38、出発、恋と愛と
短いかも…
それから、リシュエールは徹底的にフェルディアドを避けた。
寝室はもちろん別にして、朝食や夕食の時間をずらし、仕事で正宮に向かうときも常にフェルディアドに会ってしまわないように気をつけたのだ。それくらい、今は彼に会いたくなかった。
幸運にも、あれだけ執務室で騒いだのに、やはり優秀な官僚たちは気を遣ってその事には触れないでいてくれる。リシュエールが不快な言葉を聞いてしまうことはなかった。
忙しく仕事に追われていると、フェルディアドのことをあまり考えずにすんだのは嬉しい誤算だったが。
湯浴みを終え、髪に香油をつけて櫛で梳く。ミルクティーブラウンの髪が艶を増して、ブロンドでもないのに燭台の光にきらきらと輝いていた。
髪が肩から流れていく。
ふと、フェルディアドの指がその髪のなかに埋もれている光景が思い出されて、リシュエールは息を詰めた。
剣を使える男性にしては、細くて長い指。それが髪をゆっくりと梳き、肩を撫で、それから背に引き寄せて口づけをする。いつも、フェルディアドは……。
(その指で……)
彼女の───リリシアナの髪も撫でるのだろうか?彼女の華奢な体を抱きしめて、あの小さなさくらんぼのような唇に口づけを?
その手はリシュエールのもののはずだ。煌めくプラチナブロンドも、広い背中も柔らかで暖かい唇も全部全部リシュエールのもののはずなのに!
「……髪はもういいわ。下がってちょうだい。」
髪を梳いていたモニィを下がらせる。
無駄に広い、豪華な部屋に一人きりになった。
なにも音のしない部屋。ロスフェフティにいたころは当たり前だったことが、今はもう当たり前ではなくなってしまっていた。
「寂しい……」
フェルディアドがいない。彼の眠りに誘う声も、抱きしめられる温もりも、無防備に聞こえる寝息も、なにもない。それが、こんなに苦しく感じてしまう。
「陛下……」
呼んでも来るわけがない。
あれだけ酷い態度を取ったのだから、フェルディアドもいい加減愛想を尽かしてしまっただろう。
リシュエールだって会いたくないと思っていたはずだ。
それなのに、どうしてこんなにも会いたいと思ってしまうのだろう?
彼は酷い人だ。彼よりも誠実で優しくて、リシュエールを愛してくれる人はたくさんいるだろう。どうして、フェルディアドが……フェルディアドでないと……。
「……陛下、会いたいの。会って、抱きしめて……それから……」
涙がこぼれ落ちた。
彼が今この瞬間現れたなら、感情的なリシュエールはきっと、ごめんなさいと言って、それから抱きしめて口づけをする。けれど、理性的なリシュエールは形だけ謝って可愛くない冷たい態度をとるのだ。
感情を一つになんか決められない。浮気をするフェルディアドは嫌いだ。けれど、優しくリシュエールの髪を梳くフェルディアドは好きだ。
いや、そもそも好きだの嫌いだのといったはっきりした感情には区別できない。
ただ、これだけは言える。すべてを捧げてもいいと思えるのは、フェルディアドだけだ。
翌朝、朝日がのぼる頃。
王城の正門外には護衛騎士がずらりと並び、内側では見送りの官僚たちが集まっていた。
リシュエールも見送りの者たちの前に立ち、フェルディアドの支度が終わるのを見守っている。外出用の軽装をして彼は、いつもより精悍に見えた。
「では陛下、そろそろお時間です。」
トリストがフェルディアドの馬の手綱を引きながら、声をかける。
もう行ってしまう。それなのに、リシュエールはまだいってらっしゃいの一言も言えていないのだ。
フェルディアドは頷いて、手綱を受け取ろうとした。
「……ちょっと待っててくれる?」
けれど、ふと手を止めてリシュエールの方に歩いてくる。
「王妃。」
