33、恋の悩みは人を惑わし
忙しさにかまけて休養を忘れてしまうのは、フェルディアドの癖だった。
若くして王位に即き、さらに言えば“あんな”父親の息子である。即位当時、フェルディアドのことをなめてかかる貴族は多かった。
だからそれらを黙らせるために、必要以上に働いた。交通の整備は祖父セペリィド王から引き継いだ。交易はその延長だ。不正貴族の粛正をしたときは、暗殺者が幾人か送られてきて、流石にその時は死ぬのではないかと思った。
隙を見せないよう、常に気を張って仕事をしてきた。休んでなどいられないと。
その必要がなくなった今でも、フェルディアドはあまり休憩をしないのは、もはや習性と言っていいだろう。
トリストに執務室を追い出され、行くところもなく奥宮に戻ってみれば、愛しい妻が楽しそうに刺繍をしていた。
相変わらず見事な出来だった。クラウンが輝かしく、よく見てみれば使われているのは紫と金の糸。妻が────リシュエールが気付いているかはわからなかったが、それは二人の瞳の色である。
そういえば、リシュエールの普段使いのドレスは薄紫のものが多い気がする。なんとなく嬉しい気分になったが、刺繍のことを思い出してフェルディアドは執務室の机に突っ伏した。
「トリスト……妻が、夫に隠し事をするときってどういうときかな?」
「唐突にどうしました?」
書類を渡してきたトリストにそう尋ねると、怪訝そうに首を傾げられた。
「王妃がなにか隠しているみたいに感じて……彼女は、なんでもないっていうんだけど……」
「はぁ?なんでもないって言ってるならなんでもないのでは?」
どうでもいいー。という心の声が聞こえてきそうな調子でトリストは言った。
「でもまぁそうですね……夫婦といっても、お二人は特殊ですからね。」
「特殊!?なぜだ?」
「いや、なぜもなにも。政略結婚、王と王妃、夫には恋人、愛してるかわからない……」
「わ、分かった!分かったからやめてくれ…!!」
心が傷つく…とフェルディアドが呟くと、トリストは大きくため息をついた。
「陛下よりも傷ついているのは王妃さまですよ……」
「ん?なにか言ったか?」
突っ伏していて聞き逃したフェルディアドが、顔を上げて問う。けれどトリストはなんでもありませんと首を振った。この問題は国王夫妻の私事であって、臣下であるトリストが口を出すべきではないと思ったからだ。
「……それよりも、陛下。最近はリリシアナはご迷惑をお掛けしていませんでしょうか?」
「いや?……トリスト、悪いが私はもう彼女とは───」
「えぇ、わかっております。それが正しい道です。あの子では到底王妃さまに敵わない。誰よりも陛下とあるべきは王妃さまです。」
いっぺんの曇りもなく、トリストはそう言った。フェルディアドを真っ直ぐにみるその瞳に、偽りはみられない。
「私も、王妃以外を傍に置くつもりはない。だが、王妃は……」
結局、話はそこに戻るのだ。
「彼女は離れてしまうかもしれない……」
「……離れる、とは?」
不穏な単語に、トリストが訝しげな様子で聞き返した。
「手紙を見つけたんだ……ロスフェルティ国王からのね。」
「……そのようなこと、聞いておりません。国の検閲を受けたものではありませんね?」
「たぶん、そう。」
他国から王宮に宛てられた手紙は、例え王妃に宛てられたものでも検閲をかけられることになっている。諜報活動などの可能性があるからだ。検閲所を通された手紙には印が推されるが、リシュエールが隠していた手紙には印がなかった。
「……ロスフェルティ国王からの手紙でね、概ねは王妃の現状を案ずるものだったけど、最後に書いてあったんだ……」
「まさか、我が国への侵略……?」
「いや、違うけど。でも痛手ではあるかな。……私と離婚させたい、と。」
それからロスフェルティの財政が持ち直したこと、リシュエールの姉たちが嫁いだ国と同盟が強化されそうなこと。
トリストは渋い顔で聞いていた。
「やはり良い印象は持ってもらえていませんでしたか……しかし、アルセニアとバーティアとの同盟が強化されるのはいただけませんね。」
「ロスフェルティ国王は、リシュエールに幸せになって欲しい、と。」
「はぁ……それは父親ですからね。」
例え国王としては娘を政略の駒と考えていても、一人の親としては娘の幸せが第一だろう。
正直、フェルディアドと結婚して、彼女が幸せになったという自信はなかった。むしろ苦労ばかりさせているのではないかと、いつも不安だ。
リシュエールは愚痴や不安を言葉にしてくれない。いつもフェルディアドを支え励ます言葉ばかりで、ではリシュエールは悩みはないのだろうかと考えるが、彼女はそういったことをあまり口にしないのだ。
それに気付くたび、自分は頼られていないのだと痛感してしまう。
夫婦なのだから、互いに支え合うべきではないのか?
