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160. まずは必要なものを集めます(本編)




日々の仕事の積み上げの中では、勿論望ましくない仕事もある。



ウィームでの仕事は、主に契約の魔物が優秀過ぎるからなのだが、日々の日課という程度で済ませる事が出来る範疇の業務が多い。

前回のガーウィンでの仕事のような任務はあれど、その憂鬱さは心を損なうような物ではない。

そのような意味では、ネアは自分が如何に恵まれているのかを良く理解しているつもりだ。



だが、今回の仕事はその限りではなかった。




(そう言えば、この世界に来て歌乞いの仕事を知ったばかりの頃は、こういう仕事もあるのかなと考えていたっけ………)



こつこつと石床を踏みながら、ゆっくりと歩くのは、見知らぬ国の文書館だ。

エントランスの大きなシャンデリアの下を抜け、必要な申請書類を窓口の文官に提出すれば、こちらを見た青年はあからさまな侮蔑の目を向ける。


オリーブ色の制服はこの文書館の物だろう。

綺麗な赤毛の青年は、書類を受け取りこちらを見ると、わざとらしく、汚い物でも渡されたかのように書類を持ち直した。



「…………閲覧は許可しますが、素手で書類や記録書に触れないようにしていただきたい」

「はい。ではこの手袋を使わせていただきます」

「やれやれ、………下級貴族の娘か。神経の太さは平民並みだな」



礼儀正しくお辞儀をしたネアに、頭を上げる前に落ちたのはそんな呟き。


しっかりこちらに聞こえているが、正面で呟かれたのだからわざと聞かせる為に発した言葉だろう。

こんな言葉を目の前の女性に聞かせようとする人間の目など見たくないので、ネアは、視線を合わせないようにして、その場を立ち去った。




(…………ふぅ、)


ここは、エイコーンという都市にある文書館だ。

そんな国で、ネアがこの国の末端貴族の娘のふりをして何をしているのかと言えば、完全に不法入国の文書偽造、そして暗殺や襲撃の範疇である。

そうなるとこちらも人間としてあまり偉そうなことは言えない立場なのだが、とは言え、あんまりな仕打ちにむしゃくしゃするのは否めない。



(低い爵位と、灰色系統の髪色、女性である事。今回の仕事に必要なのはこの三つの条件なのだ………)



エイコーンの文書館は、この国の府王と呼ばれる存在を輩出する一族が設立した施設なのだそうだ。


この国では、議会制での政治が基本となっているものの、諸外国との外交に出る為に設けられた、府王と呼ばれる役職の者達がいる。

王という呼称が使われていても、彼等の役割は世襲制の外交官に近く、ここは、そんな一族の支援により設立された、国の共有財産である会議記録や裁判資料などを保管する文書庫であるらしい。


王政の国ではないとは言え、王都である程度の学びを許されるのは貴族の子弟が多いと言う。

となると、入り口に掲げられた国民の全てに開放されているという案内板には誇張があるものの、エイコーンの各種公共施設には、一定の階位にあれば自由に閲覧できる文献や資料が揃っている事で有名だ。


とは言えそれは、開かれた政治を謳いながらも、所詮は貴族が有利な社会の仕組みである。


今回のネアのように、爵位の低い女性が閲覧を求めれば、先程のような嫌味を言われる事は以前から珍しくはないらしい。

ましてや今は、とある事情から、より女性の学びへの風当たりが強くなっていた。



(あの、馬車の事件が起きてから…………)



