2等車
ある冬の日、東海道本線のわきで発見された女の死体については、特に大きな注目が集まったとは言いがたい。
この騒がしい世の中で、新聞の大きな記事になるべくもなかったのである。事実、社会面の左下に、ごく小さく報じられただけであった。しかも、限られた部数の地方版だけである。
特に美人だったというのではない。年齢は40前というところ。やせてとがって、どこかの小学校の教師といった感じの女だった。
ただ服装は、嫌に高級であった。いかにもテーラーメイド風のスーツ姿であったが、どういうわけかハンドバッグは見つかっておらず、所持していたはずの切符を調べることはできなかった。
切符さえ見つかれば、乗車駅すなわち住所も特定できようが。
この時代の客車には自動ドアはまだなく、列車が走行中でも、乗客が自由に手で開けることができた。
それゆえに、これは覚悟の自殺と思われたのである。だから担当した警察官の熱意も低く、死体の調べもおざなりだった。
死体が発見された時間帯には、いくつもの列車が現場を通過しており、車内の遺留品が捜索されるどころか、飛び降りた列車の特定すらできなかったのである。
その死因であるが、走行中の列車から落ちての墜落死であることは間違いない。
「少し相談にのってくれないか…」
と電話してきた大田の声は、珍しく弱気であった。
「どうした?」
と林は問うたが、
「うん、ちょっとな…」
と、さらに大田の声は歯切れが悪いのだ。
大田も林も大阪府警の警部で、しかも同期であるが、所属する署は異なる。
『東川署にだって、相談できる相手ぐらいおろうに…』
と林はいぶかしんだが、大田とは短い付き合いではない。
「ああ、いいぜ…」
と応じることにした。
「…いつ、どこで会う?」
「今夜は暇か?」
「暇じゃないが、いいぜ。いつもの店でいいかい? 18時には行けるよ」
と電話を切った。
いつもの店というのは、大の男の会合には珍しく、喫茶店であった。
実は林という男、酒を一滴も飲まないのである。なんでも盃に2杯もやるだけで、顔が真っ赤になる体質だそうで、それは大田もよく知っていた。
その喫茶店へ行き、できるだけ奥まったテーブルに林が陣取っていると、大田は時間通りに姿を現した。
「ブルーマウンテンでいいかい?」
大田が目の前に腰かけるなり、林は声をかけたのである。
「うん」
大田は、コーヒーの種類になどこだわらない男である。
「どうした大田、元気ないが?」
「ちょっと困ったことになってな…」
とウェイトレスがカップを置くのを待ちかねるように、大田が語り始めた。
「…ワシは先日、名古屋まで出張したんだ」
「捜査かい?」
「捜査じゃないが、公務さ。ある企業に招かれてね。ほら、うちの署がこの間あげた詐欺事件があったろう?」
「なんかうまい話をエサに、どっかの企業から金をだまし取ったという件かい? 架空の投資か何かだったような」
「それさ。それでワシは名古屋へ行き、お偉方の前で一席ぶってきた。その種の詐欺に引っかからないためには、どうしたらいいかとね」
「へえ…」
「それが済んで、一泊して、翌日の急行に乗って帰って来たんだが、なんと先方が、帰りの切符を用意してくれていてね。それが急行の2等車でさ」
「2等車…」
2等車といっても、現代の普通車のことではない。
昭和35年まで、国鉄列車の座席は、3つのクラスに分かれていた。一番上が1等車。一番下が3等車で、2等車はその中間ということだが、1等車の連結はごく一部の特急列車だけに限られていて、ほとんどの列車は2等と3等だけだったのである。
