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混合列車


「田舎の列車とは、ものすごいものだな」

 と大田が思ったのには理由がある。

 大田は今、その列車に乗車しているのだが、これは公用の旅行で、他県で発生したある事件捜査のために協力を求められ、出張してそれを済ませた帰り道なのである。

 本来なら急行に乗り、すぐさま大阪へ帰るところを、一仕事終えた気楽さもあり、わざわざローカル線を通ってみることにしたのだ。

 田舎の列車とは、どんなところがすごいのか。

 まず機関車が違う。

 都会の列車と同じように蒸気機関車だが、あまり見かけないほど小型なのだ。東海道本線の大型機ばかり見慣れている大田の目には、半分くらいのサイズにしか思えない。

 それでも短い車体なりに、煙突からは黒い煙を吐き、大きくもない車輪をチョコマカと一生懸命に回転させている。運転台には、機関手と助手の姿がふたり見えた。

 その機関車の後ろには、まず2両の貨車が連結されている。

 その1両には、山から切り出されたばかりの荒々しい材木がうずたかく積まれ、ここから見ても木の香が漂ってきそうである。

 その後ろの貨車には、なんと牛が積まれているのだ。生きた本物の牛である。床の上に置かれたワラを食いながら、ときおりモーモーと鳴いているではないか。

「なんとも農村らしい風景ではあるがな」

 と大田はひとりごとを言った。

 その牛貨車の次がやっと客車なのだが、この客車、本当に木でできていた。客室の床や天井、椅子が木製というだけでなく、車外もそうなのだ。

 いつの時代生まれなのか、その木も相当にゆるんでおり、走りながら車体はギシギシと音を立てる。客室全体も震えるように振動し、窓ガラスなどはビリビリと鳴るほどだ。

 しかし地元の乗客たちはいっこう平気なのか、しゃべったり煙草を吸ったり、居眠りをしたりしている。

「こんなに古い客車でも、そうそう事故が起こることはないのだな…」

 と大田も尻を落ち着ける気持ちになった。

 こうやって旅客も貨物も何もかもゴッチャに連結した列車を混合列車と呼ぶのだとは、大田も知らなかったが、この時代のローカル線では珍しいことではなかった。

 しかも、混合列車の客室にいるのは乗客ばかりではない。すみのほうには、積み上げられた荷物まで同居しているのだ。

 段ボール箱に入っているので中身は分からないが、どこかの駅で受け付けて、どこかの駅めざして送られるのであろう。まだ宅配便が存在しなかった時代であり、郵便局で扱う郵便小包よりもサイズの大きな荷物は、こうして国鉄が運んでいたのである。小荷物とか、客車便などとも呼ばれた。

 そういう荷物が今、大田と一緒に車内に同居している。しかも今は、同じ車内に郵便局までいるではないか。

 大田とは通路をへだてた向かい側の座席だが、そこには見まごう事なき制服姿の郵便局員がいて、スパスパと煙草を吸っているのだ。この時代、都会の電車を除いては、禁煙車など存在しなかったのである。

「こんなところに郵便局員がなぜいるのか」

 と大田は思ったが、理由はすぐに分かった。局員の足元には郵袋ゆうたいが一つ置かれていた。分厚い丈夫な布で作られた袋で、郵便物を収めて輸送するのに使うものだ。

 そうこうするうちに、

「旦那は都会のお方ですかい?」

 と突然、郵便局員が話しかけてきたのには驚いたが、大田も世間話が嫌いなほうではない。

 郵便局員の男は小鼻が小さく、日に焼けて、しわの多い顔だが血色は良く、いかにも善人くさい感じがする。

 ちょっと小柄で、制服を着ていなければ目立たない容貌だが、癖なのか、ときどき自分の服のエリを手で引っ張る。この会話中、大田は何回も目撃した。

「おや、ワシが都会人だとわかるのかい?」

 おそらくこの時、大田はえらく嬉しそうな顔をしていたであろうが、

「なあに旦那、今ポケットにしまった煙草の銘柄があまり見かけない…、つまり輸入品と見えましたんでね」

「ああ、これ? いや、ワシも普段は洋モクなんぞ吸わんよ。あんたたちと同じさ。この煙草は、たまたま人からもらったものでね。偉い人に会ったら、土産にくれた」

「…そうですかい」

「その制服に郵袋、あんた仕事中かい?」

 すると意外にも、郵便局員は不安そうな目でチラリと周囲を見回し、

「この郵袋が悩みの種なのさ」

「どうして? 中身はただの郵便物だろう? 手紙とかハガキとか。今の季節なら残暑見舞いかねえ?…」

「それだけじゃありゃせん。今日は戦死公報なんかも来とる」

「戦死公報って、兵隊になって戦場へ行った人が死んで、その戦死を地元の遺族へ連絡するあれかい? 戦争が終わって何年にもなるのに、まだそんなものが来ますかい?」

「ああ、ぽつぽつとね。遠く南方や大陸へ送られてた兵たちですよ」

「その戦死公報をあんたさんが、遺族のもとへ直接届けるので?」

「そうではなく、私は村役場へもって行くだけさね。村役場で村長が公印を押して、正式な公報の書類になる。村の役人がそれを遺族の家に届ける…。まあ昔だったら、兵事課へいじかの仕事だったんだが、今は違うね」

「ああ、そういえばどこの役場にも市役所にも、兵事課なんて部署がありましたな」

 と大田もなつかしく思い出したりした。この話題が、のちのわざわいの種になるなど夢にも知らずに…。



「大田君、君は何をやったんだ?」

 大阪府警の刑事部屋へ戻ってきてすぐ、吐き捨てるように大田が口真似をし、ドスンと椅子に腰かけたものだから、それまで退屈そうに眺めていた新聞紙面から、上中は顔を上げた。

