獅子奮迅
両軍に撤退命令が下った。
黎明義軍4400名も動き始めた。谷へ続く山道を、全軍が流れていった。
当初より決めていた撤退における最終逃走経路、両側が切り立った岩壁だった。入り口が狭く、幅は5名程が横に並べば、一杯になる細さ、抜ければ山にも逃げれる、敵に使われれば厄介だが、自然の要塞としても使える、長く深く、逃げ道になる地形だった。
その入り口に、エドが1人で立った。
ルークがエドに、何も言わずに槍を投げた。
エドが受け取った…
見たことのない形の穂先の左右に鎌状の刃が張り出している、十文字の形を前後に持つ特殊形態の槍であった。戦闘のみに特化している個人の為の特化武器、団体連携を主とするこの世界には存在しない形だった。
「試作品ではあるが、お前ならば使いこなせるはずだ…」とルークは言った。
「行け、絶対に俺の下に帰ってこいよ。」
エドが槍を見た。重さを確かめ、ぐるりと振り回し、ルークの前で構えて見せた。
「当然だ、必ず…」と言った。
そしてルークも谷に入り、エドが1人残った。
後方から蹄の音が来た…
2000名だった。土煙が上がっていた。追撃部隊が来ていた。
エドが谷の入り口に立った。
動かなかった。
黒い甲冑。十文字槍。銅貨の首飾りが風に揺れた。
2000名が近づいた。近づいた。先頭の騎兵が、止まった。
なぜか止まった。
少年が1人が立っていた。谷の入り口に、黒い甲冑の少年が1人で立っていた。
先頭の将が「行け!! 子供1人だぞ!!」と叫んだ。
しかし誰も動かなかった。
その男の目が、怖かった。
2000名を前にして、微塵も揺れていなかった。
エドが口を開いた。
「我こそは、黎明義軍、黒獅子隊、隊長エドなり!!」
声が山に反響した。
「死を覚悟した者は、来いっ!」
戦場が、静かになった…
先頭の数名が動いた。
エドが、動いた!
十文字槍が閃光のように走った。
最初の一撃…
穂先が先頭の男の喉を貫き、骨を砕く音がして、そのままエドが引いた…… 引いた瞬間に左の鎌が横の男の顎から頭頂部まで斬り上げ、頭が割れた。血と脳漿が飛んで、男が声を出す間もなく崩れ落ちた。
2人が、消えた…
3人目が剣を振り下ろし、エドが槍を斜めに構えた。鎌に絡まって、そのまま捻った男の剣ごと体が回転した。遠心力で右の鎌が4人目の胸骨に食い込んで、鎧を貫通した。肋骨が砕けて、4人目が宙を飛んだ。「ぎっ」と声が出たが、それだけだった…
5人目が横から突いてきた。エドが半歩前に踏み込んで、槍を縦に一回転させ、5人目の槍が弾かれ、振り下ろした穂先が5人目の肩鎖骨に落ち、鎧が裂け、肩が半分に落ちた…
血が、地面に叩きつけられた。
初めて使う武器だったが、エドの体が直感で動いていた。突いて引く、引いた時に鎌が斬る。振れば360度が死地になる。この槍に、死角はなかった…
「怯むな!! 10名で行け!!」と将が叫んだ。
10名が一斉に突っ込んできたが、エドが後退しなかった。前に出て、10名の中に飛び込んだ。
穂先が正面の1人の腹を貫き、そのまま前に押した。その男の体を盾にして後ろの2人に突っ込んだ。3人が折り重なって倒れた…
左から来た。槍を引いて、鎌が左腕を肩から切り飛ばし、男が絶叫した。血柱が上がった。
右から来た。槍を横に払い、鎌の背で男の顔面を砕き、鼻骨が陥没した。男が後ろに吹き飛んだ。
上から来た。エドが低く沈み、立ち上がりながら槍を縦に回し、顎から穂先が入った。頭頂部から出た。男が一瞬、宙に持ち上がった。
周囲に誰も立っていなかった。
鎧が散乱しており、地面が赤かった。
血の匂いが立ち込めていた…
「何なんだ、あの槍は…」と誰かが言った。声が震えていた。
「もう20名で行け!!」と将が叫んだ。
20名が、横3列に広がって来た。
エドが、前に踏み込んだ。包囲される前に中央に飛び込んだ。
