なんで“察して”が通じないと腹が立つの?
言わなくても、少しくらい分かってほしい。
そう思うことは、たぶん誰にでもある。
菜根タンにも、ある。
疲れている時。
困っている時。
いまは少し放っておいてほしい時。
あるいは逆に、何も言わずに少しだけ気づいてほしい時。
そういう時、言葉にしてしまえば済むのかもしれない。
でも、その“言えば済む”の手前に、妙なためらいがある。
言わなくても分かるくらいであってほしい。
言わせないでほしい。
このくらいは察してくれてもいいんじゃないか。
その気持ちは、どこかで少し甘えていて、でもそれだけでもない。
その日の放課後、菜根タンは机の中を見下ろしていた。
文化祭準備の連絡メモが、思っていたより多い。
今日のうちに確認したいこともある。
しかも昼から少し頭が重くて、帰ったら早めに休みたい気持ちもあった。
そんな状態で、近くの子が気軽に言った。
「菜根タン、これもついでに見といてくれる?」
その“ついで”が、今日は少しだけ重かった。
断れないほどではない。
でも、引き受けるとしんどい。
だから今は、正直少し困る。
困る、のだけれど。
菜根タンはその場で「今日はちょっと無理」とすぐ言えなかった。
相手は悪気なく言っている。
頼み方も軽い。
だからこそ、ここで断ると、自分だけ急に固くなる気がした。
「……うん、ちょっと待ってね」
結局そう言って、メモを受け取ってしまう。
その瞬間に、胸の奥で小さな何かが沈んだ。
相手は気づかない。
気づかないまま、「助かる」と笑う。
その笑顔を見たあとで、菜根タンの中にじわっと腹立たしさが広がった。
どうして分からないんだろう。
今日は少し余裕がないって、そんなに見えないのだろうか。
このくらい、察してくれてもいいのに。
そう思ってから、菜根タンは自分で少しだけ困った。
今のは、自分が何も言わなかったのだ。
それなのに、伝わらなかったことに腹を立てている。
たぶん理屈としては、自分が少しおかしい。
でも気持ちとしては、たしかに少しだけ腹が立っていた。
中庭のベンチに座って、菜根タンはノートを開いたまま、しばらく何も書けなかった。
なんでだろう。
言えばよかった。
でも、言わせないでほしかった気持ちもある。
そしてその両方があるから、余計にややこしい。
「今日は、期待が外れた顔してるね」
声がして顔を上げると、楊子ちゃんがいた。
今日もいきなり核心から来る。
「期待が外れたって……」
「そういう顔」
「“なんでそこ分からないの”って顔してる」
菜根タンは少しだけ苦笑した。
「そんなに分かりやすいかな」
「今日はかなり」
楊子ちゃんはベンチの端に腰を下ろした。
菜根タンは少し迷ってから、さっきのことを話した。
頼まれごと。
自分は少ししんどかったこと。
でも断れなかったこと。
そして、言わなくても気づいてほしかったこと。
話し終えると、楊子ちゃんは間を置かずに言った。
「勝手に察してほしがって、勝手に通じなくて腹立てるの、だいぶ面倒ね」
その言い方に、菜根タンはすぐにむっとした。
「言い方」
「中身」
いつもの返しだった。
「でも実際そうでしょ」
「“今日は無理”って言ってない」
「相手は聞いてない」
「それで“なんで分からないの”って、かなり勝手よ」
痛い。
すごく痛い。
でも、ずれてはいない。
菜根タンは膝の上の指先を少しだけ握った。
「……分かってるよ」
「分かってるけど、少しは見てほしいって思う時、あるじゃん」
楊子ちゃんは少しだけ黙った。
それから、前より少し低い温度で言う。
「あるわよ」
菜根タンは顔を上げた。
「あるの?」
「あるに決まってるでしょ」
「言いたくない時もあるし、言う前に気づいてくれたら楽だなって思う時くらい」
その答えは、菜根タンには少し意外だった。
「じゃあ、なんでそんなに刺すの」
「刺さないと、すぐ“相手が悪い”に化けるからよ」
楊子ちゃんは腕を組んだ。
「“察して”って、期待なの」
「でも、口にしてない期待って、相手から見たらただの無言でしょ」
「無言に応えられなかったからって、いきなり失格みたいにされても困るわ」
その言い方には、どこか本気があった。
たぶん楊子ちゃん自身も、そういう“無言の期待”に疲れたことがあるのだろう。
そう思うと、ただ冷たいだけには見えなくなる。
「でも」と菜根タンは言う。
「“察して”って、全部わがままでもない気もする」
「分かってほしい気持ちって、そんなに変じゃないし」
「うん」と、楊子ちゃんは珍しくすぐにうなずいた。
「変じゃない」
「ただ、その気持ちをそのまま相手への採点にするなって話」
その時、やわらかい声が重なった。
「“察して”の中には、たぶん寂しさもあるんだと思う」
論子ちゃんだった。
