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ディーゼル機関車


『最近出てきたディーゼル機関車というやつは、変なものだな』

 と大田は思った。

 蒸気機関車のように黒い煙をはくわけでも、電気機関車のように架線から電気を取るわけでもない。多少は薄黒い煙を噴き上げはするが、蒸気機関車とも電気機関車とも似つかないスタイルなのである。

 それでもまだ、大阪市内でディーゼル機関車を見かける機会は少ない。相変わらず蒸気機関車の天下だし、電気機関車もつい最近やっと、大阪駅へ姿を見せるようになったところだ。

 そこへディーゼル機関車である。

 何が悲しくてブルドーザーのような音を立てて発進し、車体の前後に、バスのボンネットみたいなのを、かかえなくてはならないのか。

 しかもそのボンネットは、何のためなのやら、黄色い手すりで囲まれている。

 最初大田は、

『あそこに洗濯物でも干すのだろうか』

 と思ったほどである。

 そのディーゼル機関車が、事故を起こしたそうだ。正確には人をひいたのである。

「大田君…」

 課長に呼ばれ、概略を聞かされた瞬間から、大田は気が重かった。

 実は大田という男、家族や同僚たちにさえ隠しているが、本当は怖がりで気が小さい。

 中学時代に水泳で鍛えた立派な体つきではある。しかし、それと物を怖がる本能とはまったく関係がない。大田は死人が怖くて仕方がないのである。

 理由は本人にもわからない。

 とにかく怖くて、どうしようもなく、肉親や近親者の葬儀のときでさえ、白布をとって死に顔を拝むなど、とんでもない。通夜に出席するときには、そんな破目にならぬよう常に気を使うのである。

 それならば、しばしば死体を扱う警察官になど、ならねばよいのだが、それは後知恵というもので、警察官になれば死体にも慣れる、と本人も思っていた。

 しかし世の中、そうそう思う通りには行かないのである。線路上の『れき死体』の話を聞かされ、大田は内心、青ざめた。

 なんとか同僚に仕事を代わってもらえないだろうか。そう思って刑事部屋の中を見回したが、運悪く誰もいない。

「何している、大田君? 早く現場へ出かけたまえ」

 階段を下りてゆく大田の足は、この上なく重かったのである。パトカーに乗り込んでも、もちろんまだ気が重い。

 若い上中・警部補は興奮し、早口になにやら話しかけてくるが、生返事をするばかりで、何の話をしているのかさえ、大田は分かっていなかった。

 外は雨が降り始めていた。冷たい冬の雨だ。この雨が少しは血を洗い流していてくれるかな、と大田はそんなことを祈るしかなかったのである。

 現場は大阪と吹田の間で、東淀川駅の南。後年、新幹線の新大阪駅が建設されるはずの場所である。

 宮原操車場を抜けてきた線路が、ぐっと大きくカーブし、東海道本線に沿って走り始める、そのあたりである。

 カーブした線路はそのまま北上するが、東海道本線に乗り入れることなく、直接に吹田操車場へとつながっているのだ。

 吹田操車場とは、国鉄の3大操車場と呼ばれるものの一つで、その長さたるや、なんと4キロメートル。

 駅間にして2駅。吹田、岸辺、千里丘にまたがる。

 つまり吹田から千里丘まで電車に乗ると、車窓はまるまる2駅間、黒々とした貨車だらけということなのだ。

 現場に到着して、パトカーからは降りたが、ドアの前に立つばかりで、大田は歩き出そうともしない。

 雨はすでにやんでおり、それはありがたいが、大田の心が浮き立つわけではないのである。

 コンビを組んで長い分、大田の死体恐怖について、上中はかすかに気が付き始めていた。だから気を利かせることにしたのである。

「警部はここにいてください。死体は自分が見てきます」

「ああ、すまんな…。頼むよ…」

「はい」

 上中は駆けていったが、ちょうど踏切があり、大田のいる場所から見ても、線路の上には数人の姿が見える。みな制服の警察官で、そこに上中が加わったのだ。もう午後遅く、しかも雨模様であるから、あたりは夜のように暗くなり始めている。