「やれやれ…」

 と大田はまだため息をついている。

「どうしたんです、大田さん?」

「どうもこうもあるもんか。いま課長から、さんざん文句を言われてきたところさ」

 ははあ、それでさっき大田は課長室に呼ばれていたのだな、と上中は思いつつ、

「どんな文句だったんです?」

「ワシが入室したら開口一番、『大田君、君はS県で何をやって来たのだね?』とさ」

「Sって、大田さんが先日、捜査協力で出かけた町ですよね。あの事件はすっかり解決したのでしょう?」

「ああ、その事件はね。だがもう一件、また持ちあがったそうだ」

「それも大田さんに捜査協力を求めてきたんですか?」

「はっ」

 と大田は大声を出し、車輪付きの椅子を足でカラカラと押して、壁にドンと背中をぶつけた。

「今度の事件は殺人なんだとさ。ワシは重要参考人だ。話を聞きたいから、S県警まで来いとさ」

「ご足労願うと?」

「まあな。汽車賃は出してくれるらしいが…。なんでも、S市からの帰り道に乗ったローカル線の列車で何かあったらしい」

「列車の車内? 大田さんが何かを目撃したにしろ、耳にしたにしろ、よく大田さんの身元が割れましたね。いくらローカル線でも、乗客は一人じゃあるまいし」

 ここで大田はもう一度、大きくため息をつき、

「ワシの悪い癖さ。切符を買いがてら世間話をし、その時に車掌に警察手帳を見せたんだ。その車掌がその後、ワシとあの郵便局員がしゃべっているのを目撃しておった」

「すると殺人の被害者は、郵便局員なんですか?」



 その男の顔を初めて見た時、

「おやおや、どこの署にも似たような感じの男がいるものだ」

 と思い、大田はなつかしくも感じたのである。

 その若い男、名は鳥居といったが、それほど上中に印象が似ていたのだ。

 年齢も同じくらい、背も高いとは言えず、髪を短く刈っているところも、どことなく小柄なところも、歩き方も。

 急行が停車する駅のホームで待ち合わせ、顔を合わせるなりすぐに鳥居は言った。

「大田さん、そちらの課長さんがどう言ったか知りませんが、大田さんは重要参考人じゃありませんので…」

「どういうことだい?」

 大田は少し怒りを感じた。重要参考人でもないのに、遠路はるばる呼び出されたのか。

「はい。重要参考人ではなく、通常の参考人待遇ということでご理解を願います」

 大田は再び、『どういうことだい?』と言いかけたが、鳥居の表情を見てやめた。その表情が、すべてを物語っているような気がしたのだ。

 ははあ、他府県警の人間が事件の目撃者と聞いて、課長か署長か知らないが、鳥居の上司がハッスルしたな。それで勇んでワシを呼んだのはいいが、途中で事情が変わり、トーンダウンしたのか。大阪からここまで、汽車で丸一日かかるわけだからな。その間に何か起こったのか。

 大田にも、後輩いじめの趣味などはない。表情をゆるめ、こう声をかけた。

「参考人ってことは、被疑者とは違うんだよな。じゃあもう帰っていいかい…とも言えんな。とにかくその事件とやらの状況を話してくれよ。ワシに質問したいことがあるなら(尋問なら受けないぜ)、そのあとで受けようよ」

 鳥居はうなずき、

「最初、死体の頭部外傷は鈍器によるものと思われたんです」

「だから殺人事件だと?」

「ところが、傷口の奥深くでごく小さな岩のカケラが発見され、単純な墜落死と断定されたわけでして」

「本当かい?」

「それは現場を見ていただければ分かるかと。あちらのホームの汽車に乗り換えましょう。現場へ向かいつつ、ご説明しますので」

 大田が下車してきた急行列車は、すでに走り去っている。鳥居が指さす方向を見ると、なんとあの混合列車が、ゆっくりと煙を上げながら待機しているではないか。

 大田と鳥居が混合列車から下車したのは、M駅という場所だったが、これがまたすごいところで、そもそもあの郵便局員が語っていたことだが、M村というのが山の奥深くで、自動車の通行できる道路は通じていない。

 だからM村内には、リヤカー以上のサイズの車両は存在しないのであるが、細く長い山道の徒歩行を除いて、このM村への唯一の交通機関が、国鉄のM駅なのだった。

 山中のくぼ地というか、2つの山と山の間の裂け目のようなところで偶然にもトンネルが口を開け、そのわきに、ごく小さなものだが駅を設置することができたのだ。

 駅といっても、ホームも線路も一本きりで、山の斜面に転がり落ちそうにへばりついているのに過ぎない。もちろん無人駅で、正式には駅よりも格下の『仮乗降場』と呼ばれるものだ。

 この分では、乗客は日に20人とおるまい、と大田も思った。

 それでもあの郵便局員の話では、村内に学校が存在しないため、小学生以上の子供は全員、隣村まで毎日、列車に乗って登下校するそうだ。

 鳥居に連れられ、大田が下車したのは、そんな駅だった。ホームへ降りるなり大田はため息をつき、

「先日はあまり印象に残らなかったが、すごい駅なのだねえ」

 M駅とは、今風に言えば秘境駅というところなのだろう。まったく大田の感想通りなのだ。仮乗降場であるから、切符を売ったり改札をしたりする駅舎の建物が存在せず、ただベンチを並べたきりの小さな待合室があるだけだ。

