第二章:対極の破壊と不合理な二重の脅威
2.1. 二つの「事件」の発生:認識の乖離
Ⅰ. 情報の歪曲:カリフォルニアの「些細な騒乱」
2028年、夏。アメリカ合衆国という巨大な大陸は今、東西の海岸線から同時に這い寄りつつある異質な脅威によって、その根幹を静かに、しかし確実に侵食され始めていた。
だが、その恐るべき兆候は、権力の最深部で巧妙に織り上げられた情報のフィルターによって濾過され、一般市民の預かり知らぬ暗黒へと葬り去られている。
西海岸、カリフォルニア州ロサンゼルス郊外の乾燥した大地。
先端医療の総本山と謳われる『ノア・メディカル・センター』から、「リクト・タチバナ」という名の少年が脱走した。その事実が引き起こした激震は、発生からわずか数時間のうちに、ワシントンを動かす巨大な政治的圧力によって「無害な家出」へと鋳直されていく。
ノア・メディカルの上層部は、事態の露見を恐れて即座に有力なロビイストと戦略広報チームを招集し、この未曾有の脱走劇を「医療ミス」や「軍事技術の流出」ではなく、あくまで「情緒不安定な患者の保護事案」として再定義する隠蔽工作に打って出た。
彼らが策定した秘匿ガイドラインの報道対策項には、冷徹な欺瞞が並んでいる。
第一に、「全身義体」という軍事忌避を誘発する用語の使用を厳禁とし、公式発表ではすべて「補助動力付き医療用保護外骨格」という無機質な医療用語に置換すること。
第二に、施設を物理的に破壊した少年の脅威を、義体内の「蓄電ユニットのオーバーヒートに伴う突発的な蒸気爆発」と説明し、常軌を逸した身体能力の向上については「緊急時特有の火事場の馬鹿力」という古典的な心理パニックに帰結させること。
そして第三に、追跡を担う警察当局に対し、「被験体の生命を最優先し、いかなる場合も実弾および致死性兵器の使用を禁止する」よう強力に働きかけること――。これは人道的な配慮などではなく、少年の体内に埋め込まれた『NCUコア』の物理的損傷を避けるための、極めて功利的な最優先事項に過ぎなかった。
この歪められた情報は、地元のロサンゼルス市警察(LAPD)や周辺の保安官事務所へと伝達され、現場の認識を致命的に狂わせていく。
前線の警察官たちが受けたブリーフィングにおいて、リクトは「難病治療の副作用でパニックに陥り、高価な医療機材を装着したまま荒野へ逃げ出した痛ましい少年」として描写された。彼らを駆り立てたのは、人命救助の正義感と、せいぜい「少し力の強い、興奮状態にある子供」を制圧するための、通常仕様のスタンガンや捕縛用ネットガンといった非致死性装備のみであった。
しかし、照り返す砂漠の熱気のなか、捜査官たちが直面したのは、その生温い認識を根底から叩き潰す「暴力的な現実」だった。
時速百キロメートルを超える質量となって砂塵を巻き上げ、垂直に近い断崖を重力を無視して駆け上がる少年の残像。人間を絡め取るために放たれた高強度ワイヤーネットを、少年は野生の獣の如き素手で引きちぎり、行く手を阻むパトカーの堅牢なエンジンブロックを一撃で粉砕してさらに加速する。
前線から悲鳴のような無線が飛ぶ。あれが本当に病気の子供なのか、冗談だろう、と。
捜索隊はリクトの超人的な回避行動と、物理法則をあざ笑う機動力に翻弄され、次々と負傷者を出しながらも、事件の本質――彼が「神の演算」を宿した怪物であるという真実――に辿り着くことはできなかった。ノア・メディカルの圧力が、現場から押し寄せる異変の報告を、上層部の段階で組織的に揉み消していたからである。
初期のローカルニュースもまた、あらかじめ用意された広報資料をなぞるだけの「行方不明の少年を探す美談」として消費され、その背後に潜む軍事的な特異性は、深い闇の底へと沈められた。
