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ユキミチという男

老人は「かつては行政上、郊外として区分されていた今は実質上の山野」にある一軒家でお湯が沸くのを待っている。手回しミルで挽いた粉はドリッパーに敷かれた円錐形紙フィルターで待機中だ。すこし深煎りだから、粗めにしてある。

老人は部屋を見回す。整理整頓が行き届いている、とはおよそ言いがたい。本も食器も小型家電も同類同士で凝集している気配さえなく、そしてそのほとんどには薄い灰色が――埃が――かかっていた。

これでも、同年代の一人暮らしよりはずっとマシな方だと思っている。この認識自体は間違っていないのだが、そこから生まれるのはプライドというより「これで一番マシな方か」という、むしろ寂寥だ。

電気ケトルがかちゃり、と音を立て、水がその沸点に達したことを知らせる。ここは少しだけ標高が高いから、百度にはわずかに足りないはずだ。

老人はもう芽吹かない種を抱えている。それが何であるか、説明するのは難しいことなので余人に話したことはめったにないが、とにかくそれはもう芽吹かない種なのだった。土と水と光と温度を整えても双葉が出ることはない。

無力であることに慣れた老人はケトルをとってコーヒーを淹れようと立ち上がったとき、玄関の開く音がする。

ここをわざわざ訪れる者なんてもういないはずだったが、強盗かなにかか。奪うのならせめて金持ちを狙えばよいのに、と思い部屋の入り口を見ると、身長180センチくらいの青年――たぶんアフリカと東アジアの血をひく二十歳を過ぎたばかりの若者と、髪の毛が肩口より少しだけ伸びている十代後半くらいの、やや痩せすぎな少女が立っていた。


ロベールは夢から目覚めた。今は午後の二時か、三時か。ロベールの寝台となるには正直小さすぎるベッドだったが、それでも体の奥の方、人が歩くときに一つの軸になるだろう部分が緊張を解いてくれたことが、どことなく自分の血流から伝わってくる。

ソファに腰掛けるかたちで、姿勢を整えた。ロベールが座るソファの前にはおもちゃ箱とゴミ箱を両方同時にひっくり返したようなカオスに覆われるテーブルがあり、その向こうにもう一つソファが置かれ、そこにみかげが寝ている。病室では存在を許されなかった自然な寝顔だ――孤独な人間は眠っていてさえ怯えているもので、みかげも例外ではなかった。

「起きたかい」

老人の声がして、ロベールは一気に目が覚めた。彼の印象は部屋にほとんど一体化して、最初からいたであろうに気づいていなかった。

「あの、……すみません。空き家かと思って……」

「謝ることない、実際空き家みたいなものさ」

ロベールがすぐには発言を理解できていないことを察し、老人は付け加える。

「俺は半ばいないようなものだからな」

「存在しない人は、僕らの疲れを癒やしたり、傷の手当てをしてくれません」

静かだが断固としたものを感じさせるロベールの答えに、老人は久しく使っていなかった感情を使った、とでも言いたげな笑みを浮かべた。

沈黙。ロベールは老人を信用していいものか、悩んでいる。常識的にいって、信用できるはずがない。そうした迷いが生じること自体が場違いで不思議だった。

「詮索する気はないよ。だが、もし役に立てることがあれば手伝いたい」

三十秒も継続しなかった静けさを破って、老人は告げた。彼が信頼できる、と判断できる材料はどこにもないが、しかしこのままみかげと二人で瀬戸内まで行き着けるはずもない。

「目的地があるんです」

「うん。目的地か」

鸚鵡返しは、時として辞書的な意味以上の含みがある。

「俺はユキミチだ」

「ユキミチさん。俺は月浜ロベールです」

ユキミチは下の名前だろうが、苗字は何なのか、ユキミチは漢字でどう書くのか、それさえわからないが問題ない。彼はユキミチなのだ。ロベールからみかげの紹介まではしなかった。ユキミチにはそのことを咎めないだけの了見があるだろうとわかっていたからだった。

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