軽便鉄道
「こういうふうに車掌が手でドアを開け閉めする列車というのも、最近は少なくなったな」
と大田は思った。
しかし問題は、そこではないのである。
『これはまた、なんと小さな列車だろう』
というのが、そもそも大田の第一印象だった。
明るいグリーンに塗装された車体は美しい。しかし車体サイズが…、国鉄の電車を大人の体とすれば、まるで幼稚園児くらいの大きさしかない。
まず長さが短い。もちろん車体幅も狭く、向かい合って座る乗客たちのひざが、もう少しで、くっつきそうである。
さらにすごいのは、車体が低くて天井が近いことで、背の高い大田なら、天井板に指先を簡単に触れさせることができる。
そのくらい小型の鉄道車両なのだ。
「さすが軽便鉄道というものだな…」
遊園地の豆汽車とは言わないが、それでも簡易型の鉄道であることは間違いない。
しかもこの車両、ガソリンで動いているのか、床下からはガーガーと大きな音が聞こえ、足の裏にはビリビリとした振動が伝わる。
運転手がアクセルレバーを操作するときだけでなく、クラッチペダルを踏んでギヤを入れ替えるたび、その回転数が変化する。つまりバスや自動車と同じ、マニュアルのトランスミッションなのである。
おまけにこの車両、自動ドアだけではなく、車内放送装置もついていないらしく、駅が近づくたび、『次は○○、○○でございます』と車掌が肉声で告げるのだ。ドアはもちろん、この車掌が手で開け閉めをする。
駅に接近しても、乗降客がいないと見れば、停車せずにそのまま通過してしまう。もちろん、よほど大きな集落でない限り、ほとんどの駅は、駅と呼ぶほどの規模はなく、せいぜい停留所でしかない。
大田もくわしくは知らないことだが、軽便鉄道とは正式な法律用語である。かつて軽便鉄道法というものが存在し、私設鉄道法と並んで、鉄道行政の二本柱となった。
要するに軽便鉄道とは、フル規格の鉄道を建設するだけの資本金が地方ではなかなか集まるまいから、『正式の鉄道よりも少し規格を下げ、安価な鉄道を日本各地に作らせる』というのが立法の動機であった。
だから、1919年までに建設された私鉄はすべて、私設鉄道法か、軽便鉄道法のどちらかに準拠していたわけである(1919年以降は、法の改正が行われた)。
まずもって、その立法目的は果たされたと言ってよい。軽便鉄道法が成立した後には、雨後のタケノコのように日本全国に低規格の軽便鉄道がいくつも設立され、列車を走らせるようになった。いま大田が乗車しているこの鉄道も、その一つなのである。
このR軽便鉄道はO県、山間部にある小さな私鉄である。沿線にある大田の親戚の家で婚礼が開かれるので、そのための旅行だ。本来なら細君も同道するべきであろうが、体調不良のため家に残り、大田の一人旅となった。
そればかりではない。
この車内で、大田が偶然に出会ったのが猫沢である。自宅を遠く離れたこの場所でよくも、というところだが、さにあらず。猫沢は大田の従兄弟なのだった。
なんのことはない。大田と同じ婚礼に出席するために、猫沢もやってきたのである。
軽便鉄道のあまりの小ささにキョロキョロし、大田がひとしきり驚きを感じた後、ふと気づくと、離れた座席に、と言っても小さな車内。距離は知れているが、そこに猫沢の姿を発見したのだ。
気づいたのは猫沢も同時で、ヤアヤアと立ち上がり、大田のそばへとやって来た。
猫沢は大田の伯父の子だが、同い年で、第二次世界大戦をくぐり抜け、似たような時代の似たような空気の中を生きてきたことになる。と言っても両人とも、まだ老害という年ではなく、自らの人生を鼻にかけたこともない。
「やあやあ、今回はめでたいことで」
と大田が口を開くと、
「まったくその通りですなあ」
と猫沢も言葉を返す。
二人は、それからいろいろな話をした。多くは互いの近況報告であったが、大田の職業に猫沢は興味を持ったようである。
「大阪の町の刑事といやあ、やはり危険なのかい? しょっちゅうピストルを抜くのかい?」
「そんなことはないよ。銃なんてめったに使わん。制服警官で取り囲んで、ワッと捕まえておしまいさ」
それでも請われるまま、思いついた事件のいくつかを大田は語って聞かせた。もちろん、まわりに聞こえぬよう小さな声である。
「…へえ、やっぱり都会は事件が多いなあ」
「そうだなあ。こんな田舎じゃのんびりして、あまりコトも起こらんだろう」
と大田は車窓に視線を向けた。
軽便鉄道のレールは、田や畑の間をゆったりとカーブを描いて走り、すぐ左側には大きな川が見えている。その向こうには多少の農家の姿があるほかは、山々が迫っているのだ。
