将の悲しみ
その夜、バロックが505名の名前を読み上げた。
5名の将軍から始まり、100名ずつの部下たちの名前を、1人ずつ。バロックは一度も紙を見なかった。
全員の名前を、30年間ずっと頭の中に刻んでいた。
俺はその名前を、全部聞いた。
そして、全員の名前を全部覚えた。
2時間かかった…
読み上げが終わった時、バロックが「……全部覚えたか?」と聞いた。
「覚えました…」と俺は言った。
バロックが、「……そうか」と言った。
それだけだった。しかし、その声が少し掠れていた。
翌朝、バロックが縁側に座っていた。
夜明け前から、ずっとそこにいたのかもしれなかった。
俺とエドが起きた時、バロックはすでに山の方を向いて座っていた。
朝の光が山の向こうから差し込んでいた。
俺は縁側の前に座った。
エドも座った。
3人で、しばらく山を見ていた…
バロックが口を開いたのは、陽が完全に上りきってからだった…
「昨夜、505名の名前を呼んでいる間、お前は一度も目を逸らさなかったな…」とバロックが言った。
「はい」と俺は言った。
「疲れなかったか。2時間だったぞ…」
「疲れませんでした。あなたから大事な思いが強く伝わり、506番目の名前を呼んでもらっていると思って、聞いていました。」
バロックが、俺を見た…
「……506番目、とは?」
「おじじ殿のお名前です。」と俺は言った。「505名と同じように、自分で自分を苦しめながら、誰かの為に苦しめられてこられた方だと思いましたので…」
バロックが少し、動かなかった。
「いちいちうるさい子だな…」とバロックが言った。声が、少し掠れていた。
「申し訳ありません…」
「まぁ、謝るな…」
しばらく、3人で黙って山を見ていた。
バロックが、また口を開いた。
「505名が死んで、俺は生き残った。それから30年、ずっと考えてきた。なぜ俺だけが生き残ったのかと。俺が死んで、あいつらが生き残れば良かったのではないかと…」
「…………」
「答えは出なかった。30年たっても出なかった…」
バロックが止まった。
5年前のことを昨日は話していなかった。
俺は黙って待った。
「5年前、あの時の生き残りたちが、また奇襲にあった。俺を庇おうとして、また何名かが死んだ。また、俺が生き残った…」
バロックが眼帯に触れた。
「2度とも生き残った。なぜ俺、いやわしだけが、2度も生き残るんだ。それを問い続けて、答えが出ないまま…ここにいる。」
エドが、少し前に出た。
「バロック様」とエドが言った。
「なんだ?」
「俺も、仲間を失ったことがあります。」
バロックが「……そうか」と言った。
「施設にいた頃の話です。食えなくて病気で死んだ子たちがいました。何人も… 俺には何もできなかった。ただそこにいるだけだった…。」
「……いくつの時だ?」
「物心がついた頃から、ずっとです…何歳だったかも、よく覚えていません…」
バロックが、エドを見た。
「それから、守るものがなかった。」とエドが言った。「剣を持っていたが、何のために振るのかわからなかった。長い間、わからなかった…」
「今は、どうなのだ?」
「今は守るものがあります。」とエドが言った。ルークの方を、一瞬だけ見た。「それだけです。」
バロックがエドを見た、長く見ていた…
「……お前はレオンに似ているな…」とバロックが言った。
「レオン様ですか?」
「わしの505名の中で、一番長く隣にいた男だ。口が少なくて剣が上手くて、戦になるとわしより前に出た。何度止めても前に出た。それがあいつの剣の理由だったんだと、今もそう思う…」
エドが「……強かったんですか?」と言った。
「強かった。しかし、強さより、あいつが隣にいると安心した。それが不思議でならなかった。わしの方が強いのに、あいつが隣にいると安心した。」
エドが、少し俯いた。
「バロック様」とエドが言った。
「レオン様は、今もバロック様の隣にいると思います…」
バロックが、動かなかった。
「奇襲の夜、レオン様はバロック様を担いで走ったんですよね?」
「……そうだ。」
「最後まで担いで、安全な場所まで運んで、それから戻っていった。」
「そうだ…」
「バロック様を生かすために死んだ人間が、バロック様が死ぬことを望むと思いますか?」
縁側に、静寂が落ちた。
バロックが、動かなかった。
右目の傷に触れた手が、わずかに、震えていた。
「本当にうるさい子だな……」とバロックが言った。
