奪還
やはり誘拐で間違いない、という結論に達したのは、ミスティカと会ってから二時間後。
レグラスとミスティカはお互い黙ったまま、レグラスの家のダイニングテーブルで向かい合っていた。
時刻はすでに夕方で、本来ならそろそろミスティカを帰さねばならないのだが、彼女が頑としてナッシュバートが来るまでは帰らないと言い張るので、お互いここで難しい顔をしているのだ。
ミスティカと合流してから、二人でいくつかの警備隊詰め所へ向かいマリーアンのことを聞いてみたのだが、どこの詰め所でもそのような誘拐の報告は聞いていないと言われてしまった。とりあえずマリーアンの特徴を伝えて見かけたら連絡をもらうようにしておき、今は家に戻って王城に行ったナッシュバートの帰還を待っているところである。
気持ちは焦るが、今できることはそう多くない。レグラスは意識を集中して、マリーアンの魔力を感知してみる。竜には魔力を視る力があるから、一度馴染んだ相手の魔力なら離れていても大雑把な方向くらいはわかるのだ。
(ここから西……この曖昧さではやはり街の外だろうな。だがこれでわかるということは、生きてはいるし、さほど大きな怪我もしていない)
魔力は生命力と密接に結びついている。それが感知できるということは、マリーアンは弱ってはいないはずだ。ただの口封じなら連れ出して殺してもいい、というかそれが一番確実なやり方なのに、彼女は大きな怪我もなく生かされている。これにシヤの話をあわせて考えると、おそらくマリーアンをその魔術師とやらのところに連れて行くつもりなのだろう。
生きていればいいというだけなら、死なない程度の暴行を加えることはできる。相手がどこまでマリーアンのことを調べ上げているかわからない以上、レグラスは派手に動くことができないでいた。万一自分やミスティカのことまで知っているとしたら、やたらな動きをすれば彼女に被害が及ぶ可能性もある。それだけは、避けねばならなかった
ごんごん、と重いノックの音が響き、ミスティカがはっとしてこちらを見てくる。レグラスは少し迷ってから扉を開けた。ノックの音から相手がナッシュバートでないことは明白だったが、ここで扉を開けないのも不自然だ。
「たーのもーう。レグラス殿、今日は飲みに来ないのかの?」
「わしらが酒と肴とパンを持ってきてやったぞぇー。早く持っておくれ、腕がちぎれてしまいそうじゃー」
「おっ、誰かと思えばミスティカちゃんじゃ! 相変わらずかわええのう! ええモン見れたわい、お小遣いあげようのう!」
「じいさんたち……」
悪いが今は取り込み中で、と言おうとしたレグラスに、先頭に立っていたギデオンが人差し指を一本唇の前に立てる。それですべてを察し、レグラスは困ったような笑みを浮かべた。
「やあ、悪かったな、行けなくて。持ってきてくれたんなら、助かるよ」
「ほほほ、よいよい。時にマリーちゃんはどうしたんじゃ?」
「それがなぁ、どこほっつき歩いてるんだか、まだ戻ってこなくてさ……もしかしたら、実家に帰っちまったのかもな。この間から、帰りたいようなことも言ってたし」
「そういや、そんなことも言っとったのう。ええんか、放っておいて?」
「本人がそうしたいなら、俺は止めないさ。また気が向けば戻ってくるだろうよ……ほら、荷物を貸してくれ、重いんだろう?」
「おお、すまんすまん。それじゃ、お邪魔するぞい」
彼らの荷物をみんな持ってやり、レグラスはダイニングテーブルにそれを置いた。パンや葡萄酒、果物などの入ったバスケットを並べるとそれだけでテーブルがいっぱいになってしまったが、まあいいだろう。もの言いたげな目でこちらを見ながらも、何も言わずにいたミスティカの判断をありがたく思っていると、三人のうちの一人ゲルハルトが何事かをつぶやき指を動かす。その指先から魔力の糸が伸びるのが見え、レグラスは目を瞬いた。
「……これでよしと。もうええぞ、今音を外に漏らさぬ結界を張ったからの。何をしゃべっても、外の連中には聞こえん。ただ、窓から見ることはできるじゃろうから、窓際のヤツは表情と口元には気をつけろよ」
「おんしのそれは便利じゃが、顔を作らにゃならんのがちょいと不便じゃの」
「何を言う、儂の結界がなければ満足に話もできんじゃろがい」
