鉄道模型
何気なくのぞき込んだ古道具屋の店先、ウインドウの中にその模型機関車を見つけた時、富雄は心臓が止まってしまいそうな気がした。
「あれはたしか…」
鉄道模型を趣味としたのは、富雄がまだ中高生だった時代である。もうずいぶんと昔に感じられ、成人して何年も思い出すことがなかったのだが、それが突然に鼻先に突き付けられたのには驚きを禁じ得なかった。
小学生の頃にはただ、汽車や電車がほんの少し好きという程度だったが、富雄が本格的に鉄道模型にのめりこんだのは、中学に進んでからである。
小学校を卒業し、そのまま級友たちと同じように中学生になった。学業方面の才能は少なく、その後も平凡な成績で中学を卒業することになったが、その先がいけない。富雄の学力で入学できる高校が、なかなかなかったのである。
本人はそうでもなかったが、両親が進学を強く希望し、富雄はそれに押し切られる形になった。両親とも若いころからの苦労人で、自分たちに学歴がないことを強く悔やんで生きてきた。
「学歴さえあれば、もっと実入りの良い職にもつけたものを…」
中学3年だった富雄に世の中のことはよくわからなかったが、両親が言うのだから、とそれを信じたのである。
「では、富雄をどの高校へ入学させればよいか」
それが問題になる。
両親は親戚の力を借りることにした。親戚の一人に、たまたま高校の教師がいたのだ。
といっても、親戚も万能ではない。
それでもあちこちアンテナを伸ばし、富雄にも入学できそうな高校の推薦口を探してきてくれた。富雄の両親は、その校名を中学の担任教師に告げた。
すると担任教師は、
「そこの推薦枠なら空きがある」
と答えたのだ。事実上、富雄の高校入学が決まった瞬間である。
もちろん試験は受けた。それにも、なんとか合格したのである。
しかし高校に入学しても、富雄はやはり勉強に興味が持てなかった。ただ一つ関心を持つことができたのが、鉄道模型だったのである。
鉄道模型自体は、戦前から存在する趣味である。だが大きく発展したのは、何といっても第二次世界大戦後のこと。
日本だけでなく、諸外国にも鉄道模型ファンは広く存在し、戦後、日本へ進駐してきた米軍兵士の中にもこの趣味を持つ者がおり、実はそういう兵士たちが、手先の器用な日本の工芸職人たちに依頼し、好みの模型機関車を製作させた。
それが日本の鉄道模型を大きく発展させたのである。
模型であるから、もちろん模型線路の上を実際に走行することができる。動力は電気で、模型メーカーも、初期こそは輸出を当てこみ、外国型の列車、つまりアメリカやヨーロッパの列車を模型として発売することが多かったが、次第に国内型、国鉄や大手私鉄の車両を題材とするように変わっていった。
富雄が鉄道模型の道に踏み込んだのは、そういう時代だったのである。
両親からもらったこづかいをため、機関車や貨車、客車を買い集めたが、もちろんすべてが普及品、つまり廉価版と呼ぶべき車両ばかりであった。とてもじゃないが、上等な製品は、中学生の手におえる値段ではないのである。
しかし富雄は熱心だった。少しずつ、模型車両を買いため、増やしていった。
そもそも学びたい意欲があるわけでなし、
「学校の勉強は面白くない」
だが、
「模型機関車は欲しい」
こうなった富雄が、両親の目を盗んでアルバイトに精を出すようになるのも時間の問題だったであろう。事実、両親には内緒でアルバイトを始めた。
家の近所にあったある会社の倉庫の中で、商品の布地をトラックから降ろしたり、何十と並ぶ棚の中に並べたり、積み上げたりする仕事だ。
力仕事できつくはあったが、富雄は同級生たちよりは背も高く、体力があったのである。
朝から登校しても、授業は面白くはない。放課後には、このきつい仕事である。
だが富雄には張り合いがあった。どうしても手に入れたい機関車があったのである。
