36、裏切りの証…
朝日がカーテンの隙間からこぼれている。その光があまりにも眩しくて、リシュエールは朝を自覚せずにはいられなかった。
疲れているからいつもよりも遅く起きてしまうだろうなとか、侍女たちが気を遣って起こすのを遅らせるだろうなとか、昨夜いろいろ考えたのに……結局いつも通りの時間に目が覚めた。
リシュエールはそっと目を開ける。だが、開けずとも気付いていた。
プラチナブロンドが枕元に散らばっていて、夫の美しい顔がそこにある。すーすーと規則的な寝息が聞こえていた。
「陛下……」
フェルディアドは帰ってきていた。リシュエールのもとに。
夫の姿が幻のごとく消えてしまいそうで、怖くなってフェルディアドの夜着の袖を掴んだ。
彼を起こしてしまわないように気をつけながら、体を寄せる。薄い夜着ごしに触れあう肌は暖かい。
彼女の香水の匂いも化粧の匂いもしない。フェルディアドは本当に仕事をして、それから夜遅くにここに───リシュエールの眠る寝室に帰ってきたのだ。
たまらなくなって、フェルディアドの唇に自分のそれを重ねる。
「わたくしの…愛しい陛下。」
彼が目を覚ましたら、今朝もいつも通りに「おはようございます。」と笑えるはずだ。
フェルディアドの生誕祭が終わればもう十月も末で、十一月から約一ヶ月の日程でフェルディアドは地方視察に行くことになっている。リシュエールは王城で留守番だ。その公務に向けての準備が、着々と進められていた。
「出立からの日程は決まりまして?」
「えぇ、十一月の五日に王城を出立して、その日のうちに王都を出る予定です。後ほど書類をお持ちします。」
「そうしてちょうだい。」
王妃として、リシュエールは国王代理をつとめるために執務室を用意してもらって、トリストに補佐して貰いながら仕事の引き継ぎをしている。フェルディアドはフェルディアドで、視察の準備が忙しいらしい。ここしばらくすれ違いになっていて、まともに会話していない。
ちなみに、トリストは視察に同行する。留守中はトリストの部下が助けてくれるらしい。王都守護のために残るレクリスを頼ってもいいと言われたので心強い。
扉を叩く音がした。
「レクリス・テスラ・フォーレン、お呼びとうかがい参上しました。」
「待っていたわ。入って頂戴。」
「失礼いたします。」
きっちりと第一騎士団の制服を着こなしたレクリスは、今日も生真面目そうな顔つきで、リシュエールに綺麗な礼をとる。彼の胸では、第一騎士団長を示すブローチが輝いた。
「王妃殿下におかれましては、ご機嫌麗しく……」
「えぇ、ありがとう。それでさっそくなんだけどお願いがあるんだけど…」
「なんなりと、妃殿下。」
正直気は進まないのだが、今後の仕事のためにはやらなければならない。
レクリスも十分助けてくれそうなので、リシュエールは思い切って口にした。
「騎士団本営に連れていってくださる?」
王城内はとても広い。騎士団本営に行くだけでもひと苦労だ。
あまり仰々しい格好でもいけないが、かといってなめられるわけにもいかないので、上品な藍色のドレスとアクアマリンの宝石を纏ってリシュエールは騎士団に向かった。
「…総団長にお会いしたいのでしたら、呼び出せばよいのではありませんか?あなたは王妃、王に次ぐ位でいらっしゃいます。」
「それは…ルーディス殿の方が年上ですし。わたくしが敬いたいと思うから、それでよいのです。」
「さようですか。」
本営では丁度、第二騎士団が訓練をしていた。第一騎士団は、王都を巡回中だそうだ。
総団長ルーディス・オルトゲル・リヴァイエ──通称将軍も訓練に顔を出しているという。流石に訓練の邪魔をするのは気が引けて、終わるのを待っていることにした。
「フォーレン団長、少し確認したいことがあるのですが……」
レクリスの部下だろう。先ほどから何人かが入れ替わり立ち替わり、レクリスの指示を仰ぎにやってくる。
流石に第一騎士団長ともなると忙しさは桁違いのようで、第四騎士団長だった頃とは勝手が違うと、この前言っていた。
リシュエールの護衛をしながら、騎士団長としての書類決裁は大変だろう。詰め所で身の危険などないだろうし、レクリス自身が一度彼の執務室に戻った方が、仕事は早く進むと思う。