今日もきちんとしていて、でもそのきちんとした感じが、気持ちを固めるのではなく少しずつほどいていく。
菜根タンが事情を話すと、論子ちゃんは静かにうなずいた。
「言わなくても分かってほしい、って」
「たぶん“このくらい近いなら伝わっていてほしい”って気持ちなんだよね」
その言い方に、菜根タンは少しだけ救われた気がした。
そうだ。
ただ面倒くさがっているだけではない。
近い相手なら、少しは汲んでほしい。
そういう寂しさみたいなものも、たしかにあった。
「でも」と論子ちゃんは続ける。
「寂しさがあることと、相手に無言で答えを当てさせることは、やっぱり別なんだと思う」
菜根タンは小さくうなずく。
「うん……」
「“分かってくれたらうれしい”は自然だよ」
「でも、“分からなかったからだめ”まで一気に行くと、少し苦しい」
その差が、今の菜根タンにはかなり大きかった。
察してほしい。
でも、察せなかったことをそのまま相手の落第点にしてしまうと、関係は急にしんどくなる。
そこへ、元気な足音が近づく。
「また難しそうな話してる!」
孟子ちゃんだった。
事情を聞くと、孟子ちゃんは少し考えてから言った。
「わたし、“察してほしい”って気持ち自体はすごく分かる」
「だって、ちゃんと見てくれてる人なら、少しは気づいてほしいし」
「でしょ」と菜根タン。
「でも」と、孟子ちゃんは続ける。
「それってたぶん、察してくれたらうれしい、で止めた方がいいんだと思う」
「察してくれなかったからって、すぐ冷たい人って決めるのは違うのかも」
その言い方は、とても孟子ちゃんらしかった。
気持ちを守りつつ、そのまま暴走させない。
楊子ちゃんが腕を組んだまま言う。
「だから最初からそう言ってるじゃない」
「期待するのは勝手。でも、無言の期待が外れたくらいで逆ギレするなって」
「逆ギレまではしてないよ」
「顔がしてた」
「してない」
「してた」
いつものやりとりに、菜根タンは少しだけ笑ってしまった。
その笑いのあとで、ようやく胸の中のもやもやの形が少し見えた気がする。
自分はたぶん、相手に“察する力”を求めていたのではなく、
自分の状態をちゃんと見てもらえている感じを求めていたのだ。
でもそれを言葉にしないまま期待だけ置けば、
相手にはただの無言でしかない。
その無言が通じなかった時に腹が立つのは、
寂しさが怒りの形に変わっただけなのかもしれない。
「……わたし」
菜根タンはゆっくり言う。
「“察して”って、甘えでもあるけど」
「たぶん、“見ててほしい”でもあるんだね」
論子ちゃんがやわらかく笑う。
「うん。たぶんそう」
「でも、その“見ててほしい”を全部無言で出すと、相手は困るわよ」と楊子ちゃん。
「うん、それも分かる」
菜根タンは今度は素直にうなずけた。
「だから、少しだけ言葉にした方がいいのかも」
「“今日はちょっと余裕ない”とか、“今は難しい”とか」
「それで初めて、相手もちゃんと選べるもんね」
「それ」と孟子ちゃんがすぐ言う。
「察してくれたらうれしいけど、察せなかった相手をいきなり悪者にしないためにも、少し言葉を渡すの大事だと思う」
ノートを開く。
白いページに、少しだけ考えてから書く。
“察して”が通じないと腹が立つのは、
たぶん期待の中に寂しさが混ざってるから。
そこまで書いて、少し止まる。
それから、もう一行。
でも、無言のまま置いた期待は、
相手にはただの沈黙でしかないこともある。
文字を見つめていると、さっきまでのざらつきが少しだけやわらぐ。
察してほしい気持ちは、悪くない。
それは近さを求める気持ちでもあるから。
でも、その気持ちだけで相手を測り始めると、たぶんすぐ苦しくなる。
「……今度からは」
菜根タンは小さく息を吐いた。
「少しだけ言うようにしてみる」
「“今日は無理かも”って、ちゃんと」
「いいと思う」と論子ちゃん。
「それは、察することをやめるんじゃなくて、
察してもらうための入口をちゃんと作ることだもんね」
楊子ちゃんは最後にひとこと。
「言葉にしないで分かってほしがるの、だいたい自分が楽したい時でもあるからね」
「最後までそれなんだ」と孟子ちゃんが言う。
「でも、少し分かる」と菜根タンは苦笑した。
ノートの下へ、さらに一行書き足す。
分かってほしいなら、
少しは分かる形で渡すことも必要。
風が吹いて、ページの端がめくれた。
察してほしい。
分かってほしい。
それはたぶん、人と近くいたい気持ちの一つだ。
でも、その気持ちを無言のまま置いて、通じなかったことだけを責めるなら、
たぶん近づきたいはずの相手から、かえって遠くなる。
だから少しだけ言葉を渡す。
全部を説明しなくてもいい。
でも、何も言わないよりは少しましな形で。
それが、察してほしい気持ちを、ただの苦さで終わらせないための手間なのかもしれなかった。




