プロローグ
プロローグ
頬へと伝って流れ落ちたのは、一つの雫だった。
雫の正体は瞳から零れ落ちた涙ではない。空を覆い尽くす灰色の雨雲から零れ落ちた雫が、少女の頬を濡らしたのだ。
その少女――フィリアロッテが現在立ち尽くしているのは、都市の南門を出て三十分程歩いた先にある、一メートル弱の石碑が並べられた集合墓地。生者が死者へと最後の別れを行う場所である。
「――神の子、リーゼロッテ・ラズベットに静かなる眠りを」
別れの場所に轟いたのは、ロングコートのように足下まで伸びた長い衣類を、光沢がある幅広の帯で締めた司祭の言葉だった。
言葉に従って手を合わせるのは、長い眠りについたリーゼロッテと親交が深い者達。彼女の友人、または彼女と同じ修道女だった者、はたまた彼女の世話になった者達だった。
その数はざっと数百人を超えており、昼過ぎ頃から強さを増した雨音も相まって司祭の言葉が届かない者もいた事だろう。それでも彼らは一人の女性のために祈りを捧げ続ける。現世での人生は幸福だったとは言えないまでも、神がいるとされる天国では平穏に暮らせますようにと。
実を言うならば、そう祈りたいのは彼女の妹であるフィリアロッテとて同じだった。
十年以上前から続いている隣国との戦争によって、両親を失ったフィリアロッテからすれば姉は母親同然の存在だったのだから。どれだけ感謝してもしきれない彼女の幸せを、唯一の肉親であるフィリアロッテが願わない事などないのだ。
――しかし。
なぜだか手を合わせて祈ろうとは思えなかった。
無心になって祈りを捧げたい。それだけでなく、内に溜まった悲しみを涙と共に流してしまいたいというのに。そう願っているにも関わらず、不思議と祈る事も泣く事も出来なかったのだ。
その代わりに強く抱え直したのは、一冊の書物。
大聖堂の教えを書き記した聖書を元に作られた「祈りの書」と呼ばれる魔導書だった。実際の聖書と比べれば内に眠る力は比較にならない程に弱いが、神へと捧げた祈りを力に変えて、想いを解き放つ魔導書である事には変わりない。主である神を信じれば信じる程に強さを増していき、込めた祈りを用いれば、凶刃によって切り裂かれた傷を塞ぐ事も、全てを穿つ光の矢を放つ事も可能な奇跡の魔導書だった。
だが、それ程までの力を持った物でも死者までは救えない。
――どれだけ祈っても、願っても。
それは教えの原典である聖書とて同じだ。しかし、世界にはやはり例外というものがある。その一部の例外が、フィリアロッテの姉であるリーゼロッテを死に至らしめる原因となってしまったのだった。
それでも、その「例外」も終わりを告げる。人は過ちを犯す存在ではあるけれど、その過ちを悔いて正す事も出来るのだから。
それを証明するかのように。
「――信仰深き同胞、リーゼロッテを惑わせた魔導書。蘇生の魔導書『リヴァイブ』は、この場に置いて司祭の権限を持って破棄する」
死者を天へと送った司祭は、右手に持った十字架を頂いた権杖の先端を岩が敷き詰められた地面へと突き立てると共に、一冊の魔導書を頭上へと掲げた。元は大聖堂の管理下に置かれていた物であったためか、穢れを感じさせない真っ白な表紙をした魔導書は、確かに蘇生の魔導書に間違いはないだろう。
嘘か真か。死者を蘇らせると言われる異端の魔導書。その魔導書を用いて姉が蘇生させたいと願ったのは、二年前に起きた隣国との戦争において命を落とした恋人だった。
神に身を捧げた修道女が恋をする事は本来であれば禁忌とされているのだが、姉は自身の想いを止められなくて、とある騎士と恋をした。そして、禁忌すら犯してもいいと思う程の燃えるような愛情は、彼を失ってからは死者の蘇生という、さらなる禁忌へと向かってしまったのである。
元は神に命を捧げてもいいと、そう誓った信仰深き女性すらも狂わせる魔導書。そんな物はこの世界には不要な物なのかもしれない。
祈りの書と呼ばれる魔導書を手にしている者が言うのもおかしな事だとは思う。それでも、魔導などと呼ばれるものは、人には御しきれないものではないだろうか。
まだ幼い時に絵本で呼んだ「魔法の世界」に登場する不思議な力とは、種類も性質もまるで異なるのだから。過ぎた力は人を幸せにするどころか、人では払いきれない代償を求めるだけに過ぎない。そんな危険な魔導書はあってはならないと思う。
そう思うからこそ、フィリアロッテは蘇生の魔導書が消える事を願う。
もう同じ過ちが起きないように。優しい人が優しいままでいられますように。そんな祈りを込めて、フィリアロッテは澄んだ青い瞳を閉ざす。
全ての終わりが訪れる時を静かに待つために。だが、その時はいつまで経っても訪れはしなかった。
それどころか――
「私には……まだやる事があるんだ」
拙さを感じさせる声が、フィリアロッテの耳へと届いた。
それと共に鼓膜を震わせたのは動揺に満ちた声。瞳を閉ざしているために状況がよく分からないフィリアロッテは、慌てて瞳を見開く。
(……なに!)