「……え、と……あの、……どういう、こと……?」
恐る恐る発されたミスティカの声に、三人の老人は笑顔になった。
「すまんの、ミスティカちゃん。わしらさっき『踊る小熊』亭に行こうとしたところで、この家を見張っとるヤツの存在に気づいての」
「これはどうやらレグラスさんとマリーちゃんが厄介ごとに巻き込まれたんじゃろと思うてな、いても立ってもいられずに」
「支援物資と一緒に押しかけてしまった訳じゃ、ふぉっふぉっ」
「……いや、じいさんたち、本当に助かるよ。ありがとう」
レグラスは三人に頭を下げた。途端、老人たちは大慌てで顔を上げるように促してくる。言われるまま顔を上げ、レグラスは三人とミスティカのためにテーブルの周りに椅子を並べた。よく考えれば昼食をすっ飛ばしたから、かなり腹が減っている。ミスティカもそれは同じだったらしい、焼きたてのパンを前にしてよだれを垂らしそうな顔をしていた。
「このまま会食している雰囲気でいこう。ミスティカ、遠慮なく食べてくれ。じいさんたち、金はあとで請求して欲しい」
「いらんいらん、このくらい屁でもないわい」
「それより状況を教えてくれんか。……マリーちゃんが実家にさらわれた、っちゅー理解であっとるかの?」
「……飲み込みが早くて助かる。彼女をさらったのはマリーの実家……というか、具体的には彼女の父親であるストラバル伯爵の手の者でほぼ間違いない。ただ、連れて行かれた先はおそらく伯爵家じゃないはずだ。警備隊に確認したが目撃者はなし。昼前に俺と西区の教会で別れて、一人でミスティカの家に行く予定だったが、約束の時間になっても来なかったことで誘拐が発覚した」
「……その時間の西区で人をさらって目撃者がないとなれば、おそらくは本職の犯行じゃな。奴らは警備隊の動きも熟知しておる。人目につかぬ瞬間に、少女一人をさらうくらいは造作もない」
カップに注いだ葡萄酒をがぶりと飲んで、ジェフリーが渋面を作る。この三人の老人たちはかつて冒険者だったと聞いているが、ジェフリーは確か盗賊上がりのレンジャーだったはずだ。パンをむしっていた剣士のギデオンが、しかし、と言って首をかしげる。
「なんで今になってさらうんじゃ? マリーちゃんがレグラスさんの元へ来て、もう半年近くも経つじゃろうに」
「伯爵の長女が、四日後に第三王子と婚約するんだ。あの一家はマリーを軟禁して虐待していた。もっと言えば、彼女の存在自体を抹消していたからな……彼女からその話が漏れると、婚約自体が危なくなるんだよ」
「マリーだけじゃ、ないんだよ。メルおばさんのことも、ひどいの。伯爵は、メルおばさんを、職人として、雇ったのに……側室にもしないで、マリーのこと、産ませたんだって」
「んなっ……どうしようもない腐れ外道じゃの!? わしが今から討ち滅ぼしてやりたいわい!!」
「どうどう、ゲルハルトや、落ち着け落ち着け」
「すまんの……ゲルハルトは昔、アンヌローザちゃんに片思いしてたもんでのぅ。メルローズちゃんのことは、実の娘ほど可愛がっておったんじゃよ」
「なるほど。……とにかく、そういうことが明るみに出ると非常にまずいんだ。だから、マリーを誘拐して口を封じようとしたんだろう」
ジェフリーがゲルハルトをなだめる横で、ギデオンがこっそりと教えてくれた事情に、レグラスは少しだけ気持ちが上向くのを感じる。人と人との交流を、思わぬところで知れることはやはり嬉しい。
「その……、命の危険は、ないんかの。縁起でもない話じゃが、口封じなら、殺すのが一番確実じゃろ」
「俺もそう思ったが……魔力を追う限り彼女は無事だ。だから、殺す気はないと考えている。実は、伯爵は自分の領内に魔術師を飼っていて、そこへ定期的に生きた女性を……自分のところで雇ったメイドとかを、送り込んでいるらしいんだ。毒物や薬物の、実験台として」
「なに……それ……」
「俺も今日初めて知った話さ。この間助けた、シヤという女性が話してくれた。……彼女たちもそこへ運ばれる予定だったが、川が増水して馬車ごと流され、たどり着かなかったと。だからおそらく、実験台が足りないんじゃないか? 婚約式までの間は万一を考えて目の届く範囲に置き、それが終わったら口封じのためそこへ送る。そういうつもりでマリーをさらったんじゃないかと俺は見ている」
