波紋
東部の朝は、静かだった。
鳥の声がした。
風が木々を揺らした。街の目覚める音がした。
ジュリアン・ヴァルト・レギナルドは、窓の外を見ていた。
第3王子、東部赴任中。
穏やかな顔をしていた。
側近たちから慕われており、民にも優しかった。
視察に出れば笑顔で話しかけ、食事中も本を手放さなかった。
東部の人間は皆、「ジュリアン殿下は良い方だ」と言った。
その評判は、本物だった。
それは「嘘」ではなかった。
報告が届いたのは、朝食の後だった。
側近のヴェルナーが、「王都から報せが届きました…」と言った。
「何かな…?」とジュリアンが言った。
柔らかい声だった。
「第5王子殿下が、王命により、王都にて軍令を執行されました。その訓練の際に財務副大臣3名が処断されたとの事です。300の将軍が証人であります。」
ジュリアンが少し目を細めた。
本を持つ手が一瞬、止まった。
だが、すぐに戻った。
「それは…、大変なことが起きたんだね…、ご家族に弔意を…」
「また処断の際にはルーク殿下が、自ら剣を振られたとのことです……」
「そうか……。10歳で、そのような決断をさせられたんだね……」
「殿下は、そのどうお考えですか?」
「どうって……」と困ったように笑った。
「父上が認めた軍令だからね…。私には何も言えないよ。そうだ、少しやり残した確認事項があったんだ、少し1人にしてくれるか?」
「承知しました……」
足音が遠ざかった。扉が閉まった。
鍵をかけた。
振り返ると、誰もいない部屋だった。
机と椅子と本棚と窓…、それだけだった。
ジュリアンが椅子に座った。
「聞いたか?」と言った。
誰もいなかった…
しかし、返事があった…
自分の口から、但し、別の声で…
「怖い……」
小さかった。
震えていた…
「300の将軍の前で10歳が剣を振ったって… 怖い…、あんな子が敵になったら…どうすればいい?」
「感情を抜け。」
また別の声だった。
乾いており、口数が少なかった…
「ルーク・ヴァルト・レギナルド。第5王子。現在10歳。今回の軍令執行で王国軍に名が刻まれた。脅威度、高い。接触は…時期尚早。」
「でもチャンスじゃないか。」
軽い声だった。
「ランツたちが消えた。財務省に空白ができた。金の流れを押さえれば王都への影響力が手に入る。今が一番動きやすい。」
「邪魔なら壊せばいい。」
低く、平坦だった。
感情がなかった…
「ルークが邪魔なら排除する。グレンを使え。結果だけ見ろ。」
「やめてよ……!」
また震える声が来た。
「そんなこと…できないよ…、誰かが死ぬのは嫌だよ…血が出るのは嫌だ…」
「死を恐れていては何も得られない。欲しければ動け。」
「そうだ! 欲しい! 全部欲しい! 王座も金も力も! あの玉座に座りたい! なぜアルベルト兄上が継ぐんだ! なぜルークが注目される!」
「感情的になるな、データが足りない。」
「足りなければ買えばいい。金を使え、人を買え。」
「でも怖い……怖い、怖いゆ……」
「壊せばいい。」
「欲しい欲しい欲しい!」
「分析が先だ…」
四つの声が、同時に鳴り始めた。
1人の男の口から、4つの声が重なった。
部屋の中に響いた…
その瞬間…
「静粛に…」
全てが、止まった。
声が違った…
他の4つとも違った。感情も温度もなかった。ただ、確かにそこにあった。
「整理する…」
ジュリアンが、静かに座っていた。
1人で…
誰もいない部屋で…
「現状、ルークの脅威度は高い。しかし今は動く時ではない。グレンとの接触を継続…、情報収集を優先せよ。判断は……保留。」
「でも…」
「保留だ!」
四つの声が、黙った。
部屋が静かになった…
ジュリアンがゆっくりと息を吐いた。
その声が誰のものか…?
ジュリアン自身もわからなかった…
いつからそこにいるのかも、わからなかった。
ただ、その声が来ると…
全てが静かになっていた。
それだけは、知っていた。
昼過ぎに、客が来た…
グレン…
ハルト商会の男だった。
ジュリアンが部屋に通した。
側近を全員下がらせた。…
「殿下…王都の件は、お聞きになりましたか?」
「ええ……」
とジュリアンが言った。
穏やかな声だった…
「大変なことになりましたね…」
「我々も困っています。王都での活動が難しくなりました。しかし、殿下のお力があれば、別の形で進められます!」
「別の形、とは?」と困ったように眉を寄せた。
「私は…、あまり過激なことは好みではないのですが…」
「東部の経済を── 殿下のお手元に集める形で。北部はシオン殿下が抑えています。東部は殿下のものになれば、 王都への影響力が、自然と…」
ジュリアンが少し間を置いた。
「考えさせてください…急いては、いけませんから…」
「もちろんでございす」とグレンが頭を下げた。
グレンが去り、鍵をかけた…
「グレンの件だ。」
また、声が始まった。
部屋の中で、1人で。
「怖い……あの目……信用できない……」
「金のために動く者は金で裏切る。データ通りだ。」
「でも今は使える。損得で考えれば利用価値がある。」
「用が済んだら壊せばいい…」
「やめてよ、そんなこと…」
「欲しければ動け。東部を抑えろ。」
「使う。ただし管理下に置く…」
また、あの声が来た。
一言だけ…
4つの声が止まった。
ジュリアンが地図を見た。
指が東部の上で止まった。
「……わからない方が、面白い。」
どの声だったか、わからなかった…
夜、側近たちと夕食を取った。
笑顔だった。
穏やかだった。
側近の1人が家族の話をした。
ジュリアンが「それは良かったですね…」と言って、本当に嬉しそうに笑った。
それは、本物だった。
食事が終わった。
側近たちが下がった後、また鍵をかけた。
窓の外を見た。
夜の東部が広がっていた。
「ルーク……」
どの声だったか、わからなかった。
「いつか会う日が来る。その時まで、ゆっくり俺も、動く…」
夜風が吹いて、カーテンが揺れた。
窓を閉めた。
部屋が静かになって、6つの声が静かに、息をしていた。
「兵は詭道なり……されど己の心を制せぬ者は、詭道に呑まれる……」
ーー孫子?ーー
ジュリアンの部屋には、いつも6つの声があった。
誰も知らなかった。
側近も、グレンも、他の兄たちも…
鍵をかけ、部屋の中で、ただ1人…
ジュリアンは会議を開いた。
5つの声と、名前のない1つの声で…
その声が何者なのか、まだ誰も、知らなかった…




