175. 物欲には勝てません(本編)
ネア達が訪れたクムの街は、成る程これはたいへんな混乱ぶりだなという港町であった。
単純に港町と表現して感じる雰囲気ではなく、海辺の小国の王都といった印象だ。
モザイクタイルの美しい建物に路地裏の噴水や庭園、海辺でこの造りは生き残れるのだろうかという壁のないカルウィ風のお屋敷も多い。
円柱が立ち並び、目隠し代わりの薄布が風に揺れる様は異国の影絵が基盤になっているのだなという感じがして、ネアは小さく息を呑んだ。
ではそれ以外の街並みはどうなっているのかと言えば、ウィームやガーウィンのような壮麗な石造りの建物があったり、細い路地に工房や店がひしめき合っていたりもする。
その雑多さが美しいと言えなくもない街並みだが、整然としているとは言い難い細い路地沿いなどは、ある程度注意して歩いた方がいいのかもしれない。
「海に向かう大通りは、あちらとこちらですね。そこに繋がる細い路地とその方向を覚えておいた方が良さそうだ」
「迷子になってしまわないように、でしょうか?」
顎先に手を当てて何やら考え込んでいるアンセルムに、ネアは首を傾げた。
あのどこかぞっとするような佇まいの森を抜けるとすぐに、この街を見下ろす高台に出たのだ。
入って来る分には門などもないようで、森の玄関口に現れるという怪物が街に下りてきたりはしないのだろうかと心配になってしまう。
「港におかしなものが着いた場合、避難路を考えておかないとですからね。ましてや、あの細い路地裏には店が集まっているでしょう?絨毯を買いに店を巡る際に、方向感覚を失わないようにしないとですよ」
「…………この土地は、やはりカルウィの街が基礎となっているのだな。路地裏の店が、入り口は狭く奥に広い造りになっている。あれは、カルウィの特徴的な建築なのだ」
「そして、必ず中庭のようなものがあるのですね……………」
「壁の向こう側の私的な庭と噴水は、カルウィ建築の要ですからね。さて、時間がなさそうなのでそろそろ行きましょうか。後続の訪問者と重なると、最初に入れる店での買い物に支障をきたしかねない」
アンセルムのその言葉に、この場所でアルテアを待ちたい気分だったネアはほんの少しだけ躊躇した。
そんな迷いを見透かしたように、銀髪に紫の瞳の精霊は薄く微笑む。
邪気の無いような穏やかな微笑みだが、飄々とした言動で本心が掴み難いのが、こちらの精霊の特性なのだ。
「始まりの店は、一軒しかないのだそうだ。訪れるのは初めてだが、その店についての資料や記録は何度か読んだ事がある」
「エーダリア様のお陰で、安心してお店に向かえそうです。皆さんは、そのお店からこのあわいでの生活を始めるのです?」
「ああ。街に入る為には、必ずその店の絨毯を買わないといけないのだそうだ。とは言え、ある程度の階位から始める為に、敢えて絨毯を持ち込む者もいるらしい」
「……………ふむ」
(エーダリア様が、さり気なく移動しても大丈夫だと教えてくれた)
ならばまず、始まりの店とやらに向かおうではないか。
アルテアは、特別な絨毯を持ち込んでの一発脱出の手法を取るのだろうかと考え、ネアは、その瞬間への期待に唇の端を持ち上げた。
何しろ今日は、エーダリアのお誕生日なのだ。
おまけに、港におかしな積み荷やお客を乗せた船が到着しかねないのであれば、少しでも早く帰れるに越したことはない。
絨毯選びは、さっさと済ませてしまおう。
