お宝電車(後半)
「大田警部はいらっしゃるでしょうか?」
警察本部の入口受付といえば、制服姿のいかつい警察官が、来庁者をジロリとにらみつけてから返事をするものと相場が決まっているが、この日の大阪府警は、少し違っていた。
受付の警察官はまばたきをし、腰を浮かせかけた。
まさか立ち上がりまではしなかったが、それでも目は泳いでいる。
受付を訪れたのは、若い女だった。
若いといっても独身には見えない。
指に光る指輪からもわかるとおり、既婚であり、しかし満足げで幸せそうな表情は、まるで輝くかのようである。
新妻とはこういうものか、
と、まだ独身をかこつ受付係は、ため息を隠さなくてはならなかった。
「大田警部はいらっしゃるでしょうか?」
若い女は繰り返した。
大田警部とは、受付係も知らない名ではなかった。
大田は捜査1課の所属で、特に腕利きというのではないが、どことなく愛嬌があり、府警内部で人気も高い。
もちろん、将来出世しそうなタイプではない。
現在の地位、つまり警部で退職するであろうとは大方の見方であり、その後はいかにも猫でもひざに抱いて、余生を送りそうだ。
「大田ですか?」
と受付係は繰り返した。
「はい」
「お名前は?」
「新藤弓子と申します。大田の姪に当たります」
「姪御さん…」
魅力的な若妻の突然の来訪に、用件を尋ねるのも忘れ、受付係は捜査1課へ伝言を走らせた。
ドスドスと足音を響かせ、大田が階段を降りてきたのは、数分後のことである。
「ようっ」
姪の姿を認め、大田は片手を上げた。
警察署の1階とは、騒がしい場所である。
受付係だけでなく、パトロールに出入りする警察官、拘引されてきたばかりの被疑者、相談や苦情のためにやってきた一般市民など、目はいくらでもある。
それに耐えられないほど大田も初心ではないが、ここではまったく落ち着かない。
合図をし、大田は弓子を外へ連れ出すことにした。
大きな役所のそばには、大概それを当て込んだ喫茶店が存在するものである。
大阪府警も例外ではなく、受付係に一言ささやいた数分あとには、大田は弓子と共にその店のドアを押し開けていた。
「弓ちゃんみたいに若い娘と一緒にいると、まるで浮気を疑われそうな気がするよ」
と、テーブルに腰を下ろすと、すぐに大田が言った。
「伯父さん、私、そんな若い娘じゃありませんよ」
「いくつになった? ご亭主は元気か?」
「ええ元気です。年は答えません」
「あはは…、それで?」
弓子はさっそく話し始めた。
2週間ほど前のこと、弓子はある男から突然声をかけられたのである。
ちょっとした理由で梅田へ出かけ、用事も済んだので家へ帰ろうとしていた。
もう午後も遅くで、夕方のラッシュが始まりかけていた。
人の多い駅のことだから、誰がいても不思議はないが、いかにも偶然の出会いを装っているものの、待ち伏せされたような気もどこかして、弓子は警戒心を解かなかった。
しかも弓子は、男の顔を見知っていたのである。
同じ町出身の幼馴染で、名を石井五郎という。
弓子も、小学校では同じクラスにいた。
「よう弓ちゃん、久しぶりじゃないか」
「あら五郎さん…」
「あんたも大阪に住んでたのかい?… 知らなかったよ」
それから数分の間、弓子と石井は立ち話をした…。
…大田は頭をかいた。
「その石井とは、どんな話をしたんだね?」
「特に何もない、当たり障りのないことだったわ。だけど…」
「どうしたね?」
「石井の様子がなんとなくわざとらしいの。ホームで偶然出会ったのじゃなく、いかにも私を待ち伏せていた感じで…」
「その朝、家を出る時からつけられていたと思うのかい?」
「うん伯父さん、たぶんそうね」
「その日はどこへ行った?」
「主人が注文した本が書店に届いた、という連絡があったから、受け取りに行って、お茶を飲んで帰ったわ」
「ご亭主の本って、いつもの鉄道工学の専門書かい?」
「ええ」
「仕事熱心なことだねえ…。でももし、その石井が、偶然を装って弓ちゃんに話しかけたのだったら、なるほど家を出るときから跡をつけるしかないわけだ」
「私も、それが気味悪くて…」
「だけど、話はこれだけじゃないんだろう?」
その言葉に、弓子はにっこり笑った。
少女時代から、何事につけ察しのいい人物なのである。
「そうやって、私の跡をつけてまで話しかけてきたはずの石井なのに、話の途中で突然、そそくさと行ってしまったのよ…。『じゃあな』って」
「突然?」
「ええ、そのことも、あの出会いが不自然に思える理由の一つなの」
「うーん」
大田はもう一度頭をかいた。
どうもよくわからない。
弓子は、こんなつまらない話をするために、わざわざ府警に顔を見せる娘ではなかった。
「弓ちゃん、まだ続きがあるのだね?」
「そのあと私、いろいろ考えたり、思い返したりしたわ。それでわかった。石井が突然顔色を変えて立ち去ったのは、会話の中で、私が伯父さんのことを口に出したからだと思うわ」
「わしのこと?」
と大田は目を丸くした。
弓子はうなずいた。
「うん、私が広島から大阪へ出てきたのは、大阪には伯父さんがいて、警察に勤めていて親しみがあるせいだと話したの」
「弓ちゃんは、子供の頃から何度か大阪へ遊びにきたもんな」
「うん」