 今日一日、雨の降る薄暗い日だった。警報機のない踏切で、おそらく男は接近する列車に気がつかなかったのだろう。

 周囲の暗さに、よけいに気がめいり、

「こんなお巡りさんなんて、自分でも情けないが…」

 しかし大田にも、どうしようもないのである。

 やがて実況見分が終わり、上中が戻ってきた。担架が運ばれ、死体を運び出す準備も始まっている。

 その最中にも何度か、うんと徐行してだが、貨物列車が通り過ぎていった。

 東海道線の補助的な線路だが、この線路が日本の物流を支えているのは事実なのだ。長く列車を止めることは許されない。

「上中君、済んだかい?」

「はい、警部」

「すまんね…」

「いいえ。報告書は自分が上げておきます」

「うん、頼むよ」

 実に不思議なことだが、報告書として紙に書かれたことなら、どんな死体でも、大田はまったく平気なのである。

 検視官の書く死体検案書も同じことで、紙に書かれたものなら、読んでも大田を不安にすることはまったくない。

「まったく自分でも、わけがわからん」

 …なのである。



「大田君、話があるから、ちょっと私の部屋へ来てくれんか」

 と課長から呼び出しを受けたのが、ちょうどこのころのことである。

 上司に呼ばれれば、大田も顔を出さないわけにはいかない。いやな予感がしつつも、ドアをノックしたのである。

「課長、何のお話です?」

「ああ大田君。すまんが君、しばらく西川署のほうへ出向してくれんか?」

 大田はヒラの警部。課長といえば上司だが、実は大田よりも年は若い。東京の大学を出て、幹部候補として府警に入っている。当然、出世は大田よりも速いが、かといって大田も、

「くそっ、キャリア組め」

 と敵愾心てきがいしんを燃やすほどの年齢では、もはやない。

「西川署ですか? 何かありましたので?」

 すると課長は少し困った顔をし、

「いや、それが分からないのだよ。西川署では今、何やらドえらいヤマを抱えているらしいが、秘密捜査だとかで教えてくれん」

「新聞には、それらしいことは何も載ってませんよ」

「もちろん報道協定を結んでいるのさ。各新聞社のデスククラスには、すでに概要が耳打ちしてあるだろうが、こっちには秘密ってのが、いただけんよ」

「はあ…。西川署へ行って、ワシは何をすればよろしいので?」

「私は知らんよ。あちらの指示に従ってくれ。いま抱えている事件はあるかい?」

「ええ、列車にひかれた仏さんが一つですが」

「それは他の者に任せるのだね。とにかく君は、今すぐ出発してくれ。急ぎらしいんだ」

「はあ」

 課長の部屋を出て、廊下を歩きながら、大田も頭の中でいろいろ考えないではいられなかった。

「西川署ではどんな事件が起こっているのか?」

 しかしそれは、西川署へ出頭すれば、すぐに分かることである。上中を探して階段を下りてゆきながら、大田はクスリと笑った。

 西川署がこの署に『人を貸してくれ』と依頼してきたのだろう。それは珍しいことではない。 

 署同士の付き合いもある。また、いつこちらが人手を借りる側になるかもしれない。だから、こういう依頼を断ることはできない。

 しかし、どういう人材を提供するか。どの刑事を西川署へ送るかは、課長の胸一つなのである。大田もよく理解していることだが、

「やはりワシは、この署のスター刑事というわけではないのだな。大事な刑事は、他署に貸し出したりはしないもの…。よくてワシは、ナンバー3か4、というところか…」

 どうも大田という人物は、出世欲がないようなのである。

 幸いなことに、西川署には大田の友人がいた。

 名を林といい、大田と同じ階級の警部だが、お互いがまだ制服警官だった頃から親しかった。

 西川署へ到着して分かったことだが、林も例の秘密捜査とやらに加わっているらしい。西川署の建物に入って、まず課長に挨拶をするのもそこそこに、林が大田の目の前に現れた。