「いいご身分だな。俺なんか、2等車に乗ったことは、まだ一度もないんだぜ」
と林は、ひがんだ子供のような顔をする。
「ワシだって、なかったさ」
林がひがんだ顔をし、大田があわてて同調するのも無理はない。この時代、2等車の運賃は、3等車の2倍以上したのである。そうそう庶民に乗車の機会はない。
現代では、まず駅で乗車券を購入し、それからグリーン券を買い足して、グリーン車に乗車するという形をとるが、この時代の2等車は、その根本からして異なっていた。
乗車券が最初から、2等車用と3等車用に分かれていたのである。2等車の車体には、その窓下に青色の筋がペンキで太く描かれ、乗り間違いを防ぐようになっていた。
それに合わせ、2等の乗車券にも青い紙が用いられ、3等車の赤い乗車券である『あかきっぷ』とは区別されていたのである。
「OK、OK。それで大田よ、俺に青切符の自慢話を聞かせたいのかい?」
「名古屋から大阪まで、急行『よどがわ』の乗り心地が良かったのは否定しないがね。まるで散髪屋のイスみたいに、座席は角度を調整できたし、足置きはあるしで…。とにかくワシは大阪で『よどがわ』を下車して、もう昼過ぎだったが、一応は署に顔を出して、出張の報告を済ませてから家に帰ったのさ」
「土産はないのかい? 名古屋のウイロウとかさ」
「下らんことを言うんじゃないよ。ワシは家に帰って上着を脱いで、そうしたら胸ポケットの中に見つけたんだ」
「何をだい?」
「手紙さ。これだよ」
そう言いながら、大田はポケットから取り出し、手渡したのである。林は受け取り、視線を落とした。
封筒なのである。茶色いハトロン紙製だから、あまり上等なものではない。
「これは何だね?」
宛名というのではないが、ちびた鉛筆を用いて、封筒のオモテには何やら走り書きがされている。
林は目をこらした。
『アンタも警察官なら、これを大事に持っていろ。アタシの命綱なんだ』
これでは意味が分からない。
「なんだ大田。たったこれだけかい?」
林は封筒を裏返したが、裏側には何も書かれてはいなかった。
ただしこのハトロン封筒、真新しいものではなく、元はどこかのカバン底にでも押し込んであったのか、しわが寄っている。
「なあ大田、お前、またいつもの癖が出て、車掌に警察手帳を見せたな」
「なぜそう思う?」
ケケッと林は笑い、
「お前とは何年の付き合いだと思ってるんだ?」
「まあ、そう言うな」
と大田は苦笑いをした。
自分でもよく分かっているのだが、やめられない。誰と話すときでも、気が付くといつも、大田は警察手帳を見せてしまっているのだ。
それで得をすることはあまりない。もちろん損もしないが。
「だからな大田、この封筒をお前のポケットに入れた誰かさんは、車掌との会話を立ち聞きして、お前を警察官だと知ったんだろう。それで中身は?」
封筒を手に取り、大田はテーブルの上に振り出して見せたが、その内容物たるや、意外なものであった。
「おやおや、1000円札が2枚か? なんの日当だい?」
林の言う通り、封筒の中身はそれだけなのである。それ以外には、手紙もメモも入ってはいない。しかも2枚とも、手の切れそうな新品の紙幣なのだ。
「封筒の内部には、本当にこれしか入っていなかった。何が何やら、意味が分からなくてな…」
大田の心配事とは、これだったのである。
「本当に心当たりはないのか?」
「ないね」
「へえ…」
林はなにげなく2枚の札を調べていたが、念のため爪楊枝の先でしか触れないのは、不用意に指紋をつけないための配慮だろう。