「大阪府警に勤める伯父という言葉が出たとたん、石井は尻に帆かけてか…。ふうん」
「ところが伯父さん、まだ続きがあるのよ」
「まだ?」
「女学校時代の私の同級生に、細田百代さんという人がいるの」
「生徒が電車の運転手をするという、珍しい学校だったな」
「細田さんも私と同じ町の出で、小学校も同じなの」
不意に大田は目を細めた。
「すると、弓ちゃんと石井と細田百代は、みな同じ町の幼馴染かい?」
「そういうことになるわね…。だけど、偶然はそれだけじゃないわ。私、細田さんが大阪にいるのを目撃したもの。地下鉄に乗っていたわ。人ごみのせいで、あっちは私には気づかなかった」
「細田百代とは、どんな女だったね?」
「うーん、ずいぶん昔のことだから…。私と親しかったわけでもないのよ」
「どんな顔つきだい?」
「うーん、なんてことのない人…。いいえ、なんてことなさ過ぎるわね。一言で言えば、『ただただ地味』って感じかな…」
「飛び切り地味な女ねえ…」
「いいえ伯父さん、そうじゃないの。私が地下鉄で見かけたとき、細田さんは石井と一緒にいたのよ」
「石井? さっきの男かい? ふうん、夫婦という感じではなかったか? 幼馴染同士で結婚するなど、珍しくないぞ」
「そうかしら?…」
と弓子は首を横に振った。
「…ご夫婦にはとても見えなかったわ。電車の車内で、2人とも運転台をのぞき込む場所にいて、なにやら小声で話し合っているのよ。こそこそとね」
「うーん、よくわからんなあ。それが問題なのかい?」
「あのね…」
テーブルの上に身を寄せ、弓子は声を小さくした。
「…私の主人は地下鉄の職員だわ。だから私は聞かされて、知っているの。毎週日曜の夜、真夜中過ぎだけれど、駅を一つずつまわって、売上金を回収する電車が走るの。部内では『お宝電車』と呼ばれているそうだわ」
「お宝電車?」
「ねえ伯父さん、石井の様子は、どうもコソコソしておかしかったわ。まるで犯罪者みたいにね…。だから、私の伯父さんが警察官と知って、スッと離れていったのよ」
「ううむ…」
「そして毎週、真夜中にそのお宝電車が走るわ」
「…」
「しかも細田さんは、私の女学校の同級生。つまり伯父さん、私と同じように、細田さんも電車を運転する技術を持っているのよ」
ついに大田は、口をあんぐりと開けた。
調査の結果、細田百代に前科はなかったが、石井五郎にはあった。
まだ未成年の時代だが、かなり荒れた生活をしていたようだ。
…やれやれ、これが今度のお客さんかい、
と大田は思った。
未成年時代の石井の前科だが、それがなんと、ナイフを用いた武装強盗だったのだ。
ただ幸い、被害者の商店主が石井を子供の頃から知っており、情けをかけて、被害届を取り下げていた。
道理で、石井の悪い噂を、弓子が知らなくても当然である。
さてさて、石井はどこにいるのか。
それが、目下の大田の最大の関心事だった。
ある日の勤務帰り、大田は弓子の家を訪ねた。
「弓ちゃん、あんた石井の連絡先は知らんよね?」
「ううん、知らない」
「そうか…」
大田の声が、ひどく残念そうに響いたのだろう。
「どうしたの、伯父さん?」
「いや、別になんでもない…。石井の写真を、何かの拍子で持っていたりもすまいね?」
「ないわ。小学校の時には卒業アルバムなんてなかったもの」
「女学校のは?」
「女学校のもないの。終戦のとき、あの女学校は突然に解散して、だからアルバムなんて…」
「そうだったなあ…」
肩を落とし、大田は弓子の家を後にしたのである。
しかし翌日、事件はある展開を見せた。
大田の属する捜査1課は、現在のところ、公式に手を染めている大事件はなかった。
もちろん諸々の小さな犯罪はある。
しかし捜査本部が立ち上がり、専従にしろ遊軍的であるにしろ、刑事たちが日夜兼行、一晩も二晩も家へ帰れないという状況ではない。
机の前で気のなさそうに電話番をしていたが、時間になったので、大田は腰を浮かせた。
「君、ちょっと昼飯に行ってくるよ」
と部下に声をかけた。
電話のベルが鳴ったのは、その時である。
「はい」
と手を伸ばす部下よりも、大田が受話器を取るほうが早かった。
「はい、こちら捜査1課…。なんだ弓ちゃんか」
大田のガラガラ声はともかく、電話相手の声は部下の耳には届かない。
しかし、大田の顔がどんどん緊張してゆくのが見えた。
「弓ちゃん、今どこにいる?… 阪急の中央口の売店の前? ああ、あのバアさんの店か。それなら知ってる…。よし動くな。すぐに行く」
受話器を電話へ戻すのももどかしく、部下の手に押し付け、大田は駆け出した。
大阪府警は中之島近くにある。阪急の駅まで3キロというところか。
大田は府警の玄関へ飛び出したが、パトカーの姿など一つも見当たらない。
「ついさっきまでは1台いましたが、運悪く今しがた出て行ったばかり…」
と配車係は言うのである。
「ええい、間の悪い」
そこへ顔を出したのが、1台のオートバイである。
パトロールからの帰りか、制服の若い巡査が運転している。
若い巡査は、自分めがけて突進してくる大田の姿に、目を丸くした。
「あんた、今すぐわしを阪急の中央口へ乗せていってくれ。今すぐに急いで…」
気がついたときには大田が後ろの座席にまたがっているので、巡査はもう一度目を丸くしたが、大田に気おされ、アクセルを開いたのである。