のんびりした風景ではある。
ところが、
「いや、そうでもないよ」
と猫沢の声の調子が変わったので驚き、
「そりゃまた、どういうことだい?」
と大田が問うと、語り始めたのが次のようなことである。
「この軽便鉄道の列車で、去年、列車強盗があったのだよ」
「列車強盗? そんな話、新聞で読んだ覚えはないぞ。そんな大事件なら、府警にもいろいろ通達が来ようし…」
「あんたの耳には入ってないはずさ。今から説明するよ。警察官の推理を聞かせてくれ」
「どういうことだい?」
「まあ最後まで聞きたまえよ…」
だから大田は耳を澄ませたのである。
事件のあったその日は、この軽便鉄道を貨物列車が走行していた。
路線の南端に国鉄の駅があり、その北に数十キロ離れて、大規模な鉱山があった。そもそもその鉱山で掘り出される鉱石を運び出すための軽便鉄道なのだが、さらなる増産が計画されて、新しい精錬設備の建設が決まり、すでに工事も始まっていた。
蒸気機関車の後ろに10両ほどの貨車を連ねた列車だったが、人気のない山中を走行中、突然、前方の線路上に人の姿を発見したのである。
人の姿とは、制服を着た警察官であった。
緑色の木々以外には何もない山中であるのに、珍しく山道と線路が交差する踏切があり、警察官はそこから線路内に入ってきていた。よく見ると、踏切のわきには自転車が止められ、警察官はそれに乗ってやって来たと思われる。
その姿を認めて、もちろん機関手は急ブレーキをかけ、列車は踏切の手前で停車した。
『大変だ。30分ほど前、何者かがこの貨物列車に爆弾を仕掛けたという情報が入った』
息せき切って列車に近寄り、警察官はそう告げたのである。
「なんだって?」
と大田が目を丸くするので猫沢は笑い、
「実はその貨物列車に乗務していた車掌というのが、僕の兄でね。この事件の話は、本人の口から聞いたのさ」
「へえ、あんたのお兄さん。それでその警察官の話を聞いて、お兄さんたちはどうしたんだい? 話のスジから、その警察官は偽者らしいが、本物と見分けがつかなかったのかい?」
「兄貴の言うには、まったくつかなかったそうだ。本物らしく見えたそうなんだな。見慣れた茶色い生地の制服を着て、軍靴みたいなブーツをはき、ゲートルも巻いてね」
「それで、どうなったね?」
と大きく広がった大田の鼻の穴に苦笑しつつ、猫沢は続けた。
「貨物列車には3人の人間しか乗っていない。いいかい? 機関手と機関助手と車掌だ。もちろん、この時点ではまだ3人とも半信半疑だった。そこで警察官は、3人を集めて宣言した。『爆弾が本当に仕掛けてあるかどうか、これから私が列車を調べてみる』とね」
「ほう…」
「もちろん、兄貴たちは警官に任せたさ。懐中電灯を持って、警察官は貨車の床下にもぐり、兄貴たちは少し離れた木陰に避難した。もしも爆弾が爆発しても安全なようにだ。警察官がそう指示したんだ。どういうわけか、この警察官の発する言葉には不思議な説得力があり、兄たちも疑う気持ちにはならなかったそうだ」
「へえ、それは奇妙だ。で、爆弾は見つかったのかい?」
猫沢はニヤリと笑い、
「見つかったさ。『あったぞー』と警察官が大声を上げた時、兄貴たちは飛び上がったそうだ。同時にシューッと音が聞こえ、貨車の床下からは激しく煙が立ちのぼるじゃないか」
「煙?」
「そう、煙だよ。後から分かったことだが、爆弾とは真っ赤なウソ。ただの発煙筒でね…。それでも兄貴たちは大ビックリの全力疾走。木の根や石に足をひっかけながら、山の中を走る走る…」
「爆発はしなかったのだな?」
「まったくナシさ。『これはおかしい』と兄貴たちが怪しみだしたのは、2分も3分もたってからで、木々の間をすかしつつ線路のほうを見ようとするが、よく分からない。そこへ聞こえてきたのが、貨物列車が動き始め、発車する音さ」
「ははあ、あんたのお兄さんたちは、一杯食わされたわけだ」
「その通り。兄貴たちが線路に駆け戻った時には、貨物列車の姿なんて影もなく、残るは、ただ無情にたなびく一条の煙ときたね」
「文字通り煙のごとくかい…」
「どうだい? 面白いだろう?」
「お兄さんたち、首にはならなかったのかい?」
猫沢は首を横に振った。
「ならなかった。爆弾と言われて、発煙筒の煙も見せられては、誰だって落ち着いてはいられないよ」
「そりゃそうだが…。それで何が盗まれたんだね?」
「えっ?」
「強盗事件なんだから、何かが奪われたんだろ? まさか列車を奪う奴はおるまい? 本命は、積んである貨物だ。その貨物列車、後にどこで発見された?」