「大田よ、お前まさか、この札に素手で触ってはおるまいな?」
「まさかワシでも、そこまで馬鹿じゃないよ。封筒は素手で触ってしまったがな」
「まあ、それぐらいならいいか」
ここで林は、何かに気が付いたようである。
「おいこれって…」
「どうしたね?」
「この2枚の1000円札、よく見ろよ」
「どうしたって?…」
テーブルの上にかがみ、大田は目を近づけたが、
「…なんでえ、なんてことのない札じゃないか。いつ見てもうるわしい聖徳太子だぜ」
だが林は、顔を赤くし始めている。酒は飲まないが、興奮すると赤ら顔になる男なのだ。
「大田よ、記番号をよく見ろよ。2枚とも同じ番号だろうが」
「えっ?」
林の言う通りなのである。
1000円札にも、年代順にいくつか種類があるが、この時代に流通していたのはB号券と呼ばれ、最初に2ケタのアルファベット、次に6桁の数字、最後にまた1ケタのアルファベットが記されている。
この記番号は、もちろん一枚一枚の紙幣に異なったものが記されているはずである。
ところが林に言われ、大田が再び目をこらすと、なんと2枚とも全く同じアルファベットと数字が印刷されているではないか。
「こりゃあ林、どういうことだい?」
「ニセ札だよ」
その言葉に大田は目をむき、あわててグラスをつかんで、水を飲みほした。
「おい大田、これは、どえらい事件だぞ。課長には報告したのか?」
「まだ誰にも話していない。いまお前に見せたのが最初さ。まさかこんな紙幣だとはな…」
「うーん…」
と林は煙草の火をつけなおし、
「…ニセ札事件ときちゃあ、上役に黙っているわけにもいかんだろう。警視庁にも知らせて、チ―5号事件とか、6号事件とか仰々しい事件名がついて、全国に手配されるべき案件だぞ」
「こりゃあ、まいった…」
「あきれたもんだねえ。自分で受けとったくせに、ニセ札だとも気が付かなかったのか?」
「いや、まあ…」
さんざん尻をたたかれて、林とは別れて翌朝、さっそく大田は課長の部屋を訪ねたのである。
大田という男、東京の大学を出た課長さんのお気に入りとはいいがたいが、話を聞いて、課長も顔色を変えないはずがない。
すぐに部長と署長に知らせ、その日のうちに、警視庁へ連絡を入れることが決まった。
ところが警視庁の熱意は、意外にも低いものだったのである。
連絡を受けたのは、警視庁の捜査第3課だったが、いくらなんでも電話の話だけで、
「すわ、ニセ札事件だ」
と動くわけにはいかない。偽造されたというニセ札の現物がまだ手元にないのだから。
連絡を受けたニセ札の記番号は、警視庁にとっても未知の番号だった。これを新たな偽造事件の発覚ととらえ、すぐさま第3課の刑事を大阪へ送るという考えもありうる。
ところが最終的には、
「まだその段階ではあるまい」
と警視庁は判断したのである。
まだ世間に知られてもおらず、もちろん被害も出ていない。刑事を何人か大阪へ派遣したはいいが、
「間違いでした」
ではすまないのだ。
だから警視庁は、ニセ札の現物の到着を待つことにした。ならば、ニセ札をどうやって、大阪から東京へ送るのか?
「普通郵便で」
というのは、問題外であろう。可能性は低いが、郵便事故が絶対に起こらないわけではない。
ならば書留速達で送るか?
「いやいや、モノがモノであるから、送るなら現金書留で…」
「何を言う? ニセ札は現金ではあるまい」
と東川署の上層部は騒動になりかけた。それを署長が一喝したのである。
「ええい、なんでもいい。誰か一人を東京へ行かせろ。そいつがニセ札を持っていけばいい」
では誰を送る?