幸い、弓子の姿はすぐに見つけることができた。
オートバイを乗り捨て、巡査には声もかけず、大田は駆け寄った。
「弓ちゃん、石井はどこだ?」
弓子はそっと指差した。
「あそこよ。丸い大きな柱の影。煙草を吸いながら、どこかのおじいさんと話しているわ」
「おお、あそこか…。それはそうと弓ちゃん、どうやって石井を見つけた?」
「ほんの偶然よ。買い物をするために家を出てきたの。そうしたら見つけて…」
「跡をつけたのかい? 石井は気づいていないな?」
「大丈夫だと思うわ。この人出だもの」
弓子のまねをして大田も見回すが、まったくそうなのである。
学校は夏休みに入り、日曜日ということもある。
子供連れや家族連れで、地面も見えないほどというのではないが、人の波が絶えることはない。
ここは、阪急電車に乗り降りする人々が通る通路なのである。
「ねえ伯父さん、石井はあのおじいさんとずっと熱心に話してる。盗み聞きできるところまで近寄ろうかと思ったけど、小声で話しているふうね」
「そんな危ないことをしちゃいけないさ。お巡りさんに任せておきなさい。それにあのジジイ…」
「知ってる人?」
「有名人だよ。あの顔を知らんデカはもぐりだ。フグの八兵衛といってな…」
「フグ? あんなにやせた小さいおじいさんなのに?」
と弓子は目を丸くした。
「小さいのは見掛けだけさ。フグって魚はほら、テッポウとも言うだろ? 当たると死ぬからな」
「じゃあ、あのおじいさんは、まさか銃の密売人?」
「ご名答」
「へえ、そうは見えないなあ」
「見掛けだけで全部わかるんなら、お巡りさんは苦労しないよ」
「でも密売屋とわかっているのなら、どうして逮捕しないの?」
「そうらしいという容疑なんだが、証拠がないのだよ。証拠がなければ、指一本触れられないね」
「ふうん、警察って面倒くさいのね」
「まあ、そういうものなのでな」
大田は弓子へ、最後の目配せをした。
「さあ弓ちゃん、あんたはお帰り。ここまでご苦労だったね」
「でも…」
「わしはあいつを尾行する。あんたは危険だからね」
そこまで言われてしがみつくほど、弓子も強情ではない。
「じゃあね、伯父さん…」
その場から弓子は、自然にゆっくり姿を消した。
同時に、八兵衛と石井の密談も、終わったようである。
もとより大田は、八兵衛を尾行する気などなかった。
八兵衛の住まいはすでに判明しているが、弓子にも言ったとおり、逮捕状なり捜索令状なりを取るだけの、十分な証拠がないのである。
興味がなく、読みもしない競馬新聞を売店で買い、大田はズボンのポケットに突っ込んだ。
これに赤鉛筆があれば完璧だが、大田もそこまでは用意していなかったのである。
しかし、おそらく石井も気づかないだろう。
大田は、そう願うしかなかった。
八兵衛と別れ、足取りも軽く、石井は駅の階段を駆け上って行く。
中年の大田には、付いてゆくのは、しんどい仕事である。
…やれやれ、わしも年かねえ?
石井は切符を買い、改札口を抜けて電車に乗り込むらしい。
とっさに警察手帳を取り出し、大田も後に続いた。
手帳の表紙を見せると、駅員は警察官を通してくれる。
余談だが、人間のいる改札口ではなく、自動改札機の世となった現代、警察官諸氏はどう切り抜けているのであろうか。
今も昔も、阪急の梅田駅は大きい。
この時代にはまだ京都線が完全に分離せず、十三までは宝塚線と同じ線路の上を走っていたのだが、それでも神戸線、宝塚線、京都線と三つの電車が並ぶ駅である。
人出の多さが、大田の味方をした。
石井は振り向かず、ひょいひょいと進んで行くのである。
人々の間に身を隠しつつ、大田は目をこらし続けた。
石井は神戸線ホームへ向かった。普通電車に乗り込むようである。
自分の策が図に当たったので、大田は機嫌がよかった。
阪急・神戸線の沿線には大きな競馬場がある。
ならその車内にこんな日中から、大田のような男がただ1人、競馬新聞を手に乗車していても、何の不自然さもない。
この時代の電車はまだ短く、普通電車なら2両か3両編成だった。
大田には、あまりうれしくないことである。
石井がどこに乗っても、目が届きやすいぶん、大田が発見されやすくもある。
しかし贅沢は言っていられない。
大田も普通電車に乗り込み、できるだけすみに、目立たなく立った。
座席は、すでにほとんどが埋まっている。
石井も、同じようにドアのそばに立った。
今は大田に背中を向けているが、いつ振り返るかもわからない。
不自然にならない程度に、大田は帽子を深くかぶりなおしたのである。
この時代の電車は、現代のものよりも走行音が大きかった。
前後左右にも、よく揺れた。
冷房もなく、窓はすべて開け放してある。
しかし、そこから吹き込む風も、蒸し風呂のように暑いのである。
ところが意外にも、石井は次の駅で下車してしまった。
神崎川駅といい、実のところ、大田にはこれまであまり縁のない場所であった。
当然、駅を出ても地理もよくわからない。
そして夕方前の人出もあり、あっという間に大田は石井の姿を見失ったのである。
「くそっ」
人目もはばからず、大田は悪態をついた。
道行く人々の間を見透かそうと、キョロキョロと石井の背中を探すのだが、どこにもない。