だが、そんな風に考えていたネアは、一瞬で自分の考えを改める事になってしまう。
しゃりんりん。
お店の扉にかかっていたのは、薄い水色の陶器のような質感のドアベルだ。
その素朴な響きに心を柔らかくし、ネア達は始まりの店に入った。
絨毯のあわいの入り口に位置する始まりの店は、迷うまでもなくここしか街の入り口はないなという大通りの起点にある。
あわいの入り口の森を抜けて街に入る場所なので、非常に分かりやすい位置と言えよう。
「ここですね!」
「これが、………数々の魔術記録書に記載のあった、始まりの店なのか。まさか、自分で訪ねる事が出来るとは思ってもいなかった………」
「まぁ、ちょっぴり感動してしまうのです?」
「………い、いや、気を引き締めてゆこう」
「レイノ、リアは、魔術師としての感覚が鋭い方ですか?場合によっては、危険物に触れないように節制魔術をかけておいた方がいいかもしれませんね」
それはさらりとなされた提案だったが、ネアは、言葉の意味の重さには気付かないふりをして、ふんすと胸を張ってみせた。
「あら、事故が起きたりしないよう、私がしっかりと見張っておくので心配ありませんよ?」
「まぁ、そんなレイノも可愛いんですが、もしもの時、僕はレイノしか助けませんからね」
「大丈夫ですよ、リア様。もしもの時は、私がアンセルム神父を敵に向けて押し出します!」
「そ、そうか………。私も、警戒が疎かにならないように、引き続き周囲に気を付けるようにする」
「レイノに頼られたら、頑張ってしまうかもですねぇ。あ、クッキー食べます?」
「クッキー…………」
「レ、レイノ!菓子類なら、お前がいつも持っている物があるだろう?」
「は!お家にいる時は、ゼノ用のクッキーが常にポケットに入っているのでした。これをいただけばいいのですが、絨毯のお店に入るので商品を汚さないよう、買い物の後でいただきますね!」
大きな石造りのやはり奥に長い長方形の建物で、入り口の真上には玉葱型のドームがある。
砂漠の国の寺院のような雰囲気もあるが、店舗らしい柔らかさもある店構えは、砂色の石材にレリーフの細やかな果実の彫刻に、淡い色調で着彩されている。
砂色の石の彫刻に、その上から直接着彩する技法は、石材そのものの色を使うウィームではあまり見かけない。
石材に染み込んだ顔料が、独特な優しい色を生み出している。
丸いドーム状の屋根に見える花の形に似た窓は、ステンドグラスが嵌め込まれているようだが、外からではその美しさは分からない。
だが、店の前にある大きな鉢に植えられた赤い薔薇の美しさや、入り口に敷かれた鮮やかな紫色の絨毯の見事さは誰に説明されなくても心を震わせた。
甘い薔薇の香りをくんくんと嗅ぎながら入った店内には、さらりとした姿勢の良い男性が待っていた。
「いらっしゃいませ。本日は、絨毯をお探しですか?」
足元のタイルには薔薇の実の絵付けがあり、ほんわりするような淡いピンク色だ。
壁は白い漆喰で、見上げれば、美しいステンドグラスの窓からきらきらと青い光がこぼれていた。
迎えてくれた男性は砂漠の民のような服装だが、黒の一色なのでどこか清廉な印象すらある。
お辞儀に合わせてひらりと揺れる薄い黒布は、光を透かして初めて、織り模様がある事が分かる。
そのままではただの黒い布にしか見えないので、隠れたお洒落のようなものだろうか。
(…………絨毯が、こんなに沢山!)