東川署はもとより、大阪府警を代表する使者であるから、あまり若い者では困る。ハクがつかぬではないか。
しかもである。
このニセ札を入手するに至った複雑な事情をうまく説明できる者でなくてはならぬ。
そこでみな、ハタと気づいた。
なんのことはない…。
「大田君に行ってもらおう。警部ならば階級としても十分だし、何よりもニセ札を入手した本人なのだから」
だからこの日の夜、いったん帰宅して着替えを持ち出すのもそこそこに、大田は東京行き夜行急行の客となったのである。
例の封筒のことであるが、大田はこれを、『よどがわ』の2等車内で受け取ったもので、まず間違いあるまいと考えていた。なぜなら、この手紙は背広の胸ポケットに入っていたからである。
林にも話したことであるが、名古屋へと向かう際、大田は切符をずっと胸ポケットに入れていた。大阪駅の改札口とか、車内検札のたびに切符を何度か出し入れしたから、その時に手紙がそこになかったことははっきりしている。
「じゃあ大田、『よどがわ』に乗った帰り道はどうだい?」
「帰り道、ワシは切符をサイフの中に入れていたのさ。なんせ値段が2・4倍もする青切符だからな」
「万が一にも紛失したら大変ってかい? でも大田よ、それだけじゃあ…」
「まあ聞け、まあ聞け。名古屋に出張した2日間は、少し寒い日だったから、ワシはずっと上着を着たままだった。名古屋からの帰り道で上着を脱いだのは、たったの一回だけ…」
「暖房のよくきいた2等車の車内だけかい?」
「脱いだ上着は、壁のフックに引っ掛けておいたからね。車内では、ワシもウトウトしたこともあるし…」
「本当にそれだけかね?」
「それ以外に上着を脱いだのは、大阪に着いてから、出張報告のために署へ顔を出したほんの20分間だけさ。署内も暖かかったから、脱いで机の上に置いたんだが、同僚がワシにこんな封筒を寄こすとも考えられないしな」
「…」
「文面からも推測できることだが、この手紙は2等車の車内で急遽書かれ、ワシの上着に入れられたのに違いないよ」
…なのである。
ニセ札を持って東京へ行くにあたり、寝台車の切符を購入したことを、大田はもう後悔していた。
「自分が寝台車では眠れないタチだとは、ちっとも知らなかった…」
大阪から東京まで、夜通し3等車の固いイスに身を縮ませ、うつらうつらするほうが性に合っていた気までする。
それが今回は、同じ3等車だけれど、おごって寝台車にしたのだが、備え付けの浴衣に着替えて、一度は横になったものの、まだ一睡もしていないのである。列車は京都を過ぎ、お休み放送も済み、室内灯も減光しているのに眠れないのだ。
仕方がないから起きだし、廊下に出ることにした。
大田を除く車内の全員が、すでに寝息を立てているのだろう。カーテンの陰に隠れて見えないが、誰もかれも目を閉じ、幸福な夢の国にいるのだ。
だのに大田は一人だけ、取り残されたような気分である。
寝台車の廊下には、折り畳み式の小さな座席がある。大田はそこに腰かけた。
この時代の国鉄の寝台車とは、乗ってうれしくなるようなものではない。大田が乗車している3等寝台車ならなおさらである。
窮屈なベッドで、長さは190センチだから、背の高い大田にはいささか余裕がない。
ベッドの幅は52センチ。寝返りを打とうにも身動きができず、しかもこれが上中下と3階建てに積み重なっているから、上半身を起こすことも難しい。
「これをカイコ棚とは、よく言ったもんだ」
大田が今いる廊下も、決して幅の広いものではない。古い客車は内装も床も木材が使われ、足の下からはコトンコトンと車輪の刻む音がはい上がってくるし、四角い窓もスキマ風とは無縁ではない。
「それでも、暖房だけはきいているのがありがたいが」
大田はタバコに火をつけた。ここは禁煙車ではない。ゆっくりと煙を吸い込みながら、窓ガラスの外の風景を眺めたが、深夜なので、どこかの街路灯がゆっくりと流れてゆくばかりである。