ついに大田は、競馬新聞を地面にたたきつけたのである。
大田は時計を見た。時刻は午後4時少し前。
「ちっ」
どうしようもなく、大田はそのまま駅へ戻るしかなかった。
今度はきちんと切符を買い、大田は改札口を抜けたが、ついさっき警察手帳を見せて通り抜けた駅員がまだそこにいて、
「おや警察の旦那。何か気をお落としですかい?」
大田は顔を上げたが、サルのような顔の駅員は、うれしそうに笑っているのである。
…こいつ、人の不運が楽しいのか?…
そうは思ったが、こんなところで怒りを爆発させても仕方がない。
「なああんた、この神崎川って、目立たない町だが、何の産業があるんだね?」
「そうですねえ…」
ちょっとは悪いと思ったのか、駅員は愛想笑いをした。
「…駅のすぐ西側をほら、あの大きな川が流れているでしょう? あれが神崎川です。尼崎から上流の伊丹、川西にかけて、川沿いに大きな工場がいくつもありましてね」
「工場って、どんなのだい?」
「製薬とか機械とか、いろいろですよ。そういえば紡績工場もありましたっけ…。そういった工場群と海を結ぶ水運の中心なんです」
「水運って、ハシケやタグボートかい?」
「小型の貨物船や渡船もありますよ。そういった業者がたくさん集まっているわけでもありますかね、この町は…」
「ふうん…」
かつては川の都とも言われており、大阪には川や運河が多く、複雑に入り組んでいた。
神崎川で下車し、もしも石井が水運業者の元を訪れたのだとすれば、おそらく逃走経路の確保のためだろう。
そう大田は考えた。
お宝電車を石井がどこで襲うつもりなのか、それはわからない。
しかしその後の逃走には、水運を用いようというのだ。
ここまで、大田はまだ楽観的だった。
賊の予定する逃走経路など、どうでもいい。
要は、襲撃の現場を押さえればいいのである。
ところが、ここからが、はかばかしくないのである。
弓子の証言内容と自分の調査結果をあわせて、大田はある推理を行った。
しかしそれを、府警上司の誰も信じてくれないのである。
信じるどころか、まともに取り合ってもくれない。
石井が『テッポウの八兵衛』と接触し、武器を手に入れたらしいと伝えても、頑固な上司は動かないのである。
「太田君、もっとしっかりした証拠を持ってきてくれんことにはね…」
失意よりも怒りで顔をピンク色にして、大田は上司の机の前を離れた。
「弓ちゃん、これはどうしようもないぜ」
大田は、再び姪の弓子を同じ喫茶店に呼び出していたのである。
弓子の表情も優れない。
「私の方だってそうだわ。主人ったら、馬鹿にして話も聞いてくれないのよ」
「わしなんか、そろそろ引退を考えてはどうか、と遠まわしに言われたよ。想像力が過ぎるってさ」
2人は口々に不満を述べ合い、それでもいつの間にか、話題はお宝電車のことへと戻っていくのである。
「こうなったら伯父さん、私たちでみんなの鼻を明かしてやりましょうよ」
「弓ちゃんとわしの二人だけかい?… こりゃ荷が重いな」
「どうして?」
「いや、ちょっと待ってくれ。署内の親しい連中に声をかけて頼んでおけば、いざというときの応援は得られるな」
「でしょう?…」
と弓子はうれしそうな顔をする。
「…私ずっと考えてたの。石井と細田さんがお宝電車を襲うのは、来週の日曜だと思うわ。日曜の真夜中ね」
「どうしてわかるんだい?」
「だってその日は、天神祭の本宮じゃないの」
「ああそうか」
天神祭、特にその本宮の夜の人手については、大田も経験があった。
まだ制服の巡査だった頃には、汗みずくの雑踏警備に駆り出された。
特に戦争前には、酒の入っている者も多く、喧嘩や小競り合いが絶えなかった。
あの頃のことを思い出すと、大田は今でもなんともいえない気持ちになる。
その人出を裏で支えているのが地下鉄だというのは、まぎれもない事実ではある。
「弓ちゃん、本宮の夜には、いくらぐらいの売り上げが駅に集まるのだろうな?」
「主人の話では、一週間分をたった1日で売り上げる駅もあるそうだわ」
「それはどこだい?」
「西中島だって」
「西中島? これはまた意外に小さい駅だな…」
と大田は不思議そうな顔をした。
「…てっきり梅田か難波だと思ったが」
「ううん、西中島は、阪急から乗り換えてくるお客さんが多いのよ。京都方面から来た人は、阪急でやってきて、西中島で地下鉄に乗り換え、お祭へ向かうの」
「遠路はるばるご苦労なことだな…。しかし梅田なら国鉄、難波なら南海電車からの乗り換え客があろう?」
「だけど、梅田と難波は大きな銀行の本店も近くて、売り上げは終電前に夜間金庫へ預けてしまうそうよ。真夜中過ぎのお宝電車を待って、それに現金を積み込むのは、比較的小さな駅が多いの」
「ふうん、そんなもんかねえ…」
喫茶店の椅子の背に、大田はドスンと寄りかかった。
「…じゃあ弓ちゃん、賊はどこでお宝電車を襲い、獲物はどうやって運び出し、逃走するつもりなんだろうな」
「それは伯父さんの専門でしょう? 伯父さんが考えてよ。私も頭を絞ったけど、さっぱりわからない。絞りすぎて、もう脳みそがボロ雑巾になったような気分よ」
大田は、決して清廉潔白な男ではない。
むしろいい加減で、物ぐさなところが目立つが、それでも職権乱用など一度もしたことがない。