「1時間ほど後にね。アリのはうようなスピードで、ゆっくりゆっくり進んでいるのが見つかった。終点駅の数キロ手前で、駅員が乗りこんで停車させるのも難しくなかったそうだよ」
「もちろん車内は無人だったよな?」
「そりゃそうさ。機関車の運転台にも車掌車にも人影はなし。パッと見たところ、列車には何の変化もなかったらしいよ」
「それで何が盗まれ…、いや奪われたんだね?」
と大田はひざを進めるが、猫沢はまたニヤリと笑うのである。
「そう、それが問題さ」
「どうして?」
「調べてみると、貨車のドアの封印が破られていることが分かったから、何かが奪われたのは間違いない」
「封印だって?」
「いま話している貨車とは有蓋車のことで、真っ黒に塗られて、屋根があって壁があって、ドアがあって、まるで四角い倉庫みたいな形をしたやつさ」
「ああ、わかるよ」
「通常、駅で貨物を積み込んだ後、貨車のドアは閉じられ、封印がされる。貨物を下ろす駅に着いてドアを開けるまで、誰も手を触れないようにさ」
「どんな封印なんだい? 厳重なのかい?」
「厳重なもんかい。白い紙を折りたたんで、細い帯のようにして、それをドアのカンヌキに結んでおくだけだよ。ただ、結んだあとで係員が紙帯にハンコを押すから、もしも途中で誰かがドアを開いてもすぐに分かる。紙帯が破れるからな」
「ドアに鍵はかかっていない?」
「かかっていない」
「ふうむ、意外とチャチなものだねえ…。それで、いったい何が盗まれた?」
「それは僕も知らないのだよ」
「なんだって?」
「まあ、しまいまで聞いてくれ。兄貴たちが首になるどころか、この事件は警察に届けられすらしなかった。だから、正確には事件ですらないんだな。警察官のあんたが聞いたことも、新聞記事を読んだことがないのも当り前さ。新聞記者たちも知らないことなんだから」
ここで、警察こそが人間社会における最高の権威と信じているらしい大田は、ひどく不快そうな顔をした。
「どうして届けが出されなかったんだ? そもそも貨車からは、いったい何が盗難されたんだね?」
すると猫沢は、両肩をそびやかすのである。
「僕も知らんよ。兄も知らないと言った。貨車のドアが開いていたことから、何かが盗まれたことは間違いない。賊は貨物列車を乗っ取り、何かを奪い、尻に帆かけて逃げさった。逃げる時、機関車の加減弁をわざと少し開けていったから、貨物列車はその後も無人で前進をつづけたんだ」
「ゆっくり走ってたから、事故にはならなかったんだよな」
「そうそう」
「何が奪われたのか、鉄道会社は何も発表しなかったのかい?」
「発表するどころか、鉄道会社と鉱山からは、関係者全員に緘口令が出たよ。一言でも世間にしゃべると、今度こそ首だとさ」
「へえ…」
両手を首の後ろにまわし、大田は座席の背ずりにもたれなおした。「どうも分からんなあ…。今さっき、鉄道会社と鉱山から緘口令が出たと言ったね? すると奪われた貨物の持ち主は鉱山会社か」
「それは不思議でもなんでもない。この軽便鉄道は鉱山会社の持ち物で、運ぶ貨物はほとんどが鉱山関連だから」
「ふうむ…」
「この事件、解明できるかい?」
「いや、さっぱり分からん。明らかな強盗事件なのに、なぜ警察に届けなかったのだろう? どういう理由があるのだろうな」
猫沢と同じく大田も首をかしげるが、話ばかりしていても解決するわけではない。そのうちに列車が目的の駅へ到着したこともあり、二人は下車したのである。
大田は親戚の家に宿泊し、翌日の婚礼は、とどこおりなく行われた。
ところが披露宴も終盤の頃、奇妙なことが起こった。これも披露宴の出席者であるらしい一人の男が大田の前に現れ、丁寧に頭を下げたのである。
「どちら様でしたっけ?」
大田には見覚えのない顔だが、
「いいえ、初めてお目にかかります」
男は中年で、あまり背の高いほうではない。むしろ小柄であろう。
渡された名刺を大田は眺めた。中里絹代・秘書、何某とある。
「中里さん?…」
「その秘書でございます」
言われてみれば、いかにもそんな感じの男である。半分以上白い髪は短く刈られ、ヒゲもキチンとあたっている。地味ながら濃い灰色の背広も、上品に着こなしている。
「大田様は、いつまでこの地にご滞在でございますか?」
『様』をつけられて、大田は面食らったが、
「久しぶりにやって来たので、あと数日はおりますよ。親戚が泊めてやると言いますので」
「それはありがたい。どうでしょう? 明日、中里の自宅までご足労願えませんでしょうか? お迎えに上がりますので」
「その中里さんが、ワシに何のお話でしょう?」
「はい。何か内密のご相談だと聞いておりますが…」