インク瓶の竜の予言に描かれた馬車は、この国から生まれたものだ。

今はもうエイコーンを出ているが、とある次期府王候補者を襲った悲劇がこの国に与えた被害は計り知れない。


そうして残された爪痕がある以上、アルテアからも今回の仕事ではあまりいい思いはしないだろうと聞いていたものの、これはネアの正式な仕事である。

ネアの力量でも可能な任務だと判断されたからには、気を引き締めて取り掛からねばならなかった。



ふぁさりと、菫色のドレスの裾を振り捌き、裾窄まりの独特な形をしたスカートの裾を直した。

左側に等間隔に並んだ窓から差し込む光を踏むように、真っ直ぐな廊下を歩く。


エイコーンの貴族の女性は、皆、この形のドレスを着ているので仕方なく同じようなドレスに袖を通したものの、どうしても足回りが重たく動き難い。

果たしてこのドレスで、いざという時に足を振り回せるだろうか。

そんな事でもぎりぎりと眉を寄せ、ネアは、小さく息を吐いた。



肌に触れる空気は、ひんやりとしている。

文書館の建物は、冷たく重い、濃灰色の石材で造られていた。


外観では古いお城のようにも見えるが、天井の高い柱廊は、華美にはならないものの装飾は多いウィームの建築に慣れたネアの目にはどこか無機質に映るのは仕方ないのだろう。


廊下は縦に長い長方形の空間で、天井には立派な天井画が描かれているものの、聖人達の姿や歴代の議員達の肖像は、技法も関係しているものか平坦に見える。

その無機質で暗い廊下を歩いてゆくと、貴族の子弟とおぼしき二人組の男性と擦れ違った。



(このような時の挨拶は、左足を引いてお辞儀を……)



ひらりと揺れたのは、ウィームの魔術学院の制服にも似たケープだ。

どうやらこの国では、特定の役職に就く者達の制服のようなものがあるらしい。

しかし、そんな装いをした男達は、ネアを見るなり露骨に顔を歪める。


「………醜い女だな。我々の目に触れる場所に、まさかこの灰色とは」

「まったくだ。女を公の場に出すなど、再びあのような事件を引き起こしかねないではないか。そんな配慮すら出来なかったのは、一体どんな成り上がり貴族なのだ………」

「文書館で、何を調べるつもりやら…………」



悪意に満ちた小さな囁きを聞くのは気持ちのいいものではなかったが、実はこれで、ネアの仕事の一つは完了したのである。


思っていたよりも早くに情報が集まったぞと思いつつ、心無い囁きに傷付いているような素振りで足早に廊下を歩いた。




(…………やはり、馬車に乗っていた貴族で、府王候補だった人は女性の方だったのだ)



今回のネアの任務は、エイコーンの公共施設に潜入し、この国が隠している件の馬車の中の人物についての情報を集める事である。

呪いの核となった人物の性別すら定かではなかった事からも分かるように、魔物達が誰も遊んでいなかったこの国の情報は、とても少ない。


そしてそれは、呪いを退ける為にはとても不利なのだ。



(とは言え、隠されていた府王候補者の性別に触れるような事を、こうも簡単に話してしまっていいのだろうか。………確か、公式な発表では、その方は男性だとされていた筈なのに………)



勿論、知るという事は知られる事になるので、こうしてガーウィンの潜入調査で培った魔術擬態をし、ネアは、様々な繋ぎを切る為の特殊な措置を施した上でこの場所にいる。


だが、短時間で仕事を終えられるようにと、この擬態は、情報を集めやすくする為に人々の反感を得るような条件設定にされており、こうしてあからさまに嫌悪感を示されると、やはりたいそう心を削った。

それが、見ず知らずの誰かであっても、本来のネアには紐付かない批判であっても、悪意による言葉は聞いていて気持ちのいいものではない。


おまけに今のネアは一人で、いつもだったら隣で守ってくれるディノは、あわいを挟んだ向こう側にいる。


異国で、それも単身で潜入調査をしていて身に危険が及ばないのかという懸念については、同じ建物の中に使い魔を設置して補ってはいるのだが、そちらは、あくまでも有事の際の脱出要員でしかなかった。



なぜこんな無防備な状態での潜入調査になったのかと言えば、勿論そこにも理由がある。




(………ここでは目立ち過ぎるから、難しいかな)



一人で文書館を訪れた女性を容赦なくこき下ろしている男性達は、擦れ違った乙女が、この国独自の魔術祝福を誰かから引き剥がすべく遣わされ、その獲物を探している事を知らない。