「よう大田、お前が来てくれたのか」

 それに大田が何か答える前に、課長が口を開き、

「林君、君の知り合いかね? ならちょうどいい。君の口から事情を説明してやってくれ」

 時刻はちょうど昼過ぎであった。秘密捜査とやらで忙しくても、警察官も食事はする。林は大田を、西川署近くの食堂へと連れだした。

 時間外れで店内はすいており、すみのテーブルに腰かけて、声を潜め、誰にも聞かれることなく話ができたのである。

「秘密捜査って何だい?」

 と大田が問うと、

「誘拐さ」

 と林は短く答えた。

「どこの誰が誘拐された? 犯人は?」

「犯人は分からん。さらわれたのは、1歳になるか、ならないかの赤ん坊だ。津山という家の子だ。この家の商売は、津山商店という紙問屋でな」

「へえ、金持ちかい?」

「まあな。店の経営者は、赤ん坊の祖父だがね。しかし赤ん坊は、跡継ぎの男の子。第1子だ」

「…」

「3日前の日中、天気が良かったものだから、若い家政婦が乳母車に乗せて散歩というか、まあ赤ん坊が自分の足で歩くわけじゃないが、近所の公園まで出かけた」

「連れていたのは、その家政婦一人かい?」

 目を合わせ、そりゃそうさ、という顔をし、林は続けた。

「公園まで行き、いざ帰ろうかと、家政婦が乳母車を押し始めた瞬間だった。背後から突然、何者かが家政婦を殴り倒してな」

「そりゃまた…」

「家政婦は数分間、気絶していたらしい。だから賊の顔形どころか、男だったか女だったかも、はっきりしないありさまだ。やっと家政婦が目を覚ました時には、赤ん坊は影も形もなかった。その代わり…」

 赤ん坊の代わりに、誘拐犯からの手紙が乳母車の中に残されていたのである。


『赤ん坊は預かった。きちんと世話をするから安心しろ。100万円用意しろ。追ってまた連絡する。警察には絶対に知らせるな』


 これが脅迫状の内容であった。

「ひどいな…」

 というのが大田の感想であり、

「…それで、両親はすぐに警察に届けたのだな?」

 ところが林は、

「いいや」

 と首を横に振る。

「まさか…」

「そのまさかさ。犯人を怒らせることを恐れて、津山家の連中は警察へ通報しなかった」

「赤ん坊の命がかかっているのだぞ。通報しない家があるもんか」

 それがあるのである。なんでも家長である祖父が、跡継ぎの孫に万一のことが起こるのを極度に恐れ、強硬に反対したらしい。息子、つまり赤ん坊の父親は電話機に手を伸ばしかけたが、殴ってやめさせたとのこと。

「とんでもない爺さんだ」

「金持ちの頑固ジジイさ」

 津山家の人々は警察の手を借りず、すべて自分たちで犯人と交渉することに決めたのである。それは、途中までは、うまくいくかに見えた。

「途中までだって?」

 と大田は尋ねた。

「そう、途中までさ」

 数時間後、屋敷の高い塀を超えて、津山家の庭に手紙が投げ込まれた。神経をピリピリさせていた家人は、すぐさまそれに気づき、家長の老人の元へと届けたのである。

 犯人からの2通目の脅迫状である。

 その内容は身代金の受け渡し方法の指示で、津山家の人々はもちろんそれに従い、100万円を支払ってしまった。

 大田が口を開いた。

「身代金の具体的な受け渡し方法は、また後で話してもらうとして、その家の連中は、もちろん今回も警察には連絡しなかったのだな?」

「もちろんさ」

 と林はあきれたように笑った。

「それで?」

 林は、口からフッと息を吐き出し、

「身代金は犯人の手に渡った。『赤ん坊は明日、返す。その方法は追ってまた指示する』という話だったがナシのつぶて。2日待っても、3日待っても、連絡はない。ここでやっと、家長の頑固老人もあわてだし、警察へ知らせてきたということさ」

「うーん」

 考え事をするときの癖で、大田はイスの背に大きくもたれかかり、

「これまでにどんな捜査をした? 身代金の受け渡し方法は、どんなだった?」

「受け渡しは単純だよ。津山家の近所に、人気のない古い神社があって、紙幣は布袋に入れ、そこの何本目だったかの杉の木の枝に、夜のうちにぶら下げておけ、といったようなことさ」

「これまでの捜査の進展は?」

「家政婦に詳しい事情を聴いた。事情聴取は俺がやったんだがね。しっかりした、なかなか感じのいい娘だったよ」

「それだけかい?」

「大げさにならぬよう注意して、公園の実況見分もした。何も出てこなかったがね」

「脅迫状の筆跡は?」

「へたくそな字さ。でも定規を当てて書いたらしく、筆跡鑑定はできそうにない…。言っとくが、指紋も出なかったぞ」

「打つ手なしか…」

「店の規模は小さく、家族だけでやっているが、津山商店はうまくいっている。それが犯人に狙われた理由で、怨恨なんぞでは恐らくなかろうよ」

「100万円も取って、犯人はどうするつもりだろうな?」

「お前なら、100万円が手に入ったらどうする? パアッと使っちまわないかい? 借金があって、それを返済でもしてくれりゃあ、アシが着くかもだが、あまり当てにはできないぜ…」

