瘴気
(フリッツ視点)
湿った土の香りがする。ひんやりとした地面は身体を冷やして心地よかった。しかし、柔らかい布団では無いことに違和感があった。自宅ではないのだと驚き目を覚ます。地面に俯いて寝ていた。急いで起き上がり、自分の格好を確認する。借りたイブニングコート姿で、土が薄っすらくっついていた。貸衣装が汚れてて、慌てて土を手で払った。
「ここはどこだ?」
辺りを見渡すと、森の中だった。木陰が気持ちいい。水の匂いかすかにする。それを辿りフリッツはよろよろと歩き出した。
しばらく森を歩いていると、視界が開けた。陽を受けてキラキラ光るアクアブルーの湖が目の前に現れた。
「ここはエッディンの聖なる泉?」
バラントには精霊を祀る宗教がある。精霊教と呼ばれるその宗教には聖地が4つある。そのうちの1つに湖がある。研究でよく近くの町を訪れたが、湖に近づくと危険だと言われて湖に来たことはなかった。見目の良い男は拐われるとか、化け物が泳いでいるとか言われた。
湖は澄んでおり美しかった。空気も澄んで清浄だ。ここは聖域なのだと畏怖を抱いた。どこまでも澄んで深い青。綺麗すぎてプランクトンを餌にする魚が見当たらない。鳥も虫も寄り付かない。
この湖は死を連想させる。僕は死ぬのか?
茫然と湖を眺めた。
ふと背後から気配を感じ、顔だけ向けると黒いオーラを放つ貴族の格好をした中年の男がいた。
「死をお望みか?」
この低い声はローリス城であった顔の見えない男だ。驚いて男に向き直る。
そうだ。僕はこの男と話している途中で意識がなくなった。こいつに纏わりつく黒い霧の様なものはなんだ?凄く嫌な気分だ。
黒いオーラから離れたくて後ずさる。
「貴殿はこの湖の言い伝えをご存知だろうか?」
「仕事柄その手のものは詳しいぜ」
虚勢を張って、男を睨んだが、男は構わずにやっと笑った。
「生贄が捧げられたことは?」
「......知ってるさ。日照りが酷い時や水難事故が多いと捧げられたんだろ?」
その男は満足げに頷く。
「そんなことを引っ張りだしてなんだ?お前は何がしたい?」
「我は生贄の兄」
男から表情が抜け落ちた。
「生贄はなクレイ家から出されてた。貴族はな長男が家督を継ぐ。次男からは不要なんだよ」
ヴィニーの過去
15の頃、体が弱くてベッドの住人であった。肺炎を患って、咳ばかりしていた。理知的で従順な少し消極的な妹とは両親の意向であまり会うことが出来なかった。活発で素直な優しい弟も同様に会えなかった。
生活で必要な最低限の他人との接触しか許されない日々は退屈で仕方がなかったが、本を読むことは許された。本は退屈な日々の唯一の楽しみだった。そんな日常は弟が忍び込んできてから変わる。
いつも通りベッドに座り、本を読んでいると、突然部屋の扉が開いた。ノックもなしに入ってくるのは父ぐらいだった。しかし、何か慌てている弟だった。仕切りに扉の外を気にするので、両親に内緒で来た様だ。
「どうしたのだ突然」
声をかけると弟は何かを思い出した様で、早口にまくし立てる。
「大変なんだ兄上!叔父上が父様と話してて、日照りが続いて食料が足りなくなって民が生贄を要求してきたって言ってた!ほ、本当は僕がその役目なのに、兄上にすると言ってた!このままだと殺される!兄上一緒に逃げましょう!」
弟の話を聞いても驚きはしなかった。前々から両親から生贄になる可能性があると教えられてたからだ。そして、生贄になる覚悟があった。自分の身体はあまりにも弱い。日中にずっと起きているのも辛いのだ。貴族なのに民の為に働けない。それは己の矜持が許さなかった。しかし、クレイ家には水の精霊に捧げる生贄という自分に相応しい役目がある。それをようやく全うできる。何より、生贄になる可能性があった次男である弟を守れる。なんと誇らしいのだろう。
「悪いが我は逃げない。生贄になるのは我の望みなのだ。だから、お前はお前の成せる事を全うしろ。これからのことを頼むぞ」
これで弟を見るのは最期かもしれない。弟の顔を目に焼き付けようと笑いながら見つめた。我は満足していた。
自分だけ満足していたのだ。弟が思い詰めて顔色が悪くても、別れが辛いのだろうとあまり深く考えないようにしていた。
「僕は認めません!クレイ家には兄上がいないといけないんです!僕が説得します!」
弟はそう言い残すと部屋を飛び出していった。扉開いたままだし、閉めてほしいのだが...。
夜になり、両親が部屋に訪れた。母はハンカチで目を拭いている。母にも親としての情があったのかと僅かに驚いた。父は忌々しげにこちらを見た。
「あれ程関わるなと言ったのに弟に会ったのだろう?」
正確には弟が勝手に会いに来たのだ。訂正して口論になると体力のない自分が苦しむだけなので反論はしない。
「だからあのような事を言い出したのだ!お前の弟はお前の代わりに死んだ!もうこの世にいないと思え!」
「何故ですか!一体どうして!?」
大声を出したら、ゴホゴホと咳が出た。
今は咳している場合じゃないだろう!?