「そういえば、オリエント急行殺人事件なんてのもあったな…」
大田は、少し前に読んだ推理小説のことを思い出していた。
あれは、どういったストーリーだったか。
ああ思い出した。まず冒頭で、見知らぬ男が探偵に『ボディーガードになってくれ』と依頼してくるのだったな。探偵は断るが…。
と、そこで突然、大田は気が付いた。
「待て待て、今のワシは、のんびりと探偵小説のことを思い出していられる身分ではないぞ」
実は先程、列車が京都を発車した直後のことだったが、車掌が大田に電報を手渡したのである。寝入ることができなくなった理由の大半は、実はこれなのだ。
「警部さん、この電報、あなた宛てでしょう?」
ということは、この夜行列車の車内でも再び大田の悪い癖が出て、車掌に警察手帳を見せたということなのだが、今回は少し事情が異なる。
ニセ札づくりとは、素人が準備もなしに、気まぐれで起こせる犯罪ではない。材料や印刷設備の入手も含めて、相当な下調べや準備が必要なのだ。
「だからこれは、それなりのサイズの組織犯罪ということさ…」
であるから、東京へ向かう旅の途中でも、何かしら緊急の連絡を受ける可能性が考えられたわけである。
大田の予感は正しかった。
ところで、走行中の列車内で、一般の乗客が果たして電報を受け取ることができるのだろうか。
この時代には、一般家庭にもまだまだ電話は普及しておらず、手紙では間に合わない緊急の連絡には、電報が主に用いられていた。
それどころか国鉄部内でも、管理局と各駅の間の連絡には、専用の電信回線が使われていたのである。後にこれはファクシミリ、電子メールへとうつり変わっていくが、それはまだまだ先のこと。
東川署から大田への電報はその電信回線に乗せられたのだが、公務中の警察官ということで、国鉄が特別扱いをしてくれたものらしい。
大田が受け取った長い電文の要約は、次の通り。
(例のニセ札に残った指紋照合の結果、佐藤ムツ子が浮上。だが同人は先月28日、線路わきで、自殺とおぼしき死体となって発見された。佐藤ムツ子以外にも、ニセ札には複数の指紋を確認)
28日とはもちろん、『よどがわ』の車内で大田の上着に例の封筒が入れられた日のことである。
しかも、死体発見前後に現場を通過した列車の中には、『よどがわ』も含まれているのだ。
「やれやれ、ワシの上着にあんなものを入れたのは、『2等車のムツ子』だったのか…。しかし、殺されちまったのは穏やかじゃないな」
補助イスに座り、手にしたままのタバコが指先を焦がしかけていることにも気づかず、大田は考え事をつづけた。
「ムツ子のやつ、『よどがわ』の車内で、誰かのサイフをスリ取ったのだな」
2等車のムツ子というのが、佐藤ムツ子のあだ名なのである。名うての女スリだが、金持ちの多い2等車の車内でしか仕事をしない。
車内の廊下ですれ違いざま、相手のポケットからサッとサイフを抜き取るさまは芸術的だそうだが、これまでは微罪で2回ほど起訴されたことがあるだけで、本格的に刑に服したことはない。
顔も名も割れていて、逮捕したいのは山々だが、警察もまだ確たる証拠をつかんではいなかったのである。
「ところが、刑務所へ行く前にムツ子は死んじまったのだな」
先日の『よどがわ』にムツ子も乗車していたことなど、もちろん大田は夢にも知らなかった。しかし『よどがわ』は、ムツ子にとっては、いつもの仕事場だったのだろう。
「あの2等車で、ムツ子はいつものように仕事をした」
スリ取ると現金だけ抜き取り、サイフ本体は、人気のないデッキのドアから外へと投げ捨ててしまう。
いつまでも証拠品を身に着けていたくないからだが、そういう意味でも、ドアが手動だった時代の急行は好都合だった。もう少し時代が下がって、東海道本線が電化され、電車が走り始めれば、そういうことは不可能になる。
客車と違って、電車のドアは自動だからである。
