喜びに口元をむずむずさせる。
エーダリアは良かったなと優しく微笑んでくれ、ネアは、万感の思いで深く頷いた。
人間としてあまりに我が儘な感情かもしれないが、大事なものをお金の為に手放すという感覚は、前の世界での生活を思い出して酷く惨めな気持ちになるのだ。
(だからディノは、アルテアさんに絨毯のことを話してくれたのだろうか…………)
そう考えれば、帰ったら優しい伴侶をまず抱き締めようではないか。
何となくだが、アルテアはお金を取らないような気もするので、アルテアにもしっかりお礼をしておこう。
「そして、…………こちらも、…………くれるのです?」
「やれやれだな。もっと質のいいものはあったが、それでもお前は、この絨毯に目を付けたか。………お前らしいが」
「一目惚れだったのですよ!他の有用な絨毯を買うべき場面でしたが、このステンドグラスの絨毯の中からしか、選びたくなかったのです!」
ネアがそう宣言するとなぜか、アルテアが満足気に微笑む。
ここは微笑むところだろうかと首を傾げているネアに、アンセルムが、ああ成る程と半眼になった。
「…………忘れていましたが、あなたは商人でもありましたね。あの始まりの店の店員が、どことなくある一定の雰囲気を持っている事が気になってはいたんです。大方、あなたの手の内の事業でしょう」
「………むぐ。…………む!魚介のお出汁の味が、なんて美味しいのでしょう!!」
「レイノ、僕の話も聞いて下さいね?」
「…………は!憂いもなくなり、すっかりお粥に夢中になりかけていました…………」
「おい、膝の上の絨毯は仕舞え。汚しても知らんぞ」
「………むぅ。もっと愛でていたいのですが、汚してはいけませんね。…………アルテアさん、私の宝物を取り戻してくれて、有難うございます」
「まったくだな。また妙なところに迷い込みやがって。おまけに、あの船が港に着く日か………」
「何やら、厄介なものが来てしまいそうな予感がします。………早めに帰れるといいのですが」
ネアがそう言えば、なぜかアルテアは指先でびしりとおでこをつつくではないか。
お粥の海老が欲しいのかなと考え、一口譲ってみれば、美味しい燻製卵の刻みのトッピング部分も食べられてしまい、抗議の為の足踏みをする。
(でも、…………上機嫌?)
なぜだろうと見ていると、アルテアがこちらを見た。
「二本目の絨毯は、この先の季節で、お前が顔用のクリームを使う事と引き換えだ」
「ぎゃふ!」
「…………アルテア、海から来るものは、どれくらい滞在するのだろうか?」
「一刻もいない筈だ。あの黒い帆船の客人は、暴食の災いとしてかなりの数の贄を喰らうが、長居はしない。漂流物ではないが、海の底から這い上がってくる古い時代の災いの一つだな。立ち去ったところで、すぐに階位上げと資格の取得に動くぞ。食い荒らされた後は土地が荒れる。居座ってもいい事はない」
「分かった。では、訪問者が立ち去り次第に動けるようにしておこう」
アルテアの言葉にエーダリアが凛々しく頷き、ネアは、安心して残りのお粥を美味しく食べた。
向かいの席で、短い自由時間を上手く活用出来ませんでしたねぇとアンセルムがめそめそしているが、ネアは、アクテーでの一件も忘れてはいないのだ。
(アルテアさんが来てくれて良かった…………)
今回はエーダリアもいるのだ。
自分一人でどこか見知らぬ土地に放り出される怖さはなかったが、その分、大事な家族を損なわれたらどうしようとはらはらし通しであった。
「ふぅ。アルテアさんが来てくれたので、やっと安心して過ごせます」
「ほお、それならこの粥は何だ?随分と余裕のある避難だったようだな?」
「………おひるははずせないのですよ?そして、お買い物をしていたからこそ、黒ちびふわが間に合えたのです」
アルテアは、ネアのカードの返信を待ちながら始まりの店の店主が教えてくれた店々を周り、木蓮の絨毯を買い戻しつつ、このあわいを出る為に必要な絨毯などの目利きも済ませてくれたそうだ。
「次の買い物で、ひとまずは十二までは階位を上げておけ。その後で残りの階位を一気に上げるぞ」
「あら、私はもう十八ですし、リア様も十六はあるのですよ?」
「…………は?」
「なので、すぐに最終段階から始められそうですね!」
ネアはその後、いそいそと取り出した先日のお持ち込みの使い魔印のタルトを、エーダリアに振る舞った。
お誕生日なのだから、昼食の後にも美味しいデザートがあって然るべきである。
無事に夜の会には間に合いそうですねと言えば、エーダリアはほっとしたようだ。
それがまさかちびころの罠だとは思っていないようだが、ヒルドとノアが何かの準備をしている事には気付いているのだろう。
「ああ。お前が一緒にいてくれたお陰だ」
エーダリアがそう微笑んだので、ネアは、とても満ち足りた気分になる。
長らく誕生日のお祝いに無縁だったネアだからこそ、この日の大切さは理解出来るつもりだ。
大切な人達と共に過ごせる特別な日は、他のものに変え難い喜びなのである。
だから、お誕生日のエーダリアにそう言って貰えた事は、取り戻した絨毯と貰った絨毯と、美味しい海鮮粥を差し引いても、とても幸せな事であった。