大田は頭を巡らせた。大阪のような大都会とは異なるものの、こんな静かな田舎町にも、やはり犯罪は存在するのだろう。絹代という名から女と思えるが、その中里とかいう人物が、なぜ警察官と面会したがるのか。
しかも大田はO県警ではなく、他府県の警察官である。管轄外もいいところだ。
しかし大田は興味を感じた。昨日、従兄弟から聞かされた軽便鉄道のミステリーのことが頭に浮かんだのである。
『もしかしたら、それにかかわる相談なのかもしれないぞ』
だから大田は決心したのである。
「そうですか…。よろしいです。明日うかがいましょう」
「ありがとうございます」
明日の時間を約束し、中里の秘書は帰っていった。
その夜、大田はまた前日と同じ親戚の家に宿泊したのだが、
「中里ってどんな家です?」
と家人に質問することはもちろん忘れなかった。
「中里といやあ、この町どころか、近在の郡でも一番の大金持ちだぞ」
というのが答えだった。
「大金持ちって?」
「R鉱山というのがあるだろう? そこの所有者一族さ。ここらへんの山も大概、中里家の持ち物だ」
「へええ、同族経営なのかい?」
「鉱山を開発したのは、中里の先代だ。帝国大学で鉱山学を学び、故郷へ帰ってから、一人で山中を歩き回って鉱脈を探した。始めの数年は何も見つからなくて、町の人間に笑われていたが、あるとき川岸の崖に崩れた跡を見つけてな。それが露頭だった…。今じゃ、あれだけの大金持ちさ」
「中里家って、その本家なのか…」
「鉱脈を発見した親父の跡を継いだ二代目も、頭の切れる男だったが、去年死んだよ。病名は…、何だったかな?」
「すると、この中里絹代というのは?」
「死んだ二代目の未亡人さ。これもなかなかの女で、鉱山を一人で切り回しているよ。辣腕の女経営者だな」
「ほう…」
それだけの予備知識を得て、大田はその朝を迎えたのである。
迎えは時間通りにやって来た。昨日の秘書が自動車に乗って、家の前に現れたのである。
もちろん舗装などない時代の田舎道だが、ホコリ一つないピカピカの外国車だったのには、大田も驚いた。秘書は運転手も兼ねているようである。
大田は運転免許こそ持っていないが、府警の車両なら乗り慣れている。主にパトカーだけれども、外車というだけなら、大田も何度か経験があった。
この時代、日本の自動車産業はまだ未発達で、道路上には、現代よりもずっと多くの外国車を見ることができた。その中にはもちろん輸入車もあったが、外国車を日本のメーカーがそのまま生産する、いわゆるノックダウン方式の車も多かったのである。
しかし、いくら大阪府警の車両にも、中里家のような高級車は存在せず、ふかふかのシートに、大田はおっかなびっくりではあった。
いざその自動車が走りだし、目的地に到着すると、大田も覚悟はしていたが、想像通りの大邸宅だった。
こういう田舎のことだから、もちろん洋風の建物ではない。黒い瓦を敷き詰めた、どっしりした大屋根の下に、巨大な平屋が広がっているのである。
門を入ってすぐのところにロータリーがあり、ここから徒歩で中庭を通り抜けて母屋に至るが、雨の日でも客人が濡れることのないよう、ずっと屋根がしつらえてある。
目の前にした玄関口のあまりの広さに、
「こりゃあ赤穂浪士が討ち入りでもしてきそうだぞ…」
と思いながら大田が靴を脱ぐと、やがて案内されたのが、修学旅行の生徒が全員でもザコ寝できそうな広さの部屋である。
しかし床の間があり、今は片側の障子がすべて開け放たれているところを見ると、主人の居間のようだ。
そこで中里絹代が大田を待っていた。着物姿で正座しているのだ。
絹代は想像していたのよりも若いが、
『いやいや、それでも中年に入ってはいるのか…』
と長くなってしまいそうな鼻の下を大田は引き締めた。
絹代は、高価な紬に身を包み、キリリとした表情で大田を見つめている。
「大田警部様ですね。お呼び立てして、申し訳ありません」
と絹代は深く頭を下げた。
「はあ…」
若い女中が大田の茶を持って現れ、部屋を出て行ってしまうまで、二人とも口をきかなかった。
「それで、どういったご用向きなのでしょうか?」
「ええ…」
と絹代は少しためらい、
「…何か事件が起こって困っているというのではありません。少なくとも、昨日今日といったお話ではありません」
「はい…」
「ご婚礼のお話は、聞き及んでおります。従兄弟の娘さんのお嫁入りですか? おめでとうございます」
「これはどうも…」
「この町にも、もちろん警察はおります。駐在所に若い巡査がいるわ。いつも張り切って仕事をしている。でも、その人に話すわけにはいかないことなのです…。そこへ大阪から刑事さんがいらっしゃると聞いて、わざわざご足労願いました」