「あいつはな!クレイ伯爵の次期当主に相応しいのはお前だと言って、自分の首にナイフを突きつけて我らを脅したのだ!兄を殺すなら自分も死ぬと言い出しおった!自ら進んで生贄に成りおった!儀式は先程終わりもうあいつはいない!お前が殺したも同然だ!この恥さらしが!」
バチーンッ
父は忌々しげに我の頬に平手打ちを食らわした。
頬を殴られたよりも、弟が死んだと聞かされたことが衝撃的だった。
力の入らない身体を叱咤してベッドから出てよろよろと部屋を出る。
母が心配して、身体を支えようとして手を差し出してきたが振り払った。
「どこに行く気だ?お前には死んでもらっては困るのだが?」
跡取りが自分しかいない。それはもう逃げ場のない人生に踏み出してしまったという意味だ。生きている限り逃れられない。
「心配しなくても、逃げませんよ」
虚ろな目をしていたと思う。こんな風に生き恥を晒すつもりはなかった。だから、弟が必要だ。俺はこれ以上恥を晒したくない。
辻馬車で向かったエッディンの湖は静かで不気味だった。生贄となる者は手足を縛り湖に鎮められる。闇を吸ったようにどこまでも黒い湖に浮かぶ人がいないか隈なく捜した。
いないいないいないいないいないいないいないいない!
湖に浮いてるものがない。
我は元気で聡明な弟が羨ましくて、尊敬していた。跡取は間違いなく弟になると思ってた。
弟は違ったのか?我が素晴らしい人間に見えたのだろうか?経営学などちょっと教えただけで「すごい!ありがとう!」っと感謝されるのは悪くはなかった。自尊心をもてた。
だが、弟よりも優れていたとは思えなかった。
「こんなどうしようもない人間のために死んで満足か」
雨はポツポツと降ってきた。雨乞いは成功した。
しかし、ヴィニーは喜べなかった。
「貴族様はな。貴族を庇って死ぬ為にいるんじゃなくて、民を守るためにいるんだ」
その言葉は己を惨めにした。我は民や弟を救うことより、矜持が傷つけられる事を恐れてた。貴族である己の矜持を守りたかったのだ。
「お前は民の為に雨を降らそうとしてたな」
「お前は凄いな。格好いいな。唯、妬んでしまうよ。我はそうなるはずだった。お前に夢を壊された」
「次期当主に相応しいから家を継ぐことにする」
曇天の空を見上げた。
「せいぜい空から見て、後悔してろ」
ヴィニーは呪われたように当主になる事にこだわった。身体も年を重ねるにつれて丈夫になった。しかし、現状は叔父の策略に嵌った妹に裏切られ、父と共に国外追放となった。追放された身になってから気付いたが、次男である叔父が生贄になっていないのは叔父の策略だったのだ。
だから、殺してやった。当主の座には我こそが相応しいのだ。
「我は当主にならなければならない」
目の前の無精髭の男から、只ならぬ気を感じる。殺さねば我の脅威になる。
ああ。水の精霊の使い手だったな。
己から瘴気が溢れる。肉体がドス黒く染まる。憎悪が増して、思考に靄がかかった。