 つまり捜査本部としては、もはや秘密捜査に行き詰まりを感じているのである。

『明日、赤ん坊を返す』と犯人が言ってから、すでに4日が経過している。赤ん坊の生命の安全を考えると、いつまでも、こうしてはいられない。

 悪手かもしれないが、『明日より公開捜査に切り替える』と捜査本部は決定したのである。

 そうなると、付近住民への徹底的な聞き込みが始まるであろう。そのローラー作戦の要員として、一人でも多くの刑事が必要になる。

 だから大田が呼ばれてきたのである。他にも大阪中の署から多くの刑事が集められて、西川署内は急にゴミゴミし始めた。

「明日から公開捜査ねえ…」

 と大田が言った。

「明日の朝から、日本中の新聞やラジオに記事が出るぜ。俺たちが動くのも明日の早朝からだが、このあと20時から捜査会議がある。そこで、もっと詳しい説明があるはずさ」

「ふうん…」

 と大田はつぶやいた。すると、なぜか林はニヤリと笑い、

「どうしたね? いやに気がなさそうに見えるが…。たかだか誘拐事件ぐらいじゃ、大田警部殿の出動を願うには不足かね?」

「そうじゃないんだ」

 と大田は何本目かの煙草に火をつけた。

「ならどうした?」

「なあ林よ。もしもワシが『ポケットの中に100万円の札束を持ったまま鉄道事故死した男を知っている』と言ったら、お前さんどうするね?」

 冗談だと思っているのか、林の顔色は変わらない。

「何のことだ?」

 へっ、こいつの顔色はもうすぐ派手に変化するぞ、と期待しつつ大田は、

「20歳代の若い男。むき出しの小銭以外、財布は持ってなかったから、名前も住所もわからんが、ズボンのポケットには、100万円の札束が無造作に押し込んであったぜ」

 今度こそ林は、大田が本気だと悟ったようである。

「そんなことを知ってるなら、今すぐ教えてくれ」

 大田は腕時計をのぞき込んだ。

「まだ午後3時前だ。捜査会議まで5時間ある。うまくいけば、その前に事件を解決できるかもしれんぞ…。うちの課長もそうだが、お前のとこの課長も、あんまり好人物じゃないな」

「ああ、いいとこの大学出の、いけ好かないやつだよ」

「捜査会議が始まる前に事件のケリをつけてしまえば、あの課長はどんな顔をするだろうな。それが楽しみだ」

「何か策があるのか?」

「ああ、あてずっぽうもいいところだが、調べてみる値打ちはあるさ…」

 と大田は立ち上がりかけ、

「…公衆電話はどこだ?」

「そっちだよ…」

 林は店の表を指さし、

「…出てすぐのところに赤電話がある」

 食堂の払いを済ませ、公衆電話に10円玉を放り込み、ダイヤルを回す大田の手元を、林はじっと見つめていた。

「知らん番号にかけるんだな。どこだ?」

「大場商店といって、鉄道趣味関連の専門店だ。蒸気機関車のナンバープレートとか書籍とか、鉄道模型とかな。いつも知恵を借りている」

「どんな知恵だって?」

 と林は言いかけるが、大田はそれを手で制した。

「ああ、栄一さんかい? ワシだ。大田ですよ」

 相手の声までは聞こえないが、電話で話す大田の言葉を、林は一言も聞き漏らすまいとしているようだ。

「なあ栄一さん、突然ですまんが、ひとつ教えてくれるかい? 大阪市内で、ディーゼル機関車と蒸気機関車が同居している駅というか、車庫みたいなのは、いくつあるかなあ?… そう、ディーゼル機関車と蒸気機関車。どっちかだけではダメで、2つが同時に所属しているようなところ。そうそう…。ちょっと調べる? このまま待ってます」