『三枝模型社』とは、この頃に発展したメーカーの一つで、精密で塗装も美しく、見栄えのする機関車模型を発売することで知られていた。その分、もちろん他社製品よりも高価なのだが、その値段に負けないだけの走行性能も備えていた。
高価で精密ではあるが、実際に線路に乗せるとうまく走行しない模型もまま見られたこの時代に、発進のスムーズさといい、けん引力といい、群を抜いた品質だったのである。
その中でも、ひときわ富雄の視線を引き付ける機関車があった。
富雄は頻繁に模型店へ通い、まるで熱に浮かされたように、ウインドウの中で光るその機関車を見つめた。真鍮板をハンダ付けして組み立て、黒いラッカーで塗装した商品であるが、その黒さの絶妙なツヤ、目立ちすぎない輝きが、富雄を魅了するのである。
旅客用の機関車であるから動輪は巨大で、実物で直径1750ミリ。大人の身長ほどもある。模型の80分の1スケールでさえ、直径21・5ミリもあるのだ。
そのスポークは朝日のように細く、まるで向こう側が透けて見えそうな具合だ。
ウインドウの前に立っているだけで、あの車輪がレールの上を転がるさまが、富雄は目に浮かぶような気がした。
だが富雄は、この機関車を手に入れることができなかった。アルバイトをしていることが、両親にばれてしまったのである。
両親は怒り、富雄の意思も気持ちも確かめず、倉庫には勝手に退職を連絡してしまった。昔かたぎの父親には殴られ、母親には泣かれ、富雄も折れるしかなかったのである。
しかし、まだ富雄はあきらめなかった。
「高校を卒業して、自分で稼ぐようになれば、あの機関車が買えるさ」
ところが富雄は知りようもなかったのである。その翌年、富雄はまだ高校2年生だったが、三枝模型社はあっけなく倒産してしまった。
もともと財務基盤の盤石な会社ではなかったようだ。ある新商品を発売したのは良いが、それがまったく売れなかった。
この時代にはまだ夢物語でしかなかった超高速列車を模型化するなど、日本の鉄道模型市場にはまだ早すぎたのかもしれない。
世の中にはまだ『新幹線』という言葉すら存在せず、将来的には超高速鉄道も日の目を見るであろうという議論はあったが、それもまだ海のものとも山のものとも知れず、あいまいに『弾丸列車』と呼ばれていた時代なのである。
富雄が卒業するまで、あと1年以上ある。それから就職して金をためても、もはやあの機関車を購入することはできないのだ。
勉学はもちろん、もはや何をするにも意欲がわかず、富雄はドロップアウトし、3年生への進級を待たずに退学してしまった。
退学後は家にいて、数週間は何もせず過ごしたが、親がうるさいのと、こづかいにも困るようになったので、しかたなく再びアルバイトを始めた。
商店の店員の補助という仕事だったが、長続きはせず、やがて富雄は、そのアルバイトも止めてしまった。
「金を稼いだって、何になるっていうんだい?」
そうやって今年、富雄は23歳を迎えたのである。
職歴といえるのは、アルバイトの長いリストだけで、その一つとして、長く続いたものはない。
例外は一箇所だけ、ある町工場が1年以上続き、富雄本人もこの仕事は楽しかったが、経営者の若い娘に恋心を抱き、しかし結局は手ひどく振られ、やけになって退職してしまった。
富雄の将来と可能性を見込み、経営者も慰留はしてくれたのだ。
だが富雄は、はねつけた。俺には、こんな小さな工場に縛り付けられる義理はない。
気がくさくさする。することもなく、家へ帰る気にもならず、街中をうろうろしていたのだが、そんな時に偶然通りかかったのが、古道具屋の店先だったのである。
そのウインドウの中に、あの模型機関車が鎮座していた。
大田警部が、栄一が経営する店へ顔を出すのは、そう珍しいことではない。