もし、人気のない場所で出会ってしまえば、戦闘靴を履いた乙女に容赦なく狩られてしまうので、今回はたまたま運良く生き延びられただけに過ぎないのだと、己の幸運に感謝するべきなのだ。



(馬車に乗っていた貴人の正体と、この国の貴族達の持つ特殊な魔術祝福の回収。そして、もう一つ………)



ネアは、心の中のお仕事メモに書いてある、本日の任務にそっと触れた。

与えられた任務の中で最も危険を伴い、だが、決して仕損じる事の出来ない最重要課題こそが、魔術祝福の回収だ。


それがあれば、いずれウィームを訪れる馬車型の呪いを退ける為の守護魔術の構築が可能になるかもしれない、とても大切な物なのである。



エイコーンは、議会決議で運営される国だ。



国の方針を定める為の議会が開かれるという事は即ち、様々な分野に於いて、常に激しい意見がぶつかり合う事も珍しくはないという事である。


代理妖精の雇用が盛んな国という事もあり、そうして大きな派閥割れが生じると、代理妖精達が、執務上の手伝いではない用途で暗躍させられる事もあった。

すると、それを恐れた議員達が苛烈な議論を控えてしまい、ちっとも議会が機能しなくなってしまう。

共和制の崩壊への第一歩だ。


事態を重く見た当時の議員達は、会議の度に暗殺やら殺し合いやらが起こっていてはどうしようもないと対策案を講じ、以降この国では、国の運用の為に必要な魔術誓約が幾つか敷かれている。



(エイコーンでは、己の実力で勝ち取った物は、己の成果になる。でもそれは、会議での闊達な話し合いを守る為に施行された誓約なので、議員会館や公共施設などの限られた場所のみで運用される。また、その際には己の才覚だけで事を成し、決して、代理妖精やその他の契約した人外者の手を借りてはならない)



議論上での勝敗が意見を出した者を脅かさないようにと示した誓約なのだが、利用の幅は広い。

その幅を、より実用に適した所まで絞り込めなかったのは、ノア曰く、この国の魔術レベルの限界であるのだとか。


なのでエイコーンでは、この誓約が悪用される事がないようにと、扱える者も厳しく制定したのだ。

議論に代理妖精を使えないのは不便だが、そうせざるを得なかったのだろう。



(だから私は、……………)



つまりネアは、自身の力でこの建物内部で勝ち得た情報や魔術については、己の成果と出来るという訳だ。

そしてそれこそが、今回の任務で使う最大のカードであった。



先日、より厄介な呪いを飲み込みウィームへ到達する事を回避するべく馬車の呪いの証跡を追いかけていたアルテアから、その呪いが、この国の上位貴族には災いを成さなかった事が報告された。


寧ろ、馬車の中にいる呪いの核としては、自分を殺したそのような者達にこそ、報復したかったのは間違いない。


だが、それが出来なかったのだ。


そして、理由を調査した結果判明したのが、エイコーンの貴族達が保有する国との契約魔術符でもある、魔術祝福の存在だ。


今回の呪いがそれを持つ者には災いを及ぼせないと知ったウィームは、つまりそれが欲しいのである。

何しろ、魔物達やダリルとエーダリアですら、その魔術の仕組みが分からないのだから、かなり特殊な固有魔術なのは間違いなかった。



(それだけの物を作り上げられるのだから、ディノ達が話していたように、この国の魔術素養はかなり高いのだわ……)



この文書館でネアが獲物から剥ぎ取った魔術祝福は、土地に敷かれた魔術誓約に於いて、エイコーンが秘匿している固有魔術をこちらに差し出してくれる。

祝福の持ち手がネアになれば、ウィームでは、安心してそれを解析出来るし、呪いの到達迄に間に合えば、新たな守護魔術の構築も可能になるのだった。


ただし、この任務では人外者の助力は得られないので、魔物達の手を借り共闘する事が事実上不可能となる。

当初、この任務にエーダリアが難色を示したのは、その部分であった。



(だとしても、……今回の任務には、大きな価値がある)



