番外編:玉仏の微笑
「焉沾! いつまでかかってやがるんだ!」
「はい、もう少しで」
声だけは後ろに向けて大きくしながら、焉沾の目は手の中にあった。
仄かに微笑んだ滑らかな面。流れる様な曲線で形作られたふくよかな体。仏の髪も指も、台座の細かい模様も精緻でありながら全体の均衡を崩すことなく彫り込まれている。
掌中の玉仏は、そのまま店頭に飾られても恥ずかしくない出来にはなっている。
だが、これは九分九厘の出来なのだ、と焉沾は思う。一厘足りないのは明白なのに、その一厘の足し方が分からない。
「どら、見せろ」
背後に迫った声にびくりとした瞬間、焉沾は後頭に衝撃を覚えた。
「何だ、もう上がってんじゃねえか!」
まだです、と答える代わりに、今度は尻を蹴られる。
「田舎から出てきたばっかりで、もう怠けることを覚えやがって」
違うのだと言いたいが、口には出せない。
親方が怠けていると言ったら、そいつは怠け者なのだ。
これはどこの工場でも変わらない。
「腕が立つと思って、いい気になってんじゃねえぞ、田舎もんが」
どうして田舎、田舎と繰り返すのかと反問したいが、これも腹の内に収める以外に新米の焉沾は術を持たない。
「夕方までに、あと一つ仕上げろよ」
親方は、後ろ足に焉沾の脛を蹴ると、一厘欠けた玉仏を持ち去った。
やっぱり、上海に出てきたのは失敗だったのだだろうか。
鑿を取り、新たに玉仏の面を彫り込みながら、焉沾は胸の内で自問する。
故郷から上海に出て二月だが、尽きもなく果てもなく持ち込まれる仕事をただこなすだけの毎日だ。
当初期待した様な技を磨く機会などはなく、ただ、ありふれた注文品を型通り大量に仕上げることが求められる。
先輩の職人たちはこの点については実に熟練している。
だが、と焉沾は思う。あいつらの中に飛び抜けた腕や技を持つ奴は一人もいない。
それどころか、出来上がった作品を並べれば、明らかに俺のが一番上だ。
工場に入った最初の一月で手間の掛かる仕事はことごとく自分に回される様になった事実がそれを裏書きしている。
それと同時に焉沾は自分がいかにこの工場で軽んじられているかも感じていた。
手間の掛かる仕事を工場で一番こなしているにも関わらず、渡される給金は一番安いまま、親方は上げてくれる気配もない。
先輩たちの誰かに話し掛ければ無視されるか、撥ね付ける様な答えが返ってくる。
一月前の朝、工場で鑿が見当たらず焉沾が先輩たちに問うた所、彼らは一様に妙な笑いを浮かべた。
「はあ?」
「何言ってんだ、こいつ」
「上海語で話せよ、お前」
鑿は結局、屑入れの中から見つかった。
それからこの一月の間、表面的には何も起きていないが、焉沾は先輩たちと言葉はおろか目を合わせることさえ極力避けている。
もともと俺は上海になんか来たくなかった。目元は深く彫りすぎない様にと注意しながら焉沾は鑿で仏像の顔を抉る。
だが、故郷にいるわけにはいかなかったのだ。
削り屑を払うと、微笑を浮かべた仏の目が現れる。
仏に性別はないと言うが、金仏の顔は男に近く、玉仏の面は女に似ている、と焉沾は思う。
金仏の微笑は自信に満ちているが、玉仏の微笑はどこか泣き出す寸前の笑いに似ている。
「あたし、知事様のお妾になるんだって」
そう告げた時の鴛鴦はそんな顔をしていた。
「あと半月もしたらお迎えが来るんだって」
口調自体が他人事の様に平静な上に、表情が笑っているので、焉沾は一瞬自分たちの身に何が起こっているのか理解できなかった。
「父ちゃんはあんたを上海に修業にやるって」
言い終えるや否や鴛鴦は背を見せて走り去った。
その時、焉沾は初めて自分たちの繋がりが何ら世間に認められるべき形を与えられないまま、見えない力によって断ち切られたことを知った。
故郷の親方は俺を一人娘の婿にするのではなく、むしろ娘を囲い者にする方を選んだのだ。
焉沾は勢いよく鑿を打ち込む。仏の目元から鼻梁にかけては鋭く彫らなくてはならない。
だが、俺が恨むのは筋違いというものだろう。
せっかくの小町娘を身寄りもない住み込みの職人なぞと一緒にさせるより、知事様の妾にする方が何倍も良い縁組に決まっているのだから。
焉沾はまた鑿を勢いつけて打ち込む。仏像の鼻梁は左右のどちらとも当分に彫られなくてはならない。
それに、俺は鴛鴦に何もしていなかった。思いを口にして伝えることさえ。
端正な鼻が顕になると、玉仏の顔はどこか冷ややかになった。
鴛鴦から告げられた時も、俺は馬鹿の様に押し黙っていただけだった。
焉沾は仏像の鼻の下に鑿を打ち込む。先程よりもずっと弱い力で。
逃げよう。焉沾は口の中で呟く。俺と一緒に、逃げよう。
鴛鴦はあの時、俺に引き止めてそう言って欲しかったのではないか。
逃げよう。俺と一緒に逃げよう。
削り屑を払うと、彫り上がった仏像の口元は固く閉じられていた。