 受話器を耳と肩の間にはさみ、大田はポケットから手帳と鉛筆を取り出そうとしている。やがて、相手が電話口に戻ってきたようだ。手帳の上を走る鉛筆の先を、林は目で追った。

 やがて紙の上には、地名らしい2つの言葉が書かれたのである。林は目をこらしたが、一つ目は簡単に読むことができた。

 宮原。

 ミヤハラと発音するのだろうが、もう一つの地名は、もう少し手ごわかった。

 竜華。

『リュウカ? リュウがハナ、とでも読むのかな』と林は思案したが、その間に大田は電話を置いたようである。

「わかったぜ。大阪市内で、ディーゼル機関車と蒸気機関車が同居している機関区は、たった2つしかないそうだ。宮原と、リュウゲだってさ」  

『ほほう。そう読むのか』

 と林は意外に思ったが、口は閉じていた。

 ここで大田と林は相談のうえ、二手に分かれることにしたのである。大田が宮原へ向かい、林が竜華へ行く。

「二人が同時に聞き込みをしたほうが、時間が節約できるからな」

 上司の許可を得ずにパトカーを、それも2台も使用することを林はためらったが、大田が押し切った。

「せっかくの手がかりなんだ。捜査本部の堅物どもに説明している暇なんかないぞ」

「それはそうだが…」

「今日中に解決できれば、それに越したことはないじゃないか。『赤ん坊の生命がかかっているから、1分1秒を惜しんだのだ』と言い訳すれば、懲戒処分なんかないさ」

「それはお前、うまく赤ん坊を見つけることができたらの話だろ…」

 まだ不満げだったが、結局、林も大田に従ったのである。

 この日の行動のことを思い出すたび、林は「結果がうまくいかなかったらどうしようと、あんなに胸がドキドキしたことは一度もなかったぜ…。後で何回も夢に見たほどだ」

 と何度も人に語った。

 そういう林であるが、竜華機関区に駆け付け、機関区長に面会を求め質問しても、

「はあ、そのような者は当区にはおりませんが…」

 という返事が返ってくるばかりだったのである。

 しかしそれは大田も予想しており、その場合の次の行動も取り決めてあり、林はそれに従ったのである。

「そうですか…。あのう区長さん。ちょっと電話を拝借できませんかね?… それと、よろしかったら、宮原機関区の電話番号を教えていただきたいのですが…」

 そうやって林がダイヤルをし、その電話を受けたのが宮原の機関区長だったが、機関区長はすぐに大田に受話器を渡した。

「刑事さん、お仲間らしい人から、あなたに電話ですよ」

 宮原機関区にある機関区長の執務室の中、タバコを一本ごちそうになりつつ、イスに腰かけていたのだが、すぐに大田は反応した。

「いやあ、すみません。その電話を待っておったのですよ」

「さあ、どうぞ」

「すいません…。もしもし…、やあ林かい?」

 警察官同士が話す会話内容を、自分がここで聞いていて良いものか判断がつかず、機関区長は所在なさげだが、大田はまるで気にしない様子である。

 電話相手の声までは、機関区長の耳には届かない。でも大田は大声で、いつものようにドンドンしゃべるのである。

「ああそう。やっぱり竜華ではなかったか。うん…、踏切事故の現場が近いから、恐らくこっちだろうとは思ってたがね…。うん、踏切で例の男の死体が見つかった日以降、この機関区を無断欠勤している男がいるんだ。名前は、安藤健一。25歳。機関区の検車係といって、機関車の整備をする役目だそうだ…」

 自分を名刑事とは呼びがたいことは、大田自身もよく承知していた。それでも仕事柄なのだろう。例の踏切事故死の死体検案書を、ある程度そらんじていたのである。

 ポケットの中に札束が見つかった以外には、死体はサイフも何も持っておらず、氏名も身元も不明であった。

 機関車というのは鉄の塊であり、そもそも軽いものではない。大型機関車なら120トンを超えるし、どんなに小型でも、国鉄機なら20トンはいく。

 しかも今回のディーゼル機関車は中型で、自重が55トンというから、ひかれた死体がどんな状態なのかは、直接目にしていない大田にも想像がつく。検視官がいくら死体を調べても、あまり成果はなかったのである。