「ワシも警察官ですよ」
「でも、O県警のお人ではない。大阪府の外にいる限り、あなたは警察官と一般市民の中間的なお立場のはずです」
「はあ」
返事のしようがなく、大田は茶を一口、のどに流し込んだ。鼻先に近づけるだけで風味の広がる、とてもうまい茶である。
「大田さん、私には遠縁の者がおりましてね。若い男なのです。名を中里和馬といいます」
「このご一族の一員ですな。さぞかし立派な若者でしょう」
すると絹代は首を横に振るのである。
「いいえ…」
絹代の遠縁の和馬という男、中里の親戚というコネをうまく利用して潜り込んで、R鉱山の社員として事務仕事をしていた時期もあるが、10代の若い時分には、いろいろあったようである。
小柄な和馬は、生まれつき敏捷で、身が軽かった。これはおそらく、山がちの農村で生まれ、木登りなどなんとも思わない環境で育ったことが理由であろう。
「名前は和馬だが、お前は馬ではなく、サルの生まれ変わりじゃ」
とは、子供時代からよく言われたことだったが、和馬の才能はそれだけではなかった。
猫なで声というのではないが、丸く粘っこい和馬の話し方には、ある魅力があったのである。有無を言わせぬ、というのとは違うが、聞く者を、なぜか納得させてしまうのだ。
あの軽便鉄道や国鉄の汽車に乗って、10代の和馬は少し離れた農村へ出かけては、この声で作り話をし、人のいい同情者から金を巻き上げた。
「またあとで返すから…」
とは言うが、その後はその村へ足を向けることさえしない。
つまり寸借詐欺なのである。
和馬の生家は商売をしており、おまけに子だくさんで、和馬は両親から手をかけてもらった記憶はまったくない。
生家の商売が特に忙しい時期には、祖母の家へ何回も預けられたものだが、純朴な人々、特に老婦人をだます技術は、その頃につちかわれたわけである。
うまい具合に発覚前に祖母が急死したからよかったが、祖母の家の蔵から、少なからぬ品々を持ち出し、和馬は勝手に換金もしていた。
しかしこの小悪党も、
『いつまでもこんなことは続けていられない』
と悟る時が来たのだろう。腰を落ち着け、職を得たほうが得だという結論に達したらしい。
それが、つてを頼ってのR鉱山への就職だったわけである。
「ははあ」
そういう小悪党の改心というのは、大田にもおなじみのよく聞く話である。問題は、すべての改心者が永久に気持ちを持ち続けてはいられないということで…。
「和馬とは、そういう男だったのですか。これまでも何回か警察の厄介に?」
ところが、絹代は首を横に振った。
「いいえ、警察沙汰は一度も…。運がよかったか、本人の頭がよかったのでしょう。体と同じように、頭脳もすばしっこかったわけです…。だけどついに、和馬は鉱山会社のお金に手を付けてしまいました。本人はうまくやったつもりでしょうが、帳簿はごまかせません」
「ははあ、ついに馬脚を現したか」
と大田は、自分でも知らずに笑い顔を見せていたのだろう。絹代はため息をつき、
「それでも和馬も中里の一族なのです。新聞種やスキャンダルは避けなくてはなりません。ある日、私がひそかに呼び出し、この部屋の中で解雇を告げたのです…。和馬は、いま大田さんが座っていらっしゃるその同じ場所に座り、こうべを垂れて、反省しているふりをしていました」
自分が座っている周囲を、大田が思わずキョロキョロしたのは言うまでもない。
「…この同じ場所で?」
絹代はうなずいた。
「解雇だけでなく、二度と中里家の敷居をまたぐことは許さぬとも、私は和馬に告げました。そのとたん、和馬は顔を真っ赤にし、憤怒にかられた様子でした。バネのように立ち上がり、『仕返しをしてやる。絶対に後悔させてやるからな』とわめき、和馬はこの家を飛び出していったのです」
「それは、なかなか危ないことをなさいましたな。その時、もしも和馬があばれでもしたら…」
「それは私も考えて、隣の部屋に男たちを数人、待機させていたのです」
「はあ、それは良いお考えで」
「恐縮です。でもとにかく、和馬はそのまま姿を消しました」
「ふん、腹の中に何か考えがあったのでしょう。そんな奴が奥様に勘当され、おとなしく引き下がるとは思えません」
「その通りだったのですよ…」
と絹代が声の調子を変えたので、大田は顔を上げた。
「なんですって?」
「大田さん、あのお話はご存知でしょうか? 私が経営している軽便鉄道で、去年、列車強盗事件があったという…」