栄一の店は古物商、早く言えば古道具屋であり、扱う商品は鉄道趣味に関するもの、例えば機関車のナンバープレートとか部品とか、鉄道関係の古書などだが、盗品をここで不法に売りさばこうとする者もおり、警察との間の関係も深いのである。
「おや大田さん、今日は何の御用です?」
大田警部は中年の男。背は高めでがっしりした体格だが、髪の毛は年相応に薄い。
いつも同じ茶色の背広を着ているので、もしかすると大田の家には、同じデザインと色の背広が何着も用意してあるのだろうかと、かねてから栄一は思っていたが、面と向かって質問したことはない。
「ああ、いやいや栄一さん、先日の偽ナンバープレート事件ではお世話になりました」
「はあ、いいえ」
「それでまた協力願いたいと、虫の良すぎるのは承知でまた来たんです」
「事件ですか?」
手回しよく茶を入れ、栄一は大田の前に置いてやった。
おや、これはどうも、と大田は椅子に腰かけ、
「まず、ある街に古道具屋があったと思ってくださいな。そこに強盗が入ったらしいんだが、ワシたちでは、何が奪われたのかすら確定できないんだよ」
「古道具屋に強盗? うちも古道具屋には違いないが、鉄道関係専門だから、一般の店のことは分かりかねますよ。茶道具だの骨董だの」
「鉄道専門でいいんだよ。どうも奪われたものが、それ臭いんだ。その店自体は普通の古道具屋なんだがね。ほら、あんた。もうそろそろ閉店時間だろう? 少し早いが、一緒に来てくれんかね? もう車も待たせてあるんだ」
そうやって、栄一は連れ出されたのである。店の電灯を消し、戸に鍵をかけて初めて分かったのだが、待っている車とはパトカーのことだった。
「ありゃりゃ、パトカーなんぞに乗り込むところを見られて、近所の噂にならねばいいが」
と念じつつ、栄一は車上の人となったのである。
運転手役の警察官がアクセルを踏み込み、パトカーが走り始めると、すぐに大田は詳しい説明を始めた。強盗に襲われた古道具屋はN堂といい、栄一の店からも遠くはなかった。
「経営者に家族はおらず、一日中、老主人が一人きりの一人暮らしであることを狙われたようでね」
「その人のケガはひどいんですか?」
との栄一の問いに、
「ひどいケガというか、死んだよ。後ろから頭を鈍器で殴られて…。武器はすぐに判明した。これくらいある…」
大田は手で、そのサイズをやって見せた。
「…鉄瓶さ。鉄製の頑丈な奴で、被害者は即死に近い」
「だけど被害品、つまり何が奪われたかが分からない?」
「見当はついてる。これを見てくれ」
大田がポケットから取り出したのは、一枚の写真である。カビネ判サイズで、小さいものではない。この時代のことだから、もちろん白黒写真だ。
現場の証拠品を撮影したものらしいが、広げたノートのページが写っており、手書きの文字を読み取ることができる。鉛筆を用いているが、いかにも力なく、のたくるところが老人の筆力を思わせる。
写真を手に取り、薄暗く揺れる車内で、栄一は目をこらした。
「『鉄道模型 特急ツバメ号セット 客車と機関車 ただし炭水車は欠品』と書いてありますね」
「うん、そこまではワシたちにも分かった。問題はその先さ。さあ着いたぞ。降りてくれ、栄一さん」
N堂は大通りには面さず、一歩路地に入ったところにあった。戦時中もこのあたり一帯は空襲を受けず、戦前の街並みをそのままに残しているのだろう。屋根の高さやサイズの大小はあるものの、木造で黒い瓦を乗せた似たような家々が、ずっと並んでいる。
N堂という店の正面にはシャッターが下ろされていたが、大田はキーを持っており、すぐに開けることができた。シャッターが開くと、ガラス引き戸になった入口と、商品を飾るウインドウが顔を出す。
入口を入ると、天井には蛍光灯がぶら下がり、いくつかヒモを引いて、大田はすべて点灯させた。