しかしそれは、大田の善良さを示すのではなく、発覚したときの面倒さ、わずらわしさを考えてのことである。
懲戒免職の危険を冒すくらいなら、はじめから利益など得ぬほうがいい。
実のところ、ただの自己保身なのである。
そういう大田だが、今回ばかりは職権を用いる気になった。
といっても、大したことではない。
地下鉄に乗車して、府警本部へ通勤する行き帰り、大田は地下鉄電車の運転台に同乗するようになったのである。
通勤に必要な定期券はすでに購入しているから、無賃乗車ではない。
運転手はいい顔をしないが、警察手帳を見せて、大田は運転台の中央に立ち、前方の線路をにらみつけるのである。
「地下鉄の線路がどんなふうになっているのかわからないと、賊のやり口など想像もできん」
大阪の地下鉄は建設が古く、なんと最初の路線は昭和8年の開業である。
それ以来、建設と延長を繰り返し、この時点でかなりの長さに達していた。
しかもそれが古い家や屋敷のように、新しい部分、古い部分、もう使われていない部分と複雑に絡み合っている。
古い時代の地下鉄といえば、例外なく天井は低く、トンネルの幅は狭い。
照明の数も少なく、ポツンポツンと灯っているだけである。
走る電車から眺めても、押しつぶされるような圧迫感がある。
ヘッドライトの光も、申し訳のように、ごく近くを照らすだけなのだ。
暗がりや狭い場所の嫌いな大田にとって、決して楽しい道中ではなかった。
「ははーん…」
しかし努力のかいあって、ついに大田はある発見をしたのである。
商都デパートの担当者は、まず不審そうな顔をした。
この男の名は杉本といい、とがった細い鼻をして、髪をきっちりと整えた優男である。
しかし施設部長という肩書きからわかるとおり、もはや若くはない。
細い目が眼鏡の奥で光るさまは、まるでキツネのようである。
当惑した表情で、杉本は大田の警察手帳を見つめた。
杉本の前で、大田は一通りの説明をしたのである。
ただし、府警本部の正式な承認のない大田の単独行動である、という部分は巧妙に隠した。
警察官の突然の来訪ということで、心拍数が上がり、杉山がそのトリックに気づく気づかいはない。
「…ええ、警部さん。確かに当店の地下階は、旧・梅田駅あとへつながっておりますよ」
「戦争前に廃止された駅ですよな」
「昭和8年の開業当時の駅だそうです。その後、国鉄の大阪駅が少し北へ移転し、手狭になってきたこともあって、地下鉄の梅田駅も移転したんです」
「地下鉄電車の運転台から前方を見ると、ホームの跡など、そのままになっているのがわかりますよ…。ところで天神祭の夜にはこのデパートも、夜遅くまで店を開けるご予定のようですね」
「はい。10時までの営業を予定しております。本宮の日は、お客様が特に多いもので」
「ご商売熱心で結構なことですな…」
大田の目が光った。
「…ところでお願いといいますのはね…」
数分後…。
大田個人ではなく、府警からの公式の要請と匂わせたのが、うまくいったのであろう。
杉山は、依頼を承知したのである。
「…まあ、あの地下通路は今は使用しておりませんし、本宮の夜は10時に閉店と申しましても、後片付けに3時間はかかりますもので」
「結構、実に結構」
大田は、上機嫌である。
本宮の夜…。
「これさ」
うれしそうな顔で、大田は弓子に見せびらかした。
本当にその顔は、テストで100点をとった子供のようである。
大田が見せているのは、小さなキーである。
なんのへんてつもなく、メッキもされていず、5円玉のような金色に光っている。
時計を見ると、あと10分で午後10時である。
弓子はまわりを見回した。
大型デパートの店内は冷房も効き、夏の夜でも蒸し暑さはない。
しかし閉店まであと10分、客の波が引き、店内は突然がらんと感じられ始めた。
と思っていると、閉店を知らせるメロディが、スピーカーから流れ始める。
「本日は当店にお運びいただきまして、まことに…」
その放送に負けないよう、弓子は少し大きな声を出した。
「伯父さん、賊たちはもう、本当にそのドアの向こうに潜んでいると思う?」
見ると壁に、鉄製のドアがあるのである。
いつ作られたのか古めかしい感じだが、とにかく今は閉じられており、鍵穴も見える。
大田は、自信たっぷりにうなずいた。
「1000円賭けてもいいさ。さっきまでのあの人ごみだったんだ。一人ずつこっそりドアをくぐりぬけたって、誰も気がつきゃしない」
「でも賊は、そのドアのキーを持っているのかしら?」
「見てごらん、弓ちゃん。こんなに単純な形のキーだよ。ちょいと持ち出して、形取りして複製するのは、難しくもなんともないさ」
「だけど…」
「いや、実はさっき、女が一人、そのドアを入っていくのを見たよ」
「本当?」
「まわりをキョロキョロして、ひどくコソコソしていた。弓ちゃんと同じ年頃だったが、きっと細田百代だと思うね」
弓子は、ため息をついた。
「本当に、女学校の卒業アルバムがあればよかったのにね。そうすれば、伯父さんも事前に百代さんの顔を確認できたのに」
「昭和20年。終戦のゴタゴタのさなかに解散した学校だからね。仕方がないさ」
と、そこまで言い、大田は表情を変えた。