「ああ、事件といいますか、正式な被害届が出されておらぬから、いってみれば『強盗的な出来事』という程度ですな。存じております。ある人から噂を聞きました」
「それなら手間が省けます。あの貨物列車から盗まれたのは金だったのです」
「金?」
「それも何キロという量ですよ。もちろん純金ではなく、純度は知れているけれど、量が量だから、それなりの値段はしたのです」
「それを、どうして警察に届けなかったのです?」
警察に届けないウンヌンということになると、どうしても大田の鼻息は荒くなってしまうが、絹代は平気な顔をしている。
「届けられない事情があったのです。順番にお話ししましょう」
「ええ」
R鉱山の創業は大正時代にさかのぼるが、鉱床は厚く、鉱石の質もよく、製品は市場でも歓迎され、中里家は大きな財産を築くことができた。
だが、商売人とは欲深いものである。さらなる利益を追求することになった。そこで、やり玉にあがったのが、山中の鉱山で採掘して、列車で別の場所へ運び、そこで精錬して製品に加工するというプロセスだったのである。
鉱石は重く、かさばる。それを鉱山から精錬工場へ列車で輸送するコストもばかにはならない。そこで精錬工場を移転し、鉱山のすぐ隣へ持ってくることが決定したのだ。
こうすれば、鉱石の移動距離はごく短くなり、精錬して完成し、かさばらなくなった製品だけを鉄道で出荷するようにすれば、安く上がるのである。
そのために、この町では新たな精錬工場の建設が始まり、そのための資材の輸送が鉄道で行われていた。
「そこで問題になったのが、精錬工場にはつきものの背の高い煙突で、そのために、どうしても金が必要になったのです」
「どうしてです? 鉱石の精錬と金に何か関係があるんですか?」
「いいえ。でも煙突には避雷針がつきものでしょう?」
「はい?」
大田にはよく意味が分からない。
「避雷針ですよ。建物の頂上に立てる雷よけの金属棒です。本当は雷よけではなくて、わざわざ雷を引き寄せて、他の危険な箇所に落ちないようにするためのものだそうですが」
「はあ」
「高い高い煙突ですから、避雷針なしではいけないのです。ところが、うちの精錬工場の煙突からは亜硫酸ガスが出ます。普通の煙突の避雷針でしたら、材質は鉄でも銅でも何でもいいのでしょうが、亜硫酸ガスに触れる場合はそうはいきません。亜硫酸に耐える材質でないと」
「それが金だというのですか?」
「そうですよ。だから私たちは黄金製の避雷針を東京の会社に発注し、それが貨物列車で届いたのです。長さ1・5メートルほどの棒状で、もちろん純金製ではありませんが、それなりの純度は持っているのです」
大田は不思議そうな顔をし、
「そんなもの、なぜ貨物列車なんかで送らせたのです? もう少し警備のやりようがあったのではありませんか?」
「人知れず木箱の中に入れ、他の荷物の間にまぎれさせて運べばいいと私たちは考えたのです。避雷針に黄金を用いるなんて、ほとんどの人は思いつきもしません。当社の煙突は特殊なケースなのです」
「はあ…」
読者にもお分かりの通り、大田の科学知識は、そもそも心もとない。金だの避雷針だのという話は、あまりうれしくない様子である。
「わたくし、貨物列車が襲われたとの知らせを受けた瞬間、犯人は和馬だと直感したのです。でも、中里家の血を引く者です。新聞種やスキャンダルは避けなくてはなりません…。だから警察へは連絡しませんでした」
「ワシは、あまり感心しませんがね」
だが絹代はそれには反応せず、
「その日が暮れる前に、和馬から脅迫状が届きました」
「脅迫状ですと?」
そばの小机の引き出しを開け、絹代は大田に渡してよこした。白い紙に鉛筆で殴り書きをし、乱暴に折りたたんだものだ。
お前の大切なものをいただいた。返してほしくば、25万円よこせ。明後日の夜の真夜中、屋敷の玄関前で待て。
メガネを取り出し、文面を何度も読み返した後で、大田は顔を上げた。
「はあ、これはよっぽどですな」
「仕方なく、私たちはいいなりに支払うことを決めたのです。25万円という金額は、新しい避雷針をもう一度発注するよりは安いのです。それでスキャンダルが防げるのなら、高いものではありません」
「ワシの給料の何か月分になりますかな…。しかし、廃止予定の古い精錬工場にも煙突があり、そこにも金の避雷針があるのではありませんか? それを持ってきたら?」
「そうもいきません。旧精錬場も、あと数年は操業を続ける予定なのです」
「そうでしたか…。それで身代金を渡すという約束の夜、和馬は姿を現したのですか?」
ところが、いいえと絹代は首を横に振るのである。
「やってこなかったのですか?」