 ただ一つ、男のはいていた靴の裏の分析から、いくつかの発見があった。男はどこかで、道に捨てられたチューインガムを踏みつけていたのである。

 本人は気づかなかったのか、気づいても気にしなかったのかもしれない。しかしそのガムには、黒い粉末状のものが付着していた。

 思うにガムを踏んだ後、黒い粉末が落ちている地面の上を男は歩いたのであろう。検査の結果、それは石炭の粉だと分かった。

 そして男のもう一方の靴底からは、別の物質が検出されていた。こちらは液体で、ディーゼルエンジンの燃料だったのである。

「それだから、ディーゼル機関車と蒸気機関車が同居している機関区なのか」

 と林はやっと納得したようだ。

 大田は説明をつづけた。

「この3日間、安藤は職場を無断欠勤している。国鉄の独身寮に住んでいてな。だけど、そこには姿がない」

「そりゃそうだ。踏切事故で死んでるんだから」

「いったんワシは自分の署に戻ってから、踏切事故の報告書を持って、西川署へ行くよ。捜査本部で合流しよう…。いけ好かない課長さんには、お前の口から大体のことを説明しておいてくれ。準備ができたら令状を取って、安藤健一の寮室を家宅捜索しよう。準備を始めといてくれよ」

「よしわかった」

 と林は答え、大田もその計画通りに行動したのである。

 本来なら、宮原機関区の誰かを検視局へ行かせ、本当に安藤健一であるか、身元の確認を得たいところだが、それは始めから大田もあきらめていた。死体の損傷が、それほど激しかったからである。

 大田が所属している警察署を東川署というのだが、その東川署を経て、上中がまとめた報告書をかかえ、大田の乗るパトカーが西川署へ到着したのは、もう日の暮れかかるころだった。

 西川署が見えてくると、さすがに大田も、サイレンを停止することを命じた。よその署へ貸し出されている身であるから、少しは自重したのだ。

 パトカーは西川署の玄関に停車し、大田は下車した。おそらく今頃は、捜査本部のうるさがたたちが待ち構えているであろう。

 もう令状の手配に取り掛かっているだろうか、と大田は考えた。

「それはつまり、林がいかに上手に課長を説得できたか、にかかっているな…」

 大田は署の玄関を入ろうとしたが、女の声で呼び止められたのは、このときのことである。

「あのう、すみません…」

 振り返ると、若い女がいた。年齢は20代の半ば。若く見えるが、少し影もあり、もしかしたら30前かもしれない。目立たないワンピース姿だが、髪が少し乱れかかっている。

『どこかで風にでも吹かれたが、鏡の前で直す暇がなかったのかな?』

 と大田は思い、女も同時に気が付いたようだ。あわてて素手で、髪を少し整えた。

「あのう、あなたは警察の方ですか?」

 女はきっと、大田が書類をかかえ、パトカーから降りてくるのを目撃したのだろう。

「そうですが、何か御用ですか?」

 すると女は、手にしていたものを大田に手渡そうとした。封筒に入った手紙である。

「これをあの…、林警部という人に渡していただきたいのですが…」

 大田は、もう一度女を眺めた。髪が少し乱れているほかは、そんなに怪しいふうでもない。

 大田はそのまま受け取り、封筒の表と裏を眺めた。封はされているが、あて先も差出人の名も書かれていない。

「これを林にですか?」

「そうです。できるだけ早くお願いします」

「もしかして…、ラブレターですかな?」

 大田は冗談を言ったつもりだが、反応はなく、

「では、よろしく」

 と女はすぐに姿を消してしまった。 

「なんだね? ありゃあ…」

 大田は手紙をポケットに突っ込み、報告書の束をかかえなおして、階段を上がっていった。

「林に何の用の手紙だろうな…」

 とは考えていたが、それはすぐに忘れてしまった。捜査本部とは、署内の会議室を臨時にその用途にあてているものだが、その部屋の中に入った途端、大田は他の刑事たちに取り囲まれ、女からの手紙どころではなくなってしまったのである。

「大田君、どういうことなんだ? すぐに説明してくれたまえ」

 例の課長も、目の色を変えているではないか。

 もちろんすぐに大田は、報告書と資料一式を、机の上にバンと広げた。



 公正な眼で眺めても、誘拐事件と踏切事故とを結びつけたのは、大田の手柄であろう。それは賞賛されるべきであろうが、しかし世の中、そうそううまくは、いかないのである。

 安藤が住んでいた小さな寮室が対象では、多人数は必要ないということなのか、はたまた他署からやって来た人間だからということなのか、大田は家宅捜索に加わることができなかった。

