知らないことを、知らないまま話すのってだめ?
分からない、という言葉は、少しだけ言いにくい。
菜根タンは、そう思う。
知らない。
よく分からない。
まだ判断できない。
そう言えば済む場面もあるはずなのに、いざその場になると、なぜか少しだけ口が重くなる。
知らないと思われるのが恥ずかしいのだろうか。
考えていない人みたいに見えるのが嫌なのだろうか。
それとも、何か言わなければ置いていかれる気がするのだろうか。
たぶん、その全部が少しずつある。
その日の授業終わり、教室ではひとつのニュースが話題になっていた。
詳しい事情は菜根タンもまだちゃんと知らない。
朝の通学中に、スマホの見出しで少し見たくらいだった。
でも教室では、すでに何人かがそれぞれの感想を言っていた。
「いや、さすがにそれはひどくない?」
「でも片方だけ悪いとは限らなくない?」
「ていうか、前からそういう感じだったじゃん」
言葉は勢いよく出てくる。
断定も早い。
なのに聞いていると、誰もそこまで詳しくは知らなさそうでもある。
菜根タンも、つい口を開きかけた。
なんとなく、こうじゃないか。
たぶん、こっちが問題なんじゃないか。
そのくらいの薄い感想なら、自分の中にもあった。
でも、そのなんとなくを言葉にする寸前で、少しだけ引っかかった。
自分は何を知っているのだろう。
何を知らないのだろう。
それを分けずに話したら、あとで妙に苦くならないだろうか。
結局、菜根タンは何も言わなかった。
でも黙ったあとで、今度は別の引っかかりが残った。
話せなかった。
何か言えばよかったのだろうか。
何も言わないのは、逃げたことになるのだろうか。
放課後、中庭のベンチに座って、菜根タンはノートを開いたまま考えていた。
「今日は、言葉が出る手前で止まった顔してる」
声がして顔を上げると、論子ちゃんがいた。
「そんな顔まで分かるんだ」
「今日はわりと分かりやすいよ」
論子ちゃんは隣に座る。
菜根タンは、教室での話をそのまま説明した。
ニュースのこと。
自分も少しは思うところがあったこと。
でもちゃんと知らない気がして、結局何も言わなかったこと。
「……知らないことを、知らないまま話すのって、やっぱりよくないのかな」
論子ちゃんは少し考えてから言った。
「よくない、で終わると少し乱暴かな」
菜根タンはその言葉を待つ。
「たぶん大事なのは、どのくらい知らないのかを自分で分かってるかどうかなんだと思う」
「どのくらい……」
「うん」
「たとえば、詳しくは知らないけど、今見えてる範囲ではこう感じるって言い方なら、まだ置き方がある」
「でも、自分が見えてない部分まで全部分かった顔で話し始めると、急に危うくなる」
その言い方に、菜根タンは少しだけ安心した。
知らないことに口を出すこと全部が即だめ、というわけではない。
でも、知らなさの輪郭を自分で持たないまま話し始めると、たぶん危ない。
その時、冷えた声が入った。
「だいたいの人は、その輪郭を持たずに喋るのよね」
韓非ちゃんだった。
今日も話題に対して一番最初に刃を入れそうな顔で立っている。
「しかも、知らないことほど断言したがる」
「そこまで言う?」と菜根タン。
「言うわよ」
「知らないことを知らないまま話すのがだめというより、知らないのに十分知った気で断言するのがだめなの」
「そこを混ぜるから面倒になる」
その言葉はかなり鋭かった。
でも、教室の会話を思い返すと、たしかにそういう感じもあった。
見出しだけ。
断片だけ。
なんとなくの印象だけ。
それなのに、結論の形だけはすでに固い。
「でもさ」
菜根タンは少しだけ眉を寄せた。
「全部ちゃんと知ってからじゃないと話せない、ってなると、何も言えなくなる時もあるよね」
「あるわね」と、韓非ちゃんはあっさり認めた。
「だから話すなとは言わない」
「ただ、自分の推測と事実を混ぜるなって話」
そこへ、ふわりとした声が重なった。
「分からないって言っていいのにね」
荘子ちゃんだった。
今日もいつの間にか近くにいて、でもまるで最初から風の中に混じっていたみたいな顔をしている。
「分からない、って言うと置いていかれそうなんだよ」
菜根タンがそう言うと、荘子ちゃんは少し笑った。
「でも、分からないのに分かった顔して入る方が、あとでずっと恥ずかしい時もあるよ」
その言い方が、妙にやわらかく刺さった。
「知らないことを知らないって言えるの、けっこう自由だと思うんだよね」
「みんな意見を持ってる場で、まだ分からないって立っていられるのって、案外むずかしいし」
論子ちゃんも静かにうなずく。
「うん。それって逃げじゃなくて、ちゃんと自分の立ち位置を分かってるってことだと思う」
菜根タンは、その言葉を胸の中で反芻した。