「……よりによってマリーちゃんを送る必要もないじゃろうに」
怒りを紛らわすように分厚いハムをかみ砕いているゲルハルトの言葉に、
「詳しいことは言えないが、今伯爵家から他のメイドは出せないはずだ。だから恐らく、マリーが適役だったんだろう、あいつらにとっては」
「なんとまぁ、胸くそ悪い話じゃの」
「同感だよ」
そこまで話したところで、またノックの音がした。表情を硬くする四人に、レグラスは大丈夫だと言ってドアを開ける。
「あ、どーもー! みんなそろってる! 俺様も混ぜてもらっていいっすー?」
予想通り、ドアの向こうには私服姿のナッシュバートがワインボトル片手に立っていた。レグラスは彼を招き入れ、自室から足りなくなった椅子を取ってくる。ゲルハルトの方を見れば、彼はうなずいた。
「ナッシュ、座ってくれ。この家の中はゲルハルトが結界を張ってくれている、会話が漏れる心配はない」
「えっマジすかすごい有能じーちゃんじゃん! 助かります! あざっす!」
「なんじゃなんじゃ、元気のいい若者じゃの! して、お主の首尾はどうだったんじゃ! レグラス殿の知り合いでここに来たっちゅーことは、お主もなんぞ掴んできたんじゃろ?」
「いやそれがやべえんすよ! 伯爵から警備隊に手が回ってて、マリーちゃんらしき子が誘拐されたって話が来ても取り合うな、って通達が回ってました! 貴族の娘が家出して、それを連れ戻しただけだから、気にしないで欲しい、ってな感じです! わざわざそんな通達出すなんて、もう、あまりにも黒過ぎて黒中の黒!」
「……まあわかっていたが、やっぱりあの連中の差し金だな」
「あとこれはいい話なんですけど、マリーちゃんに命の危険はないっす! 婚約式の時に神父さんが両家に対して特殊な道具を使うんすけどね、それが『この一週間に親族で命を落としたものがないか』っていうのを調べるヤツなんですって。婚約式はお互いの家の血をつなぐ儀式なんで、不幸があって一週間は避けるようになってるらしくて。あんまり遠い血縁はもちろんわかんないそうですけど、マリーちゃんは伯爵の子でしょ? だから少なくとも、婚約式が終わるまで伯爵はマリーちゃんを殺させないはずですよ」
と、そこまでを一気に言い切って、ナッシュバートはレグラスの差し出した水をがぶりと飲むと付け足した。
「……って、陛下が言ってました」
「ナッシュ、お前……言うなといったのに」
「すんません、バレました。顔見た瞬間に怪しまれて……王様直々に追及されたら、さすがの俺様も黙ってらんないですよぉ」
「……マリー、無事なんだ……。よか、った……」
心底ほっとしたようにミスティカが息を吐く。やはり、想定の話だけでは不安が大きかったのだろう。すとんと肩から力が抜けて、それは自分も同じだったとレグラスは苦笑する。知らぬ間にずいぶん固まってしまっていたらしい。
ナッシュバートは老人たちに勧められるまま空にしたカップにワインを注ぎ、それで、とテーブルに身を乗り出した。
「どうします? マリーちゃん奪還作戦、やりますよね?」
「当たり前だ。なんとしても婚約式前に、マリーを取り戻す」
「ボクもやる! 役に、たてることは、ないかも、だけど」
「わしらも手伝うぞい! なんでも言うてくれ!」
「うむ、しかしじゃな、やるはいいとして……レグラスさんや。マリーちゃんがここで暮らしてる以上、またいつ伯爵とやらに狙われるかもしれんのじゃろ? その辺は、考えておるのかの?」
ジェフリーの言葉に、レグラスはうなずいた。
婚約式が終われば、ダンクレストは証拠を集めストラバル伯爵を断罪するだろう。だからマリーアンを無事に奪還すれば、あとは待っているだけで問題は解決するはずだ。
けれど、それではレグラスの怒りが収まらない。
マリーアンの誘拐が発覚してから、ずっと腹の中にためていた言葉を今こそ吐き出すべきだと、レグラスはひとつ息を吸いミスティカに向き直った。
「俺に一つ考えがあるんだが……まずはミスティカ、君の意見を聞きたい」
「……、ボク?」
不思議そうに首をかしげて問い返してくる彼女に、
「俺は四日後の婚約式で、マリーとの婚約を発表しようと思う。仕立て自体は俺がやるからさほど時間はかからんだろうが、デザインや刺繍はフランシェル縫製工房に任せたい。……その条件で婚約式までに彼女のドレスを作ることは、物理的に可能だろうか?」