「あの日、郵便局員はここで下車したのでしたね?」

 と鳥居が言った。

「そうさ。車内ではずっと世間話をしていたからね。ワシも一応、見送ったよ。たまたま持ってたんで、別れぎわに洋モクを一本、進呈したよ」

「洋モクですか?」

「あんたのとこの課長が土産にくれたのさ。郵便局員は興味を持っていたからね」

「検視はもう済んでますが、死体からはそんなものは見つかりませんでした」

「死体が洋モクを持ってなかった? ポケットの中にもか? あとでゆっくり吸うとかで、ポケットにしまったように思うが…」

「いいえ、どこにもありませんでした。もっとも死体は川の中で見つかったので、ポケットの中にあったのが水に流されて、ということはありえますが」

「よせやい。少々水につかっても、制服の内ポケットから煙草が流れ出るかねえ。ポケットの中に、水でふやけた煙草の跡もなかったか?」

「検視報告書に記載はなかったですね」

「ふうん…」

 ホームからすでに何歩か歩き出したところで立ち止まり、大田は周囲を見回した。ホームを離れた線路は、すぐにトンネルの中へと吸い込まれる。機関車の吐き出した煙のにおいが、まだ空気中を漂っているような気がする。

 駅を離れると道はぐるりとカーブし、橋を渡るようになっているが、ポツンポツンと見える村の家々は、みなその橋の向こう側にあるようだ。

「M村って、ここから見ると川の対岸にあるのだねえ」

「そうです。郵便局員の死体が見つかったのは、ちょうどあの橋の真下でした」

「真下?」

「おそらく単純な転落事故でしょう。川を見てください。流れは激しいが岩だらけで、この高さから転落しては、まず助かりません」

「…と検視報告には書いてあるのだね?」

「死体を見ればわかりますけど、一撃で頭蓋骨が割れています。転落して岩にぶつかった衝撃でしょう」

「岩に血の跡はあったか?」

「そんなものはありませんでしたが、水面下にわずかに隠れた岩に衝突した可能性もありますので」

「ふうん…」

 歩き出しもせず、大田が周囲を見回し続けるので、

「大田さん、何を考えているんです?」

「駅から村まで行くとすると、この道を歩いて橋を渡り、ぐるっと遠回りだよな」

 鳥居も大田の視線を追って、

「そうですが」

「だけどもし、ホームから線路に降りて、トンネルとは反対方向、つまりあの鉄橋を通れば、村まではずいぶんと近道にならないか?」

「えっ?」

「ほらごらんよ、駅を出てあの鉄橋は、まっすぐに村へ伸びているじゃないか」

 大田が言う鉄橋とは、幅が数十メートルある川を越え、線路を対岸へ渡すためのものである。鋼鉄で作られ、赤レンガのような色に塗られている。都会でよく見かけるコンクリート橋とは違って、まるで骸骨のようにスケスケである。

 鳥居は顔をしかめた。

「でも鉄橋って、あんな高さですよ。手すりもないし、危険じゃないですか。もしも渡っている途中で汽車が来たら…」

「来やしないよ。こんなローカル線、3時間ごとにしか汽車がないじゃないか」

「そりゃまあ、そうですが」

「よし決めた。一丁、あの鉄橋を通って村へ行ってみようや」

「危ないですよ。第一、違法だし」

「捜査活動の一環さ。それとも君は着いてこないかい? 君が来なくても、ワシは一人で行くぜ」

 まだ駆け出しで若い警部補が、年長の警部に言われ、断れるわけがない。1分後には鳥居も恐る恐る線路に降り、ガラガラと砂利を踏みしめていた。谷間の大きな川をいっぱいに横断する長い鉄橋なのである。

「鳥居君、そんな情けない顔をするな。近頃の大阪じゃ、鉄道のストライキなんかしょっちゅうで、客は線路を歩いて通勤することもあるんだぜ」

 線路の上とは、人間にとって歩きにくい場所である。まず平らではなく、枕木と砂利が交互にあるからだ。

 鉄橋となると、その砂利が消えて、枕木だけになる。しかも鉄製の鉄橋とはスケスケで、その枕木の隙間から、何メートルも下の川をじかに見下ろすことができる。

 大田でなくても足のすくむような眺めだが、鳥居にはもっと大変なのだろう。恐る恐るな大田の後ろを、本当におっかなびっくりでついてくるのだ。

 しかし救いもある。

 鉄橋では、枕木から枕木へと、まるで枝わたりをする猿のように飛び移る必要はなく、左右のレールの間に長い木の板が渡してあり、ごく幅の狭い通路のようになっているのだ。

 それでも、逆巻く水流や荒々しい岩々を間近に見下ろす点は変わらない。

「ねえ大田さん、本当にこのまま対岸まで渡るんですか」

 と鳥居が情けない声を出したのは、まだ3分の1も渡っていないころである。

「鳥居君、下を見るからいかんのだ。足元の板だけを見て歩きたまえ」

「そうやると、自然に下の川も目に入るんですよ」

 それには太田も反論のしようがなかった。

「じゃあさ、この事件について、ワシの推理を聞かせてやる。聞きながら歩けば、気もまぎれるさ…。郵便局員は、さっきの道路橋から転落したんじゃないぞ。きっとこの鉄橋から突き落とされたのだと思うね」

「どうしてです? なぜこんな危ない橋をわざわざ?」

「郵便局員はきっと、生命の危険を感じていたんだ。おそらくはワシと別れ、M駅のホームに下車した直後だと思う。あの混合列車から、殺人者も一緒にホームに降り立ったのさ」