「陛下はたまに妙なところに気を遣われる……王妃さまと睦まじくなさりたいのなら、正直になることが一番では?」
「………分かってるさ。」
でも怖いのだ。そうやって腹を割って話をして、陛下の助けなどいりません、陛下の─────愛などいりませんと言われたら。
フェルディアドの父は母を愛していた。そのやり方は間違っていたが、狂おしいほどに愛していた。
だが、母は父を愛していなかった。母は前夫を愛していたから。父の狂愛を、受け入れられなかった。
愛しても、互いを愛し合えない夫婦はいる。むしろ政略での結婚が多い今の世、それぞれの伴侶の他に恋人を持っている貴族夫婦も少なくない。
「臆病なんだよ、私は……王妃の言葉一つに、心を惑わされてしまう。」
「往々にして、恋に落ちた人とはそういうものですよ。陛下、王であってもそれは例外ではありません。」
王妃も午後からは公務があったはずだ。今頃は王妃の判が必要な書類に目を通して、その後は城下の孤児院の小さなパーティーに行くという。
そうだ、今日は早く帰って夕食を一緒に取ろう。最近忙しくて、ゆっくり話す時間がなかった。
部屋に戻ったらまず湯浴みをして、それから、リシュエールを抱きしめる。彼女はいつでも甘い匂いがするが、湯上がりは特にフェルディアドの理性を脆く崩れさせるのだ。
沈黙して妄想を始めてしまった主の様子にため息をついて、トリストは執務室を出た。
珍しく、廊下で誰ともすれ違わない。トリストは自分の足音だけが聞こえる静かな廊下に、耳を済ませながら歩いた。
トリストからみれば、フェルディアドの悩みはよほど贅沢なものに見える。政略云々のことはおいておくとして、あとはもう、妻にいかに振り向いてもらうか、というただそれだけなのに。
時折、フェルディアドの慎重な様子が腹立たしく思えるのだ。
こつこつと軽い足音がした。女性の小さな靴の音だ。このような場所に女性が来ることは珍しい。来るとすれば、リシュエール王妃か、もしくは……
「デリーナ嬢……。陛下にご用ですか?」
「いいえ?わたくしは父の忘れ物を届けに。トリスト殿はなんだかお疲れかしら?」
デリーナが、心配そうにこちらを窺ってきた。長いまつげの陰が見える。今日も彼女は、お気に入りのネックレスをしている。
いつもよりも近い距離に、トリストはたじろいだ。
「そんなことは……ありません。」
「そう?陛下のもとで働くのは大変でしょう。お体、気をつけてくださいませね。」
ではご機嫌よう、とデリーナはトリストに背を向けて歩きだそうとした。
ふと、魔が差した。普段のトリストでは絶対にしないようなことだ。やっぱり、フェルディアドの恋愛相談のようなものに感化されてしまっていたらしい。
「待ってください。」
デリーナの手をとって、軽く引いた。それだけで、軽い彼女の体はふらりとトリストのほうへ寄った。
「……ト、トリストさん?」
デリーナもいつもの強気な気配を消して、ただ思わぬ事態に戸惑う可憐な乙女のように頬を染めている。
「お時間があれば……陛下の愚痴でも聞いてれませんか?お茶を、ご用意しますので。」
必死にそう言うと、デリーナはくすりと笑って頷いた。掴まれていた手をするりと外して、トリストの腕にまわす。
「お菓子もあるなら喜んで!」
その無邪気な笑顔にトリストも笑みを堪えられなくなった。
「もちろんです。」
一番良い、お菓子を用意しよう。
この淑女のために。