そう問いかければ、ミスティカは目を丸くしてからにやりと笑った。
「任せてよ。ボクと父さんで、王子様の婚約者が、霞んじゃうくらいの……最っ高のドレスを、作ってあげる!!」
「いよっ! かっこいいぜぇミスティカちゃん!」
「最高じゃぞミスティカちゃん! ひゅーひゅー!」
拍手喝采でミスティカをはやし立てるナッシュバートとゲルハルトを横目で見つつ、ジェフリーが言う。
「レグラス殿や、であればマリーちゃんの奪還自体はわしらに任せてくれんかの。年寄りばかりで頼りないと思うのであれば、ナッシュ殿をつけてくれても良い。……わしは、後ろ暗い連中の元締めってやつにちょいと貸しがあるもんでの、取り立てに行こうと思うんじゃよ」
「おお、出たなジェフの高い貸し。お主は一体どこまで貸しを作っとるんじゃ、その台詞現役時代から幾度となく聞いとるが」
「おんしらにも大量の貸しがあるぞえ、死ぬまでに返してもらうからの」
「がはは、そう言われても心当たりが一つもないわい! 無い物は取り立てられん! 残念じゃったのう!」
豪快に笑うギデオンと、呆れているジェフリー、二人の騒ぎなど気にせず上機嫌なゲルハルト。
三人の姿を眺めて、レグラスは微笑んだ。
彼らは変わらないのだ。あの頃と、何も。
「ジェフリー、ナッシュには別に頼みたいことがある。できれば、あなたたち三人だけでマリーを取り返して欲しい。明日の夜から婚約式当日まで、伯爵一家は王城に寝泊まりするようになる。そうなれば恐らく彼らは城から出てこないだろうから、その間に奪還して欲しい」
「オジサン、当日じゃ、遅いよ。ドレスや、靴や、いろいろ、マリーには……着てみてもらわなきゃ、ならない。遅くても、前日には……戻ってきて、くれないと」
「了解じゃ、ミスティカちゃん。乙女の支度には時間がかかるもの、この老体もそんな無粋なことはせん。明後日にはマリーちゃんを連れ戻して見せようぞ」
「ワシらの活躍、とくと見ておれ! 久方ぶりで腕が鳴るわい!」
「……師匠、じーさんたちに任せっきりで、本当に大丈夫です? 俺様、見張ってましょうか?」
こそりと耳打ちしてきたナッシュバートにレグラスは首を振って答えた。彼もミスティカもきっと知らないことだけれど、目の前の三人が信頼に足る腕前の持ち主であることがレグラスにはよくわかっている。だから、任せることに不安はなかった。
「いや、いい。あの三人は大丈夫だ……それよりお前には、もっと大事な任務がある」
「俺様に特別任務! いい響き! なんでしょう?」
「明日の朝、別の用事でグウェンリアンがこの国に着く。彼女に飛んでもらって、ストラバル領から問題の魔術師を連れてきてくれ。全力で飛んでもらえば、数時間で着くはずだ……お前が振り落とされさえしなければ」
「命かかってるヤツじゃないっすかやだー! 危険! お引き受けしますとも!」
にゃはは、と楽しげに笑ったナッシュバートの目が、急に真剣な光を帯びる。
「――やっと貴方のためにこの剣を振るえること、心から嬉しく思います。我が君、レグラス様」
「そういうのはいらないと、最初に言ったはずだぞ……ナッシュ」
「えへへ、俺様もちょっと騎士っぽくなったことをお伝えしておこうかと思って! でも照れますねこれね!」
すぐにまたいつもの通り気の抜けた笑みを見せたナッシュバートの頭を軽く撫でる。
あの半死半生で自分を殺せとわめいていた少年が、今は立派に大きくなって自分のために剣の腕を磨いているなんて不思議なものだ。
人の命は儚くて、けれどその一生は、過ごし方次第でどんな色にもきらめくのだと。
彼らはいつも、レグラスに己の姿でもって教えてくれるのだ。
「それじゃ、マリーちゃん奪還作戦、これより開始じゃ!」
「なんでおんしが仕切っとるんじゃ! それはレグラス殿の仕事じゃろ!」
「オジサン、ねえ、髪飾りの案、なんだけど……」
「えーと、ミスティカちゃんはもう完全に開始しちゃってますけどもー」
「ええいやむを得ん! レグラス殿、とりあえずなにか一言!」
「ここで俺に振るのか!?」
ゲルハルトから突然言われてレグラスは驚いたが、どこか期待に満ちた五対の目がこちらを見ていたから一つ咳払いをして口を開いた。