店内に入ったはいいが、栄一の居心地が悪そうなので、大田は声をかけた。
「そんな顔をしなくても、死体はとっくに検視局へ運んださ」
見回しても、さほど広い店ではない。いかにも老人が手すさびか、こづかい稼ぎの片手間にやっている感じで、一日当たりの客数も水揚げも大したことはなかっただろう。
売り場の奥はそのまま居間に接し、主人の住居になっている。ただし商品は多い。
いかにも古道具屋という感じで、周囲の壁にはグルリと棚が作りつけられ、骨董品であふれている。茶道具、花器、小型の家具、古い時代の台所用具といったものだが、一つだけ場違いな商品があるのが目についた。
「あれれ」
栄一は机の一つに近寄ったのだが、その机はウインドウのすぐそばにあるから、その商品はきっと店外の道路からもよく見えたに違いない。
「ああ栄一さん、それが問題の商品でね。汽車の模型なんだ。あんたの守備範囲だと思ってね」
そう、それは確かに列車の模型に違いない。1台の長さが25センチほどもあるものだが、それが数えると、ひい、ふう、みい…、7つもある。こげ茶色に塗られた古めかしい形の客車なのだ。
「ああ、これね」
そばへ行き、栄一は手に取ろうとしたが、不意に手を止め、
「大田さん、これは触ってもいいんですか?」
「いいよ。もう指紋は調べた。店主の指紋以外にもいくつも出たが、店の商品じゃあ、調べようもない。それを売りに来た前の所有者の指紋も混じるしな」
「そうですね」
「それで栄一さん、それはどういう模型なんだろうか? さっき見せた写真は、この店の主人が書いた仕入れ台帳、つまり商品の名簿なんだが、なんと一式を1万円で買い取ったと書かれている」
栄一は眉をひそめ、
「1万円ねえ。どこのどういう人物から買い取ったのか、古物商なら、買い取った相手の名や住所を書き留めているはずですよ」
そこらの椅子に、大田はドカリと腰かけた。
「それはもう調べたんだが、売りに来たのが未亡人でね。死んだ夫の遺品だそうで、家財整理のために売ったんだが、未亡人自身には汽車のことは全く分からず、手掛かりナシと来たもんだ」
「これはHOゲージです」
「エイチ・オー?」
「だけど、言葉の細かい意味には踏み込まないことにしましょう。実物の汽車を80分の1のサイズに縮尺して作ってあります。材料は真鍮をもちいて、まあ高価な工芸品のようなものですよ」
「高価はそうだよな。中古で1万もするらしいから」
「それだけじゃなく、これは特別の商品です。三枝の製品ですもん」
「サエグサ?」
ここで栄一は少し説明をした。すでに廃業しているが、三枝模型とは有名なブランドであったこと。その出来が素晴らしく、走行性能も群を抜いていたこと。ここにあるこのセットがもしも傷のない新品であれば、大田の給料では、まず数か月は飲まず食わずで過ごさねばならないこと。
「へえー」
と大田は目を丸くするばかりだったが、
「だけど栄一さん。さっきのノートにはなんて書いてあったかな。なんとかが欠品してるとか」
「炭水車ですね」
「そりゃ何だい?」
「蒸気機関車は水と石炭がないと走れない、というのはご存知でしょう? その水と石炭を積んだ炭水車という貨車みたいなのが、機関車の後ろに連結してあるんです」
「さっきの帳面によると、この模型はその炭水車が欠品、つまり、なぜか付属していない状態だったんだな」
「理由はわかりませんが、そうだったのでしょう」
「そりゃあまあいいが、するとつまり、この事件で奪われたのは高価な機関車模型だと?」
そうらしいですね、と栄一は答えかけたが、見ると大田は頭を抱えているではないか。
「ひと一人を殺して汽車の模型を奪っただあ? そんな強盗聞いたこともないぞ」
「たかが模型といっても、趣味の世界では高級品ですからね。欲しがる人もいますよ。犯人の手がかりは本当にないんですか?」