「そうでしょうか…」

 と鳥居は納得していない様子である。

「あのほれ…、郵便局員が大事そうに抱えていたあの布袋…、なんといったかな?」

「郵袋ですか?」

「そうそれ。郵袋はどこで見つかった?」

「死体と同じに、あっちの道路橋の真下ですよ。だからこそ、死体はあそこで川に転落したと見ているわけでして」

「であるから、これは殺人事件ではなく事故だと? だからワシの身分も、重要参考人から、ただの参考人に転落したんだよな…。その郵袋、袋の口は開いていたかい?」

「いいえ、規定通り固く縛ってありました」

「誰かその結び目を確認したのか? 郵便局のやることだから、規則で決められた正式の結び方があると思うんだが」

 すると鳥居は立ち止まってしまったのである。

「郵袋の口の縛り方ですか? いや、そこまでは確認していないと思いますが」

「川原で郵便局員の死体を最初に調べたのは誰だい?」

「通報を受け、現場に最初に到着した地元の巡査です。郵袋も水中にあったのですが、とにかく中身の確認が第一と、急ぎ袋の口を開いたと聞きました」

「それじゃあ、正規の結び方がしてあったかどうか分からないわけだな。中身はどうだった?」

「それはちゃんとありましたよ」

「いや、そうとも限らんぞ。郵袋の中にどんな郵便物を何種類、何通入れたのか、記録は取ってないだろう」

「その殺人者、なぜ郵便局員を殺したんです? 個人的な恨みでもあったんですかね?」

 と鳥居は言うが、明らかに信用していない顔なので大田は苦笑いをし、

「郵便局員が命からがら、この鉄橋へ逃げてきたという証拠があるのさ」

「どこに?」

「ワシのいるここへ来たまえよ。枕木と枕木の間、鉄のケタの上に落ちているものがある。小さくて、普通ならなかなか気づかないだろうな」

「なんです?」と鳥居はやってくる。

「見てごらん。真新しい煙草の吸殻だ。洋モクのね」

 とっさにかがんで、鳥居が拾い上げようとするのを大田は制した。

「素手では触らずに、ハンカチに包んだほうがいい。運が良ければ、郵便局員の指紋が出るだろうよ…。よく汽車の起こす風で飛ばされなかったもんだが、ここは速度の遅いローカル線だからな」

「はあ」

 鳥居が冷や汗をかいていることに、大田は気が付いた。こういう高所があまり好きではないのだろう。

 それは大田も同じだった。なにしろ手すりもないのである。

「大田さん、本当に対岸までこの鉄橋を渡るんですか?」

「いや、その必要はなくなった。駅へ戻ろうよ」

 すると鳥居は、見るからに安心したような顔をする。

「いや鳥居君、この鉄橋を渡る必要がなくなったのはもちろんだが、M駅で調べることができたからだよ」

 そうやって鉄橋を後戻りし、大田が鳥居を連れて行ったのが、ホームわきの待合室だったのである。意味が分からず、鳥居はキョロキョロしているが、

「鳥居君、君は喫煙者ではないようだが、もし君が吸う人間だとして、思いがけずも高価な外国煙草が手に入ったとする。ならどうするね?」

「どうするって…」

「郵便局員は、ワシと同じように考えたのさ。高価な洋モクだ。いつもの安煙草とは同じに扱えない。歩きながらとか、仕事をしながらではなく、腰を落ちつけ、ゆっくりと味わおうとはしないかい?」

 待合室といっても、駅のサイズに合わせた3畳ほどのものでしかない。三方の壁に沿い、長いベンチが並んでいる。大田はその一つに腰かけてしまった。

「ああ、これはいい具合だ。ここで一服すればよい気分だろう」

 今にも大田が一本取りだし、火をつけるのかと鳥居は思ったが、そうはならなかった。大田は不意に、天井を見上げたのである。

 鳥居も真似をしたが、そこはいかにも田舎の駅らしく、額に入れたような格好の各種の広告が掲げられているのだ。

 ここから少し離れた町の大きな病院。隣町の旅館。名産品の和菓子といったものだが、その中の一つが特に大田の目を引いたようである。

「そうそう鳥居君、あの混合列車の車内で、ワシはこの酒の話を郵便局員としたよ。車窓に工場の建物が目についたのでね。あまりに変わった名前の酒だからさ」

 いま大田はその広告を指さしているのだが、鳥居も目を向けた。地元の名酒で、メーカー名や宣伝文句とともに、酒名がデカデカと赤文字で書かれている。

「『人食い鬼』ですか…。変わった名前の酒ではありますね」

「変わりすぎさ。近在で有名は有名なんだが、実際に飲んでみると辛いばかりで、あまりうまくはないとあの郵便局員は言っていたがね」

「その酒に何か意味があるんですか?」

 いかにも不信そうな鳥居の表情に、大田はニヤリと笑い、

「意味があるかもしれんさ。郵便局員にとって、この酒のことは、ついさっきワシと話したばかりの話題だった。そしてワシのことを警察官だと知っていた…。車掌から切符を買うとき、悪い癖でワシは警察手帳を見せたが、それを見ていたのだろうよ」

 鳥居が目を見張ったのは、大田がズリズリとベンチを動かし、その上に立って、広告の裏側に手を伸ばし、何かを探す素振りを見せたからである。その広告とは、もちろん『人食い鬼』で、すぐに大田はアッと小さな声を上げた。

「どうしました?」

「あった、あったぞ…」



 20分後、今度はあの鉄橋ではなく、正規の道路橋を通って、大田と鳥居はM村の中を歩いていた。

 急峻なばかりで平地が少なく、家を建てるには難儀しそうではあるが、それでも数えてみると戸数は少なくない。20軒もあるのである。

 電話のない家も当たり前であり、交通も不便な時代だから、村の中にはもちろん駐在所があった。

『M村駐在所』と書かれた木製の看板があり、小さな小屋のような建物の隣には住居が寄りそっている。きっとここの警察官は家族ぐるみで赴任しているのだろう、と大田は思ったが、訪ねてみると警察官は独身の若者であった。

