お宝電車(前半)
第二次世界大戦中、細田百代は電車の車掌だった。
紺色の制服に身を包んで帽子をかぶり、百代は車内で、乗客に切符を売るのである。
下車する乗客から切符を回収することも、仕事に含まれる。
ついでに言えば、百代は高校生でもあった。
この時代のことだから、正確には、高等女学校(略して高女)という名称になる。
ただ、百代の通う高女は少し変わっていた。
おりしも、電鉄会社が人手不足に悩んでいたのである。
そろそろ戦争が激しくなり、男の多くは兵隊にとられた。
ついには社会全体で男手が不足となり、それは鉄道会社も例外ではない。
そこで考え出されたのが、鉄道会社自身で高女を設立、経営し、授業の合間に、生徒たちに車掌として仕事をさせるというやり方だったのだ。
そして実際、それは実行に移されたのである。
生徒たちは午前と午後の部に分けられ、片方の部は午前中に授業を受け、午後は車掌として働く。
他方の部はその逆というように、忙しい日々を過ごした。
車掌として働けば、もちろん給料が出る。
そこへもって学費は無料だから、近隣の農村から、たくさんの入学希望者が集まった。
この変わった学校のことを、町の人々は親しみをこめ、
『電車高女』
と呼んだのである。
これが戦争前半の事情であり、後半になると、さらに男手が不足し、ついには女生徒が、電車の運転まで任されるようになった。
入学して12ヶ月間の車掌生活が過ぎ、1年間の教習も終え、2年生になると同時に、ついに百代も、電車運転手として働き始めたのである。
自家用車さえ少なく、車の運転免許保持者も限られていた時代である。
あの大きな車体を走らせ、14歳の若い娘として、百代も鼻が高かったであろう。
何しろ、この時代のどのバスよりも、またどんなトラックよりも長く重いのである。
左手にコントローラーを握り、まるで百代は、クジラでも乗りこなしている気分だったかもしれない。
しかし、やがて戦争は終わった。
兵隊に取られていた男たちも、復員してくる。
ついに鉄道会社は、高女の解散を決定したのである。
4年制の学校だが、存在したのは3年間だけだった。
だから卒業生は存在しない。
昭和20年の9月、学校の寮を出て、百代も故郷へ帰った。
終戦にともなう大きな社会変化はともかく、百代の生活は、高女へ入学する前と同じに戻った。
彼女は一人っ子であり、母親は病弱で、大工として機嫌よく仕事をしている時にはよいが、酒が入ると手に負えなくなる父親と、一つ屋根の下に帰ったのだ。
家は貧しく、遊んでいるわけにはいかず、百代も働き始めた。
地元の魚市場の手伝いをするのである。
賃金は決して多くない。
しかもそれを、いつも父親に取り上げられてしまう。
父の酒癖は、ますますひどくなった。
それだけではない。
百代は成長し、大人の女になりかけていたのである。
実の娘をねっとりと見つめる父親の視線を、家の中で感じることが多くなった。
かと言って、大きな家ではなく、逃げ場はない。
病弱な自分の妻に対し、もはや父親は、何の興味もない様子である。
生まれた町にそのまま住んでいるのだから、百代も、かつての幼馴染や友人の近況を見たり、耳にすることも多い。
男の幼馴染は、みな職につき、女の子たちは、すでに全員が嫁に出ている。
そのあたり、百代もあせりを感じないではない。
しかし、どうしようもないのである。
家を出て別の住居を確保するだけの資金も、それを稼ぎ出す能力も、百代にはなかった。
百代の手にあるのは、戦争中の少ない授業時間にかろうじて学んだ一般教養と、電車の運転技術だけである。
「戦争がなくて、もっと違う人生を歩んでいれば、あるいは私も…」
…幼馴染の娘たちと同じように、どこかの家の新妻に収まっていたかもしれないが。
そうやって日は過ぎていったが、ある日、決定的な出来事があった。
母親がついに病死したのである。