面倒くさそうに、大田は店の奥を指さし、
「老主人を撲殺した後、犯人は裏口から逃げ去ったようだ。裏口の木戸に一つだけ、血の付いた指紋があったよ。血液型は被害者と一致した。鑑識課は右手の人差し指だと言ってるが、前歴者に該当する指紋はなかったね」
「そうなんですか。店番をしていて殺されるなんてねえ…」
「まさか犯人は、奪った機関車をどこかで換金する気じゃあるまいな」
栄一は首をかしげた。「どうでしょうかね? 想像ですが、もしも売る気なら、炭水車の欠品している模型を奪いはしないでしょう。見たところ、値段の付きそうな機関車は他にも何両かありますから」
「へえ、そんなもんかい?」
「だけど犯人は、三枝製のこれだけをピンポイントに狙った感じがします。たぶん犯人は、この機関車に個人的な思い入れがあったんじゃないですかね。すでに廃業したメーカーだから、この世に出回っている数も知れていて、中古品もあまり出ないし」
「だけどさ、手配しようにも、奪われた機関車のナンバーがわからないんだろう? ほら、よく言うじゃないか、デゴイチだかD51とかなんとか。この間ナンバープレートが偽造されたのは、C66だったかな?」
「あれはC62ですよ。ええ、奪われた機関車の番号はわかります。ここにある模型は、戦前の特急ツバメ号を模したものですから」
「ツバメ号かい?」
「東京と神戸の間を走る国鉄の看板列車みたいな特急でした。模型の世界でも、三枝製のツバメ号といえばファンの間でもさらに有名で、私の店のお客さんの中にも、いまだに中古品を探して血眼の人がいますよ」
「へえ」
「この時代のツバメ号といえば、C51です。奪われた機関車はC51型、まず間違いないですね」
世には、『鉄道模型ファン』という雑誌がある。
その名の通り、鉄道模型を専門に取り扱う月刊誌だが、この時代、他にライバル誌が存在しなかったこともあり、一般の愛好家向けの記事を掲載するだけでなく、事実上の業界誌にもなっていた。
大小の小売店とともに、鉄道模型メーカーも多数広告を載せ、各社の新商品はまずこの雑誌に載り、そこから世間に周知されるという役目もあって、鉄道模型世界の中心的存在だったのである。
パトカーに乗せられて栄一がN堂を訪れた数週間後、その『鉄道模型ファン』誌にある広告が掲載された。それを目にしたのは、もちろん業界の人々と、読者の鉄道模型愛好家たちであったが、その中の一人は、特に鋭い視線をその広告に向けたことであろう。
そう。思わぬ場所での再会から焼けボックイに火が付いた形となり、富雄は鉄道模型趣味を再開していたのである。
しかもその再会が劇的であった。
あれだけ努力して、しかも入手のかなわなかったC51という模型機関車が、富雄にとっては、自分の人生の転落の開始点とも感じられたのだ。
小学校、中学、高校と、富雄は優等生でもスポーツ特待生でもなかったが、学業成績は振るわないなりに、人並みに幸福で穏やかな日々だったと思えるのだ。
それが、ある模型店のウインドウでC51を見かけ、購入するためにアルバイトまでして金をためることを決意した瞬間から、人生が崩れ始めたような気がしてならない。
「あの模型が、俺の人生を大きくねじ曲げてしまった…」
そんな気まで富雄はしたのである。
だから富雄は、N堂の店先で見かけたC51を、なんとしても手に入れないではいられなかった。
ウインドウから見る限り、値札などついてはいなかったが、きくと店の老主人は、3万円だと答えた。
職をなくしたばかりの富雄に、そんな金があるはずはない。新しい職を得て、貯金を再開する気力もすでにない。
富雄の目には、そのC51が、まるで自分をソデにしたあの工場主の娘とも重なって見えたのだろう。