人前だから名前では呼ばない。それはいつものことだ。けれど、それがいつもよりもよそよそしく感じてしまうのは、リシュエールがフェルディアドに嫌われることを恐れているからだろう。
「…なんでしょうか陛下。」
動揺を隠して出した声は、彼以上のよそよそしさを醸し出してしまっていた。空気がぴりりと震え、臣下たちが国王夫妻のただならぬ様子を息を殺して見つめている。
「あ…その…」
何度か口を開いては閉じを繰り返して口ごもるフェルディアドに、リシュエールは思わず眉をひそめた。それに目ざとく気づいたのか、彼はぴくりと肩を震わせて、
「あぁっもう!」
やけを起こしたかのようにそう叫ぶと、リシュエールは次の瞬間強く抱きしめられていた。骨が軋みそうなほどに力を込められて、リシュエールは慌てる。
「な、なにをなさるの!?やめてくださいっ……!」
「うるさい!」
フェルディアドがリシュエールに怒鳴ることなど初めてであった。吐き捨てるようにそう言った彼は、噛みつく勢いで───リシュエールに口づけた。
「んっ………はっ、急になにをっ──」
「怒っててもいい。」
「えっ……?」
「嫌いでも、もう顔も見たくなくても…リシュエール、君がどう思っていようと私の帰るところはもう君のいるところだけなんだよ。…君以外にはあり得ない。」
見ているこちらが切なくなるような、狂おしい表情で。
───そんな顔しないで。
嘘か本当か、もうリシュエールには分からないのに。
「陛下、わたくしは……」
嫌いになんて、なれるはずがない。でも……信じることが出来ない。
「留守を頼んだよ…私の王妃。」
「…はい。」
もう一度軽く唇を触れあわせて、それからフェルディアドは馬に飛び乗った。
「では行こう!」
フェルディアドの一声で、視察団が動き出す。ゆっくりとだんだん遠のいていく夫の背を見つめながら、リシュエールは唇を噛み締めていた。
「…いってらっしゃい。お気をつけて、わたくしの陛下。」
「……よろしかったのですか?」
「なにが?」
「あんなふうにおっしゃって……」
トリストが斜め後ろに馬を添わせて、フェルディアドに問いかけた。
「嫌われてもいい、というような…。いえ愛を伝えられたという点では評価すべきですが。」
正確には愛の言葉は言っていないのだが、さすがにあそこまで言えば賢いリシュエールには伝わっていると思う。
「そうだなぁ…」
紛れもなく、フェルディアドの本音を言った。彼が帰りたいと思うのは、リシュエールがいるところなのだ。
「今はなにを言っても信じてもらえなさそうだから……自業自得なんだけど。でも、じゃあ代わりに私が信じようと思ってさ。リシュエールの愛情を。」
自分勝手をしてきたことは自覚した。というか、現在進行形で自分勝手だと思う。でも、なにが正しいかなんて分からない。
手探りで、間違いだらけで、それでも諦められなくて……。
「恋か、いや愛か……」
知らない気持ちだから、自分には分不相応だから。そんな言い訳で逃げるのはやめだ。知らないのならば知ればいい。分不相応ならば相応しくなるように努力しよう。
「愛してるよ、リシュエール……」
思わず呟くフェルディアドを横目に見ながら、トリストが大きくため息をつく。
「……王妃さまの前でもそれくらい素直なら、ここまで拗れていなかったでしょうね。」
「なんか言ったか?」
「……いえ…なにも。」
黙り込んだ側近を見て、フェルディアドは首を傾げる。
「早く帰りたいな。」
「……まだ出発したばかりですよ。」
じろりと睨まれ、フェルディアドは肩をすくませる。
だが、内心トリストも帰りたいだろうことは分かっていた。あの鮮やかな金髪の小生意気な少女の声が聞こえないのに寂しく思っているのだろうと。──まぁ、まだ知らないふりをしておこうか。
「トリスト……」
「はい?」
「いつも……すまない。ありがとう。」
「…当たり前です。」




