37、溢れ出す涙と心
駆け足です……
「ひ、妃殿下!?」
王の執務室に向かって、まるで走るような速さで歩く王妃に、すれ違う官僚たちは驚いた声を上げる。
それも気にもせずに、リシュエールはばんっと執務室の扉を開いた。
「失礼致しますわ陛下!」
「お、王妃!?」
執務室にはフェルディアドとトリスト、筆頭秘書官、秘書官補佐の姿があった。全員、目を丸くして驚いている。
「なにかあったのか?」
フェルディアドが我に返って、心配そうに聞いてきた。優しげな声がかんに障る。リシュエールはフェルディアドを睨み付けた。
「えぇ、そうなんですの。わたくし、とっても驚いて、悲しかったわ……」
まるで悲劇のヒロインでも演じて、歌っているかのような口調で。
リシュエールは自分が自分でないような不思議な感覚を味わいながら、ふっと嘲笑した。
「結局、そう。あなたはわたくしを王妃という名のお人形にしているのね。ねぇ、陛下?」
小首を傾げて、悪い女のような艶やかな笑みを浮かべる。ミルクティー色の艶やかな髪が肩からこぼれ落ちた。
ふわりと、フェルディアドの前にハンカチーフを落とす。───リリシアナが忘れ物と呼んでいた、フェルディアドのハンカチーフを。
「これ、誰が持っていたと思います?わたくしが差し上げたハンカチーフ。舞踏会の日から、確かにこの色は見ていなかったわ……」
訝しげなフェルディアドの様子に腹が立った。彼は、リシュエールが何を言いたいのか、まだ分からないのだろう。
「リリシアナさまが……」
涙がこぼれ落ちそうだった。けれど今泣いたら、あまりにもみっともない。
「リリシアナさまがわたくしに渡してきたんですの。陛下の忘れ物よって。ねぇ陛下、おわかりになる?……わたくしもね、我慢しようと思ったの。側妾を持つ王はたくさんいる、陛下もそうなのだと。でも、でもわたくし……」
ようやくなにがあったのか察したフェルディアドが、目を見開いて慌てる。
「リ、リシュエール!!誤解だっ、彼女とはもうっ……!」
「嘘なんてつかないで。わたくしが惨めになるだけ……ごめんなさい。最初は上手くできると思ったのです。愛はなくでも支え合う夫婦になることは出来る。陛下に恋人がいても、気にしないって……それなのに」
リシュエールは笑った。
弱々しく、涙を堪えながら笑うその姿は、儚く今にも消えてしまいそうなたいへん美しいものだった。
「……わたくしは欲張りになってしまったの。」
────ごめんなさい。
そう呟いて、リシュエールは執務室を出て行った。
私室につくと、もう涙が溢れて止まらなくて……
近頃は上手くいっていた。心を誤魔化すのも、彼との夫婦生活も。
でももう無理なのだ。
もう誤魔化しきれないほど、フェルディアドへの想いが……
溢れて、溢れて。
止めどなく、涙がどれほど流れようと、フェルディアドへの愛でいっぱいの胸が軽くなることはないのだ。
舞踏会が終わった後、フェルディアドはリリシアナを執務室に呼び出した。
「さて、リリシアナ嬢。話はなにかな?夜も遅いから手短に頼むよ。」
向かい合うようにソファに座って、話を急かす。出来ればさっさと終わらせて帰りたい。そういうフェルディアドの思いが伝わったのかどうなのか、リリシアナは困惑したような顔で首を傾げた。
「…陛下、変わられましたね。前はそんなふうにわたしに冷たくなかったのに。」
「そりゃあ冷たくもなるさ。私には少なくとも君よりは学習能力があるからね。」
はっ、と馬鹿にするように笑ってやれば、リリシアナは泣きそうに顔をゆがめた。
「どうしてなのっ、王妃さまのせい!?」
「そこで王妃がなぜ出てくるのか甚だ疑問だよ。…いいから用件を言ってくれ。」
いつも議会の時にしているような、冷酷な目をしてみた。さすがに怖くなったのか、リリシアナは震えながら言う。
「アレン団長を、第一騎士団長に戻して欲しいんです!確かに王妃さまを危険な目に合わせたかもしれません。でも故意ではないんですよ!?アレンは庶民にも分け隔てなく接するから人気もある。レクリスさまもすごい人かもしれないけど、やっぱり───」
「ねぇ。」
勢いよくまくし立てたリリシアナの声を遮って、フェルディアドはため息をついた。
「すみません。わざとじゃないんです。うっかり……って言って、護衛対象者を傷つける騎士は騎士失格だと思うのは私だけかな?そもそも……」