広げて並べられたもの、巻いて立てかけたもの、そのまま巨大な専用の棚に収められたもの。
始まりの店の中には、圧倒されてしまう程の絨毯が揃えられていた。
見渡す限りが絨毯なのだが、その奥には硝子ランプの展示室もあるようだ。
不可思議なぽわりとした明かりが、幾つも灯っている奥の部屋は、妖精の祝福の満ちた森のようにも見えた。
このような店にありがちな、敷物の独特な香りや僅かな獣の毛の匂いもなく、清しい薔薇の香りに気持ちは盛り上がるばかり。
飾り棚の上には、細やかな細工の銀盤があり、鮮やかな赤い薔薇の花びらが盛られていた。
「ええ。ついさっき、こちらに来まして。まずは初心者用の絨毯から始めないとですからね」
ここは保護者役を買って出てくれるつもりなのか、一歩前に出てそう微笑んだアンセルムに、店員が朗らかに頷いた。
朗らかだから御しやすいという雰囲気ではなく、どちらかと言えば、隙の無い身のこなしの男性である。
始まりの店の店員だからといって親しみ易い雰囲気という事もないのか、表面は朗らかでも気質はこの街に見合った人なのだろうと感じたネアはしかし、そんな男性のすぐ後ろの棚に平置きされている美しい絨毯の模様に目を輝かせてしまった。
「…………ほわ」
「おや、早速、お気に召した絨毯がありましたか?」
思わず一歩前に出てしまえば、店員の男性の表情が柔らかくなる。
どこか誇らしげな微笑みを見ると、この店と、そこに置かれた商品こそを慈しんでいる人なのだと見て取れた。
「……………手前の、平置きの棚の上に重なっているのも、絨毯なのです?」
「ええ。小さなものですから、扉の前などに敷いていただくと良いでしょうね。こちらは新しく展開されたばかりの品物で、世界各地の有名なステンドグラスを模した織り模様となっております」
「おや、カルウィ風じゃないんですねぇ」
「…………これは、ハンナの大聖堂のステンドグラスだろうか?」
「おお、お目が高い。ロクマリア時代から、あの大聖堂のステンドグラスは有名でしたでしょう?その鮮やかな色彩と緻密な模様の表現、絨毯程にステンドグラスの再現に向いた素材はありませんよ」
ネアが引き寄せられるように商品棚に歩み寄ってしまったので、商談は自然な形で始まった。
店の奥にある商品の方が高価なもののようにも思えるし、泉結晶の棚の中に飾られた見事な絨毯もある。
この街で階位を上げなければならないのだから、高価な品物を得ておくべきなのだろう。
だが、ネアの視線はどうしても、店の一番手前の平置き棚の上にある、色鮮やかな絨毯に戻ってきてしまうのだ。
(……………なんて綺麗なのだろう)
とろりとした濡れたような艶のある小さな絨毯は、成程、勝手口などの小さな扉の前に置くくらいのサイズだろう。
だがネアは、毎日目に出来る寝台の足下や、お気に入りの椅子の下に置きたかったし、何だったらタペストリーのように飾っておきたいくらいであった。
ふるふるしながら振り返ったネアに微笑みかけてくれた店員は、先程までの僅かな酷薄さを払拭し、優しい目をしている。
その瞳が淡い金色の礫のようで、ネアは、はっとしてしまった。
ミルクコーヒー色の肌に、艶やかな黒い巻き髪。
商人らしい物腰で意識していなかったが、しなやかな長身のこの男性は、砂漠のオアシスに暮らす黒豹のような美しさだ。
だが、今のネアにとっては、素晴らしい絨毯の解説者でしかない。
「……………これは、どのような絨毯なのですか?その、あまり詳しくありませんが、土地や技法などの違いがあるのですよね?」
「こちらは機械織りの品物になります。職人達が時間をかけて作る手織りの絨毯に比べれば格段に安価になりますが、とは言え、最近はいい魔術道具が作られましたので、手織りの絨毯に劣らない品物が出てくるようになりました」
「……………安価、なのですね」
初心者向けの店だけあって、商品棚の展示の仕方も良心的なのだろう。
この最前面の棚の絨毯は、大きさごとの値段を示した小さな額装の看板のようなものがあって、そちらをちらりと見たネアは小さく息を呑む。