 駐在所の中に足を踏み入れるなり、大田が自分の警察手帳を見せたのは言うまでもないが、実はこの時、大田は内心で喜んでいたのである。

『うまいぞ。こんなに若く独身の巡査なら、地元のしがらみもあるまい。きっと本音をしゃべってくれるだろう』

 今度ばかりは大田にならい、鳥居も警察手帳を見せることになった。さっそく敬礼し、若い巡査は二人に椅子をすすめつつ、

「先日の郵便局員の件で来られたのですか? あれは事故による転落死と決着がついたと聞きましたが…。最初は物取りの可能性も考えられたが、郵袋の口がキチンと縛ってあったので」

 大田は、もう一度若い巡査を眺めた。

 M村の駐在所に赴任とは、ここの県警では出世コースなのだろうか。それとも閑職なのか。

 この巡査、いくらかきゃしゃで頼りない体つきをしているが、帽子の下に見える髪は、米軍兵士のように短く刈ってある。唇が分厚く、歯が少しばかり前に突き出しているのが目立つ。

「うん、その件ね。それはそうなんだが、少し気になることがあって、念のために調べている。この村のことを少し教えてくれるかい?」

 話がどちらへ向かうのか見当がつかず、鳥居は黙っている。

「この村のことですか? 私も赴任してまだ一年なので、あまり詳しくはないですが…」

「一年もいれば十分さ。まず第一に、M村のMというのは、古い地名か何かかい?」

「いいえ、人名です」

「人の名?」

「村一番の金持ち一族、土地持ち一族のMという家がありましてね。江戸時代にはナントカいう別の村名だったのが、明治期あたりに改名したのだとか」

「その金持ち一族と同じ村名に?」

「はい」

「そのM家って、どのくらい金持ちだい? 大地主ということだが、戦後の農地改革で、どんな大地主も相当の土地を失ったと聞いたが」

「いいえ、農地改革とは文字通り、農地つまり田畑だけが対象で、林業地については行われず、手付かずのままです。M家は林業家でして、御覧の通り、ここは林業だけが産業といっていい村です。今だって、ここから見える山のすべてはM家の所有物ですよ」

「ふうん…」

 そういえば、先日乗った混合列車にも材木が積まれていたな、と大田は思い出したりした。そこらの山から切り出され、大阪か東京へ出荷されるところだったのか。

 大田は、自分の頭の後ろをしばらくかいていたが、

「じゃあ巡査、次はこれを見てくれ。駅の待合室の広告板の裏に押し込み、隠してあったんだ」

 とポケットから大田が取り出したのが、一通の手紙だった。白い紙製だが、がっしりした封筒である。あて先は『S県〇〇郡M村・村長殿』とある。明らかに公用の封筒なのだ。

「これは何です?」

 と巡査は目を丸くするが、それは鳥居も同じで、ここへ来るまで大田は目を触れさせなかったのだ。

「差出人はこうさ」

 大田は封筒を裏返した。すると東京の住所で、『厚生省 引揚・援護庁』とある。

「ははあ」

 と最初に鳥居が声を上げた。年長である分、巡査よりも知見があるのだろう。

「これは明らかに戦死公報だよな」と大田は自慢げに続けた。「…あの日、混合列車の車内で郵便局員が言ったことを思い出すよ。誰かの死を遺族に伝達する仕事を、その一部でも担うのは気がふさぐとね」

 見回すが、鳥居も巡査もよく分からないという表情をしている。大田は説明を始めた。

「まず第一に、あの郵便局員が列車で郵袋を運んで行く先はM村だけだ。他の村へは自動車の通れる道があるからな。そして郵便局員は車内でワシと会話し、郵袋の中に戦死公報が入っていることを、うっかり口にしてしまった」

「そんな話をしたんですか」

「まわりの座席にどんな乗客がいたかはもちろん記憶にないが、Mは大きな村じゃない。戦争から数年、今後、戦死公報が届きそうな人間の数など知れている。郵便局員の話から、それが誰の戦死公報なのか、その者はすぐにピンと来たのだろうな」

「あー」

 と巡査が口を開いた。

「…戦死公報が来そうな人物というなら、心当たりがあります。小さな村ですから、すでに復員しているか、あるいは戦死が確定していない者は一人しかおりません」

 大田はニヤリと笑い、

「それは誰だい?」

「M家の跡継ぎです」

 少しややこしい話になるが、巡査は説明を始めた。

 M家とは前述の通りの大地主一族だが、当代の当主は、生きてはいるがもう老人で、病気がちで、いつ死んでも不思議はない状態にある。この男には長男と次男がいて、戦争中はどちらも兵隊にとられて出征していたが、戦後すぐに次男だけは復員してきた。

 長男はまだ復員していない。

 本当なら、長男が帰り次第、家を継ぐ予定であるが、もしもそれがかなわぬなら次男が…、ということになる。しかしこの次男、いささか問題の多い人物であった。 

 大酒のみで乱暴者で、ばくち打ちで女癖が悪くて、どうしようもない。過去に何度もトラブルを起こし、相当な額の借金を抱えたこともある。借金はどうやら父親が肩代わりしたらしいが、とにかく兵隊にとられる前から札付きだったのだ。

 M村としては、この次男が後継者になることは、何としても防がねばならない。もしもこんな男が跡を継げば、あっという間に身代を持ち崩し、M家の経済が左前になるのは火を見るより明らかではないか。

 巡査は、こう説明を締めくくった。

「もしも長男が戻らず、次男が跡を継いでしまったらどうしようと、M家だけでなく、最近は村全体が気をもんでいるようです。M家が没落するということは、村全体がダメになるということです。ここの周囲の山々はすべてM家の所有物で、村の運命とM家の運命は、事実上、一心同体なのですよ」

 もう何本目かの煙草に火をつけ、大田はふうっと煙を噴き出した。

「そりゃあ怖い話だな。つまりさ、村でまだ戦死公報が届いていないのは、M家の長男だけだった。だから、誰と名を聞かなくても、村役場に戦死公報が入ると聞くだけで、村の者なら、それが誰のことかはすぐに分かったわけだ」