「来ませんでした。それどころか翌朝になって、交番の巡査がこの家の門をたたくではありませんか」
巡査の用件とは、一族の者の不慮の死を知らせるものだった。身代金の引き渡しを約束したはずのその時間には、和馬はすでにこの世の者ではなかったのである。
ある場所で和馬の死体が発見され、発見者が交番へと駆け込んだ。死体が持っていたサイフから身元が判明し、この屋敷へ連絡が届いたのである。
大田は目を丸くし、
「和馬は、どうやって死んだのです?」
「山中で雷に打たれたのです。実は、身代金を受け渡すはずだったあの日は、日暮れ前から厚く雲が垂れ込め、もうまるで夜のような暗さでした。19時あたりからはついに降り始め、それはそれは激しい雨となったのです」
「死体が発見されたのはどこです?」
「この町から少し西へ行ったところに杉林があり、そこの木の根元だそうです。警察の話では、あまりの雨に閉口し、大きな杉の木の根元で雨宿りでもしていたのだろうと…」
「その瞬間、その木に落雷し、和馬も巻き込まれたと警察は見ているのですね」
「私はそう聞きました」
と絹代はうなずくが、大田はまだ不思議そうな顔である。
「和馬がなぜそんな杉林へ行ったのか、その理由も不明なのでしょうね…」
大田が中里の屋敷を出たのは、1時間後のことである。車で送ってやる、というのを『歩きながら考え事がしたい』と断り、日差しの反射のせいで真っ白に見える田舎道を歩き始めた。
「盗んだ避雷針を、和馬がどこに隠したのか、どうか見つけ出していただけませんでしょうか」
そう大田は依頼されてしまったのである。ブツは黄金製。長さ1・5メートルほどの棒状だという。
棒状といっても、針金という感じではなく、空手家でないと曲げることができないほどの太さだともいう。
大田はため息をついた。
「盗んだ本人はすでに死亡し、避雷針をそこらの川にでも沈められてちゃ、探しようがないな」
しかし、絹代の事情も理解できるのだ。事件からほぼ1年が過ぎて、新工場は完成しつつあり、操業を始める前に、金の避雷針を発見し、煙突の頂部にすえつけなくてはならない。
立ち止まり、額の上に手をかざして、大田は新工場の方角を眺めた。
そもそも大きくはない町のことである。大田の歩いている道からすぐ近くではないが、それでもはっきりと見えている。巨大な鉛筆のような煙突が一本、まわりの建物を押さえつけるように立っているのだ。
「おや? あの煙突、もうすでに避雷針が取り付けてあるぞ」
と大田は不思議に思ったが、すぐに絹代の言葉を思い出した。
「避雷針なしに高い煙突を立てることは、法的に許されないので、今は仮に、鉄製の普通の避雷針が立ててあるのですよ。工場が操業を開始するまではそれでよろしい。しかし、いざ亜硫酸ガスが出始めると、鉄ではあっという間に腐食してしまうでしょう」
それが、金の避雷針を見つけ出すタイムリミットなのである。
「ふうむ…」
大田は再び歩き始めたが、ここでいつの間にか、自分が交番の前を通りかかっていることに気が付いた。
「まあいい。ダメで元々。とにかく質問してみよう…」
さらに2時間後、すでに日はとっぷりと暮れて夜になっていたが、街灯などない町の通りを、ズーズーと奇妙な音を立てながら進んでゆく者がいる。
田舎町のことで、もはや人通りなどないが、もしも目撃者がいたら、ひどく驚いたであろう。驚きのあまり、警察にだって通報したかもしれない。
しかし本当のところ、通報など必要なかった。その音を立てているのは警察官だったからである。
杉林からここまで、すでに大田は2キロ以上も歩き続けていた。金属製の太く長い棒に、有り合わせの縄をくくり付け、地面の上をだらしなく引きずっているのである。
目を凝らしても、金属製ということ以上には、その棒の材質は分かるまい。表面は焼け、まるで炭のように真っ黒に焦げているのである。
杉林を出て、歩き始めのうちは、大田もさすがにその棒を肩に担いでいたが、すぐに面倒になり、縄をつけて引きずるスタイルに変わった。まるで散歩を嫌がる犬を引っ張るような格好である。
「こんなに重いものを、よくも和馬は一人で、あそこまで運んだものだな」
と大田は思ったが、貨物列車を停車させたニセ警官が自転車を持っていたことをすぐに思い出した。
「ははあ、盗んだ直後はとりあえず近場に隠しておき、自転車をもう一台用意して、暗くなってからそれで杉林まで運んだか」
中里絹代の屋敷がやっと見えてきた時には、大田は心底ホッとした。
「やれやれ、これでやっとこの重荷から解放されるぞ…」
大田の言う『重荷』とは、2つの意味があった。