ある程度高価には違いないと覚悟していたが、小さな書き物机くらいの大きさの絨毯の値段は、やはり絨毯初心者には衝撃であった。
(ザハの晩餐が、一番安価なコースだと八回は行ける……………)
一番安価なコースとは言え、ザハの食事は、一般的に安いと言えるようなものではない。
もう少し身近な買い物で換算するのなら、ジッタの店の小さな菓子パンが八百五十個は食べられてしまうし、アレクシスのスープ専門店でなら、単品スープが百五十回近く飲めてしまう計算になる。
宝飾品やドレスの値段とは違い、元々このような絨毯の購入に馴染みのないネアからしてみれば、慄くには充分な値段であった。
「ええ、当店で一番安価なのは、こちらの棚の絨毯になります。その奥には同じ商品の大きなサイズのものがあり、更にその奥にあるのが夜羊の毛織りの絨毯。お隣が鉱石牛の絨毯、右手奥にありますのが、雨孔雀の絨毯になります」
「……………夜羊の物もあるのだな」
一番手前ですっかり足止めされてしまったネアに対し、エーダリアが目を引かれたのは、奥にある夜羊の絨毯の棚のようだ。
もはやここから一歩も動けませんという感じのネアの為に絨毯を広げてくれていた男性店員が目配せすると、そちらには、もう一人の店員が接客に向かう。
(……………あ、)
こんなあわいで離れての買い物は大丈夫だろうかとはわはわしたネアは、厳しい面持ちでアンセルムを見上げ、是非にエーダリアを見ていて欲しいと頼んでみた。
「え、何で僕がレイノから離れてなくちゃいけないんですか」
「お、おのれ!リア様はちょっぴり暴走しがちなので、一人には出来ないのです」
「だから、魔術節制をかけておいた方がいいですよって言ったんですよ。どちらにせよ、僕は関係ありませんけれどね」
「ぐ、ぐぬぅ!………その、折角絨毯を広げていただいたのですが、あの方の買い物を先に済ませてしまっても宜しいですか?」
今のところ店内に他のお客はいないが、このお店の商品は一点ものという感じがした。
機械織りであれば在庫があるかもしれないが、この店には一点しかないかもしれない。
出来れば棚の前から離れたくなかったが、エーダリアは既にちょっぴり暴走していた。
余程、見逃せない品物があったのだろう。
「であれば、こちらのテーブルに品物を広げましょうか。そうすれば、お連れ様と背中合わせで近くなりますからね」
「………いいのですか?」
あわいの街と聞いて警戒していたよりも柔和な対応にネアが目を瞠ると、こちらを見た男性は良いお客様にだけ特別にと笑いかけてくれる。
ふらふらと奥の棚の方に向かったエーダリアも、にっこり微笑んだ店員から丁寧な説明を受けていた。
示されたテーブルの方にさっと回り込むと、ネアはまず、エーダリアの羽織った外套を引っ張ってしまった。
ぎくりとしたように振り返ったエーダリアは、濃灰色の髪に擬態し、家族からの贈り物な外套とブーツを装備している。
ポケットには、ネアからの贈り物である、きりんのぱらぱらカードの備えもあった。
とは言えやはり、単独行動は危険ではないか。
「リア様、あまり離れてはいけませんよ?」
「………っ、すまない。………長年探していた織り柄の絨毯を見付けてしまったのだ」
「まぁ、そんなお品物があったのですか?」
「ああ。これなのだが、真夜中にだけ刈り取ることの出来る夜羊の毛の中でも、極上のものなのだ。それを、…………雪と冬の系譜の守護の厚い、今はない国の古い織り模様で仕上げている」
「…………むむ!」
エーダリアが見付けた絨毯は、ふくふくとした手触りが温かな風合いの品物だった。
ネアが目を付けた絨毯よりは素朴な風合いだが、お値段はこちらの方が格段に高い。
希少な羊毛を使ってあるからだろうかと思えば、店員の説明によると、織り込んだ祝福の絵柄の階位が高いからなのだそうだ。
「とても、素敵な織り模様ですね」
「ああ。ずっと探していた模様でな。………私はこれを買おう。この街で階位を上げる為に使うのは、別の絨毯にして、こちらは持ち帰り用にするつもりだ」