 巡査が言った。「噂で聞いたのですが、M家遠縁の若者を見つけてきて、これを養子にするという計画が一部で進んでいるようです。だが当主の老人が頑固で、なかなか首を縦に振らない。それをなだめすかして、説得するのに時間がかかっている。そこへ戦死公報が来たわけですから、タイミングとしては最悪。M家の側近たちのあわてぶりが想像つきますね」

「ふうん。M家の側近たちにしてみれば、1週間でも2週間でも、なんとか時間を稼ぎたいところだよな」

「あれれ?」

 と突然、巡査が言い始めたので、大田は驚いた。

「どうしたんだい?」

「今思い出したことがあります。郵便局員が死亡したと推定される時刻ごろ、この駐在所にひとり、人が来ていたんです。女でしたが」

「ああ、やっぱりね」

 と大田は満足そうだが、鳥居はまだよく分からない様子だ。「どういうことなんです?」

「巡査、そのやってきた女の用件とは、どういうものだったね?」

「それがおかしいのです。内容のない、サッパリつかみどころのない話ばかりして、隣の家の猫がおかずを盗みに来て困るとか、裏の家の犬が吠えて、うるさいとか…。ところが結局5分間ほど話すと、突然『まあいいわ。自分の勘違いかもしれない。何かあればまた来ます』と一人で納得して、帰っていきました。私はあっけにとられて、口をポカンと開けたことを覚えていますよ」

「そうだろうな」

「それって結局、何がどうなっているんです?」

 と鳥居は、まだ分かっていない。

 大田は説明をした。

「あのとき、M駅で混合列車から下車したのは、郵便局員の他に2人ほどいたのだろう。どこかに用事で出かけていた村民がM駅へ戻ってくるのは、珍しいことではない。しかしそいつらは、車内でワシと郵便局員の会話を小耳にはさんだ。『おいおい、役場に戦死公報が届くと困ったことになるぞ…』とね」

「それから?」

「郵便局員は何も知らず、ホームに降りると待合室に入り、腰かけて洋モクをのんびりとふかすことにした。それが生涯最後の一服とは夢にも知らずにね」

 若いのに、なかなか切れ者のようである。大田の話の続きは巡査が引き継いだ。

「その続きは、こうですかね? ホームに降りた2人の村人は、作戦を練った。まず一人が待合室に残って、それとなく郵便局員を見張り、なんとか話しかけて、役場へ行かないように足止めをする。もう一人は村へ駆け込み、急を知らせたのでしょう。そして私の目をごまかすため、女が一人、この駐在所へ送り込まれた」

「そうそう。つまらない作り話でひきつけ、君が窓の外を見ないように仕向けたのさ。遠く小さくだけれど、ここの窓からはあの鉄橋が見えるからね」

「待合室に残ったほうの村人は、どうしたんです?」

「ヤアヤアとかなんとか、郵便局員に話しかけたんだろうが、局員は局員で、どうも雲行きがおかしいと気が付いた。それで相手のすきを見て、戦死公報を広告板の裏に隠したのだろうね」

「そのあとは数人の村人が示し合わせて待合室に集まり、戦死公報を渡せと郵便局員に迫ったのか…」と鳥居。

「だが郵便局員は逃げた。郵袋をかかえて命からがら走り、この駐在所を目指してね。その場合、道路橋よりも鉄橋のほうが近道になるじゃないか…。だが途中で捕まり、鉄橋から突き落とされた」

「郵袋はどうなったんでしょう?」

「口を開いて、犯人たちが中を探したさ。当然ながら戦死公報は見つからない。すでに広告の裏に隠されていたからね。だが見つからないといって、他にやりようもない。郵便局員の死体が道路橋まできちんと流れ着いたことを確認して、郵袋も川へ投げ込まれた。とまあ、ワシはこう見るね」

「なるほど…」

 しかし、こんなところで話だけしていてもラチはあかない。なんといっても証拠がないのである。

 このままお開きとなったが、最後に大田が言った。

「鳥居君、今となっては、ワシがS県警へ出頭する必要など全くないのだろう?」

「はい。でも私は本部へ戻ります。さっき鉄橋で見つかった洋モクの吸殻とこの戦死公報、2点を証拠品として持ち帰らなくてはなりません。大田さんはどうします?」

「ワシかい?… 巡査君、突然ですまんが、今夜ワシをここに泊めてくれんかね? 今から町に出て、宿を探すのも面倒だ」

「ええ、いいですよ。何もありませんが、よろしければどうぞ」

 こんなに小さな村の中である。少しでも目立たないようにするため、大田も巡査も、鳥居を駅へは見送らなかった。本数の少ないローカル線の最終列車を捕まえ、鳥居はS市へと帰っていった。

「さて巡査君…」

 鳥居が去り、急にガランとした駐在所の中で大田は言った。

「なんです?」

「今日一日、ワシと鳥居君があちこち嗅ぎまわったことは、村の連中はもちろん気が付いているだろう。連中はこの次、どう出るかな?」

「大田さんは本当に、これが村ぐるみの殺人事件だと思ってるんですか?」

「証拠はないがね。そう思うよ」

「明日になったら、目撃者を探してみましょうか?」

「意味なかろうよ。きっと村全体で口裏を合わせているさ。目撃者など一人も現れまいよ」

「鉄橋から道路橋まで、数百メートルの距離があります。郵便局員は鉄橋から落とされたとして、よく川の途中の岩に引っかからなかったものですね」

 ついに煙草を切らしてしまい、大田は恨めしそうに空箱をごみ箱に捨てた。鳥居だけでなく、この巡査も吸わない人間なので、一本たかることもできない。

「流される途中で2、3回は引っかかったさ。そのたびに誰かがつついて、ちゃんと流したんだよ。死体が道路橋の真下まで行ったことを確認して、郵袋も水に放り込んでから、君を呼びに来たのさ」