「いやいやご苦労。大田君、今日はもう帰っていいよ」

 という課長の言葉を好意的に受け取ることにし、林にだけ手を振って挨拶をして、大田は家路についたのである。

 もちろん腹が立たなかったわけではない。

『いくらよその署から借りてきた人間だからって、こんな扱いはないと思うぜ…』

 大田だけではなく、他署からの応援組も同じ目にあった。だが帰宅してよいと言われて、鼻息荒く逆らう気まではない。応援組はみな西川署を後にし、大田もその中に加わったのである。

 大田はもう、ポケットの中にある手紙のことなど、きれいに失念していた。

 


 翌朝、大田が西川署へ顔を出すと、ひどく疲れた表情の林と顔を合わせることになった。

「どうした林、徹夜かい?」

 西川署の玄関から、捜査本部へと向かう長い廊下の真ん中あたり。ちょうど洗面所の前なのだが、顔を洗ったばかりらしい林と、大田はばったり出くわしたのである。

 顔をふいたハンカチを、林はポケットにしまいながら、

「徹夜じゃないが、3時間ほどしか寝てないよ。新聞紙を敷いて、床の上に横になった」

「へえ、そりゃご苦労な…。安藤健一の部屋を家宅捜索して、何が分かった? 赤ん坊の行方は?」

 林は首を振った。

「赤ん坊の行方に関するものは何も出なかったよ。ただ少し…」

「なんだい?」

「手紙が見つかった。女文字の封書な。何通か見つかったから、筆まめな女らしい。文面から見て、安藤健一の姉だな」

「へえ…」

「おい大田、そんな平気な顔してんじゃないぞ。差出人は鈴木みどりといって、安藤健一の姉だ。金にだらしなく、ギャンブル好きな弟を優しくいさめる内容さ」

「鈴木だって? 鈴木みどりって、津山家の家政婦の名前じゃないのか?」

「けっ、お前でも覚えてたか。そういうことさ。二人の間にはつながりがあったわけだ」

「ふうむ…、その手紙、ちょっと見せてくれよ。ワシも読みたいな」

「今はだめだ。今は鑑識へ回ってる。事情を聞こうと鈴木みどりを探しているが、まだ見つからん。津山家に住み込んでいるはずなのが、どこへ行ったのか、家の者たちも知らん。八方、手を尽くしてるんだが…」

「…」

 この時になって大田は、何かに気が付いた様子である。思い当たるフシがある、とでもいう風に、目を大きく広げ、次いで鼻の穴も大きくしたのである。

「手紙? 手紙といえば林よ」

「どうしたね?」

 やっとここで、昨日、見知らぬ女から手渡され、ポケットの中に入れられたままだった例の手紙が、日の目を見たのである。

「なんだい、その手紙は? 封書かい? 宛名は書いてないが」

「お前にも隠れたファンがいるらしいな。『林警部様にお渡しください…』って、昨日頼まれた」

「誰から?」

「若くて、なかなかきれいな娘だったぞ。お前もスミに置けんなあ」

 不審がる林は、その女の人相を詳しく大田に尋ねた。始めは要領を得なかったが、次第に記憶がほぐれ、大田も思い出すことができた。

「ちょっと背の高い、スラッとした女さ。年は25から30ぐらいかな。所帯じみてなくて、独身の感じがした。風で乱れたからか、元の髪形はよく分からなかったが…」

「!」

 予感でもあったのか、その封筒をひったくると、びっくり顔の大田を振り返りもせず、林はすぐさま捜査本部へと駆け込んだのである。

 捜査本部の様子は、昨日と変わらない。疲労の色の隠せない男たちが、立ったままだったり、机の前に座っていたりで不愛想に集まり、タバコを吸ったり、茶を飲んでいたりする。