「ああ、………申し上げ難いのですが、それは難しいでしょう」
その言葉に振り返り、ネアは目を瞬く。
すると、先程の黒髪の店員が、どこか困ったような目でこちらを見ていた。
「この、始まりの店で購入出来る絨毯は、一枚だけという決まりなのです。失礼ですが、………他に絨毯はお持ちですか?」
「…………いえ」
「そうなりますと、こちらの店で購入した絨毯はどこかで転売し、次の絨毯の購入資金に充てるより他にありませんね。この街でどのように過ごされるのかは人それぞれですが、…………どうやら、長期滞在は考えておられないご様子。絨毯の取引きでしか階位は上げられませんし、取引きには必ず一枚の絨毯が必要です。その為に、絨毯の魔術師として二枚目の絨毯を織り上げるまでの時間はかけられませんでしょう」
それは、思いがけない決まり事であった。
ネアは呆然と目を瞠ってふるふるし、一枚に絞るだけでも苦労しそうな絨毯を見下ろす。
これだけ高価な絨毯を買うのには勇気が要るが、そんな勇気を振り絞り購入するのであれば、絶対に手放したくない。
「…………わ、私の絨毯にする予定なのです」
「ふむ。そうなりますと、こちらの街には長く滞在なされる事になりますね」
「…………ぎゅわ」
「ただ、ご自身の絨毯は温存し、お連れ様の絨毯を売り、少なめの元手から次の商品を買うという選択肢もありますよ」
そんな言葉にぱっと目を輝かせてしまってから、ネアは、エーダリアがしっかりと手にしている夜羊の絨毯について考えた。
「……………アンセルム神父の絨毯を売り払えばいいのです?」
「おや、それはレイノからの可愛いお願いですか?勿論、君からのお強請りであれば、取引しますよ」
「ぐっ、やめておきましょう!…………リア様、その絨毯は温存して下さい。このような場合は、より再会の可能性が低い品物を手元に残すべきですからね」
「だ、だが、お前も………」
「もう決めてしまいました。その代わりに、僅かな時間だけですが、私の物になる絨毯はしっかり選ばせて下さい。例え安価な物とは言え、私にとっては特別に美しい物なのです」
ネアがきりりとしてそう言えば、黒髪の店員がふっと柔らかな微笑みを深めた。
だが、残念ながらこちらの店員のお眼鏡に叶ったところで、おまけの一枚を付けてくれる訳ではないのだ。
(でも、この方がお店の決まりを教えてくれて良かった。エーダリア様が、最初に売る為の絨毯の方を買ってしまっていたら、あの夜羊の物は買えなかったのだもの)
ネアがここでちらりと盗み見たのはアンセルムで、こちらの精霊は、ただ知らないだけなのかも知れないが、そんな事は教えてくれなかった。
それどころか、これ幸いと対価を取ろうとするあたり、油断も隙もない。
それに比べると、高い買い物ではないのにこうして丁寧に対応してくれるこの男性は、やはり一流の商人なのだろう。
とは言えこちらも勿論、ネアがお客だからこその対応である。
エーダリアはおろおろしていたが、ネアがそれを必要としているのはエーダリアだけではないのだと言えば、領主として納得せざるを得ない。
躊躇いがちに頷いた。
事故玄人に言わせると、どんな不測の事態があるか分からないので先に買い物を済ませて貰い、お客であればある程度の融通を利かせてくれると判明したこの店の店員に、ノア製の布をかぶって家に絨毯購入の連絡を入れたいのだと頼んで、配送用のテーブルを貸して貰う。
家族への手紙を書く際には布を被る作法なのだと大真面目に伝えると、店員の男性はおやおやと微笑んでいた。
(これで、エーダリア様は少しの間、ヒルドさん達と話が出来るから………)
思わぬ恩恵も得られたと安堵しつつ、ネアは自分の絨毯選びに取り掛かった。
候補に挙げたのは三つの絨毯だ。
温かなベージュ色に、柔らかい色調で花々の構図を入れたもの。
生成り色に深い冬の湖のような青とラベンダー色で満開の木蓮の花が表現されたもの。
そして、最初の一枚に地色の雰囲気は似ているが、砂色の地色にステンドグラス枠のデザインがあり、青と温かみのあるピンクにセージグリーンで藤の花の模様があるもの。