先頭の男を穂先で貫き、その体を盾に後列の男に突っ込んだ。2人が折り重なり、その上にエドが踏み込んで、踏み台にして跳んだ。
空中で槍を水平に一回転させた。
着地した瞬間、360度の鎌が薙ぎ払った。半径2メートルの全員が吹き飛んだ。
鎧が割れ腕が飛んだ。血しぶきが霧のように広がった。
誰かが叫んだ…
誰かが逃げた…
誰かが地面を転がった…
左から剣が来たが、エドが槍を引いた…鎌が剣を絡め取り、捻ったが男の手首が折れる音がした。剣が吹き飛んだ。男が叫んだ。その叫びの最中に穂先が男の喉を貫いた。叫びが一瞬で止まった。
右から槍が来て、エドが半歩退いた。穂先が空を切った。その穂先を両手で掴んで、そのまま上に持ち上げた。男が宙に浮いて、叩きつけた。地面が揺れ、起き上がれなかった。
20名の半分以上が地面にいた。残りが後退していた…
エドの腕に深い切れ込みがあり、血が流れていたが、エドは腕を見なかった。
「まだやるか…」と言って前を向いた。
「さ、30名!!」と将が叫んだ。
「……怖い」と誰かが言った。
「行けと言っているだろと!!」
将が剣を抜いて後ろの兵を押した。
渋々、30名が動いた。
エドがまた前に出て、谷の入り口から、一歩も退かなかった。
先頭の騎兵が馬ごと突っ込んできて、エドが地面に伏せたが、馬が頭上を飛んだ。立ち上がりざまに馬の後脚に十文字槍を突き入れた。馬が倒れ騎兵が投げ出された。地面に叩きつけられた。起き上がろうとしたが、エドが頭を踏んで、それで動かなくなった…
後ろから3名が来て、エドが振り返った。槍を縦に一回転させ、1人の首が半分飛んだ。血が噴き上がり、残り2人が止まった。止まった瞬間に穂先が1人の顔面に入った。鼻骨から後頭部まで貫通した。もう1人が剣を振り上げてエドが槍を引いた。鎌が振り上げた腕ごと斬り飛ばした。
叫び声が戦場に響いた…
後退する者が出た…
「怯むな!! 前に出ろ!! たった1人だぞ!!」と将が叫んだ。しかし後退は止まらなかった。
左から来たが、払った。右から来たが、体を開いた。後ろから来たが、十文字の横刃で受けた。絡め取り捻って、その男の体ごと前の兵に叩きつけた。2人が重なって倒れ動かなかった。
30名が崩れた…
「ご、50名で、踏み潰せ!! たった1人なんだぞ、なんとかしてくれ…」と将が怒鳴り、嘆いて声が裏返っていた…
50名が慎重に壁のように来た…横に広がって逃げ場を全てなくす形で来た。
エドが構えて、息が上がっていた…
足に深い傷があったが、腕が重かった。
しかし、目が死んでいなかった…
50名が来て、エドが動いた。
正面の先頭に穂先を向け、勢いで飛び込んできた男の体が穂先を自分から受け、貫通した。エドが受け流して、体が横を向いた瞬間、鎌が横の3名を同時に薙いだ。そして3人が吹き飛んだ。
後ろから来て、エドが槍を後ろに突いた。
穂先が腹に入り、声が上がった。
引いた鎌が腸を引き裂いて、男が崩れた。
左右から同時に来た。エドが低く沈んで2本の剣が頭上で交差した。立ち上がった、その瞬間槍が縦に一回転し!左の男の首が飛んだ。右の男の肩が割れ、血が霧のように広がった。
息切れし、エドが膝を落とした。
2000名が息を呑んだ…
「倒れた!!」と誰かが叫んだ。
次の瞬間、エドが立ち上がった。
膝を落とした勢いで槍が低く回転していた。立ち上がりながらその槍が水平に薙ぎ払った。前にいた5名が同時に吹き飛んで、鎧が裂けて飛んだ者が後ろの者を巻き込んだ… 連鎖して倒れた。
「まだ倒れていないぞ…」と誰かが言った。
50名が、じりじりと後退した…
誰の命令でもなかった…
将が「ひ、怯むな!!」と叫んだ。声が震えていた。
しかし、誰も動かなかった。
その男の目が怖かった。
傷だらけで血を流して、それでもその目が死を見ていなかった…
死を恐れていない目が、正面を向いていた…
