巻き込まれる才媛
ドゥリーパに連れられた楓は(言うまでもなく逃げ出したかったが、こういう時だけ隙を見せない男で、余計に苛立つことになった)盛岡市街の岩手山がとても美しく見える雑居ビルの屋上にいる。
どうやって屋上の扉が施錠されていないビルを一発で探し出せるのか、理解が及ばないが、その謎の究明は放ってとにかく逃げ出した方が我が身のためだと考えながら。
「屋上だと監視カメラの死角である場合がほとんどだし、衛星インターネットにつなげやすいんです」
「ご説明どうも」
監視カメラがないって、それは私を殺してもすぐにはばれないって言いたいのだろうか、と思う。ただ、悪意があるという感じもしない。うまく隠しているだけなのかもしれないが。
「これから通信を始めます」
何のための宣言がいまいちわからないが、とりあえずドゥリーパがラップトップPCの画面を見ている間に逃げよう。幸い、自分の方が出入り口に近い位置にいる。そう考えているとドゥリーパが振り返った。
「これからも弓弦さんにはいろいろとご協力を仰ぐことになるので、私の上位者にもご紹介しますね」
「えっ」
「彼はシェーファー教授のこともご存じなので、たぶんあなたのことも耳に入っていると思います」
楓は思い出した。ドゥリーパ、そしてXYEを作った組織のメンバーとしてシェーファーがいることを。
ここでドゥリーパと敵対するのは自身の指導教官と敵対するに等しく、さらには今後のアカデミック界におけるポスト獲得に響くだろう。諦念とはこういう境地か、と若き女流科学者は悟る。古文の教養がある人はこういうとき俳句か和歌でも詠むんだろう。
無線イヤフォンの右耳の方だけ渡された。これで音声を聞け、ということらしい。ドゥリーパは左耳にその片割れを装着している。楓は耳にイヤフォンを入れたが、少し耳の穴に対して大きすぎる。ドゥリーパはなにやらごちゃごちゃ設定を続けている。通信経路を秘匿する準備らしかったが、詳しい部分まではわからない。
それも二分かからずに終わって、コール画面らしいものが表示された。通信相手名は "Vittorio Carloburgo" とある。本名だとすれば秘密結社のわりにセキュリティ意識がガバガバだ。発音はヴィットーリオ・カルロブルゴ、だろうか。イタリア系の出自を示唆する名。
コール音は六回響き、楓の右の鼓膜を揺すぶった。
『こちらカルロブルゴ。ドゥリーパ、一足遅かったな』
聞こえてきたのは男の老人の声。画像はない。あまり抑揚がない、感情を読み取りづらい声で、リアルタイム翻訳で生成されたものではない肉声の英語を話している。訛りは感じられないが、しかしネイティブではない、と楓は思った。たぶん、カルロブルゴの名が示すとおりヨーロッパの大陸側の出身だ。
「申し訳ありません」
『君が謝っても詮無いことだろう。ただ、日本の警察へのコネクションは私も直接にはない――財界相手ならまだやりようがあるがね』
「しかしながら、警察ならつかんでいる、という保証もまたありません。そもそも精神科の入院病棟から、患者が一人で脱走に成功することそのものが不自然です。おそらく協力者が病院の外部内部かは不明ながら存在したものと思います」
『院長の名は』
「トオル・マキです。彼の経歴は別送しました」
『なるほど、これの同窓生になら伝手がある。それを使うか』
「ありがとうございます」
『そちらの女性がカエデ・ユンヅル女史か』
画面枠上部のLEDが緑色に光っていた。うかつにも、ラップトップPCのインカメラがオンになっていることにようやく気づく。
「はい。今後、彼女の力添えを頼ることも多くなるかと」
マジかよ、はぎりぎりで飲み込んだ。なんとなく、通話相手は本当の意味で警戒を解いてはならない相手であるように直感したのだ。
「微力ながら」
『よろしく頼む。シェーファーから君の優秀さは常々聞いている』
楓はここまでくると、反って面白いと思った。