「ははあ」

 大田は大きくあくびをし、

「さあて、いつまで話していても仕方がない。すまんが君、何か食わしてくれんか?… もうこんな時間か、腹が減って当たり前だよ」

「はい、今すぐしたくします」

「量は軽くでいいぞ。後でまた出かけるところがあるからな…」

 夕食後、2杯目の茶を飲み終わって、大田が立ち上がるそぶりを見せたものだから、巡査は声をかけた。

「さっきも言ってましたが、こんな時間にどこへ行かれるのです?」

「うん、腹ごなしの散歩を兼ねて、ちょっと歩いてくるよ。この駐在所に電話機があることは知っているが(大田は机の上を指さした)…、この村にだって、他にもう一つぐらい電話があるだろう? どこだい?」

「ええ、ここから駅へ向かって歩いていくと、右手に店が見えてきます。パンでも煙草でも金物でも売っている『何でも屋』ですが、電話ならそこのを借りることができますよ。でも、もう店は閉まっているはずですけどね」

「それでいい。まさかまだ寝ついてはおるまい。雨戸をドンドンたたいて、開けてもらうさ」

 その言葉通り、大田は一人でその店へ行き、すでに閉じている戸を開けさせたのである。店舗と住居が一体になったつくりなのだが、暗かった店に明かりがつき、雨戸が少し開いた。

 顔を出したのは中年の男で、この屋の主人であろうが、店の他にも多少は田畑を持ち、日中は耕作もするのだろう。日に焼けて、年齢よりも顔にしわが多く、深く刻まれている。

 新聞でも読んでいたのか、丸いレンズの眼鏡をかけ、建物の奥からはラジオの音と、子供の騒ぐ声が聞こえてくる。

「あんた誰?」と男は言った。

 ここで大田が警察手帳を見せたのは言うまでもない。

「夜分遅く、どうもすみません」

「警察の人ですか?」

「はい、ちょっと電話を拝借したいと思いまして」

「電話? 電話なら駐在所にあるじゃないですか? 何の捜査です?」 

「それが運悪く、駐在所の電話は故障して使えんのです。何の捜査かは、申し上げかねます」

「はあ…」

 男は一瞬、気の抜けたような顔をし、それでも大田に手招きをした。

「まあどうぞ。電話はここにありますよ…」



「それで大田さんは、どこへ電話をかけたんです?」

 大阪府警に戻り、ここは刑事部屋の中である。S県から帰還し、課長のところへ顔を出して、大田は報告を済ませた直後だ。その顛末を今、好奇心いっぱいの上中に語っている最中なのである。

「いやいや、ここからが大変だったんだ、上中君。まあ聞いて笑ってくれ」

 大田がM村の駐在所に宿泊した夜、正確にはその深夜のことだが、ある動きがあったのだ。

 夜がまだ更けぬうちに、大田は村の『何でも屋』を訪れ、電話の使用を申し込んだ。その店の電話機はなんでもない黒色の旧型で、店のすみの机の上にちんまりと置いてあった。

 店の主人はそれを指さし、「じゃあ」と言って、その場を離れるそぶりを見せたが、その実、物陰に隠れて聞き耳を立てていることは、大田も百も承知していた。

「警察官がこれから何を話すのか、M家の連中にせいぜいご注進するがいいさ…」

 と大田はそういう気分だったのである。

 この時代のそれも田舎のことであるから、ダイヤル式の電話機ではない。受話器を持ち上げ、子猫のシッポのような小さなハンドルをくるくる回して、交換手を呼び出すのだ。

 電話をかける先はその時、交換手に口頭で伝えるのだが、当然、周囲の耳にも入る。

「S県警の捜査一課をお願いします。電話番号は…」

 その電話番号は、あらかじめ鳥居から教えられていた。もうそろそろ鳥居が県警に到着する時分だろうと見当をつけて、大田は電話をかけているのだが、それ以外にも事前に、鳥居に言っておいたことがある。

「今夜、ワシは県警本部にいる君のところへ電話を掛けるが、ワシが何を言っても、君はただハイハイとうなずいていればいいからな。何の行動も起こさないでくれ、わかったね?」

「はあ…」

 と鳥居はよく分からない顔だったが、とにかく指示通りに動いてくれた。電話でしゃべる大田の言葉を、ただ右から左へと聞き流したのである。

「…うん、そうなんだ、鳥居君。鉄橋の真下の岩に血痕が見つかった。郵便局員があそこから突き落とされた重大な証拠になるだろう…。その血痕って、もちろん犯人たちが見逃したものさ。明日の朝、一番列車に乗って、鑑識を連れてここへ来てくれ。いいね? では手配を頼んだよ」

 それで電話を切り、大田は『何でも屋』を後にした。大田としては、犯人を揺さぶるタネを植えたつもりだったのである。

「あとは連中がどう出るか。それが見ものだな」  

 大田というのは、相当に楽天的な人物であろう。もしも彼の想像通り、これが村ぐるみの犯罪であるなら、今の電話であわてた犯人たちが、大田と巡査を強引に拉致し、証拠隠滅を図るということもないわけではない。

 しかし大田には、そのあたりの思考が見事に抜け落ちていた。

 そして、この深夜の動きである。大田は上中に話し続けた。

「真夜中になって、駐在所の表のドアをドンドンと叩く音が聞こえるじゃないか。『すわ、来おったか』とワシは飛び起きた。シャツもズボンも脱がずに布団に入っていたのだよ。それで同じように顔色を変えた巡査君とともに出てみたところ、初老の男がいてね」