「ちくしょう。あの女のせいで、俺は工場をやめなくてはならなくなった。あの機関車のせいで、それなりに幸福だった俺の子供時代はあっけなく終了してしまった…」
富雄は、そのように感じたのである。
「俺の人生は、なぜ変な曲がり方をしてしまったのだろう?」
それはわからない。しかし、その曲がり始めの目印が、あの模型機関車であったことは間違いない。
「あの機関車を、今度こそ俺は手に入れるのだ。そうしないと、俺の人生は曲がったままになる。曲がり角まで後戻りし、本来の道へ戻らなくてはならない…」
そうやって富雄は、今度こそC51を手に入れることができた。
幸運の女神も味方して、N堂は老主人の一人暮らし。路地に面した奥まった店でもある。出入りするところを誰に目撃されるでもなかった。
その男が栄一の店を訪れたのは、もう日も暮れ、そろそろ閉店時間も近いころだった。栄一にも初めて見る客である。
店内に入ってすぐ、ここがどういう種類の店かは一目瞭然だが、実物の車両パーツやナンバープレート、様々な鉄道模型、天井にまで達する背の高い本棚に詰め込まれた鉄道図書の量に圧倒されたようである。
それでも、いらっしゃいませ、と声をかけられて、すぐに栄一のいるカウンターへ近寄り、
「この広告は、この店のことかい?」
と男は『鉄道模型ファン』誌のページを栄一に見せた。
「そうですよ。何かお探しですか?」
そう言いながら、栄一は相手を観察した。若い男で、年齢は20代の半ばに至らないだろう。
しかし髪にはすでに白いものが混じり、神経質そうにも見える。きちんと食べていないのか肌は荒れ、服装からもすさんだ生活が垣間見えるような気がした。上着のそでには、つくろっていないほころびも見える。
男は言った。
「この広告には、鉄道模型の『ハンパもの市』を今この店でやっていると書いてあって、三枝製のC51の炭水車も売りに出ているそうだけど…」
「ああ…」
大げさに身振りをし、さっそく栄一は事情の説明を始めた。もちろん作り話であるが、C51の炭水車は確かにあったけれど、今日の午前中に売れてしまった。初めて見た一見の客なので、買っていったのがどこの誰かはわからない。
すると、男の表情がみるみる曇ってゆくのだ。顔色をドス黒く変え、残虐な怒りがその内側に、こみあげてきたかに見える。
「俺は、そんな言い訳を聞きに来たんじゃない。値段はいくらでもいいから、その客から買い戻すことはできないか?」
男の声は大きくなったが、栄一の口調は変わらない。
「いいえ、今も申しあげたとおり、はじめてお顔を見るお客様でしたので…」
「この店に、本当にそんな商品が売りに出てたのかい? 大体さ、半端な炭水車1個なんて、どこの誰が売ろうって言いだすんだい?」
「だけどお客さんも、機関車本体をすでにお持ちだからこそ、炭水車をお求めに来られたんでしょ?」
「そりゃあそうだが」
ここで栄一はタイミングよく茶をいれ、客の前に置いた。
「その商品は残念ながらすでにありませんが、まずおかけになってはいかがです」
すると意外にも、男は本当に椅子に腰かけたのだ。
栄一自身、そこまでは期待しておらず、驚きはした。しかし、それを顔に出すほどウブではなく、この業界の水を飲んで長い。
問わず語りにぽつぽつと、自分と鉄道模型、特にC51との関係について、男は語り始めたではないか。これには栄一も二度驚いたが、口をはさんで男の言葉をさえぎるようなことはしなかった。
男は語り続けた。
高校の頃、近所の模型店でたまたま見かけた三枝のC51がいかに美しく見えたか。こづかいをためるだけでは問題にならず、親の目を盗んで、いかにアルバイトを始めたか。しかし、十分な金がたまる前に三枝は倒産してしまい…。
話を聞きながら、栄一は考えた。
この男、高校生の時分はともかく、大人になった今では、同趣味の友人を一人も持っていないのではあるまいか。
