第2話 ふたつの顔の先に ― 私だけの決断
朝の通勤電車で、南野結衣はスマートフォンを開かなかった。
銀行からも、証券会社からも、司法書士事務所からも通知が来ているのはわかっている。
けれど、隣の会社員の肘が何度も腕に当たるこの距離で、残高の画面を開く気にはなれなかった。
見られて困るものではないが、説明のしにくい類のものではあった。
都心の駅に着くと、人の波に押されるように改札を抜ける。
スーツの色も、靴の音も、歩く速度も、周囲とほとんど変わらない。
結衣の会社員としての一日が今日も始まる。
◇
東都リアルティ営業企画部。
結衣が配属されて、もう一年が経つ。
最初の頃は会議資料の作り方ひとつにも緊張していたが、今では案件ごとの癖も少しずつ分かるようになっていた。
「南野さん、明日までに追加のグラフもお願いできる?」
午前十時過ぎ、小松原課長が資料を片手に声をかけてきた。
「はい。元データ、先週版のままで大丈夫ですか?」
結衣がそう返すと、小松原の指が止まった。
「……あ、そうか。昨日、数字差し替わってたな」
「はい。古い版で作ると、会議で突っ込まれると思います」
「助かる。最新版で頼む」
「承知しました」
それだけ言って、結衣は自分の席に戻った。
目立つことはしていない。
誰かの発言を遮ったわけでも、会議で長々と説明したわけでもない。
ただ、数字のズレに気づいて先に止めた。
結衣にとっては、それだけのことだった。
「南野ー! さっきの見積もり、条件通ったから確認だけお願い!」
同期の野間が営業フロアから駆け込んできた。
「いいよ。紙で見たい?」
「頼む。俺、画面だと見落とす」
結衣は受け取った見積書に目を通した。
最初の一枚目で、手が止まる。
「野間くん、これ、先方の条件だと消費税別じゃなくて税込み指定じゃない?」
「え」
野間の笑顔が固まった。結衣は赤ペンを一本取り、右上の備考欄に小さく丸をつける。
「ここ。あと、支払サイトが前回と違う。営業側で直すと角が立つなら、私から“確認事項”で投げとくけど」
「……南野、さっき見ただけだよな?」
「うん。だから、念のため確認してね」
「一目見て、それ拾うの怖いんだけど」
「……怖くはないと思う」
「いや、助かるけどさ」
野間はそう言って、見積書を胸に抱えた。
褒められているのか、引かれているのか結衣には少し判断がつかなかった。
◇
昼休み。社内カフェテリア。
結衣が端の席でサンドイッチを食べていると、美月が隣に腰を下ろした。
「結衣ってさ、ほとんど主張しないよね」
「え?」
「なのに、気づいたら話が結衣の出した資料の方向に進んでる気がするんだよね」
「それ、褒めてる?」
「半分。もう半分は、ちょっと怖いかも」
美月はアイスコーヒーを混ぜながら笑った。
「悪役令嬢っぽいよね。地味な服着てるのに、周りを支配してる感じ?」
「支配はしてないよ」
軽く返しながら、結衣は内心で少しだけ考える。
支配はしていないけれど交通整理はしているかもしれない。
人の意見を押しのけたいわけではないし、自分の正しさを証明したいわけでもない。
ただ、情報が散らかったまま話が進むのが嫌いだった。
抜けている前提があるなら埋めたいし、見落とされている数字があるなら、机の上にちゃんと出しておきたい。
「そういえば、お家のことは落ち着いたんだっけ?」
美月が声を少し落とした。
「うん。売却自体は、だいたい」
「すごいよね。普通はそんな話、人生で出てこないよ」
「私も、まだ実感ないんだけどね」
それは本当だった。
通帳に並んだ数字は、確かに現実だ。
でも、その数字を見て何かが変わったかと言われると、よく分からない。
朝は満員電車に乗って、昼は会社のカフェテリアでサンドイッチを食べる。
変わらない日常の中に、説明できない異質な数字が紛れ込んでいた。
午後も、仕事はいつも通り続いた。
メールを返し、資料を直し、会議室を移動する。
通帳の数字とは関係なく、会社の時間は淡々と流れていく。
夕方、若手向けの意見交換会があった。