「ところが、サイフをスリ取った相手が悪かった。ニセ札づくりの一味だったわけだ」
感覚の研ぎ澄まされた指先の手触りで、ムツ子はすぐにニセ札と見抜いたのかもしれない。
そして、同じ闇の世界の住人ということで、スられた者もすぐに紛失に気付き、かの名高き『2等車のムツ子』の仕業と直感したのであろう。
「スられた者は、恐らくムツ子の顔を知っていたか」
急行列車は停車駅が少ない。次駅に停車してムツ子が下車する前にということで、血眼になって、その姿を探したのだろう。
「ニセ札にあったムツ子以外の指紋が、偽造犯たちの指紋というわけか。それじゃあ偽造犯たちも、ムツ子を必死で追わないわけにはいかないな…」
そして運悪く、ムツ子は車内で捕まってしまった。ただ相手の目を逃れて、人波をかき分けて廊下を必死に移動しているときに…
「座席に座って眠りこけているワシの姿を発見したのだな…」
ムツ子はいつも、旅行中の上品な婦人風の身なりをしていた。ならばハンドバッグを持っていただろう。その内部を探せば、何かの拍子に入れたまま忘れていたハトロン封筒ぐらい見つかるだろう。
「その封筒へ2枚のニセ札を入れ、オモテには鉛筆で走り書きをした…。『アタシの命綱』か。以前から、ムツ子はワシの顔を見知っていたのだな…」
ここでアチチと、指先を焼くタバコを大田は振り捨てたが、そのとき小さな声で話しかけてきた者がいる。
「デカさんよ」
顔を上げると、そこには見慣れない男がいた。しかもそれだけではなく、腰かけている大田の背後にももう一人、いるではないか。いつの間にか、はさみ撃ちにされていたのである。
2人とも、目のところに丸い穴をあけた黒い布で覆面をしているところは、ひどく不気味だ。
「なんだね?」
大田はキョロキョロし、2人をよく眺めようとしたが、すぐにやめた。背後にいる男の手にはピストルが握られ、大田の背中に銃口を押し付けてくるのである。
『こりゃあ、まずいぞ』
とは思ったが、大田も表情には出さず、
「あんたらは誰だい?」
とだけ言ったものである。
「誰だっていい。悪いが荷物を調べさせてもらうぜ」
「最近の列車には強盗まで出るのかね。日本も地に落ちたものだ」
「黙ってろ」
大田の背後にいる男が、さらに強く銃口を押し付けてくる。そしてその男は、仲間に目くばせをした。
「よし」
目くばせを受けた男は、すぐに行動を始めた。大田のベッドへ近寄り、音をたてないように注意しつつも、カーテンを開いたのである。
『この二人は、ずっとワシの跡をつけてきたのだな。ワシのベッドがどれか、まで知ってやがる』
と大田は思ったが、もう後の祭りである。もちろん、この2人かその一味が、『よどがわ』のデッキから突き落として、佐藤ムツ子を殺したのであろう。
『そのあとでムツ子の所持品は、この2人が持ち去ったのだな』
そして殺害前に、自分の指紋が残っているニセ札2枚の行方を、ムツ子の口から聞き出したのだろう。トイレにでも連れ込み、手荒な真似をしたのであろうが、走行中の列車から落ちた衝撃で死体の損傷が激しく、検視でも見落とされた。
大田のカバンを見つけ出し、注意深く手袋をして、その内部を手際よく探す男の指先を、大田はただ眺めていることしかできなかった。
『この場で抵抗を試みるだって? 命あっての物種だね。いくら大阪府警でも、そこまでの給料はもらってない』
大田は口を開いた。
「あんたらがニセ札犯かい?」
だが男たちは何も答えない。
大田も黙ることにした。
ムツ子の死が殺人であるとはバレていまいと、この男たちはタカをくくっているだろう。つまり、犯したのは通貨偽造の罪だけだと。
まさか殺人まで疑われているとは、思ってもいまい。
『お前たちが殺人犯だと知っているぜ』
と、大田もわざわざ教えはしなかったのである。
そんなことを口走ったら、それこそ大田自身の命が危なくなる。
カバンを調べている男は、ついに目的の物を見つけたようだ。カバンから取り出し、薄暗い室内灯にかざしている。