「じゃあそろそろだ。弓ちゃん、さっき言ったように、電話を借りて、かけてきてくれ」
「はい」
閉店を知らせる店内放送がやっと終わり、店員が後片付けをする忙しい中を、弓子は駆け出した。
フロアの担当者にはすでに連絡と事情の説明が済んでおり、電話を借りるのに何の問題もなかった。
受話器をとり、急ぐ指で弓子は、3桁のナンバーをダイヤルした。
受話器を耳に当てると、2回の呼び出し音。すぐに返事があった。
「はい、こちら…」
「もしもし警察ですか。私、捜査1課の大田警部の身内のものです…。ニイタカヤマノボレ、ですって」
府警本部から商都デパートまで、長い距離ではない。
乗用車とトラックが1台ずつ、デパート裏の通用口の前に停車し、降りてきたのは私服の男たちである。
みな大田と親しい非番の警察官や部下たちだ。
警察署長の承認を受けていない非公式の捕り物だから、制服を着用するわけにはいかない。
しかし乗用車とトラックは府警の備品であるから、のちのち問題視される可能性は残る。
警察官たちは警察手帳を見せ(かなり職権乱用に近い)、それぞれデパートの通用口を入っていった。
閉店の後片付けで、店内はまだ戦場のようである。
慎重に隠してもいるし、ポケットの底だからわかりにくいが、この男たちは銃で武装していたのである。
大田は、男たちを2班に分けていた。
一班は今、この商都デパートに来ている。
もう一班は西中島駅に待機し、ちょうど今頃、お宝電車に乗り込んだところだ。
いまやお宝電車には、普段に倍する数の警備が乗り込んでいたのである。
非公式ながらこれだけの作戦を遂行できる大田とは、それなりに人望と行動力のある人物であろう。
商都デパートの地階で、警察官たちはすでに大田のまわりに集まり、指示を待っている。
何回ものぞき込むが、針の動きがのろのろと遅く、弓子はとてもじっとなどしていられない。
大田は、それを見かねた。
「さあもう用は済んだ。あんたはもうお帰り。ご亭主が心配するだろう」
「でも…」
大田は、弓子の手にタクシー代を押し付けた。若い姪を修羅場に引き込むほど、大田は愚かではないのである。
一度か二度は拒んだが、結局弓子は折れた。
地上へと階段を上がってゆく弓子の背中を見送り、作戦準備は整ったのである。
「警部、これからどうします?」
と、若い上中・警部補は気色ばんでいる。
制服警官から昇進したばかりの男で、上中を見るたび、大田はかすかな笑いがこみ上げる。
まだ新人で、やる気満々だった自分の若い時代を思い出すのだ。
しかし上中は小柄で、手足も細い。
体力や腕力に物を言わせることもある刑事という職を、将来重荷に感じることはないだろうか、と他人事ながら、大田も心配になることがある。
「西中島で現金を積み、中津でも積み、梅田は通過してお宝電車がこのデパートあたりに差し掛かるのは、そうさなあ、0時30分ってとこかな…。よし、では出かけよう」
キーを差し込み、大田はドアの鍵を開いた。
思ったとおり鍵は、油でも差してあるかのごとく、スムーズに動くのである。
「やっぱりな…」
店員たちが手を休め、こちらを見物しているが、気づかぬふりをして、大田は部下たちを中へ導いた。
ドアの向こうは、意外にも広い階段になっていて、その時代にはここは、駅への近道として使われており、買い物客たちが上り下りしていたのである。
一度か二度折れ曲がり、階段はさらに地下へと続いた。
左右の壁には、戦争前の広告物がすべて、そのままの形で残されているのだ。
どこか見覚えのある懐かしいものばかりで、もう20年近く忘れ去られたままの通路なのである。
それが懐中電灯の光で照らし出されるたび、立ち止まって見入りたい衝動に大田は駆られるが、遊んでいる暇はない。
顔を近づけ、上中がささやいた。
「警部、床のほこりが乱れています。つい最近誰かが通ったのは間違いないですね」
「足跡から、賊の人数はわからんかね?」
「いいえ、残念ながら…。準備のためやら下見やらで、この階段を何回も上り下りしたでしょうから」
「一つ賭けてもいいが、賊の一人は商都デパートの社員だぞ。それも施設部の人間と見ていい。このキーに…」
大田は、懐中電灯の光に先ほどのキーを光らせた。
「…手を伸ばすことができる立場のやつさ」
「なるほど…」
階段は、突然終わりになった。
足音を立てないよう、警察官たちは、全員がゴム底の靴をはくよう命じられている。
もちろん誰もいないが、前方には切符売り場があり、続いて改札口がある。
「『大阪地下鉄・商都デパート乗り場』と書いてあるな」
と大田が言うと、上中が口を開きかけたが、大田は制止した。
「しいっ、声が聞こえるぞ…。向こうに光も見える」
警察官たちは一列になり、大田を先頭にして、物影をたどり、じりじりと進んだ。
ついにホームの様子が見えてきたのは、1分ほどあとのことである。
「1、2、3…」
大田は数を数えた。
「…7人もいるのか…。上中君、お宝電車には、警官は5人乗っているのだったな」
「そうです」
「わしらと合わせて10人か…。なんとかなるな」
「連中が武装していたらどうします?」
「もちろんしているさ。走ってくる電車を止めようってんだからさ」
「しかしここは廃駅。どうやって電車を止めるつもりでしょうね?」