今度は、声が完全に掠れていた…
「すみません」とエドが言った。
「謝るな、ありがとよ。」
バラバラと、庭先の木の枝が、風に揺れた。
昼過ぎに、村の男たちが集まってきた。
昨日、入り口にいた3名と、さらに数名が来た。全員が元兵士だった。全員がバロックを見ていた。
「バロック様。昨日から、何を話しているんですか?」と1人が言った。
「北伐に行くという子供が来たのだ、しっておるの…」とバロックが言った。
「北伐に?入り口の警備の者から少し聞きました。」と男が繰り返した。
そして俺を見て、「お主たちが北伐に行くのか?」
「はい…」と俺は言った。
「お前たちだけでか?」
「いいえ。1500名います。山賊と盗賊と元傭兵です。」
男たちが少し笑った…
笑いながら、しかし目は真剣だった。
「バロック様は、どうなされるおつもりですか?」と男が聞いた。
「わしはもう引退した将軍だ…」とバロックが言った。
「引退など、しておられません!」と男が言った。静かに、しかしはっきりと。
「わしが505名を死なせた話は知っているだろ…」
「知っております…」
「それでもか?」
「それでも…、です」と男が言った。「バロック様が動かないなら、俺たちだけで行きます。しかしバロック様がいないと、俺たちはただの老いた元兵士です。バロック様がいれば、俺たちは戦えます」
「お前たちは、5年間もわしの隣にいて、この体たらくに、まだそう言えるのか?」
「5年でも10年でも、俺たちは変わりませんよ…」と男が言った。
「バロック様が505名を死なせたのは知っています。しかしバロック様は、30年間、その重さを背負って生きてきました。それを俺たちは見てきました。充分すぎる贖罪です…」
バロックが少し、目を伏せた。
眼帯の下に、何かが揺れていた。
「充分などではない…、充分など一生ないのだよ。」と言った。
「俺たちには、充分に見えます。」と男が言った。「それにバロック様が動かない限り、あの505名は死んだままです。しかしバロック様が動けば、あの505名の死が、意味を持ちます…」
縁側に、また静寂が落ちた。
バロックが、山の方を見た。
俺は、何も言わなかった。
言う必要がなかった。
夕方になって、バロックが立ち上がった。
縁側から庭に下りた。
庭先に置いてある木の枝を2本、拾った。
それを両手で持った。
構えた。
双剣の構えだった…
2本の木の枝を、2本の剣のように、右手と左手で分けて持った。
素振りを始めた。
動きは本物だった。
木の枝が風を切り、地面が足の踏み込みで揺れた。
俺は…、声が出なかった。
エドが「……本物だ」と小声で言った。
「ああ…」と俺は言った。
バロックが素振りを止め、振り返った。
「ルーク」と言った。
「はい。」
「505名の名前、 本当に全部覚えているか?」
「全部覚えています。」
「1人だけでよい、呼んでみよ…」
「レオン殿」と俺は言った。
「マルク殿、ハンス殿、テオ殿、カール殿、そして第1中隊の隊長はグレーベ殿、副隊長はシュタイン殿、最年少はフォルカー殿、17歳でいらっしゃいました…」
バロックが、少し目を細めた。
「1人で良いと言ったのに、その者たちの階級やら全部覚えているな…」
「全部覚えています。忘れません。」
バロックが木の枝を、庭先に置いた。
「皆の衆! わしと一緒に来てくれる者がいるか!!」と村の人たちに向かって言った。
1番近くの男が「行きます!」と言った。
別の男が「行きます、大将軍…」と言った。
老人たちが「行きますよ。」と言った。
女性が「当然行きます!」と言った。
若者たちが「行きます!」と言った。
村の全員が、700名が全員が言った。
バロックが、その声を全部聞いていた。
目が揺れていた。
「……レオン」とバロックが呟いた…
「マルク、ハンス、テオ、カール…」
5名の名前を呼んだ…
静かに、村の全員が聞いていた。
「お前たちが死んでから30年… わしはずっと、お前たちに本当に申し訳なくて動けなかった。しかし…」
バロックが俺を見た。
「わしの505名の名前を、全部覚えてくれた子供がいる。その子が北伐に行くと言っている。まさかの山賊と盗賊と元傭兵を率いてな…」
村の全員が、俺を見た…
「お前たちの命を無駄にしない。お前たちの分まで、わしが動く…、30年もかかり、ここまで待たせたが、今度こそ動く…」
村が、静かになった…
誰も何も言わなかった。
しかし、全員の目が同じ色をしていた。