一枚目と三枚目は色合いが似ているが、一枚目の花模様が伸びやかであるのに対し、三枚目は細やかな構図なので雰囲気ががらりと変わる。
より精緻な模様という意味では、三枚目の絨毯だろうか。
手触りは艶々とろりとした上質な滑らかさで、機械織りというだけあり、裏側の処理も綺麗だ。
何よりも驚くのが、光の角度によって鮮やかな色が際立ったり、淡い淡い色合いに見えたりするところだろう。
特にネアは、毛並みに光が当たって絨毯全体が白っぽくなり、美しい花模様が淡い色合いに変わる角度が大好きで、購入候補に入れなかった深い青緑色の湖と柳の葉を表現したものや、青と紫紺で夕暮れを表現した絨毯も、広げた途端に印象が変わるので焦ってしまった。
「…………いつもの私であれば、青系統の絨毯こそを選んだのですが」
「ステンドグラスを表現したものですので、そちらの色は、手元で見ておられると印象が強く感じるのかもしれませんね」
「広げて、尚且つ、一周ぐるりと歩いて光の角度を変えて見ないと、絨毯の良さは分からないのだと初めて知りました。仰るように、お部屋に置くとまた、印象が変わるのでしょう。…………ふぁ、全部買ってゆきたいくらいなのに、一枚しか買えないだなんて」
そしてその一枚とも、すぐに別れなければいけないのだ。
ネアは悲しく溜め息を吐き、すっかり心を奪われてしまった絨毯をそっと撫でた。
だが、ネアとて誇り高き乙女である。
どれだけ悲しくても、今日はお誕生日であるエーダリアを優先すると決めたのだ。
おまけにあの織り模様がウィームのものなのだとすれば、それを持ち帰り、失われた伝統を保存するという役割はとても大切な事である。
散々悩んだものの、ネアは木蓮の絨毯を買った。
デザインとしては藤の花のものが好きだったが、全体の色合いが一番好ましかったのは木蓮だったのだ。
そして、大事な絨毯をくるりと巻いて貰うと、保護布の袋に入れて持たされ、ぎゅっと抱き締める。
お会計は、ある程度の国の通貨であれば問題なく、こんな時用に持たされているヴェルクレア金貨と旧ロクマリア星銀貨で支払った。
「この絨毯を得た事で、我々はこのあわいでの階位を得ました。………絨毯の領収書であるこの紙が、各自の階位を現しているのですね」
「ええ。僕は七階位。リア君は五階位。僕のレイノは三階位ですが、本当にそれで良かったのですか?」
「階位も大事ですが、私はこの絨毯が一番美しく見えたのです。…………ふぇぐ。なぜこれを抱えてお家に帰れないのでしょう」
ちゃっかり一番高価な絨毯で階位を上げているアンセルムは、どれだけのお金を支払ったのだろう。
エーダリアの代わりに絨毯を手放しはするが、交換や階位上げに向いた高価な絨毯を買う事はしなかったネアは、そんな我が儘で手に入れた絨毯の布袋の上の部分だけを剥ぎ、つやつやとろりな絨毯をそっと撫でる。
これ以上に美しいものなどある筈がないと確信しているのに、どうしてこの絨毯の階位は百くらいないのだろうかと恨めしい思いでいっぱいだ。
「あの店主の教えてくれた店は、三店か。そのどこかで、手持ちの絨毯に資金を足してより階位の高い絨毯を買うのだな」
「はい。なお、二店目からは複数の絨毯を買えるそうですが、始まりのお店にあった品物は他のお店にはないのだとか。私は、この決まりを作った誰かを許しません…………」
「レイノ…………」
「おやおや、僕の絨毯で二人分を賄ってもいいんですよ?」
「ぐるる………」
次の店での作戦はこうだ。
どんな取引きにも、必ず絨毯の一枚は必要になる。
ネアの絨毯にこちらでお金を足し、エーダリアとネアのものの二枚を買う。
一枚を温存する分資金繰りは厳しくなるが、お金さえあれば前に進めるのが幸いであった。
なお、絨毯を売ったり買ったりで階位を上げてゆける仕掛けは、店ごとに扱う品物が違うから成立するのだろう。
二軒目以降は、複数の店で同じ品物の取り扱いもあるが、必ずその店にしかない絨毯が何種類かある。