準備期間の問題から、魔術祝福を奪取しても、ウィームでの守護への書き換えには至らないかもしれない。

でもその場合でも、ネアという呪いへの抵抗魔術を持った人間がせめて一人はいる。

この世界の運命を持たずに、呪いが触れば悪化し易いネアの状態を軽く出来るだけでも、弱点を克服する形で大きな備えになるではないか。


また、今後の魔術の発展にも役に立つかもしれない。

今回の一件から、魔物達はこの国の固有魔術をかなり見直しているらしい。

同じ大陸にありながら、未知の魔術が数多く発展していた事が判明したからだ。



そんな事を考えながら歩いていたネアは、許可証で示された記録庫に無事に辿り着いた。

もしここが無人だった場合は、獲物を探して彷徨わなければいけないなと考えつつ、図書館のような見事な部屋の入り口を潜る。


扉などはなく、とは言え大きな書架が目隠しになっているので、狩りにも適していると言えよう。



(……………静かだわ)



部屋の中は、しんと静まり返っていた。

これはもう誰もいないかなと思いつつ、ネアはひとまず、申請した農業関連の書類がどこに収められているのかを確認する。

それくらいは把握しておかねば、行動や経路を問われた時に都合が悪い。



こつこつと靴音が響き、窓の向こうには向かいの棟が見えている。

窓にはカーテンなどはなく、内側にある木戸を閉める造りのようだ。

温水を通して部屋を温める暖房器具があるので、冬はそれなりに冷え込む土地であり、魔術で部屋を温めるだけの技術はないのだろう。



「…………何の用だ」



不意に、後方から声をかけられた。


誰もいないと思っていたネアは、ぎくりとしながらゆっくりと振り返り、この国の貴族の挨拶をする。

立っていたのは、黄色みの少ないガーネットのような暗い赤色の髪をした男性で、ネアが魔物達やウィームの人々を知らずにいたのなら、とても美しい男性だと思っただろう。


青年と言うよりは少し年上で、見た目だけで判断するならエーダリアと同じくらいの背格好だ。

その装いから、先程廊下で擦れ違った者達よりは爵位が高いのは間違いなく、ネアは丁寧に頭を下げる。



「我が家で保有している業務魔術の為に、三年前の裁判資料と、それに付随する調査資料に目を通しに参りました」

「…………顔を上げるな。この国で稀に生まれる灰色の髪の人間は、総じて美しいと聞いていたのだが、どうやらその噂の信憑性は低いようだな」

「かもしれません。あの方のように美しい方は、そうそうおられませんでしょう」

「それを承知の上で、人々の目に触れる所に出てきたのか。…………この国で、つい先日に何があったのかを知らない訳ではあるまい」

「だとしても、私は私なのです。変えようもない事の為に、与えられた仕事を疎かには出来ませんから」


ネアがそう言えば、なぜだか短い沈黙が落ちた。

礼儀正しく見えてもこのくらいに自己主張すれば、エイコーンの貴族は食ってかかってくると踏んでいたネアは、少しだけ眉を寄せる。


襲いかかって来たところを仕留めるつもりだったのだが、なぜか獲物は動かない。



「女の身で、ましてや灰色持ちだ。今後、この国では生き難くなる。お前の両親や親族達は、他の灰色持ちの女達のように、娘を修道院や他国に出さなかったか」

「子供が少ないので、我が家も必死なのでしょう。元々裕福ではありませんし、貧しいという事は、選択肢がないという事でもありますから」

「…………かもしれんな。目的の書架はどこだ」

「……………農業の十八、夏至の記録です」

「であれば、右の窓側の、窓から二列目の書架だな。顔を上げろ」

「…………はい」



ゆっくりと顔を上げれば、顔を顰めた男はこちらを見ていた。


よく見ればその瞳は水色がかった灰色で、そこにも灰色があるではないかと意地悪を言いたくなったが、ぐっと堪える。