まず瞳に飛び込んで来たのは、淡い赤色だった。正確に言うならば、薄い桜色にも見える魔導の光が、フィリアロッテ達がいる集合墓地全体を照らしていたのだ。
「――何者だ!」
さすがにこの状況は予想出来ていなかったらしく、右腕の袖で溢れる光を抑えた司祭は声を張り上げた。だとしても、皆が皆、その何者かが律儀に答えてくれるとは思ってはいなかったのだが。
「私は蘇生の魔導書。あなた達が『リヴァイブ』と呼ぶ存在。でも、私を呼ぶなら……リーヴァと呼んで」
眩い光が収まると同時に、リーヴァと名乗った存在は司祭の問いへと答えてくれた。
(……リーヴァ?)
聞き慣れない名前を心の中で反芻したフィリアロッテは、光によって焼かれた瞳を一度、二度瞬きする事で落ち着かせると。まるで睨むような鋭い視線を声が届いた方向へと向けた。しかし、瞳だけで人すら殺せそうな鋭利な瞳は、忙しなく驚きに見開かれる。
なぜ驚いたかと言うと。魔導書と名乗ったにも関わらず、人の姿をしていたからだ。
見た目は十二歳程の少女の姿をした存在は、中央に穿たれた穴から頭を出して着る貫頭衣で身を包んでいて、頭には黒く細長い紐がリボンの形で結ばれた、真っ白なベレー帽を被っていた。
その姿は年相応と言えなくもないけれど、さすがに魔導書という人外の存在であるためか、隣国ですら見かける事のない青銀の髪はどこまでも神秘的な輝きを持っているように見える。一目見ただけでは神の使いと見間違うような少女は、流れる風によって髪とリボンを揺れる事も気にせずに、ただ真っ直ぐにフィリアロッテを見つめていた。
いや、違う。正確には容姿が似ているフィリアロッテを通して、姉であるリーゼロッテを見ているのだろう。冷静に考えれば失礼な話ではあるけれど、淡い黄金色の髪も瞳の色も同じで、顔立ちでさえ似ているのだから無理もないのかもしれない。
そんな事を考えていると。
「魔導書が名を名乗るだと? 人の姿で現れる事でさえ、異端であろうに」
ようやく事態に追いついた司祭が皆を代表して、少女に言葉を返した。
しかし、司祭の様子は話し合いをしたいというよりも、今すぐにでも異端な存在を消し去りたいように見えるのは気のせいだろうか。
対するリーヴァは――
「リーヴァという名前はリーゼがくれたんだよ。それを悪く言うのは……許さない。リーゼは一度も私を道具として扱う事はしなかった。だから、叶えるんだ。彼女が望んだ、たった一つの願いを」
どういう原理なのかは分からないが、宙へと浮いた体をゆっくりと降ろしていく。どうやらリーヴァが一冊の魔導書から人の姿となって出現した理由は、志半ばで命を落とした主の願いを叶えたいだけらしい。
まだよくも知りもしない相手の言葉を信じるのは軽率なのかもしれないけれど、少女の深い海を思わせる青き瞳はどこまでも真っ直ぐで、嘘を言っているようには見えなかった。
仮に理由が正当なものであるならば、無償でも手伝ってあげたい。そう思ってしまう程の力を宿した瞳は、この場の代表である司祭へと注がれる。
叶うならば、この場を去る事を許して欲しいと願うように。
「死者の蘇生は……神を冒涜する禁忌の力。それを許す訳にはいかない。どんな理由があったとしても!」
だが、司祭はそれを許すつもりはないらしく。
右手に握った権杖を再び地へと突き立てる。鳴り響いた力強い音を合図にして、フィリアロッテの背後で数多の光が瞬いた。彼直属の神父が「祈りの書」を発動させたようだ。背後を確認せずとも、数百を超える光の矢が数秒の内に少女を狙って射出される事だろう。
「そう。それなら……私は行くよ。またね、リーゼに似ている人」
それでも少女は臆する事無く、囁くような優しい言葉をフィリアロッテへと届けてくれた。その優しさは、おそらく主から受け継いだものだろう。
姉の優しさを身と心で感じて育ったフィリアロッテが、この包み込むような優しさを間違える事などはない。ずっと触れていたいと、そう願った肉親の温かさを思い出したフィリアロッテは求めるように手を差し伸ばす。
――しかし。
フィリアロッテはリーヴァに触れる事は叶わなかった。
代わりに触れたのは、数多の光。後方から容赦も慈悲もなく放たれた光の矢が、少女がいた場所を貫いた際の溢れんばかりの閃光だった。
グロッシア歴、百五十一年。
蘇生の魔導者リーヴァと、神官見習いフィリアロッテが初めて出会った瞬間の出来事だった。