 その中へ林は飛び込んでいった。

「ハサミ、ハサミをよこせ」

 これまた不信そうな顔で手を伸ばす若い警察官からハサミを受け取り、林は慎重に封を切った。そして、中身を一気に読み終えたのである。

「か、課長」

「どうした? 何をあわててるんだ、林君」

「鈴木みどりから、俺のところへ手紙が来ました…」



林警部様に、一筆申し上げます。

私は、文隆ちゃん(赤ん坊の名)が誘拐された時にあなたから事情聴取を受けた、津山家の家政婦の鈴木みどりでございます…



 朗読する林の声に、全員が聞き入った。大田もその中にいたが、ただ呆然とするばかり。自分のやった失敗が大きすぎて、その深刻度がまだ実感できていない顔である。

 手紙の中で、すぐに鈴木みどりは、誘拐犯が自分の弟であると認めた。実の姉弟であるが、両親が早く死んで、それぞれが違う家の養子となり、引き取られた。

 それゆえに2人は名字が違うのである。

 弟の安藤健一は、国鉄に就職して、宮原機関区で働き始めたのは良いが、もともとギャンブル好きで金づかいも荒い男であった。給料など、もらってもすぐに使い果たしてしまう。

 そんなおり、津山家で家政婦として働き始めた姉は、良い金づるであった。

 商売がうまく、津山商店は見かけ以上に裕福である。津山家の人々の目は慎重に盗んでいたが、ときどき顔を見せ、弟は姉に金の無心をしたのである。

 苦言を呈しつつも、姉も金をやらなかったわけでもない。説教をし、しばしば手紙を書き、弟の生活態度をいましめはした。しかし効果はなかったのである。

「実の弟、ただ一人の肉親ということで、甘やかしすぎたのかもしれない…」

 という反省は姉にもあった。

 だからある時からは、金の無心をきっぱりと断るようにしたのである。だが、それがいけなかった。弟は激高し、姉に向けて、脅迫的な言葉を吐くまでになったのである。

 それでも姉は屈しなかった。無心を拒否し続けた。

 しかし簡単に想像がつくが、弟にも事情があったのである。すでにいろいろなところから借金をし、首が回らなくなりかけていた。いわゆる『相当にやばい所』からも借りていたようである。

 だから弟も、非常手段に訴えるほかなくなった。



あの日、私が文隆ちゃんを連れて公園へ散歩に行くと、弟が姿を見せました。どうやら弟は、ひそかに尾行などして、私の行動パターンをつかんでいたように思います。

あの昼下がり、公園に人の姿はまばらでした。弟は男です。私を突き飛ばし、文隆ちゃんを乳母車から取り上げるなど、簡単なことでした。

「お姉ちゃん、いいことを思いついたぜ。お姉ちゃんが金をくれないなら、津山家からもらってやる。あいつらは金持ちだからな」

少し前から計画し、準備をしていたのでしょう。大声で泣く文隆ちゃんをかかえて走り去る直前、乳母車の中に、弟はあの脅迫状を残していったのです。



 赤ん坊に手を伸ばす弟を前に、もちろん鈴木みどりも抵抗はしただろう。しかし果たせなかったのである。

 赤ん坊が誘拐されてしまうと、はたして鈴木みどりには何ができたろう。姉として、実の弟が逮捕される姿を見るのは耐え難い。

 かといって、津山家に対して、うらみがあるのでもない。しかも、赤ん坊を奪われた親たちの悲しみがいかほどであるか、鈴木みどりはその日から目撃しなくてはならなかったのである。

 だが、弟が犯人だと警察に告げることは心情的にできない。結局姉は、弟が書いた筋書き通りに行動するほかなかったのである。

 手紙はこう続いた。



お金を取った後、弟がどこへ行ったかは知りません。きっと、ほとぼりが冷めるまで身を隠すつもりでしょう。

これはすべて弟の罪です。実の姉弟ながら許せない。とんでもない男です。

だけど、私にも罪の一端があるのです。

目の前で文隆ちゃんをみすみす奪われてしまった。それだけでなく、弟を矯正し、正しい道を歩ませることができなかったという意味でも、姉には罪があるのです…。



「林君、赤ん坊はどこにいるのか、その手紙では触れていないのか?」

 と課長の声も普段とは違って響く。

「はい、手紙の最後に書いてあります」



文隆ちゃんを偽名で預けた託児所の所在地については、弟は何も申しませんでした。でもただ一言「京都市内だ」とだけ…。

京都中の託児所を警察の力で捜索していただければ、きっと発見できるでしょう。



 …と手紙は結ばれていた。

 鈴木みどりの入水死体が淀川で発見されたのは、翌朝のことである。


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