「あー、その……俺たちはマリーを取り返して、それから、伯爵の婚約式を……いや伯爵の婚約式じゃないな、なんて言えばいいんだ、あー……」
「……っこういう肝心なところでしまらないのが! 師匠の! いいところなのでっ!」
「いいところ、なの?」
「言わないでミスティカちゃん! いいところなの! そういうことにしておいて!」
「まったくフォローになっておらんぞ、ナッシュ殿」
「言わないでおじいちゃんたちも!」
「おい、お前は俺をフォローしたいのか、それとも傷口に塩を塗り込みたいのか、どっちなんだナッシュ」
「フォローに決まってますけどもぉ!?」
なんで俺様疑われたの、と素っ頓狂な声を上げたナッシュバートの肩を押しのけるようにして、ミスティカが立ち上がる。
「みんな、いい? ボクと、オジサンは、ここを動けない……けど、みんなのこと、信じてるから。全部終わったら、またみんなで、ご飯を、食べようね。もちろん、今度は、マリーも一緒に」
決意を込めたミスティカの言葉に、全員が頷いた。
マリーを――マリーアンを、取り戻すのだ。
だって彼女がいるべきところは伯爵家などではなく、ここなのだから。
「さあ、始めよう。ボクたちは絶対に、マリーを、取り戻して……伯爵家の婚約式、なんて、ぶっ壊して、やるんだから!!」
高らかなミスティカの宣言を聞きながら、本来締めの言葉というのはこういうふうに言うべきものだったのだなと、レグラスはひとり場違いなことを考えていたのだった。
洞窟の中はどこか湿ったかび臭い空気に満ちている。それでも思ったよりは過ごしやすくて、マリーアンは壁に背中を預けたまま、頭の中でミスティカの講義を思い起こしていた。
持ち物はすべて取り上げられていたが、粗末ながらも食事は出たし、暴力を振るわれたりもしない。ただ、逃げ出さずそこにいるように、と言われただけだ。洞窟の中の牢屋はきちんと鉄格子がはめられており、自分の力ではどうすることもできない。それがわかってから、マリーアンは無駄な抵抗をやめた。
(力ではどうすることもできない……それに運ばれてきたときのことを考えると、ここを無理に逃げ出しても、街まで帰れるかもわからない)
だとしたら、自分にできる最善の策は――信じて待つことだけ。
(先生、ミスティカ、ナッシュさん……みんなに、心配掛けちゃったな……)
ほんの一瞬のことだった。
細い路地の奥から子供の泣き声がして、思わずそちらに足を向けたのだ。
そうしたら、路地に入った途端何者かに口を塞がれた。
急に目眩がして、気を失って……気づけば、この洞窟の中である。
マリーアンを運んできたらしい覆面の男は、仕事だから悪く思うな、おとなしくしていれば手出しはしない、と言っていた。仕事、つまりは、誰からか頼まれてマリーアンをさらったということだ。そしてそんなことをする相手の心当たりは、ひとつしかなかった。
(ストラバル伯爵なのか、それとも、あの人たちなのか。いずれにしても、あの家の誰かが頼んだのよね、きっと)
少し寒くなってきた気がして、マリーアンは薄い毛布をたぐり寄せる。それは毛布というにはあまりにも粗末な代物であったが、掛けるものがあるだけでもありがたいとマリーアンは感謝していた。それ一つとっても、自分を誘拐した相手に殺す気がないことがわかって、多少なりとも安心できる。
不意に、この洞窟内唯一の階段の方から足音が聞こえてきた。ここにはいくつもの個室――独房、というべきだろうか――があって、中央には見張り役のためのテーブルと椅子があり、マリーアンから見て正面の壁に階段が一つだけ掘られている。テーブルでつまらなそうにカードゲームをしていた覆面の見張り役が、はっとして立ち上がり階段に向き直るのを見ていると、やはり覆面をした男が降りてきた。見張り役が頭を下げているのを見るに、相手の方が上役なのだろう。
「おい、お嬢ちゃん。客人だぜ、嬉しくねぇだろうが」
「私に……ですか?」
一体誰がこんなところにまで、と思っていると、やがて乱雑な足音が聞こえてくる。
それから覗いた顔に、マリーアンは思わず目をそらした。
「うっわ、なにここ! 薄暗っ! 汚っ! 空気悪っ!」
「だからやめましょうと言いましたのに……。来たいと言ったのはあなたですからね、ヴィー」