「来期の戦略には、若手の声も積極的に取り入れたいと思っています」
部長がそう言うと、周囲の若手社員がぽつぽつと発言し始めた。
結衣も、手元のメモにいくつか書いていた。
再開発案件のエリア別資料。
営業が拾っている現場感。
数字に出る前の問い合わせ傾向。
けれど、結衣は指先でメモの端を押さえたまま、発言しなかった。
今ここで言えば、たぶん話は広がる。
でも、その広がり方を自分で制御できる自信がなかった。
目立ちたいわけではないが、何も言わないままでいいのかという感覚だけが、胸の奥に小さく残った。
◇
夜、結衣が実家に戻ると、リビングのテーブルには売却後の資料がまだ残っていた。
封筒、通帳のコピー、司法書士事務所から届いた案内。
会社の資料とは違う現実が、そこにはあった。
「問題は、このまとまった資金をどう管理するかだよな」
父のその言葉に、結衣はすぐには答えなかった。
代わりに、テーブルの横に置いていたノートPCを開く。
画面には、すでに作成済みの資料が表示されていた。
個人名義で管理する場合。
共有名義を維持する場合。
法人を設立する場合。
それぞれの項目に、将来起こりうる問題が並んでいる。
父が目を瞬かせた。
「……もう調べてたのか」
「うん」
結衣は小さく頷いた。
「まだ結論を押しつけるつもりはないよ。ただ、選択肢を知らないまま決めるのは危ないと思ったから」
そう言って、結衣は資料を家族の前に映した。
「まず、個人名義のままでも管理はできる。いちばん簡単だし、余計な費用も少ない。ただ、金額が大きいから、誰が何を判断したのかが曖昧になりやすい」
母は不安そうに画面を見つめる。
「曖昧って?」
「たとえば、運用するのか、現金で置くのか。不動産を買うのか、投資信託にするのか。誰かが良かれと思って決めても、あとから見たときに“どうしてそうしたのか”が分からなくなるかもしれない」
拓真が腕を組む。
「それは、まあ……ありそうだな」
「だから、私は管理のルールを先に作った方がいいと思ってる」
結衣は次のページを開いた。
「法人にする場合も、いいことばかりじゃないの。設立費用もかかるし、決算も必要になる。税理士さんや司法書士さんに払うお金も増える。変にやると、むしろ損すると思う」
「節税目的じゃないのか?」
父が尋ねる。
「家族のお金を、家族の将来のために管理する。その器として法人を使う。順番はそっち。節税は結果としてついてくるかもしれないけど、そこを目的にすると判断を間違えるかも」
リビングが静かになる。
結衣は、ゆっくり息を吐いた。
「私が法人化を考えている理由は三つあるんだ」
画面に、短い箇条書きが表示される。
一つ目。
資産の管理ルールを明文化できること。
二つ目。
家族間で説明責任を残せること。
三つ目。
将来、資産を運用するにしても使うにしても、個人の気分ではなく手続きで判断できること。
「誰か一人の気分で動かせる状態にしない方がいいと思う。もちろん、私も含めて」
母が、小さく息をついた。
「そんなこと考えてたのね」
父と拓真は資料をじっと見つめていた。
その沈黙を、結衣は急かさなかった。
結衣はノートPCの画面を少し暗くした。
「今日決めない方がいいよ。気になるところがあれば、司法書士さんと税理士さんに確認してほしいかな」
「結衣は、どうしたいんだ?」
父が尋ねる。結衣は少しだけ考えた。
「私は、法人を作った方がいいと思ってるけど、家族のお金だから私一人で決めたくないよ」
それ以上は言わなかった。
◇
翌日、父はその資料を持って税理士事務所を訪ねた。
祖父母の不動産や相続関係で、以前から世話になっている税理士だった。
「娘が作った資料なんですが、一度見てもらえますか」
父が封筒を差し出すと、税理士はいつもの調子で頷いた。
「はい。拝見します」
最初は、家族内で作った簡単なメモだと思っていたのだろう。
税理士はペンを片手に、一枚目をめくった。
──数分後、その手が止まった。
「……これは、本当に娘さんが?」
「はい。不動産会社の営業企画で働いています」