谷の入り口に、黒い男が1人で立っていた。
その周りに、何十人もの倒れた者たちが積み上がっていた。腕が転がっており、鎧が割れ、地面が赤黒く染まっていた。
血の匂いが充満していた…
それでもエドは立っていた…
2000名の前に、たった1人で…
一方、谷の上では…
「急げ!! 連弩を展開しろ!!」とシャルナが叫んだ。
弓部隊150名が谷の両側の岩壁の上に走って高所に陣取った…
連弩を引き出し、矢を装填した。
「2段構えだ!! 前列75名、後列75名。交互に撃て!! 止めるな!!」
前列75名が谷の入り口に連弩を向けた。後列75名がその後ろで装填を完了させた。
シャルナの目が、谷の入り口を見た。
エドが1人で戦っおり、2000名の前に、1人で立っていた…
「早く来い、殿下……」とシャルナが呟いた。
谷の入り口でエドの足が、初めてぶれた…
疲れていた…
100名近くを相手にしていた。
しかし、止まらなかった。
「まだ立っているぞ!!」と誰かが叫んだ。
怒りではなく、驚きだった。
エドが前を向いた。
来る者を見て、「……まだいるか」と言った。
エドが動いた…
槍がずいぶん重かったが、止まらなかった。払い、弾き、倒した。
また来て、また払って、また弾いた…
エドの周りに、倒れた者たちが積み上がり続けた…
「殿下」とヴィクターが言った。「シャルナ殿より伝令。前列75名後列75名、全機装填完了です」
ルークがエドを見た…
エドが立っていた。
傷だらけで血を流しながら、それでも谷の入り口に立っていた…
「今だ!」とルークは言った。
「第一撃、始め!!」
シャルナが腕を下げた…
75機の連弩が一斉に弦を弾いた。750本の矢が空を割った。谷の入り口に矢の雨が降った。
「第二撃、始め!!」
後列75機が撃った。また750本が降った。
「第三撃!!」
前列が装填した。撃った。750本が降った。
「第四撃!!」
後列が撃った。750本が降った。
4連射。合計3000本。
「もう一巡!!」とシャルナが叫んだ。
前列が装填した。撃った。後列が撃った。前列が撃った。後列が撃った。
合計6000本の矢が、谷の入り口に降り注いだ。
2000名の追撃部隊が、止まった…
前が崩れ、後ろが詰まり、逃げようとした者が転んで、踏み越えられ、混乱が起き、指揮が消えた…
「て、撤退!! 撤退だ!!」と誰かが叫んだ。
2000名が、後退し始めた。
……………
「エド、今だ!!」
ルークの声が届いた。
エドが振り返った。谷の中を見た。黎明義軍の者たちが全員無事で待っていた。
エドがゆっくり谷に入った…
最後の一人として…
谷の入り口を抜け、岩壁の上でシャルナが「全機撤収!!」と叫んだ。
谷の奥に黎明義軍が集まっていた。
エドが来た時、全員が静かになり、誰も声を出さなかった。
全員が彼を見つめた、傷だらけの男を…
血だらけで、それでも歩いてくる男を…
ルークがエドの前に立ち、「よく来た」と言った。
「当然だ」とエドが言った。
バロックが、エドを見た。
側近に抱えられながら。目を細めた…
「よくやった、エド…」と言った。
エドがバロックを見た。
「バロック様こそ」と言った。
「お見事でした」
バロックが「礼はいらん」と言った。
しかし、口の端が上がっていた。
黎明義軍が、仲間を抱えて静かに動き始めた。谷を抜けて、南へ向かった。
皆に銅貨の首飾りが揺れていた。
黒い甲冑が、谷の光の中を進んだ…
「勇は義によりて生じ、義は勇によりて立つ……」
ーー韓非子ーー
勇気は義から生まれ、義は勇気によって立つ…
エドが1人で谷の入り口に立ったのは無謀ではなかった。
4400名が退くための時間を作る…
その義のために立った。
100名を超える者を相手にしながら、倒れなかった。
それが黎明義軍、黒獅子隊長の勇気だった。