「わかってるってば! あ、いたいた、マリーアン! なぁに、もっとへこんで泣き叫んでるかと思ったのに、案外元気じゃん」
(パトリシア姉様と、ヴァレリア姉様……)
洞窟内の壁に反響してキンキンと耳障りな音を立てるヴァレリアの声に、マリーアンは顔をしかめる。それをどう捉えたのか、ヴァレリアが鼻を鳴らした。
「ここ、くっさいわねぇ。でもよかった、おかげでアンタの臭さも気にならないし」
「お久しぶりね、マリーアン。まあまあ、ずいぶんと血色が良くなって。さぞや良い旦那様の元で、可愛がっていただいたのねぇ」
「な……っ!?」
「聞いてますわよ? なかなかの殿方なのですってね、あなたを拾ってくれたのは? その惨めな手でご奉仕しても、喜んでくださるのならよっぽど物好きな方なのねぇ」
「えっ、嘘っ! この女、もう男漁ってんの!?」
「っせ、先生とは、そんなんじゃありません!!」
多分に含みを持たせたパトリシアの言葉にヴァレリアが食いつき、マリーアンは憤慨する。怒ることはないでしょう、と笑い混じりの声で言ったパトリシアが、口元を覆っていた扇子をぱちりと閉じる。
「今にそうしておけば良かったと後悔することになりますわよ。今に……そう、あと三日もすればね」
「三日……?」
「アンタ、そんなことも知らないの? 三日後には、おぉ姉様とガインヴェスト王子が婚約するのよ。そしたら、アンタはもう用済み。実験台に払い下げられて、おしまいって寸法! アハハ!」
「用済みだなんて、ヴィーったら……まるで今までが有用だったかのように言わないで。マリーアンは最期の最期で、ようやくわたくしたちの役に立ってくれるのだから。……ねえ、マリーアン? なるべく長く生き延びて、いろんな毒の実験台になってちょうだいね。うまく生き延びられたら、またわたくしが会えるかも知れないわ。その日まで、声が嗄れても、肌が爛れても、目玉が溶けても生きていてちょうだいね、うふふ……」
パトリシアがうっとりしたような笑みとともに投げてきた言葉に、マリーアンは身震いする。何を言っているのか今ひとつ理解できないところもあったが、理解できずとも生理的な嫌悪感が寒気を引き起こし、彼女の微笑を直視することを拒絶した。ぼろきれのような毛布に埋まりながら目を逸らしたマリーアンから興味を失ったのか、パトリシアは笑いを収めるとヴァレリアに声を掛ける。
「さあ、ヴィー、わたくしたちもそろそろ行かなくては。今日からはお姉様と一緒に、短いとはいえ王宮暮らしですわよ」
「はぁい。美味しいお菓子とご飯、いっぱい出るかなー。……あ、ねえ、それなぁに?」
「……この娘から取り上げた持ち物です」
部屋の片隅に置かれていた、刺繍道具や布絵本をめざとく見つけたらしいヴァレリアの問いに、彼女たちを案内してきた覆面の男が短く答える。ふうん、とつまらなそうに言ってから、ふと思いついたようにヴァレリアは続けた。
「あ、じゃあそれ、燃やしておいて。目障りだから」
「そこまでする必要があるとは思えませんが」
「……あたしが燃やしておいてって言ってるんだけど? アンタ、何様のつもり? お父様に金で雇われただけの人間が、あたしに意見するの止めてくれる?」
「やめて……やめてください!」
耐えきれなくなってマリーアンは声を上げた。刺繍道具は買い直せば良い。刺しかけの作品だってやり直せば良い。けれど、あの布絵本だけは燃えてしまったらもう取り返せないのだ。曾祖母が母のために刺し、母が自分に読み聞かせてくれたあの絵本だけは、どこを探しても替えなど見つからないのだ。
しかしマリーアンが声を上げたことでヴァレリアはよりその気になったらしい。にたりと笑い、そこにある物全てを外へ運び出すようにと強い口調で覆面の男に命じた。覆面の男はしばし逡巡したが、やがて諦めたのかため息を吐くとマリーアンの荷物を全て抱え上げ、階段を上り始める。その背中に向けて、無駄とは知りつつもマリーアンは必死に叫び続けた。
「待って! お願い、その絵本だけは……その絵本だけでいいから! 返してください! お願い!」
「アッハハハ! いい気味! 心配しないでよ、外に出たらちゃんと燃やしてさ、その辺の草むらにでも撒いておいてあげる! アンタの大事な布絵本ってヤツは、特に念入りにね!」