ディノの練り直しで得た今の体は気に入っているので、狭量な人間は、その灰色を貶されるのはむしゃくしゃするのだ。



「…………興味深いかとも思ったが、やはり醜いな。瞳まで灰色だと、お前の造作では道に残った汚れた雪のようだ」

「………色彩に抱く感情は、人それぞれかもしれません。あなたは、そう思われるのですね」

「赤の一つも持たずに生まれたなら、この国では誰もがそう思うだろう。ましてや、華やぎの欠片もない容貌では、女としてはさぞ生き難いだろうな。………その容姿では、嫁ぎ先が決まるとしてもせいぜいが老人の慰み相手程度に違いない」



(……………もう、ここで襲いかかって狩ってしまおうか)



度重なる暴言に腹を立てたネアはそう考えたが、この国の人々の魔術の扱いは決して悪くはない。

不用意に襲いかかって反撃された場合、下手をすればネアの方が狩られてしまう。

だからこそ、ある程度は向こうから近付いて貰わなければ、こちらも動けないのだ。



(ましてや、この階位の人だとどこかに護衛がいる可能性もある。相手が相手だけに、慎重に対処しなければならないのだわ………)



目的の魔術祝福については、既にどこに隠し持っているのかの目星が付いていた。

貴族なら誰もが授かり身に付けている、胸元の宝石のブローチだ。


魔術祝福の探索に出たゼノーシュから、まず間違いなく、そこに様々な魔術効果を蓄えていると伝えられていたので、獲物さえ動いてくれれば奪うばかりだ。

きっと、持ち帰りには向かない余分な魔術もあるだろうが、それは合流したアルテアが削ぎ落としてくれる。


目の前の男性のブローチは、髪と同じ、深い深い黒紫がかったガーネット色。

陽光に透かしてその赤さを確かめたくなるような、どちらかと言えばネアの好きな赤色だ。



「そうはならないように努力する所存ですので、私自身はさして悲観していないのです。どのような環境であれ、人間には様々な生き方がありますから」

「であれば、口数は減らしておけ。得意げに己の賢さを示すには、不快だと感じられかねない容れ物だ。人間は、得てして不相応な物を嫌う」

「ご忠告いただき、有難うございました」


ネアが、やはりこの人物は獲物には向かないかもしれないなと、溜め息を堪えてもう一度深々と頭を下げた時の事だった。



「まぁ!何ですの、この醜い小娘は。…………殿下、このような灰色の娘の相手などはせずとも良いのです。気紛れだとしても、今は灰色持ちの女と言葉を交わそうものなら、殿下にまで悪い評判が立ちかねませんわ」


かつかつと靴音を立てて部屋に入ってきた女性が、ネアの前に立った男性にそう話しかける。

鮮やかな緑色のドレスと真紅の髪の美しい女性で、ネアはいきなり増えた登場人物に目を瞬いた。


立場としては女性の方が下なのだろうが、甘えるような声音が耳に付き、親しい間柄でなければちょっと失礼なのではと思える距離の近さに、思わず目を瞠ってしまう。


すると、ネアのそんな表情に気付いたのか、殿下と呼ばれた男は微かに面白がるような目をする。

その意図する事には気付かずとも、しなだれかかった男性が、自分ではなくネアの方を見ている事には気付いたのだろう。

くっきりとしたきつい印象の瞳を、不愉快そうに細めた。


(意地悪な猫みたいだ…………)



思わずそんな事を考えてしまったネアの前で、彼女は尚も男性に何かを話しかけている。

男性の方も静かな声で一言二言返事を返し、そうすると、彼女は得意げに微笑んでこちらを見た。



「お前、さっさと退出しなさいな」

「……………その、この部屋に調べ物に来たので、そちらに行かせていただいても宜しいでしょうか」

「わたくしが、目の前から消えてと言ったのよ?この国に巣食った醜い害虫には、その意味も分からないのかしらね。………であれば、国の将来の為にも、ここで護衛騎士達に排除させた方が良さそうね」