「おおかたマネキン人形でも線路に落とすんだろうよ。そうすれば、どんな運転手でも急ブレーキをかけるさ」
「なるほど…」
合図をし、大田は上中と場所を入れ替わった。
ついで残り3人の部下にも同じようにし、捕り物現場の地形を全員に覚えさせたのである。
「よく見たまえ、上中君。わしの言ったとおり、ホームの上にマネキン人形が置いてあるじゃないか」
「ははあ」
「感心ばかりしとらんで、いま何時だ? お宝電車はまだ来ないかな?」
やがて7人の賊がめいめい立ち上がり、ホームに並んで、配置についたようである。
全員が銃を持っているのではあるまいが、全員が覆面で顔を隠している。
大田は、ため息をついた。
「まったく戦争とは罪作りだなあ。除隊して兵隊から帰ってきたやつの全員とは言わんが、土産代わりに銃を家へ持ち帰ったやつが何千人いるのか、もう見当もつかん。それが武器密売屋の元へ集まるときたもんだ…」
賊は、みなが黒い上下に身を包んでいるが、女の体は体格でわかる。
「あれが細田百代か」
と大田は見当をつけた。
やがて、トンネルの向こうに、ヘッドライトの光がきらりと見えた。
「来るぞ…」
お宝電車といっても、何も特別の車両ではない。
装甲板がついたり、機関銃が備わっているわけではない。
ごく普通の電車。普段は客を運んでいるのとまったく同じ電車が、そのまま走るのである。
通勤電車は、車内の椅子が少なく、床が広い。
物を乗せて運ぶには、何もしなくても好適なのである。
あなたが今日乗車して座ったその場所には、前日には札束を詰めた箱が鎮座していたのかもしれない。
大田の予想通り、賊はマネキンをホームから線路へ投げ込んだ。
ご丁寧に、服まできちんと着せてある。
デパートであれば、古い廃棄品のマネキン人形など、いくらでも発生するだろう。
その一つを密かに運び込むのは、難しくもなんともない。
ヘッドライトの中に突然現れたマネキンを、もちろん運転手は、本物の人間と誤認したであろう。急ブレーキをかけたのだ。
電車独特の、耳の痛くなるようなブレーキ音が、狭い地下に響く。
大田は思わず耳を覆いたくなったが、目をこらし続けた。
電車が停車したのは、あっという間のことである。
まったく通常の電車と同じだが、窓のカーテンはすべて下ろされ、閉じている。
突然、
パン、
という乾いた音がした。
賊の一人が、先制に発砲したのだ。
同時に運転台の窓ガラスが、ヒビで覆われて真っ白に変わった。
もちろん運転手には命中させなかったろうが、賊はこの先、どうやって運転するつもりだろう、
と大田は思った。
いくら細田百代がいても、あの窓ガラスでは前が見えなかろう。
いやそもそも、運転手を狙って撃っていないと、なぜいえる?
しかし、そんなことを考えている暇はなかった。ここで奇妙なことが起こったのである。
電車の車体がホームに止まるか、止まり切らないかのうちに、そのドアがいっせいにガラリと開いたのだ。
まるで、待ち構えていたかのようである。
電車にはいくつもドアがある。
賊たちの前で開かれたのだが、そのドア一つ一つの向こうに、警察官が一人ずつ立っているのである。
もちろん銃を抜き、すでに狙いを賊たちの胸あたりに合わせている。
「ひいっ」
女の悲鳴が響いたが、その主は細田百代であろう。
「よし行けっ」
大田が声をかけたのは、このときである。
4人の部下たちと共に、物陰からパラパラと飛び出した。もちろん手に手に銃を握っている。
「御用だっ」
大田の発するこの言葉は、府警内部ではなかば伝説になっている。
新人警察官も、逮捕劇や手入れに同道して、大田のこのセリフを聞かぬうちは一人前とはみなされない、という噂まであるほどである。
10人対7人である。
人数からいって、賊に勝ち目はない。
しかし世には、算数の苦手な者もいる。ガムシャラにやれば、数の不利を跳ね返せると信じる者もいる。
まず賊の一人が引き金を引き、それがあっという間に伝染し、あとの3人も従ったのである(賊の銃は全部で4丁あった)。
コンクリートの白い粉を弾き、足元で跳ね返る弾丸に、大田は肝を冷やしたが、それで参る男ではない。
ただ後々を考え、弾丸を節約することは忘れない。むやみに撃ち返すよりも、物陰へ飛び込むことを選んだのである。
大田以外は、みな若い警察官たちである。
普段は制服を着ているが、今日はたまたま非番で、大田に誘われ、私服刑事的な仕事ができると張り切っている者もいる。
第2次世界大戦は、まだ遠い過去ではない。
戦争中の感覚のまま、いわゆる血気盛んな若者もいるのである。
その代表が上中だった。
二手の警察官に挟まれてしまったが、隙を見て駆け出し、物陰へと隠れた(古い売店跡だった)賊へむけ1、2発撃つが、それが無意味と見るや駆け出し、なんと上中は、前も見ずに飛び込んでいったのである。
それが上中だけでなく、後に続く者が2、3人ですまないのには、大田もあきれた。
いや、それ以上に青くなった。
「おい、あんたら。無茶はいかんぞ」
しかし誰の耳にも入らない。
お宝電車に乗って到着した連中も今は合流し、大田からは直接見えない売店の影へ、全員が飛び込んでいったのだ。
しばらくの間、怒声と物音、乱れた足音しか聞こえなかった。