1つは文字通り、重量のあるこの金属棒のことで、もう一つは心理的なものである。
どうやら大田という男、絹代の色香に迷ったというのではないが、人から頼まれると「ノー」と言えないたちであるらしい。
精錬工場が操業を始める前に、なんとしても避雷針を見つけ出さないと、と本人が意識する以上に思いつめていたようである。
いずれにしても一仕事すんで、大田は軽い気持ちで、この屋敷の門をたたいたのである。
大阪府警に戻ってきて、田舎での出来事を大田が話してやっても、部下の上中はまだピンと来ていない様子である。
「大田さん、その金の避雷針は、どこで見つけたんです?」
大田は、新しい煙草をもう一本くわえなおした。
「いやいや、話としては単純なのだよ。中里の女主人は言っていた。『避雷針とは、実は雷を避けるのではなく、むしろ引き寄せる装置なのです。周囲にやたらと落ちては困る落雷を、避雷針が自ら引き受けるのです』とね」
「ええ…」
「屋敷を出てからワシはまず交番へ行き、和馬の死体が発見された正確な場所を教えてもらった。よそ者のワシを不審がりつつも、警察手帳を見せたら一発だったよ」
「…」
「そしてこの時、交番の巡査がポロリと口にしたのだな。『あの夜は、実は落雷が2カ所あった』と。そのうちの1回が、例の杉林で和馬を殺したわけだが、もう1回はぜんぜん違う場所に落ちた。どこだと思う?」
「さあ?」
上中としては、首を横に振るしかないであろう。
「建設中の精錬工場さ。例の新しい煙突だよ。今は仮に取り付けてある鉄製の避雷針を直撃したそうだ」
「ははあ」
「いやいや上中君、納得されては困るのだ。新煙突に落雷するのはいい。町で一番高い場所なのだから。しかし和馬の死体が発見されたのは、町の西部に広がる杉林。平らなばかりで、高くなってなどいない」
「そう、それは確かに変ですね」
「巡査の話では、和馬は杉の木の幹に抱き着くような姿勢で死んでいたそうだ。ひどい雨に雨宿りをしていたのだろうとは巡査の意見だが、ワシは信じなかった。和馬は、その木に登ろうとしていたのではなかろうか。身が軽くて、木登りなど朝飯前の男だったらしいからね」
「だけど大田さん、お話の様子では、金の避雷針が東京から貨物列車で運ばれてくることは、鉱山会社のトップ数人しか知らないことだったのではありませんか? 和馬は重役ではなかったのでしょう? それに和馬は、どうして機関車の運転ができたのでしょう?」
「まず輸送計画のほうだが、もちろん和馬は知らされていなかったさ。だけど同じ会社内で働いているんだ。ひょんな機会に小耳にはさまないとも限らないよ」
「機関車の運転はどうです?」
「絹代の話では、和馬は戦時中は中学生で、学徒動員で軍需工場へ行き、入換用機関車を扱っていたそうだ。だから機関車の運転を知っていても不思議はないのだよ…。おや上中君、まだ納得できないのかい?」
大田の言う通り、上中はまだ奇妙な表情をしているのである。
「しかし大田さん、おっしゃるようなそんな大雨の夜に木登りをしようとする者なんか、いるでしょうか? そんな酔狂な」
「いや上中君、それがいたのだよ」
「いたとしても、その同じ木に同時に落雷があるものでしょうか? いくらなんでも偶然が過ぎるように思いますが」
ところがここで、大田はいたずらっ子のようにうれしそうに笑うのである。
「なあ上中君、だけどもし、その木のてっぺんあたりに避雷針が仕込んであったとしたらどうだい? 実はワシは、近所のガキ大将に飴玉を2、3個やって、その杉に木登りをさせた。やはり山の子は違うねえ。まるでサルみたいに登っていったよ」
「そのガキ大将が、木のてっぺんで金の避雷針を見つけたのですか?」
「真っ黒に焦げて、とても金製には見えなかったがね。『きたねー棒』と言いながら、ガキ大将が地上へけり落してくれた。木のかなり上部で、幹と枝の間の隙間に立てかけてあったそうだよ」
「?」
「太い棒だから、簡単に曲げることもできず、仕方がなかったのだろうな。そんな状態で隠していたのだから、おそらくその一端は、それこそ避雷針よろしく、空中に高く長く突き出していたのではないかねえ…」
「はあ…」
そう言って煙を吐き出し、大田が笑うものだから、上中は少し口をはさみたくなった。自分自身の鮮やかな事件解決にご満悦だが、犯罪者ではあるが、なんといっても一人が死亡していることを大田は忘れているのではなかろうか。
しかし上中は、利口にも口は閉じておくことにした。警察官といっても勤め人である。上役に口答えしても、何の得にもならないではないか。