「税務のお仕事ではなく?」
税理士は、資料をもう一度最初から見直した。
節税効果だけが大きく書かれているわけではない。
むしろ、法人化した場合の欠点の方が細かく整理されていた。
そして、その横には短い一文があった。
《専門家に確認することと、家族で決めることを混同しない》
税理士は、そこで小さく息を吐いた。
「……合理的ですね。ただ、一般的な相談資料とは少し違います」
「違う、ですか?」
「はい。正直に言えば、少し驚いています」
税理士は資料の端を指で押さえた。
「普通は、こういう依頼では法人化したいという結論が先にあって、それを補強する材料を集めてくるんです。ですが、この資料は法人化してはいけない理由を先に探して、それでもなお必要かを検討しています」
父は黙った。
「そして、あくまで家族にとって何が一番かを重視している。専門家の資料とは違う種類の合理性です」
「違う種類、ですか」
「はい。税務の正解というより、家族があとで揉めないための設計に近い」
税理士は、少しだけ苦笑した。
「方向性は悪くありません。むしろ、この規模の資産なら、法人化を検討する価値は十分あります」
父は、封筒に戻された資料を受け取った。
「娘に、そう伝えます」
「もう一つだけ、これは個人的に」
税理士は、少し声をやわらげた。
「この資料を作った方──合理的すぎる人は、周りが気づかないうちに、一人で先へ進んでしまうことがあります」
父は静かに頷いた。
◇
三日後の夜。もう一度、家族はリビングに集まった。
「税理士さんにも見てもらったよ」
父の言葉に、結衣は少しだけ心配になってしまった。
「何か、まずいところあった?」
「まずいところはないそうだ」
父はそう言ってから、少しだけ表情を緩めた。
「驚いてたよ。本当に娘さんが作ったんですか、って。父親の俺が聞いても、ちょっと変な褒め方だった」
拓真が横から笑った。
「褒められてるのかな、それ」
「たぶんね」
父は咳払いをして、真面目な顔に戻った。
「方向性自体は悪くないそうだ。法人化を検討する価値は十分ある。ただし……結衣に全部背負わせないことって言われたよ」
結衣は、すぐには返事ができなかった。
自分では、背負っているつもりはなかった。
必要なことを調べて、整理して、間違えないように道筋を作っただけだ。
けれど、それを自然にやってしまうこと自体が、周りから見れば少し違って見えるのかもしれない。
「俺も見るよ。分からないなりにだけど、結衣に丸投げはしない」
拓真が言った。
「お母さんも、分からないまま頷くのはやめるわ。ちゃんと聞く」
母も続けると父も頷いた。
「だから、法人を作るかどうかは、家族全員の方針として決めよう」
結衣は、胸の奥にあった力が少し抜けるのを感じた。
「……ありがとう」
短い言葉しか出てこなかった。
◇
翌日の昼休み、野間が自販機の前で結衣を見つけた。
「南野、昨日ありがとな。あの見積もり、マジで助かった」
「よかった。間に合った?」
「間に合った。課長に褒められた。俺が」
「それはよかった」
「いや、よくないだろ。南野の手柄じゃん」
野間が苦笑する。結衣は缶のお茶を取り出しながら、小さく首を振った。
「通ったなら、それでいいよ」
「そういうとこだよなあ」
「何が?」
「なんか、表に出ないのに、裏で全部整えてる感じ」
結衣は答えに迷った。
裏で全部整えている、そう言われると少し違う気がした。
でも、完全に違うとも言い切れない。
「整ってないと、落ち着かないだけだよ」
「それがすごいんだって」
野間はそう言って笑い、営業フロアへ戻っていった。
結衣はその背中を見送りながら、ポケットの中のスマートフォンに指を触れた。
資料の端に、仮で書いた会社名がまだ頭の中に残っている。
──ライトブルーファンド合同会社。
会社員としての自分は、今日もいつも通りここにいる。
けれど、その奥で、別の何かが静かに形を取り始めていた。
まだ誰にも見えない。
けれど、もう目を逸らすつもりはなかった。