「それは誰です?」

「初めて見る顔だったが、すぐに巡査が耳打ちしてくれた。『M家の秘書です』ってさ」

「秘書?」

「大きな家だからな。そんなものがいるのさ。秘書と執事をつきまぜたような仕事をしているそうだが、背の高いやせた男でね。身長と同じように、鼻も高くとがっている」

「へえ」

「どこかオンドリを思わせるご面相さ。真っ白な髪を、こんな時間なのにピッタリとなでつけ、整えてあってね」

「その秘書はどんな要件だったんです?」

 一応の自己紹介をしたあと、秘書はポケットからある封筒を取り出した。

『また手紙かよ』

 と大田は思ったが、秘書は手渡し、中身を読ませた。あて先はM家の当主で、内容はというと…

「何が書いてあったんです?」

 もう上中は、好奇心ではち切れそうな顔をしている。そんな様子に大田はかすかに笑い、続けた。

「差出人は女で、手紙の内容は…、

『自分は毎月、M家の次男から手当をもらっている者であるが、この数か月はそれも途切れている。自分と息子の生活費であり、本当に困っている。なんとか当主様から次男をいさめて、ちゃんと払うようにしてほしい。自分の息子は間違いなく次男の子供であり、もしもこれ以上、手当てがとどこおるなら、出るところへ出ることも辞さない…』

 ということだったね」

「それはどういう意味なんです?」

「まったく同じセリフを、ワシも秘書に向けて発したよ。するとさ…」

「はい?」

「ついさっき、M家の当主がついに死亡したんだそうだ。いいタイミングさ。昼前ごろに体調が悪化し、医者を呼んだところ、その目の前で息を引き取ったから、事件性のない病死なのは間違いないとさ」

「どこが悪かったんです?」

「うん、心臓がね…。それで当主の死を知らせてやろうと次男の部屋へ駆けつけたが、いくらドアをたたいても返事がない。と言ってもカギがかかっているわけではないから中に入ると、次男はウイスキーをボトル一本空け、酔っ払って寝ていたそうだ」

「へえ」

「そして次男の目の前、ウイスキーのグラスの横に、この手紙が置いてあったそうだ。当主あてなのを勝手に開封したのだろうな。郵袋の中から抜き取って、すぐに燃やしてしまえばいいものを…。ワシはすぐに連絡して、今度こそS県警から人を呼び、酔いから目を覚ました本人も認めたものだから、夜明け前に次男は逮捕されたのさ」

 どうやら上中は、笑いをこらえきれない様子だ。顔を赤くし、頬を膨らませ、

「するとつまり、大田さんの推理は?」

 一瞬、言葉に詰まり、大田は上中を見つめたが、すぐにガハハと大きな声で笑い始めた。あまりに大きな声なので、外の廊下を通りかかった若い婦人警官が振り返ったほどである。

「ワシの推理はね、全部ハズレ。ハズレだったのさ…。いや、突き落とされたのは本当に鉄橋だったから、全部が全部ではないな」

「そうですよ。あの日、郵便局員と同時に混合列車から下車してきたのが、2人ではなく1人。つまりこの次男が一人で…」

 イヤイヤと大田は上中の前で手を振り、

「そうじゃないんだな。あの日、次男は列車には乗らず、ホームの上で郵便局員の到着を待ち受けていたんだよ」

「えっ、どうしてです?」

「狭い村の中のことさ。毎日の習慣だから、郵袋が何時の列車で運ばれてくるかは誰だって知っている。数日前にやらかした大げんかの時、『月々の手当てをちゃんと払うように叱れ、と当主に手紙を書いてやった』と女は次男を脅していた。だから次男は、それを配達前に横取りしようとしてね。次男はばくち打ちで、ガサツな男だが、父親には頭が上がらなかったらしい」

「やれやれ、郵便局員はとんでもないとばっちりを受けたわけですね」

「混合列車から降りて待合室に腰かけ、何も知らずにいい機嫌で洋モクをスパスパやっていたら、なにやら目のすわった大男が近寄ってくる」

「次男は大柄なんですか?」

「うん、学生時代は相撲クラブに属していたらしいよ」

「へえ、それはそれは…」

「郵便局員はやせて、小柄な男だった。相当におびえたはずさ。おそらく酒の匂いもぷんぷんさせ、ギラギラとにらむ目つきで、次男はどうも様子がおかしい。しかし郵便局員は、これがM家の次男とは知らず、戦死公報の関連だと思い込んだ」

「ははあ、それでか…。しかし郵便局員は、よく次男の目を盗み、戦死公報を郵袋から取り出して、酒の広告の裏へなんか隠せましたね」

「相手は酔っ払いだからな。何とか隙を見つけたのだろうよ」

「じゃああの、交番へやってきた変な女というのは? ほら、隣家の猫がおかずを盗むとか苦情を言いに来た。あれもただの偶然ですか?」

「あの村は、そもそも人口過密地帯じゃないからな。たまたま鉄橋のほうへ目を向けている者が一人もいなかったのだろうな。村全体を巻き込んだ大陰謀なんて、どうして思い込んだのか、自分でも分からんよ…。ああ上中君、ワシも定年まではまだまだ何年かある。今後は君にちょっと頼みたい」

「なんです?」

「事件が起きて、またまたワシが考えすぎて、なにやらおかしな推理を始めたら、君がブレーキをかけて引き戻してくれ。頼んだよ…」

 見かけはコミカルでも、本人はそれなりに打ちひしがれているようだ。上中も気の毒に思わないでもないが、それ以上に笑いがこみあげて仕方がない。悟られないよう、上中は顔をそむけた。

 大田の愁訴は続く。

「ああ、今度ばかりはワシ自身も、自分の想像力のたくましさにあきれ果てているんだ…」


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