ボール紙でできた丈夫な封筒で、オモテには大きな文字で、
『証拠品在中 折り曲げ厳禁 大阪府警』
と書かれているのだ。
男は、さっそく封筒の封を切った。そして中身に満足したのであろう。引き出した2枚の1000円札を、大田めがけて、ヒラヒラと振って見せた。
現れた時と同じように、この2人は消えるのも素早く、まるで忍者のようであった。
ニセ札を手に入れた男が、まず廊下の奥へサッと消え、その後でもう一人が銃を構えたまま、後ろ歩きで廊下をゆっくりと後ずさりし、デッキへと見えなくなったのである。
「ふうう」
大田はやっと息をつくことができたが、だからといって、行動を起こす気力があったわけではない。補助イスの上に座りなおし、ポケットからタバコをもう一本取り出した。それに火をつけたのである。
あの2人を追跡しても無意味だとは、よく分かっていた。2人とも長いオーバーコートを着ていたが、そんなものは覆面と一緒にとっくに脱ぎ、デッキのドアから外へと投げ捨てているだろう。
オーバーコートの下に見えていたズボンも靴も、同じ運命をたどったに違いない。今頃は全く別の服装に着替え、何食わぬ顔でベッドの中にいるであろう。
現実的には不可能なことであるが、もしも今、この列車の車内をすみずみまで、それこそ全乗客の荷物の中まで捜索しても、持ち去られた2枚の1000円札は見つからないであろう。
あの2枚は、すでに洗面所で火をつけられ、完全に燃やされているだろうから。
朝日を浴びながら、夜行列車はゆっくりと東京駅へと滑り込んでいった。
ホームに下車してカバンを運びながら、大阪を出発した時には蒸気機関車のけん引だったのが、いつの間にか電気機関車に変わっていることに大田は驚いたが、
『東京はやっぱり進んでいるんだな』
という感想を持った程度のことである。
3等寝台車の狭いベッドではさっぱり眠れず、おまけに昨夜は小さな修羅場まで経験したのだったが、大田の頭はさえ、体調も悪くはなかった。
『やはり朝とは気持ちのいいものだ』
と思っていると、背後から話しかけられた。
だが知った声である。ゆっくりと振り向くと、大田と同じように旅行カバンを持った林が駆け寄ってくるところだった。
オハヨウの挨拶もそこそこに、林は話を始めた。
「どうだった? 昨夜、連中は姿を見せたかい?」
その質問が、大田を急に疲れさせたようである。顔色を曇らせ、
「ああ姿を見せたよ。ひどい目にあった」
「どんな連中だった?」
「そんなことは、今さら言っても仕方がないだろう? 減光した薄暗い車内で、証拠品封筒の中身が入れ替えてあることには気づかなかったけどな…」
「へえ…」
「しかも連中は、大阪府警でニセ札の指紋採集をしたとは、夢にも思っていないらしい。でなければ、今さら証拠品のニセ札を回収しても意味はないからな」
「そりゃ良かった。朝になってお前の死体でも発見された日にゃどうしようと、俺も心配しなかったわけじゃないしな」
「そうかい? 2等車の乗り心地はどうだった?」
林はニッコリと笑い、
「よかったねえ。リクライニングシートだから、一晩座ってても、体が痛くならないからな。またいつか頼むよ。それにしても、よく課長を説得できたな」
「課長はぐずったが、とにかく証拠品を一秒でも早く警視庁へ送って、厄介ばらいしたい署長の鶴の一声でね。感謝しろよ」
「へえへえ…。まあいいさ、俺たちの仕事は、あれを警視庁まで運べば終わりなんだから」
「まさかお前、どこかに忘れてきたりはすまいな?」
「ご心配めさるな。ちゃんとあるさ。ここに…」
と林は、自信たっぷりに上着の胸をたたいてみせる。
ニセ札事件の捜査は、あくまでも警視庁の仕事である。証拠品を届けさえすれば、大田の使命は終わるのだ。
「じゃあ行くかい?」
「ああ」
林と並んで足取りも軽く、大田はホームの上を歩き始めた。