「もう、ヴィーったら本当に良い性格をしているのだから……。そんなんじゃ、お婿さんが見つかりませんよ」
「いいんだもーん、あたしは婚約式で竜王陛下をひっかけるんだもーん」
「はいはい、程々にしてちょうだいな。……じゃあねマリーアン、ちゃんと実験台になるまで元気でいないと駄目よ? 手が潰れているのはもう仕方のないことだけれど、健康であって初めて、いい実験台になれるんですからね」
喉が嗄れるほど叫んでいる自分のことなどまったくなんとも思っていないような二人の声に、マリーアンはふと、頭によぎった疑問をそのまま口にする。
「どうして……どうして、私をそんなに嫌うんですか!? 私が、あなたたちに何をしたっていうんですか!? それともメルローズの娘だから……平民の子だからなんですか!?」
「どうしてって……」
その質問に答えたのは、意外にもヴァレリアの方だった。
綺麗に紅の引かれた唇が笑みの形につり上がり、碧の瞳が楽しげに歪む。
「嫌いなものを蹴飛ばして踏みにじることに、何か理由がいる?」
それは、当たり前のように発された答えだった。
そしてそれ故に、酷く腑に落ちた。
嫌いなのだ、彼女たちは。自分のことが、どこまでもひたすらに、嫌いなのだ。
きっと最初は何か理由があったのだろう。メルローズの子だとか、何か気に入らないことがあったとか。そうした些細な嫌悪が積み重なってひしゃげて固まって、もはや理由などないひとつの憎悪になってしまったのだ。
投げつけられた純粋な悪意を飲み込めず、呆然としているマリーアンに構うことなく二人は去って行った。石造りの階段を上る音が遠くなって、二人が纏っていた化粧の臭いが空気から薄れて、マリーアンの所持品を持っていった覆面の男が戻ってきて。
それでもまだ、マリーアンは呆然とその場にうずくまることしかできなかった。
「……お嬢ちゃん。明日の朝まで、頑張りな」
やがて覆面の男がそう言って夕食を檻の中へ差し入れてくれたので、マリーアンは機械的にそれを口に運んだ。食事を取る気になどとてもなれなかったが、しかし食べなくてはならないと頭は訴えている。食べて、寝て、力を蓄えておかなくてはならない。戦うためには、力が必要なのだ。
(なにも、できなかった)
大切なものを奪われても、またなにもできなかった。
自分は無力だ。戦っても意味などないのだ。幾度となく感じた諦観が、再び忍び寄ってくる。諦めて受け入れて、仕方のないことだと思えば良い。戦おうと考えるから、自分の無力さに打ちひしがれる。諦めてしまえば楽なのだと、どこからか声がする。
けれど。
(でも、それでも、戦うって、決めたんだ)
強くなりたいと、思った。
自分一人ではなにもできなくても。それでも、負けたくないと思った。
レグラスは言った。重要なのは実際の勝ち負けではなく、戦う意志があるかどうかだと。自分に戦う意志さえあれば、手を貸してくれるものは必ずいるのだと。
だとしたら、自分に出来ることは――顔を上げて明日を待つことだけだ。
「……ありがとうございます。私、頑張ります」
覆面の男に礼を言い、マリーアンは毛布に包まって朝を待った。
洞窟の中では時間の感覚が鈍る。今が何時なのかもわからなかったが、そのまま黙って目を閉じているとそのうち眠ってしまったらしい。
次に気づいたのはまた乱雑な足音が近づいてきたからだった。
ただし、今度は声も一緒に降りてくる。
「なんじゃここは! わしゃ閉所恐怖症なんじゃ、やめてくれい!」
「嘘をつけ、お前さんダンジョン探索で一度もそんなこと言わんかったじゃろ!」
「おんしら、押すなや! 転がり落ちてしまうわ!」
(この声……そんな、まさか、もしかして)
マリーアンは思わず立ち上がると鉄格子に近寄る。見張りともう一人の覆面の男は何も言わなかった。やがて三人分の声と足音はすぐそばまでやってきて、白髪頭がひょいと覗く。
見覚えのある六つの瞳がこちらを見て、皺を蓄えた口元が笑みを刻んだ。
「マリーちゃん! 元気かの!?」
「やっぱり、おじいちゃんたち……! どうしてここが!?」
「わしの探知魔法でぽぽいっとやったのよ! どうじゃマリーちゃん、すごいじゃろー」
「手柄を独り占めしようとするでないわ、馬にも乗れんおんし一人じゃここまでこれんかったじゃろ。若いの、ほれ、鍵を開けてくれんか」