ガチャンと鳴るのは、取り落とした銃が床にぶつかる音であろう。
やっと静かになったのは、何秒か後のことである。
その時には大田も現場に到着していたが、部下たちの手際に舌を巻くことになった。
賊が全員取り押さえられているだけではなく、1人2人はもう後ろ手に、手錠までかけられているのである。
「放せっ、馬鹿」
両腕を後ろに回され、ほこりだらけの壁に押し付けられ、細田百代は悪態をついている。
大田はクスリと笑った。
「…なあ細田。あんたらは電車の運転台を壊してしまって、その後、どうやって運転していく気だったんだ?」
「なぜデカが、私の名前を知ってるのさ」
と細田百代ははき捨てるように言う。
「お巡りさんは何でも知っているのさ。さあ白状しろ」
「フン、電車には、前と後ろの両方に運転台があるじゃないか…。何も知らないのだねえ」
すでに男たちは全員が手錠をかけられ、次は細田百代の番である。
思いがけず冷たいその感触に、女は顔をしかめた。
これが弓子の同級生だった女か、
と大田は思った。
確かに姪の言うとおり、地味といえば地味だが、今は男どもと変わらぬ黒装束だし、化粧のカケラもない。おまけに髪も乱れている。
しかしよく見ると、きれいな顔立ちではないか。
どんな生まれの女か知らないが、きっとのびのびとなど生きられない環境だったのだろう。
もし違う家に生まれていれば、ずいぶんと異なる人生を送ったことであろう。
わしに息子はいないが…、
と大田は考えた。
…もしいて、もっと身奇麗にしたこの女を息子が嫁にするといえば、わしも喜んで同意したかもしれん。
もったいない、
と大田は心の中でため息をついた。
武装強盗の罪は重い。
おまけに銃まで使用しているのだ。
この若さでこの先、この女はかなりの年月を刑務所で過ごすことになる。
「それで、電車の後ろの運転台がどうしたって?」
と気を取り直し、大田は言った。
「にぶいデカだね。電車をこの場所からバックさせるのさ。駅の連中は変に思うだろうが、なあに、走っている電車を無理やり停車させる方法はないからね…」
「それから?」
「中津を過ぎると、線路は淀川を渡る鉄橋の上に出る。そこで仲間が船で待機しているのさ」
実は大田は、このとき初めて、淀川と神崎川が同じ水系の川だと気がついたのである。
ハッとし、大田は上中を振り返った。
しかし上中は、すでに駆け出した後だったのである。懐中電灯を手に、改札口を抜けていく後ろ姿を、大田は見送った。
商都デパートに駆け戻り、電話をかけ、警官隊を中津の鉄橋へ緊急に向かわせるのだ。
間に合うだろうか、
と大田の心は苦々しかった。
本宮の雑踏と混雑はすでに解消していようが、府警からは少し距離がある。
きっと賊たちは、時間を精密に打ち合わせ、何時何分までに電車が後ろ向きに鉄橋に到着しなければ、襲撃は失敗したとみなして逃走する手はずを整えているだろう。
すでに上中の姿は階段の奥へ消え、懐中電灯の壁への照り返しすら、もうカケラもない。
間に合うか。
大田の心を見透かしたのだろう。細田百代が、かすかな笑い声を上げた。
「まず間に合わないと思いねえ。デカさん…」
バシン、
と大きな音が暗闇の中に響き、細田百代の低い笑い声が消えた。
賊の男たちは押し黙り、警察官たちも顔を見合わせている。
それは振り向きざま、大田が細田百代の顔を殴りつけた音だったのである。
細田百代をはじめ、賊はみなすでに覆面をはがされている。
見回すまでもなく、その中に石井を見つけていたが、大田は知っているふりをわざと取らなかった。
のちのち、弓子に累が及ぶことを恐れたからである。
しかし…、
大田の悪い予感は的中してしまった。つまり、細田百代の予想は正しかったということである。
府警本部からの警察官たちは淀川の鉄橋へ急行したが、すでに遅かった。 ボートで待機していた賊は、すでに姿を消していたのである。
だが、大田が武装強盗事件を未然に防いだという事実に変わりはない。残りの共犯者が逃亡してしまったのは残念ではあるが、7人の逮捕者は充分に評価の対象になる。
上司の承認なく突っ走ったことも、多少のお小言だけですみ、新聞記事の論調もめでたく、大田は上機嫌だった。
数日後、大田が自宅へ帰ってみると、姪の弓子が待ち構えていた。
弓子はなんだかうれしそうに、彼女の伯母、つまり大田の妻と目配せをし合っている。
「どうしたんだね、弓ちゃん?」
「ねえ伯父さん、私はこんな大手柄を立てさせてあげたんだから、ご褒美ぐらいもらってもいいと思うなあ」
「褒美?」
「ねえ、どこかおいしいレストランへ連れて行ってよ。もちろん伯母さんも一緒にね」
「ああいいとも。ご亭主は元気かい?」
大田がそう言うと、なんと弓子はぷっと吹き出したのである。
「主人は元気と言いたいところだけど、あんまりそうでもないわね。私がせっかく犯行を事前に予測したのに、主人ったら鼻にもかけなかったわ。そのことを上司から叱られたらしいの。なんだか最近は、私と目を合わせるのを避けているみたいよ。ちょっとかわいそうだけど、ざまあ見ろという気もするわね。
ねえ伯父さん、私たちにご馳走してくださるとき、主人も呼んでもいいでしょう?」
「ああいいとも、いいとも」
と大田は、機嫌よく鷹揚にうなずいたのである。