参列者の少ない、小さなさびしい葬式になった。
最後の数年間、母親は、ほとんど家を出ることさえなかったのだ。
「うるせえ、飲まずには、いられねえんだ」
葬式の途中から父親は茶碗酒を始め、骨拾いにも出ず、散会するころには、父親はいびきをかきはじめた。
家の戸を入ってきたとき、百代は1人だった。
位牌と骨壷を置き、百代が靴を脱ごうとした物音で、父親は目を開いた。
イビキは聞こえなかったから、百代が帰る気配を事前に察し、タヌキ寝入りしていたのかもしれない。
「よう、百代かあ…」
その時の父親の目つきを思い出すたび、百代は今でも全身がぞっとする。
それは父が娘を見る目つきではなく、男が女を見る目つきであった。
…もうここにはいられない…
百代は頭を働かせた。
「父さん、おなかすいたろう? 何かおいしいものでも作るね」
叫ぶようにそう言うと、もう一度靴をはき、手を伸ばしてつかんだ財布を握る手ももどかしく、百代は家から駆け出したのである。
しかし夕食までは、何事なく済んだ。
「まさか父さんも、そこまではしないのだろう…」
百代も安心しかけた。
しかも今日は、母の葬儀があったばかりなのだ。
だが百代にも、多少の予感があったのだろう。
人が多く騒がしい一日が終わり、すべての食器を洗い終え、ざっと掃除も済ませてから、自分の布団を敷いたのだが、その隣の部屋では、父親がとっくに布団に包まり、イビキを立てていたのである(百代の家には2間しかない)。
その予感に従い、寝巻きに着替えることなく、服の姿のまま、百代は布団にもぐりこんだ。
長く忙しい一日であった。
百代は、あっという間に眠り込んだが、意外にも真夜中に目を覚ました。
目を開いても、窓の外から街灯が差し込む以外は、本当に真っ暗なのである。
しかし百代は、耳に感じることができた。
音として感じたのではない。
何者かの息が、耳に直接吹きかかるのである。
それがひどく酒臭い息であることに気づくのに、時間はかからなかった。
「百代、父ちゃんはさびしいぞぅ…」
その声の主に疑問はなかった。
いつの間にか父親が布団の中に入り込み、百代の体をしっかり抱きしめていたのである。
「ぎゃっ」
悲鳴を上げ、百代は離れようとしたが、父親の力は強い。
なにしろ、力仕事に慣れた大工なのである。
まるで万力のように、百代を締め付けるのだ。
「グアッ…」
ところが不意に、その暗闇の中に、男の悲鳴が響いたのである。
体中の力を一箇所に集め、やっと自由にした右手をゲンコツにし、百代は父親の鼻を真正面から、いやというほど強く打ちつけたのだ。
本当に、遠慮も何もない叩き方であった。
悲鳴とともに、父親はついに百代を放し、両手で自分の鼻を押さえたのである。
非常な痛みが走る。
指の間から流れ落ちる血流を感じたときの父親の様子は、『逆上』という言葉では、とても足りないものだった。
「百代、てめえ…」
だが百代も、おとなしく父親の言葉など聞いてはいない。
寝巻きに着替えず、服のままでいたのは正解であった。
布団から飛び出し、部屋を駆け抜け、部屋のすみのチャブ台の上に置いたままだった茶色い封筒と、自分の靴だけをつかみ、土間へと飛び降りたのである。
表の路地に飛び出しても、まず暗がりの一つに駆け込むまで、百代は靴をはかなかった。
封筒を、スカートのポケットに深くねじ込んでから、百代は本式に駆け出したのである。
百代は、駅へと向かった。
『もうこの町にはいられない』
のだから、どこか遠くへ行くしかないのである。
どこといって、行くあてはなかったが、
「とにかく大きな町へ行けば、なんとかなるかもしれない…」
真夜中の駅は、入口が閉じられ、真っ暗に静まり返っている。
宿直の駅員は、宿舎で布団に入っているのであろう。
駅の正面はあきらめ、百代は、塀を乗り越えてホームへ入ることにした。