そんな絨毯投資で階位が四十になれば、街の出入りを許される資格が得られるのだった。
「始まりの店の絨毯は、他の店では決して買えないものだ。だからこそ、あの店の絨毯は付加価値が付くのだったな」
「はい。となると、四十くらいならと思ってはいけませんね。次のお店で購入する物によっては、あまり階位が上がらないという可能性もあるのです」
「ああ。織り模様の魔術は私が見よう。お前は、ぱっと見て目についたものを教えてくれ」
「ふふ。選別は任せて下さいね」
エーダリアやアンセルムは品物を金庫に入れてしまったが、ネアは、大事な絨毯を抱きかかえたまま、決して手放さなかった。
教えられた二軒目に適した店の内の一軒に入ると、ふくよかな女性店主は、お気に入りを見付けたのねぇと微笑んでくれる。
そうして商人達から向けられる眼差しはあたたかいが、所詮はお客に向ける眼差しである。
このあわいでネアが選んだ肩書は、商人なのだ。
ここから先は、商人として相応しい選択を重ねてゆかねば、到底夕刻までの帰宅は見込めないだろう。
(そうか。………ここでじっくりと修行をする人たちは、二度目の買い物までに時間をかける場合もあるのだわ。その人たちは、始まりの店で買った絨毯を、暫くの間手元に置いておけるのだろう)
そんな誰かを羨みつつ、ネアは、次の店で葡萄の森を表現した紫紺色の絨毯と、淡い薔薇色に鮮やかな青色で模様の入った伝統的な織り模様の絨毯を購入した。
最後まで大事な木蓮の絨毯を抱き締めていたが、取り引きには必要なものなのだ。
回収されてゆく大事な絨毯を涙目で見送り、こちらの区画ではなかなか手に入らない始まりの店の絨毯に、ぎょっとするような高価な値段が付けられると知って悲しく震える。
売るだけなら、買い取り戻せるのだろうかと思っていたものの、あっという間に先程の五倍以上の値段になってしまった。
おまけに、一度手に入れた絨毯では階位を上げられないので、どんなことをしても取り戻したいのだとしても、今後どれだけのお金が必要なのか分からない今は、見送らざるを得ない。
高価な値段がつけられたあの絨毯は、魔術師としての役回りでこのあわいの絨毯作りを学ぶ者達が、教材として買い上げてゆくのだ。
「レイノ、まだ間に合いますよ?」
「………い、いいのです!あの絨毯は、僅かな時間とは言え、私の心を温めてくれました。我が儘で一時的に身を危険に晒したのですから、ここから先は堅実に生きなければなりません」
意地悪な精霊の問いかけにぷいっと顔を背け、ネアは、ぎゅっと拳を握る。
売買契約が成立するまで次の階位は分からないが、ここで、アルテアの合流を待ってあの絨毯を抱き締めているだけではいられなかった理由が、その階位の内訳にある。
この絨毯のあわいは、完全なる階級社会だ。
修行にも使われるあわいなだけあり低階位の住人も多く、皆が始まりの店から階位を育ててゆくので身分における思想的な差別はないが、待遇差が大きく命運を分ける。
(例えば、ここで海から得体のしれないものがやってきて、屋内退避の警報が出たとする。その場合、宿屋に入れるのは四階位からなのだ…………)
即ち、今のネアには階位が足りない。
どうしてもあの絨毯が欲しいという物欲に負け、一瞬でも自ら危険な道を選んでしまった。
最後の瞬間に間に合って、他に取り引きに使える絨毯を持ったアルテアが到着する事を夢見て、買い物に時間をかけていたが、残念ながら間に合わなかったようだ。
幸いにも、資金面では、エーダリアもネアも、もしもの時用に金庫にある程度の財産を持っている。
このあわいで安心して絨毯三昧出来る程ではないが、街を出る階位を得るくらいまでは、なんとか運用が可能だろう。
(だから、最悪の場合はアルテアさんと合流出来なくても、自分達で階位を四十まで上げなければならないのだ………)
勿論、ネア達は弾丸で戻ろうとしているのでお金がかかっているが、ある程度の階位さえ得られれば、安全を確保しつつ、日々の生活の中でも階位は上げられる。