まだ分からない。
それは無知の告白みたいで少し怖い。
でも同時に、分からないのに分かった顔をするより、ずっと誠実なのかもしれない。
「……でも、何か言いたくなるんだよね」
菜根タンは小さく言う。
「話題になってると、自分も置いていかれたくないっていうか」
「沈黙してると、なんにも考えてないみたいで」
韓非ちゃんがすぐに返す。
「考えてないように見られたくない、って理由で薄いこと言う方がたいてい危ないわよ」
「容赦ないなあ」と菜根タンが言うと、
「そこは容赦しない方がいいでしょ」と、韓非ちゃんは平然としていた。
「分からないなら、まずは聞く。調べる。保留する」
「そのどれかを選べる人の方が、たぶん後で崩れない」
その言葉は、少し厳しいが、たしかに筋が通っている。
「ねえ」と荘子ちゃんが言った。
「知らないって、そんなに恥ずかしいことかな」
菜根タンは少し考えた。
「恥ずかしい、というか……」
「立ち遅れてる感じはするかも」
「ふうん」
荘子ちゃんはベンチの背に寄りかかって空を見る。
「でも、知らないのに先頭に立って喋ってる人も、けっこう立ち遅れてるよね」
「自分が何を知らないか、のところで」
その言い方に、菜根タンは思わず少し笑ってしまった。
たしかにそうだ。
知識の量だけではなく、自分のわからなさを把握する力だってある。
その時、ぱたぱたと足音が近づいた。
「なに話してるの?」
孟子ちゃんだった。
事情を聞くと、孟子ちゃんは少し考えてから言った。
「知らないことを知らないって言うの、私は悪くないと思う」
「でも、何も考えないのも違うよね」
「うん」と菜根タン。
「だからたぶん」と孟子ちゃんは続ける。
「知らないから黙るじゃなくて、知らないから決めつけないってことなのかも」
「その上で、今わかる範囲でどう感じるかは、丁寧に言えばいいんじゃないかな」
その言い方は、孟子ちゃんらしくまっすぐだった。
そして今回は、そのまっすぐさがかなりちょうどよかった。
論子ちゃんもそれにうなずく。
「感じたことを持つのはいいよね」
「ただ、感じたことと事実として知ってることの境目を、自分で見失わないこと」
「そこが大事なんだと思う」
菜根タンは、自分の中でようやく少し形が整うのを感じた。
知らないことを、知らないまま話すのがだめ、というより。
知らないことまで、知ってる顔で塗りつぶしてしまうのが危ないのだ。
分からないなら、分からないと置いておく。
そのうえで、自分が今どこまで見えていて、どこから先は見えていないのかを意識する。
それはたぶん、黙ることよりもっと能動的な態度なのかもしれない。
ノートを開く。
白いページに、少しだけ考えてから書く。
知らないことに口を出すのがだめなんじゃない。
そこまで書いて、手を止める。
それから、続きを書いた。
知らない部分まで、
知ってる顔で塗りつぶすのが、たぶん危ない。
その文字を見つめながら、胸の中の引っかかりが少しだけやわらぐ。
「……まだ分からないって言うの、逃げっぽいと思ってた」
菜根タンがそう言うと、荘子ちゃんが笑う。
「むしろ、けっこう勇気いるよね」
韓非ちゃんは短く言う。
「その勇気を嫌がって、だいたい人は断言に逃げるのよ」
孟子ちゃんは少しだけ首をかしげた。
「断言って、強く見えるもんね」
「見えるだけの時も多いけどね」と、荘子ちゃん。
論子ちゃんはやわらかく続ける。
「分からないって言いながら、そのまま何も見ようとしないなら別だけど」
「分からないからこそ、もう少し見ようとするなら、それはすごくまっとうだと思うよ」
菜根タンは、その言葉に小さくうなずいた。
ノートの下へ、さらに一行書き足す。
まだ分からないは、
思考の終わりじゃなくて、たぶん入口だ。
書きながら、少しだけ気持ちが軽くなる。
話せなかったことを、失敗みたいに思っていた。
でも本当は、あそこで無理に何かを言わなかったことも、ひとつの選び方だったのかもしれない。
もちろん、そこで止まったままでは弱い。
けれど、分からないまま薄い言葉を置くよりは、ずっと誠実だったのではないか。
風が吹いて、ページの端が少しだけ揺れた。
孟子ちゃんが「でも、考えるのはやめたくないよね」と言い、論子ちゃんが「うん、だから保留は放棄とは違うんだよ」と返し、韓非ちゃんが「そこを混ぜるから雑になるの」と言う。
菜根タンは、そのやりとりを聞きながら少しだけ笑った。
知らないことは、たぶんこの先もたくさんある。
それを全部なくすことはできない。
でも、知らないことの前で、分かった顔をしない。
そのかわり、まだ見えていないと自分で分かっている。
その姿勢だけでも、言葉は少しだけましになるのかもしれなかった。