「ああ、わかったわかった……本当に騒々しいな、爺さんたちは。本当にうちの親分の師匠なのかよ?」
覆面の男が辟易したように言って、マリーアンが入っている牢の鍵を開けてくれる。あまりの事態に理解が追いつかず、鉄格子を開けられてもなおマリーアンは外に出られなかった。ギデオンが手を差し出してくれたので、その手を取って恐る恐る外に出る。よかったよかった、と口々に言っていた三人の老人は、しかし牢から出てきたマリーアンを見てぎしりと固まった。
「……マリーちゃん、お前さんもしや、髪の毛を」
「あ……そうなんです、えっと、切られてしまって」
妙に風通しが良くなってしまった首元を撫でて苦笑する。それでも命があったのだから良いのだと思っていると、突然男のうめく声がした。
「テメェの仕業か? あぁ? 答えろ、返答如何じゃこの首へし折るぞ」
「じ、ジェフリーおじいちゃん!?」
「おーおー、ジェフが怒っとる」
「ええぞええぞー、やったれ! 女の子の髪を切るなんぞ、万死に値する罪じゃわい!」
いつの間にか覆面の男の背後に移動していたらしいジェフリーが、相手を締め上げている。止める様子のない、というかむしろはやし立てている他二人に、マリーアンは慌ててジェフリーに駆け寄った。
「待って、おじいちゃん、違うんです! その、確かに切ったのはその人ですけど、そうしろって言ったのは伯爵なんです! だから……」
「……マリーちゃんは、こんな悪党までかばうのかい?」
「その人は言われた仕事をしただけですよ。私のことは、なるべく大事にしようとしてくれてました」
明日の朝まで頑張れと、言ってくれた。
その言葉が、折れそうになったマリーアンの心を支えた一つの要素だったのは事実だ。
ジェフリーはマリーアンの目を見つめ、息を吐くと覆面の男を解放した。げほりと咳き込んで男がその場に座り込む。
「まったく、こんな老いぼれにひょいひょい背後を取られるようじゃ、この先裏で生きていけんぞ? しゃんとせい、若造」
「うるせえよ、じいさんがバケモンなんだろ……げほっ」
「何を言うか。わしゃただの気のいいおじいちゃんじゃ」
「ただの気のいい爺さんはうちの親分に貸しなんか持ってねえよ!」
(親分? 貸し?)
マリーアンの疑問に気づいてか、ジェフリーはいつもの気のいい笑みを浮かべると男の肩を叩いて言った。
「なに、こやつらの元締めとは昔ちょいと縁があってな。伯爵家に肩入れしても良いことはないぞと吹き込んで、鞍替えさせてやったのよ」
「実際良いことはなかったよ、アイツ本当にケチだしな。契約違反で半金しか寄越さねえわ、クソうるせぇ女の面倒は見させられるわ……ホント、絞首刑にでもなっちまえばいいんだ、あのクソ親父」
ジェフリーの言葉を受けて吐き捨てるように言った覆面の男はマリーアンを見、少しだけ申し訳なさそうに付け足した。
「……アンタの荷物は、悪い。みんな燃えちまった。特にその……絵本は、よりうるせぇ方の女がしっかり燃やしてったから……」
「……大丈夫です。あの人たちに言われたら、逆らえませんもの。仕方ないですよ」
マリーアンは震えそうになる声を懸命に取り繕ってそう言うと、覆面の男に微笑んで見せた。そうか、と言った彼が、見張りだった男に何事かを命じる。すると彼は足早に出て行った。それを見送り、ギデオンがこちらを振り向く。
「さて、マリーちゃんや。いろいろあって疲れておるじゃろうが、ワシらと一緒にここから脱出しよう。お前さんを待ってる人がたくさんおるでな……時に、馬に乗ったことはあるかね?」
「ご、ごめんなさい、一度もないです……」
「ほっほ、大丈夫じゃよ。馬はええぞぉ、顔は可愛いし、力は強いし、いいことずくめじゃ。そんならワシと一緒に乗ろうな、ゲールは行きと同じくジェフと一緒に乗っていけ」
「何を言うか! 帰りはわしがマリーちゃんと乗るんじゃ! ゲールはギデオンと乗っていけい!」
「わしをいらんもののように扱うなー!」
マリーアンの隣を争う老人たちの怒声が、狭い洞窟の中に響く。
覆面の男は嘆息した。
「ったくおっかねえな、歳は食っててもまだ現役じゃねえか……さすが、昔勲章までもらった冒険者ってのは伊達じゃねえや」




