第3話 目を覚ました怪物
東都リアルティのオフィス、春の午後。
窓際のテーブルで、南野結衣は静かにカップを傾けていた。
同期や後輩たちが賑やかに笑い合う中で、彼女だけが別世界にいた。
ライトブルーファンド合同会社――名義上は“副業”のその会社に、いまや数億円を超える資産が預けられている。
窓の外では、春の風に街路樹が揺れている。
けれど結衣の視線は、その風景の向こう――仮想通貨と新興市場が激しくうねる世界に注がれていた。
(変動率30%。情報処理速度、秒単位。感情が入れば誤差は拡大。
でも、予測できる。演算と確率で、ある程度は……)
スマートフォンの画面には、同僚に気づかれないようチャートのタブがそっと開かれていた。
自動で更新される価格。赤と緑のグラフ。
それはまるで、“音のない戦場”だった。
午後のコーヒーブレイク、古株の田崎が話しかけてくる。
「南野さん、最近投資とか興味あるのか? 仮想通貨、今すごいみたいだぞ」
「ニュースで見ますけど……ちょっと怖いですよね」
控えめに微笑む。だがその内心では、すでに30通貨以上のボラティリティ分析を終えていた。
揺れる相場に、自分の脳が加速していく感覚――それが、妙に心地よかった。
(怖くなんかない。むしろ、面白い)
夜、家族の食卓。温かい味噌汁の湯気が立ちのぼるなか、結衣は箸を置いて口を開いた。
「……資産の一部を、新興市場や仮想通貨に振ってみようと思うの」
父が手を止め、眉をひそめる。
「仮想通貨? あれは値動きが荒すぎる。危険だぞ」
「リスクは承知してる。全額じゃない。あくまで“攻め”の部分だけ」
兄の拓真が言う。
「結衣がそこまで言うなら、きっと根拠があるんだろ。どれくらいの比率で動かすつもりなんだ?」
「守り7割、攻め3割。その中の仮想通貨はさらに2割程度」
即答だった……誰もそんな精密な答えが返ってくるとは思っていなかった。
母が微笑む。
「私はよくわからないけど……あなたがそう決めたなら、応援するわ」
家族の視線が一瞬だけ揃い、そしてそれぞれの理解に変わっていった。
結衣は静かに頷いた。
「ありがとう。ちゃんと説明できるように、全部、整理しておく」
その夜――結衣はノートPCを開き、深夜までデータを眺め続けた。
チャート、ファンダメンタル、相関係数、リスク許容度、過去の崩壊事例と再浮上タイミング。
平均回帰、ドローダウン、オプション価格理論。
(こんなに脳が冴えるなんて、久しぶり……)
数字を追うほどに、脳が熱を帯びていく。誰かに褒められたいわけじゃない。自分の中の“演算の快感”が満たされていく。
(……本当はずっと、こういうのがやりたかったのかもしれない)
翌朝、オフィスの自席。誰も見ていないことを確認し、結衣はスマートフォンを取り出す。
ウォレットアプリを起動し、事前に設定したルートに沿って、資金を分割送金していく。
仮想通貨の購入ボタンに、そっと指を重ねた。
(これで……もう、戻れない)
ビットコイン、イーサリアム、新興IT株。手順は迷いがなかった。
だが、心のどこかで震える自分もいた。
「ここからは、自分の責任で切り拓く」
そう呟いたそのとき、画面に「注文完了」の文字が表示された。
電子の音すらしない取引。それなのに、世界が動いた気がした。
週末、結衣はノートに取引の記録とリスク計算を手書きでまとめていた。
残高の変動、手数料、相場の材料。
(こんなにも緻密な世界が、目の前に広がっていたなんて)
夜、兄からLINEが届く。
《困ったら一人で抱え込むなよ。お前、すごいけど、完璧じゃないんだからな》
その言葉に、ふっと笑みがこぼれた。
……数日後の朝、チャートが急落していた。
仮想通貨資産が、一夜で20%以上減少。
「え……?」
凍りつく指先でニュースを確認すると、海外の大手取引所がハッキングされたとの速報。
冷や汗が背中を伝い、視界がにじんだ。
(でも……私は全額を賭けたわけじゃない)
そう自分に言い聞かせ、手元のノートを開く。想定していた“下限値”の中にまだ収まっていた。
帰宅後、川沿いのベンチでスマホを見つめながら深く息を吐く。
その夜、母が紅茶を差し出してくれた。
「無理はしてない?」
「してるよ、たぶん。でも……成長してる気がする」
ベッドの中で、またノートPCを開く。
変動に対する自分の感情。そこから生まれた“揺らぎ”も含めて、数式に還元していく。
「感覚ではなく、構造で見る」
その思考が自然とできるようになっていた。
***
月曜の朝。鏡の前の結衣は、少しだけ目元が鋭くなっていた。
仮想通貨のアプリを開く。まだ評価額は低いままだ。
でももう――焦っていない。
「私は、他人のペースで投資しない」
静かな覚悟が、自分の中に根を張っているのを感じていた。
昼休み。社内のラウンジで、同期の野間が隣に腰を下ろす。
「南野、最近なんか雰囲気変わったな」
「そうかな?」
「前は癒し系って感じだったけど、今はなんか……目つきが勝負師っていうか」
「え、それはちょっと怖いかも」
笑って返しながらも、内心では少し驚いていた。
自分ではまだ変われた実感がなかったのに、周囲はすでに“気配”を感じ取っている。
雰囲気って隠せないものなのかもしれないなと結衣は自分の頬に手をあてた。
***
午後の仕事を終えた帰り道、電車の中でスマホを開く。
結衣は小動物のイラストをアイコンにした匿名アカウントで、資産運用や投資の観察記録を日々投稿していた。
気まぐれに上げるのは、相場そのものの数字よりも、市場の“肌感”や、自分が拾い上げた生のデータ、可視化したグラフや時系列チャート。
特に人気があるのは「値動きの裏に隠れた実需」「どこにも出てこない変則的な分布図」「市場の“ノイズ”とそのパターン」についての簡潔なメモだ。
時折、そのデータの解釈を巡って、他の匿名アカウントから丁寧な質問や、やや熱のこもった議論が飛んでくる。
(自分の言葉も、こんなふうに誰かの考えを揺らしているのか)
けれど、結衣自身はあくまで“距離”を保つ。
DM欄には時々「個別で意見交換を」とか「クローズドサロンに来ないか」といった誘いも届くが、すべて既読スルー。
タイムラインで何気なく投げたグラフや相関データに、誰かが淡々と数字を返してくる。その応酬が、いちばん楽しかった。
不思議なもので、ネットの向こう側でも、結衣のアカウントは“女性っぽい何か”が滲むらしい。
理由はたぶん、小動物アイコンと、端々の柔らかい言葉遣い、そして“データ好き”ならではの観察眼。
(リアルでは絶対にできない遊び。でも、ここなら誰も私を縛らない)
夜、布団の中でタイムラインを流し読みしていると、
またひとつ、深夜のデータ検証スレッドが自分の投稿をもとに延々と盛り上がっているのを見つける。
(正体は知られたくない。でも、このアカウントのままで、ずっと“波”を観察していたい)
アカウントに届いた新着DMを無視して、結衣はさらに新しい“面白いデータ”を求めて市場の底を泳ぎ続けた。
ライトブルーファンド。
ただの相続資産を超えて、未来を掴みにいくための新しい船。
その舵を握る“怪物”が、目を覚まそうとしていた。