もちろん、こんな真夜中に列車などやって来はしない。
一番列車が来るまで、待つしかないのである。
しかも、何時間も先だ。
百代は、ベンチに身を横たえた。
「もしかしたら、父さんがここまで追ってくるかもしれない…」
一番列車が到着するまで、百代は、一睡もしない心積もりでいたのである。
ふと心配になり、ポケットに手を入れて、封筒がそこにちゃんと存在することを確かめた。
この中には、親戚や近所の連中のなけなしの香典が入っているのである。
決して大金ではないが、それでも百代にとっては、これまでに見たことがないほどの金額なのである。
その手触りは分厚く、わずかながら、百代に安心感を与えてくれた。
本当に百代は、一番列車まで起きているつもりだったのである。
しかし様々な出来事で疲労し、しかも静かで暖かい夜だったのだ。
いつの間にか、百代は眠り込んでしまったらしい。
『らしい…』
というのは、寝込んだことに本人も気がつかなかったからで、がっしりした強い手に手首をつかまれ、その感触に、百代はあわてて飛び上がったのである。
「ひいっ」
それは、驚きと恐怖の入り混じった悲鳴であったろう。
まぶたがバネのように見開かれた百代の真上、20センチもないところに、父親の顔があったのである。
父親の顔の下半分には、まだ血の赤色が着いていた。
着ている物もそうである。
そのまま父親は、百代の上に体を重ねようとした。
しかも今度は、鼻に百代の一撃を食らわぬよう、父親も警戒しているようである。
だが父親は、ひどく酔っていた。
百代の上にのしかかろうとして、足を滑らせたのだ。
その隙を、百代は見逃さなかったのである。
次の瞬間には、百代は父親の体の下を抜け出していた。
「助けて!」
と大きな声を上げるが、もちろん聞いている者はいない。
駅の前は、少し開けてぽっかりとした地形で、窓や戸を閉じて熟睡している人々の耳に届くほどの、距離の近さはないのである。
しかもこの日、宿直の駅員は、普段から眠りの深い男であり、しかも寝酒のアルコールが加わっていた。
つまり、百代の悲鳴に気づくものは、一人もいなかったのである。
父親の体の下から、かろうじて自由になり、百代は駆け出したが、ここでミスに気がついた。
ベンチに横になるときに、靴を脱いでいたのである。
今の百代は裸足であった。
「おや百代、裸足では走れまい?」
父親の言うとおりであった。
立ち止まり、ギラギラした目で、百代は周囲を見回すしかなかったのである。
「ほら百代、怖くないから、もう覚悟しな…」
まるで舌なめずりでもするような、父親のいやらしい話し方である。
だが、百代が取った次の行動に、父親は目を丸くしたのだ。
「百代、今ポケットから取り出したのは何だ?」
不器用に顔をしかめ、酔いの回った目をこらし、やっと父親は理解したようである。
「やい、それは香典じゃねえか。てめえ、そんなものを持ち出すなんて、この泥棒猫め」
確かにその封筒は、父親でも目を丸くする分厚さがあったのである。
「ほれ、父さん…」
まるでウチワででもあるかのように、百代は、封筒をパタパタと振った。
そうされてもクニャクニャとは曲がらないほどの中身なのである。
父親の目の色が変わった。
しかし、百代は平気な顔なのである。
二つ折りにし、封筒を持ち直すと、何を考えたのか、百代はポンと放り投げたのである。
風のない夜で、封筒は、百代が思った通りに飛んだ。
そして、ずっとホームに止まったままだった電車の屋根の上に、トンと着地したのである。
「ハッ、無駄なことを…」
と、父親の声が聞こえた。
「百代、わしが鳶の現場もこなすことを、知らないわけじゃあるまい?」
その通りで、父親は、高所も平気な大工だったのである。
まだ酒びたりになる前、寺院の広い屋根の上を飛び回る父親の姿を、母とともに、百代は誇らしく見上げた記憶がある。