「…………放っておけ。この娘は灰色だ。この時期にまた灰色絡みで下手な騒ぎを起こせば、罪もない他の者達を不安にさせる。私は西棟に用がある。君も来るか?」

「ええ、勿論ですわ!」



少しだけひやりとしたが、ここは男性の側がそつなく事を収めてくれたようだ。


ネアの事は気に食わなくとも、ある程度階位のある者らしく、無駄な騒ぎには関わりたくないと思ったのだろう。

彼の言う通り、あの馬車の一件の後に、類似性のある人間が騒ぎを起こせば皆が不安になる。

灰色を持つ女性を排除する動きが、国の治安悪化に繋がるのは避けたいに違いない。



(おかしな騒ぎにならなくて良かった。…………ひとまず、ここで今後の作戦を練り直そう……………)



だから、その二人が立ち去り、ほっと息を吐いたネアはすっかり油断していたのだと思う。

いつもであればもう少し周囲を警戒していた筈なのだが、今回はもうひと段落したと思い込んでいたのだ。



かしゃんと、小さな物音が響いたのは、ネアが、さて少しだけは調べ物をしている風を装うかと考え、該当する書架の前に立った時の事だった。


その書架は窓から二番目の列に位置しており、書架が窓からの光を翳らせるので、先程の場所よりも幾分か暗く感じるところだ。

僅かな影の間に滑り込み、書架と書架の間であるとは言え、部屋の入り口に背を向けていることを忘れて気が緩んでしまっていたのかもしれない。



「……………っ、」



聞こえた音の思った以上の近さにはっとし、振り返ろうとしたが遅かった。


鈍く銀色に光る物が素早く振り下ろされ、ネアはその衝撃で、ずだんと背後の書架に叩きつけられる。

加減も出来ずにぶつかってもぐらりと揺れもしない重たい書架に背中をしたたかに打ち付け、ずるりと崩れ落ちたネアは、押し潰されたような苦しさではふっと息を吐いた。



(……………斬られた)



正確には、裂傷などは負っていない。

擬態をして表層と本来のネアとの間に魔術の隙間を持たせていても、やはりネア自身には大きな守護がかけられていて、その層が、力いっぱい振り下ろされた剣に傷付けられることを防いでくれた。


だが、その一撃で与えられた衝撃までは防げなかったらしい。

これもまた肉体の損傷はないのだろうが、ネアは吹き飛ばされたようになってしまい、書架と床とに叩きつけられてしまう。


「……………守護か。お嬢様の話していたように、得体の知れない女だな。やはり処分しておいた方が良さそうだ」


さすがにこの距離なので、ネアが傷を負っていない事に気付いたのだろう。

さっと表情を強張らせ、剣を構え直した騎士は、次の瞬間、ちりりと鳴ったベルにそのまま昏倒した。


ずしゃりと倒れた騎士の横から這い出し、ネアは、いざという時の為にポケットに潜ませてあった眠りのベルに心から感謝する。



「……………ふぁ、……………ふ」


念の為に、恐る恐る斬りつけられた場所に触れてみたが、幸いにもどこも斬れていないようだ。

腕がどこかに落ちて転がっているという事もなく、問題なく動いている。

また、恐らく騎士が狙ったであろう首筋にかけての剥き出しの部分にも、傷のようなものはなさそうだった。


ネアは、それでもまだばくばくしている胸を押さえて深く息を吐くと、すっかり力の入らなくなってしまった膝をごつんと叩き、よろよろしながらではあるが、何とか立ち上がる。


その際には、また鳴ってしまわないように布を噛ませたベルに注意し、もう最初からこうしておけば良かったと少しだけ後悔した。



(でも、ベルは音が届かなければ意味がない。この文書館にどれだけの魔術防壁があるか分からない以上、むやみには使えなかったのだから、仕方ないのだわ……………)