多くの商人見習いたちは、始まりの街の絨毯を元手に生活基盤を作り、そこから働き口を得て生活階位と呼ばれる階位を貯めるのだそうだ。
(…………そして勿論、それすら叶わずに迷い込み、奴隷のような身分に落とされる人もいる)
港町であるこのあわいには、そんな奴隷達が働く場所も少なくない。
彼等は、船からの荷下ろしなどのきつい仕事を続けて自分で自分を買い上げた後で、やっと階位上げを始められるのだ。
生活資金を作れずに絨毯を失った者、そして始まりの店の絨毯を買えなかった者達の生活の過酷さが僅かにでも垣間見えれば、ネアはしっかりと周囲を見ておこうと背筋を伸ばした。
生活困窮者が多いという事は即ち、絨毯を狙った犯罪が行われる可能性が高い。
このあわいを守る兵士達がいるそうだが、泥棒や詐欺師がいないかどうかを、自分の身で確かめてみる気にはなれなかった。
「因みに、このあわいでは飲食は可能なのでしょうか?」
「ああ。そちらは問題ない。そろそろ、何か食べるか…………」
「そうですね。無事に私もお宿を得られる階位になりましたので、お祝いの屋台料理などを…………」
「いや、何普通に会話してるんですか?!この領収書は、ちょっと異常な審美眼だと思いません?…………ああ、困ったレイノに優しく手を差し伸べる予定だったのに、どうして僕より階位を上げているんですか………」
ネア達の領収書を見て、頭を抱えているのはアンセルムだ。
「む?………それはもう、私に品物を見る目があったというばかりでしょう。お店の方ですらどこから商品棚に入ったのか分からないという、伝説の職人さんによる染め糸を使った絨毯という事なので、今回は大きく階位を上げましたね!」
「お前が選んだ絨毯のお蔭で、私の階位もだいぶ上がった。………今回の店では、持ち帰りたいような絨毯はなかったのか?」
どこか気遣わし気に尋ねた階位十六のエーダリアに、階位十八のネアはくすりと微笑んだ。
因みに、アンセルムは階位十四である。
ネアが最初の店での絨毯を手放さざるを得なかった事を、エーダリアはとても申し訳なく思ってくれているようだが、そんなエーダリアとて、今日はお誕生日なのだ。
本来ならもう、美味しい昼食がテーブルに並び、鶏肉の香草焼きなどをいただいていた頃だろう。
ノアとヒルドが用意した魔術薬が使われるのは、夕刻以降の予定だと聞いているので、まだちびころになる時間ではない。
「いいえ。でも、今はこのあわいの食べ物に興味津々なのです」
「………そうか。では、好きなものを食べるといい」
「ぐぬぬ、それがとても難しいのですよ。まさか、飲食店もこんなに沢山あるとは思いませんでした………」
立て続けに店に入ってしまっていたが、外の通りに出れば、どこからともなくさらさらと噴水の水音の聞こえる美しい街並みだ。
見た事もない異国風のカフェや、干し肉のサンドイッチのお店に、海老や帆立を使ったお粥のお店のようなものもある。
見た感じ飲み物は少し割高なようだが、料理類は気軽にいただけそうな値段ではないか。
(…………よし)
思い出すだけで、あの絨毯が恋しくて涙目になりそうだが、そんな悲しみを悟らせぬようにきりりとしたネアは、もう一度己を奮い立たせた。
だが、その直後、船の汽笛にも似た鈍い音が街に響いた。
小さな露店を開いていた店主達が品物を片付け始めた事に気付き、ネア達は顔を見合わせる。
「おや、何かあったようですね」
「………あまり良い事ではなさそうだな。レイノ、私の手を離さないように」
「はい。リア様がはぐれないよう、しっかり握っていますね」
「あれ、僕とは手を繋がないんですか?」
「あら、迷子になりそうであれば、有償で手を繋いで差し上げてもいいですよ?」
「はは、僕のレイノは逞しいですねぇ」
何があったのだろうときょろきょろしていると、港の方にある大きな円柱に、漆黒の旗が上がるのが見えた。
ばさりと風で翻る大きな黒い旗の向こうに、霧に浮かぶ黒い帆船が見えたような気がして、ネアは、街ゆく人々の中に見慣れたアルテアの姿がないか、思わず探さずにはいられなかった。