この電車は、今は明かりも消えて真っ暗であるが、前夜の最終電車としてやってきて、翌朝の一番電車として出発するために待機しているのである。
そういった電車の使用法、走らせ方も、高女にいた間に、百代はきちんと飲み込んでいたのだ。
電車の屋根の上を、1本の電線が走っていることも…。
もちろん百代は、父親の性格も知り尽くしていた。
封筒は、電車の屋根の上、四角い通風器のひとつに引っかかっていた。
アルコールの影響も見せず、車体まわりの手すりや、窓の出っ張りを器用に利用し、父親は猿のように、電車の屋根上へ登ってしまったのである。
軽くかがんで、いとも簡単に父親は封筒を拾い上げ、慎重にポケットの中へ納めた。
次の瞬間には、腰を伸ばし、父親は屋根の上で立ち上がるわけである。
「父さん、危ないから、その電線に触っちゃいけないわ」
「何言ってやがんだい。たかが電線が怖くて…」
それが、父親の最後のセリフであった。
次の瞬間、電車の屋根の上に、百代はまばゆい光を見たのである。
電車の屋根の上を走る電線には、高圧電流が流れているのだ。
百代の言葉を無にするため、父親は、故意にこの電線に触ってみせたのである。
『ほれ見ろ。電線なんて、触ってもなんてことないじゃねえか…』
とでも言うつもりで。
しかし現実は違っていた。
数千ボルトの電圧に、父親はじかに触れたのである。
電線に直接接触したのは、指先の小さな面積であったが、電圧さえ高ければ、大電流が流れるのに充分である。
そして、足元のゴムぞうりは、肉体と屋根の間を絶縁するものとしては、あまりにも不十分であった。
だからまず、父親の指先と足先で、大きなスパークが飛んだのである。
電流は、電気抵抗の最も低いところを選び、流れる経路とする。
この場合には、指先、腕、胴体、脚、足先と、ほぼ全身を駆け抜ける形になった。
もっとも、百代が見聞きしたのは、ボッという大きな音と、父親の全身を走る強い光だけである。
父親の全身は、一瞬で表面が黒く変わった。
電気抵抗で熱を帯び、水分を失い、炭化したのである。
人体ではなく、まるで丸太のように、父親の体はドタリと倒れた。
しかし屋根の上から落ちてしまうことはなく、だがピクリともしない。
その体は、ほとんど裸であった。
身につけていた衣類は、あっという間に燃え尽きてしまったのである。
髪の毛も、少しの間はオレンジ色の炎を上げていたが、すぐに燃え尽きて消えた。
いまや父親の肉体は、ただ黒い色をした人型でしかない。
「ふっ…」
静かなため息をつき、肉が燃える匂いを鼻腔に感じながら、百代は、そっと靴をはいたのである。
まわりを見回したが、何の変化もなく、駅はひっそりとしたままである。
駅員の快眠ぶりに感謝しつつ、百代は駅を離れることにした。
「家に帰って、何も知らない顔をして、寝ていよう…。父さんが死んだことは、朝になって、きっと誰かが教えに来てくれるわ」
闇の中、足音を忍ばせつつ、百代は、足取りがとても軽くなっていることに気づき、自分でも驚いたのである。
『私は、あの父から自由になれたのだ…』
その思いを、澄んだ深夜の空気とともに、百代は肺いっぱいに呼吸したのである。
帰り着いても、思ったとおり、家の中は暗く、静まり返っていた。
ついさっき父親が引き開け、飛び出して行ったに違いない玄関をしっかりと閉めて鍵をかけ、百代は靴を脱いだ。
今度こそ、寝巻きに着替えて布団にもぐりこんだが、そのときチラリと心をかすめたことがある。
あの封筒のことだ。
あの中身は、本当におしかった。
しかし今は、父親の衣服とともに燃え尽き、警察の検視でも、きっと発見されないだろう。
「まあいい…」
と百代は思うことにした。
少し金額は大きかったが、
「…その代わりに、私は、あの父のいない未来を手に入れた」
ということなのだから。
本当にそれは、悪くない買い物であった。