そう言ったが、レクリスはあまりいい顔をしなかった。
「しかし、それだと王から拝命した妃殿下の護衛の任がおろそかになってしまいます。任された仕事に手を抜くことは出来ません。」
生真面目さもここまでくるとただの頑固である。
「でも、あなたの部下たちが大変そうだわ。わたくしはここにいれば安全でしょうし、あなたは一度戻って仕事をなさいな。それを早く終わらせて、またここに戻ってきて?」
「ですが…」
「つべこべ言わない!これは命令よ!」
ぴしっと人差し指を向けてそう宣言すると、レクリスは嫌々ながら部下に連れていかれた。
そうなると訓練場を見ていられる場所にいるとはいえ暇である。しかし、うろうろするわけにもいかない。
「暇ねぇ…」
うとうとしそうになって、流石にそれはまずいと自分で頬をつねった。
「危ない危ない。いくらなんでも警戒心がなさ過ぎだって怒られてしまうわ。」
仕方なく手にしていた書類に目を落とす。別に見ているわけではない。
頭の中はこれからの仕事のことでいっぱいだ。リシュエールにとって、一人城に残って君主代理をするのは初めてのこと。不安があり過ぎて、必要以上に仕事をしてしまう。
そうして物思いにふけっていたので、近づいてくる足音に気付くのが遅かった。
「リシュエール王妃さま。」
騎士団には珍しい、若い女性の声だ。
その声には聞き覚えがある。はっとリシュエールが顔を上げると、そこにはやはリリシアナの姿があった。
一番会いたくない人。
───ねぇ舞踏会の夜、陛下とお会いになったの?
うっかりと口をついて出てしまいそうで。
「リリシアナさま。……なにか御用ですの?」
きゅっと唇を引き結んで、リシュエールは理性を保った。
リリシアナは可愛らしい笑顔で、はいっと頷く。
「わたし、忘れ物を返したくて。」
「忘れ物?」
当たり前だが、リリシアナとは親しくない。リリシアナのもとに忘れ物などするはずがないのだ。そもそも会っていないのだから。
だから、リシュエールの忘れ物ではないことくらいすぐにわかった。
「陛下が、この前お忘れになっていかれて……でもこれ、大事なもののようだから、返さなければと思ったんです。王妃さまに。」
……見たくない。
リシュエールに返さなければいけないもの。
リシュエールが、一目でフェルディアドのものだと分かるもの。
リリシアナは薄青のハンカチーフを差し出した。金糸でクラウンが刺繍された、リシュエールがフェルディアドに贈ったハンカチーフを……
「な、んで……どうしてこれが……」
ハンカチーフなんて、どうすれば忘れていくのだ。ふつうポケットに入っているものなのだから、服を脱いだときくらいにしか……
そもそも、なぜリリシアナのところに。
「陛下にお伝えくださいますか?……次からはお気をつけて、って。」
「次から、って……」
まるでもう、また会う約束をしているみたいな。
───あぁ、そうだ。視察の一団のなかに、騎士としてリリシアナの名も連ねてあったはずだ。
「ではご機嫌よう、王妃さま。」
「……ご機嫌よう。」
リリシアナがにこやかな笑みを浮かべて、一礼をして去って行った。
リシュエールは固く、ハンカチーフを握りしめる。
これほどの屈辱が、悲しみが、憎しみが────嫉妬が、自分自身のなかで渦巻いているという事実を認めたくない。
だが、もはや隠しきれないところにまで、その身を焦がしそうな感情はリシュエールを覆い尽くしていた。
「お待たせして申し訳ありません、妃殿下。総団長ももうすぐ来られるそうです。………妃殿下?」
レクリスが、顔色の悪いリシュエールの表情を覗き込んでくる。
「ごめんなさい……急用を思い出したの。とても急がなければいけないことよ。将軍に、またの機会にさせていただくわと、伝えてくれる?」
そう言うや否や、リシュエールはその場から逃げ出した。
「つ、伝えてきますからっ、お待ちください妃殿下!」
レクリスが止めるために、リシュエールに手を伸ばす。
その手を振り払って、リシュエールは人の目も気にせず正宮まで走った。