これだけの衝撃が体にかかったのだから、きっと今回も、守護が揺れるという状態が起きたに違いない。


すぐにでもカードを開いてディノを安心させてあげたかったが、今はまだ開けないのだ。

そのやり取りの中の何かが、魔物の力を借りるという括りに触れてしまえば、ここ迄の頑張りが無駄になってしまう。


なのでネアは、今は見えなくなっているディノの指輪にそっと唇を寄せ、私は無事ですよと囁くに止めておいた。

あわいを挟んでこちらは見ている筈なので、きっと怪我などはしていない事は分かっているだろう。

そうでもなければ、あの魔物は、とっくにこちらに飛び込んできてしまっているに違いない。



「……………むぐ」


あまり触りたくないなと思いながら、倒れている騎士を頑張ってひっくり返してみたが、残念ながら貴族の胸にあるブローチは身に着けていないようだ。

よく、貴族の爵位継承以下の息子達が騎士になると聞くが、この騎士はそうではないのかもしれない。


(お嬢様というのは、先程のご令嬢のことだろうか。殿下とやらに夢中な感じがしたけれど、邪魔者の排除には余念がないらしい。……………或いは、私を見逃せないくらいに、灰色の髪を持つ貴族の女性に嫌悪感を抱いているのだろうか)


もしくは、アルテアは身分の偽装は完璧だと話していたものの、どこかに不備があり、こんな女はいなかった筈だと訝しまれたのかもしれない。


もう一度溜め息を吐き、部屋の入り口の方を警戒しながら、ネアは、他の書架の間もくまなく歩きまわってみた。


あの騎士がネアを殺す気で剣を振り下ろした以上は、人払いはしてあったのだろう。

そう考えて期待はしていなかったが、ここで思わぬ成果が出た。



「まぁ。……………殿下とやらに、着いてはいかなかったのです?」



部屋の入り口近くにある書架の横に、先程の緑のドレスの女性が倒れていたのだ。


すっかり獰猛な気持ちでいっぱいのネアは、容赦なく無力な女性をひっくり返し、その胸元にあった緑の石を嵌め込んだブローチを毟り取る。


あんなに嬉々として先程の男性に付いて行ったのにと思わないでもなかったが、或いは、殿下とやらのあの口上も建前のもので、すぐに他の用事をでっち上げてこの女性を追い払ってしまったのかもしれない。


纏わり付かれて不機嫌そうだったなと去り際の男性の表情を思い出し、ネアはにんまりとほくそ笑んだ。

お陰で、労せずにブローチが回収出来たのだから、思わぬ幸運に感謝しておこう。



(………これで、少なくとも二個の任務は……………、)



残りの一つも頑張らなければと思い、顔を上げたネアはぎくりとする。


今度こそ少しも油断はしていなかった筈なのに、そこには、厳しい眼差しで、ずかずかと部屋に入ってきた背の高い黒髪の男性がいたのだ。



「いいか、ここ迄だ。まだ足りない要素があろうと、これ以上は置いておけるか。すぐに連れて帰るぞ」

「む、アルテアさんです……………」

「……………剣を振り下ろされたのは、どこだ?」

「まぁ、見ていたのですか?」

「……………守護が揺れた」



目の前の紺色のケープの男性が使い魔だと気付いたネアは、安堵の息を吐きながら胸を押さえた。

だが、こちらを見たアルテアの表情は、深い怒りを堪えているような抑制された静謐さが浮かんでいて、今度はそちらの感情にぞっとしてしまう。



(そうだ。……………魔物さんは、自分の領域のものを損なわれるのは嫌なのだ)


となるとこれはたいそう不機嫌だぞと思い、ネアはむぐぐっと眉を寄せる。

斬られた上に、注意を怠ったことを叱られてしまうのかなと思っていると、こちらを見たアルテアが、紫の色味を排除した赤い瞳を僅かに細めた。



「……………何だ?」

「お叱りは、甘んじて受けるしかありません。先程の私は、確かに注意を怠っていました。こうして協力して下さったのに、私の不手際でご不快にさせてしまい、おまけにアルテアさんの領域を傷付けてしまいました………」