ぎろり、と睨んだ。
「国王の決定に逆らおうって…?」
リリシアナが息を飲んだ。かろうじて堪えていた涙が、ぽろぽろとこぼれ落ちた。
「あっ…す、すみませんっ……そんなつもりじゃっ……」
正直ここまで泣かれるとは思わなかったので、驚いてしまった。
トリストを呼ぼう。最初からそうすべきだった。ベルをならして彼を呼びだす。
リリシアナが涙に濡れた目で、意味ありげにこちらを見ていた。それに目を合わせないように、執務机の方に行って書類を片付ける。リリシアナには背を向けていた。
上着は脱いで、ソファに置いたままだった。ソファは視界に入っていない。
だから、リリシアナが上着の胸ポケットからリシュエールが刺繍したハンカチーフを取り、スカートのポケットに隠したのに気付くことができなかった。
──────
リシュエールの言葉に呆然とし、それから慌てて執務室を飛び出した彼女を追いかけた。
彼女の私室の扉を叩くが返事はなかった。それでも話を聞いて貰おうと呼びかけると、侍女のリディエが出てきた。
「……陛下、王妃さまは今は会いたくないと仰せですが。」
「だめだ。今話を聞いて貰いたい!誤解なんだ、リリシアナ嬢とはもうなんの関係もない!」
「でも舞踏会の日はお会いしたのですよね?」
「うっ……それは、確かにそうだが、でもそれは!」
「お戻りください。王妃さまのお心が静まるまで。あなたさまは……あなたさまは、王妃さまをどこまで傷つけなさるのです?」
「────っ!!」
リディエの悲痛な声に、フェルディアドは何も言うことが出来ずに執務室に戻ったが、仕事に手がつくはずもない。
何を間違ったのか。
フェルディアドは正しい道を常に探りながら、それでもリシュエールを大切にしてきたつもりだった。それでも、根本が間違っていた。
「馬鹿だな。リリシアナとのこと、リシュエールに謝ってもなかったよ。別れたことも言っていなかった。ははっ、なんだそれは。」
おかしい。思いだしてみればいろいろ、すべてがおかしい。
リシュエールだって、今回の件が彼女の感情を爆発させるきっかけだっただけで、きっと今まで積もっていたものがあったのだろう。
「陛下……王妃さまも、いまは取り乱しておられるでしょうが、少し落ち着かれればお話もできるでしょう。そうしたら……」
トリストが躊躇いながらそう言った。
「どうかな。リシュエールはきっと、私に幻滅してしまっているよ……」
「……陛下。」
言うか言うまいかというような様子のトリストに苛立って、フェルディアドは彼を睨む。
「なんだ。言いたいことがあるなら言え。」
「分かりました。……陛下、正直に申し上げます。あなたは王妃さまのお言葉のなにをお聞きになっていたのでしょうか。」
「……は?おまえ、なにが言いたい。」
「私には愛の告白に聞こえましたけどね。傷つけられてもなお、陛下のことを愛してしまって苦しむ王妃さまの心の叫びに。」
そんなことも分からないのですか。
呆れたようなため息をつかれて、フェルディアドは混乱した。
リシュエールはフェルディアドを愛している?あんなに傷つけたのに?
「……でも、なにが正しいか分からないんだ。私には愛するとはどういったことなのか……」
ときおり、ひどく恐ろしい感情が湧き上がってしまう。大切なのに、閉じ込めたい。独り占めにして、フェルディアドしか見えないくらいに。そうしたら、フェルディアドから離れていかないから。
大嫌いな父親のような感情だと思う。母を自分の欲望のままに連れ去り、監禁した父親のような汚れた感情だ。
「確かに、陛下はご両親に恵まれなかった。ですが、陛下を愛する人が今までにいなかったと?そんなことをおっしゃったら、先王や将軍、あぁレクリス殿とか、あとデリーナも。あなたを導き、あなたを慕うすべての人はどうなります。」
「……あと、お前も?」
「えぇ、そうです」
トリストとフェルディアドは顔を見合わせて笑った。幼い頃、教師の目を盗んで城下まで遊びに出たことなどが思い出される。
「陛下、あなたはロンディール王太子ではない。どうかあなたの人生を、あなたの意思で歩んでください。」
ロンディール王太子は(名前だけ)久しぶりに登場。フェルディアドのお父様です。