俺は、胸の中で何かが湧き上がるのを感じた。
505名の名前を覚えた。
本当にそれだけだった。
それだけであったが、バロックの硬い氷を溶かし、彼らは動いた。
名前を覚えること…
忘れないこと…
死んだ者たちを覚えていること、それがこんなにも、人を動かすのかと…
「おじじ殿…」と俺は言った。
「なんだ?」
「一つ、お伝えしたいことがあります。」
バロックが黙って聞いてくれた。
「俺の知り合いにも、レオンという者がいました。」
バロックが俺を見た。
「レオンです。おじじ殿のレオン殿と同じ名前です。」
バロックが「……そうか」と言った。
「その者は、敵の影武者として動いていました。俺の国を揺るがそうとしていた。しかし最後に俺に大事なことを教えてくれました。そして…、死にました。」
バロックが黙って聞いていた。
「その者も誰かを守るために生きていた人間でした。最後まで、誰かの隣にいようとした人間でした。おじじ殿のレオン殿とは全然違う生き方をしてきた人間です。でも同じ名前です。」
俺は少し間を置いた。
「今日おじじ殿のお話を聞いて、俺の中に2人のレオンができました。2人とも、もういない。2人とも形は違えど、誰かの隣にいた人間です。そして2人とも、俺が覚えています。死ぬまで忘れません。」
バロックが、しばらく、空を見ていた…
「……不思議なものだな」とバロックが言った。
「同じ名前で、2人とも死んだか…」
「はい…」
「……どちらも、誰かの隣にいた人間だ。」とバロックが言った。
「それが同じなら、名前も同じ… おかしくはない。お前の中で、2人が生きているなら…」
バロックが眼帯に触れた。
「……わしのレオンも、喜ぶかもしれん。」
俺は少し、目が熱くなった。
「おじじ殿」と俺は言った。
「なんだ…」
「一緒に来てください!」
バロックが、俺を見た。
それから、笑った。
泣きそうになりながら、笑っていた…
「仕方ないな、孫に頼まれては、断れん…」
全員が笑った…
700名が笑った。
バロックも笑った。
エドも少し、笑った…
俺も笑った…
笑いながら、胸の中で505名の名前を繰り返した。
2人のレオン、マルク、ハンス、テオ、カール、グレーベ、シュタイン、フォルカー…
全員の名前を、一人残らずに…
「悲しみは人を動かす。しかし、悲しみを越えた者だけが、真に人を率いることができる…」
ーー韓非子ーー
バロックは30年間、505名の死を背負って生きてきた。
動けなかった…
しかし、1人の子供が505名の名前を全部覚え、それがきっかけでバロックは立ち上がった。
名前を覚えること…
忘れないこと…
それが、人の何かを、動かしたのだ…
お読みいただきありがとうございます。
「将の悲しみ」いかがでしたか。
バロックというキャラクターを書きながら、作者自身も何度か手が止まりました。505名という数字を出した時、正直、自分でも重くなりました。5名の将軍と500名の部下が、ただ1人の将軍を逃がすためだけに死んだ。その重さを背負って30年生きてきた老人が、1人の子供に名前を覚えてもらっただけで、立ち上がる。
それを書きたかったのです。
名前を覚えること。忘れないこと。
ルークは1500名の部下の名前を全員覚えています。それは当然のこととして書いてきました。しかし、バロックにとっては、当然ではなかった。
505名の名前を30年間1人で抱えてきた老人にとって、誰かが覚えてくれるということが、どれだけのことか。
それだけで人は動く。
それだけで将軍が立ち上がる。
そう書きたかった。
そして2人のレオン。
バロックのレオン殿と、散ったレオン・ファルク。
偶然の同名です。
しかしこの偶然が、作者には嬉しかった。どちらも誰かの隣にいた人間でした。どちらも死にました。しかし、 ルークの中に生きています。
ルークという主人公の強さは、剣でも策でも覚醒でもなく、人の名前を覚え、忘れないところにあると、作者は思っています。
次話からは、バロックと700名が加わります。
義勇軍がまた大きく動きます。
北伐の前線はまだ遠い。しかし、旗は立っています。
引き続き、この物語をお楽しみいただけると大変嬉しいです。
もし心に何か残るものがあれば、感想や評価をいただけると、作者の励みになります。
ブックマークもしていただけると、次を書く力になります。
また次話でお会いしましょう。
ひょっとこ、とことこ でした。