「……………お前は、」


見上げた瞳が揺れたのを、ネアは見ただろうか。

なぜかアルテアは、いっそうに不機嫌そうに顔を顰め、けれども、何かを言おうとして言葉を飲み込む。

ネアはそんな使い魔の表情の鮮やかさに見惚れつつ、けれども、アルテアが欠片も残さずに飲み込んでしまった感情が何だったのかは分からなかった。



「むぐ」


そのままなぜか腕の中に収められてしまい、ネアは、ぎゅっと抱き締められたのは、動揺していると思われているからなのかなと首を傾げる。


だが、実際にまだ動揺しているのだろう。

怖かったというよりも、まさか、いきなり命を狙われるとは思わずにとてもとてもびっくりしたので、確かにまだ心臓の動きは不規則だ。



「それを得ただけでも上々だ。まずは、この国の拠点に移動するぞ」


握り締めたブローチを一瞥したアルテアにそう言われ、ネアは、頷いてから足元を見た。

力なく転がる女性は、どこか無防備に見える。

さすがに、このままにはしておけないだろう。


「この方達を起こして差し上げないといけませんね。………個人的には、このままぽいでもいいのですが………」

「放っておけ。どうせ、後続が処分する」

「後続?………となると、他にもどなたかが、こちらに来るのです?」

「お前は、先程の守護の揺れ方を甘く見ているだろう?」

「………きっと、ディノを怖がらせてしまいましたよね、早くカードから安心させてあげねばなりません……………」

「シルハーンには、お前は無事だと伝えてある。だが、こいつ等はそのままでは済まないだろうな」

「むぅ。………さして知らない方達ですし、初対面の女性を殺そうとする方々なのでどうなろうと知った事ではありませんが、ディノが悲しい思いをするといけないので、今の内に私の方でどこかに葬り去っておきましょうか?」

「……………お前な」



小さく溜め息を吐き、アルテアは、そのままネアを持ち上げてしまう。


人間に擬態しているのだろうが、そんな魔物な乗り物の腕の中で、ネアはやっと安堵した。

実は、先程の打撃の後遺症なのか、こうして話をしていると僅かに呼吸の際に喉の奥が熱いので、もし魔術的な影響だといけないと思い、それも報告すれば、アルテアは無言で首筋に手を翳した。


また少し、その瞳が揺れる。


ネアは、恐れていたお説教は安全なところに移動してからだろうかと、僅かにしょんぼりと眉を下げた。

何にせよ、自分の失態を追及されるというのは、とても情けなく悲しい事なのだ。



「……………ああ。その影響だろうな。お前が回収した祝福魔術を損なわないよう、ここを離れてから治癒する。……………それまで、我慢出来るか?」

「はい。何か良くない魔術の影響が出ているのかと思いましたが、先程の影響であれば、さして気になりません」

「言っておくが、この国の人間の魔術階位は、比較的高い。侯爵家の護衛騎士ともなれば、かなりの階位の魔術騎士だからな?」

「まぁ。このお嬢さんは侯爵令嬢なのですね。そして、先程の騎士さんに首を切り落とされなくて良かったです……………」

「……………ったく。お前はそういう人間だろうよ……………」

「むぅ。なぜまた不機嫌になってしまったのでしょう?」



本来ならば、帰り道までが任務の内であったが、アルテアはここ迄だと話していた。

ここから先に魔物を乗り物にして転移しても、手にしたブローチはネアの物になるらしい。

なのでネアは、それなら、きちんと許可証を戻して退館手続きは出来ずともまぁいいかと、淡い転移の中で目を閉じる。



安全な拠点のお屋敷に入ると、すぐにディノが来てくれ、ネアはぎゅうぎゅうに抱き締められた。


あの後に、眠ったままの先程の二人を引き取り、尚且つネアの代わりに退館手続きを行ったのはノアだと聞けば、色々どうなったのかが気になって堪らなかったが、ここはまず、我慢して待っていてくれた魔物を安心させるべく、ネアはそのままあやされ続けたのだった。






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