それはこの男の、せき込むような話しぶりや、頭に浮かんだ内容を早く話してしまいたくても、口の動きが遅くて、もどかしいといった感じのせいだったかもしれない。なぜか栄一は、そんな気がしたのである。
そういう鉄道模型友達が、もしも身近に一人でもいれば、いろいろと語り合うこともできたろう。今さら詮無いことではあるが、もし語り合えていれば、何も強盗をするほどまでには思いつめなかったかもしれない。
自分と鉄道模型のかかわりについて語りながら、栄一がいれた茶碗を、富雄は何回か口へ運んだ。
もちろん大田としては、それだけで十分だったのである。
栄一と富雄の会話を、大田は物陰からじっと聞いていたのだ。一言も聞き漏らすまいと、耳を澄ませていた。
話しているうちに、男も少しは気がすんだのであろう。不意に挨拶もなく、飲みかけの茶碗を残したまま、店を出て行った。
「今後も何か出物があれば、お知らせしましょうか?」
とその背中に栄一は声をかけたが返事はなく、一人で戸口を開け、男は外へ出て行った。
もちろん大田も遅れなく、店をそっと抜け出し、あとをつけていった。男の住所を確かめるつもりでいたのである。
男が自動車に乗る場合のことも考えて、大田は警察車両を用意していたが、それは必要なかった。男は徒歩で帰っていったのである。
大田が栄一の店に戻ってきたのは2時間後のことで、入口の戸を開けて栄一の顔を見るなり、すぐに口を開いた。
「さっきの茶碗はどうしたね? あの男が茶を飲んだやつ」
「あれならさっき、大田さんの部下が大事そうにポリ袋に包んで、持って帰りましたよ。指紋を取るとか言って」
と栄一は答えた。
「そうかい? そうそう、あんた、鉄道模型の雑誌にどんな広告を出したんだね? ワシはまだ見せてもらっとらんぞ」
「これですよ」
手元にあった今月号を手に取り、栄一はパラパラとページをめくった。そして大田に示したのである。
「さっきの男も、この広告を手に持ってましたよ。ほら」
雑誌を受け取り、大田は目をこらした。こういう趣味のない男だから、鉄道模型専門誌など、手に取るのは生まれて初めてなのだろう。
おっかなびっくり紙の上に視線を走らせるが、やがて見つけたようだ。
栄一の店の名の下に、
『鉄道模型 はんぱもの市 早い者勝ち 三枝製C51炭水車そのほか、出物 掘り出し物 今月限り』
大田は感心した声を出した。そこらの椅子に腰かけながら、
「はあ、本当にこんな広告一つでシッポを出したのか。あんた、あの男をどう思う? あの若いのに、死刑だってあり得るのにな…」
「えっ、死刑?」
「おや栄一さん、知らなかったのかい? 強盗殺人は死刑もあるよ」
と、ここでカウンターの上の電話が鳴りだした。栄一は受話器を取ろうとしたが、
「その電話、きっとワシにだ…。はい大田です。ああわかったよ。ご苦労」
会話は短く、そのまま受話器を置くと大田は栄一を振り返り、
「さっきの男な、指紋が一致した。氏名は堺富雄。ここから歩いて20分ほどの所に住んでいる」
「職業は何をする人なんです?」
「さあな、そこまではまだ…」
「ねえ大田さん…」
疲れがたまっているのか、眠そうな目で、大田は見つめ返した。「なんだい?」
「あのお客さんが言った、『機関車が欲しくてたまらなかった』という気持ちは、私もわかるような気がしますよ。私も中高生の頃は同じでしたから」
その言葉には、大田は何も答えなかった。趣味に没頭する熱意が理解できない人なのかな、と栄一は思ったが、何も言わないことにした。
それを察したのかどうなのか、
「さあて、では判事のところへ行って、逮捕状でも取ってこようかい」
それだけ言い置いて、よっこらしょ、と大田は体を起こした。その茶色い背広姿が店の外へ消えてゆくのを、栄一はただ見送ったのである。