Ⅱ. 氷点下の異質:ニュージャージーの「不可解な絶命」
一方、大陸を跨いだ東海岸、ニュージャージー州の薄暗い港湾地区。
プロメテウス財団の極秘施設から発生した『アビス・ラ(NEXUS-0)』の脱走事件は、西海岸の騒乱とは対極にある、絶対零度の冷徹な異常性を帯びていた。
こちらには、隠蔽を機能させるための「美談」さえ用意されていない。そこにあるのは、言葉を失うほどの静寂のなかに残された、理解不能な破壊の痕跡だけであった。
アビス・ラが通り抜けた現場は、まるで時間が物理的に凍結したかのような異様な光景を晒していた。
施設の防壁を構成していた強化コンクリートや特殊合金は、爆発の熱や物理的な打撃の痕跡を一切残さず、分子レベルでその結晶構造を崩壊させられ、ただの白い塵となって床に堆積している。
そして、警備にあたっていた重武装の私設兵たちは、悲鳴を上げる暇も、引き金に指をかける猶予すら与えられず、銃を構えた姿勢のまま、細胞の隅々まで凍りついた氷像へと変貌していた。
FBI特殊捜査班(CID)の内部報告書には、その戦慄が極秘の文面として刻まれている。
ニュージャージー州コンテナターミナルにおける大量不審死事案の概要。現場分析によれば、すべての遺体において組織細胞内の水分が瞬間的に凍結し、細胞膜が内側から破裂している。熱力学的な「逆熱暴走」が発生した形跡があるが、外部から超低温の冷却ガスや装置を使用した痕跡は皆無。目標は周囲の環境から熱そのものを奪い取りながら移動していると推測され、周辺の監視カメラは熱源検知機能を喪失し、映像はすべて不可解なホワイトアウトノイズによって破壊されていた。
連邦捜査局や国防総省の特殊捜査班は、この現実離れした惨状を、正体不明の未知の兵器による無差別テロ、あるいは超常的な存在による侵略と認識し、パニック寸前の焦燥感とともに追跡を開始した。
Ⅲ. 分断された認識:多重構造の不信感
ここに、この夏のパニックを決定づける「認識の乖離」が完成することとなる。
東海岸でアビス・ラがもたらした「静かなる分子崩壊」の地獄を目の当たりにしている捜査官たちは、西海岸で起きているリクトの事件が、未だに「単なる患者の保護事案」として悠長に扱われていることに、激しい違和感と憤りを募らせていた。
前線の彼らには、西の事件もまた、東と同じく「既存の科学では解析不能な超常技術」の産物であるという確信があった。しかし、ノア・メディカルが有する政界への底知れないコネクションと、ワシントンの中枢から下された強力な「不干渉命令」が、東西の情報を統合し、一つの脅威として精査することを阻害していた。
現場の捜査員たちの間では、政府上層部への不信感が泥のように溜まっていく。
カリフォルニアの連中は子供の家出だと抜かしているが、この現場の写真を見れば一目瞭然だ、これは兵器の実験痕だと主張する声に対し、黙っていろ、あそこには『ノア』の力がかかっている、下手に首を突っ込めば俺たちの捜査権そのものが剥奪されるぞ、と宥める声が交錯する。
政府機関、軍、そして私設部隊が、それぞれの利権と保身のために情報を排他的に抱え込み、互いを欺き合う。この多重構造の嘘こそが、実は黒幕である雷門玄一の描いた「設計」をより狂おしく加速させる最良の燃料となっていることに、誰も気づいていなかった。
Ⅳ. シホの視線:乖離する真実の狭間で
同じ頃、ロサンゼルス。
遮光レンズの奥、灼熱の太陽の下で双眼鏡を構え続ける西野シホは、その「認識の乖離」の狭間に、たった一人で立ち尽くしていた。
彼女は、ノア・メディカルが声高に発表した「蓄電ユニットの異常」という公式見解を、最初から鼻で笑っていた。
現場付近の駐車場に放置されたパトカーの、まるで飴細工のように無残に捻じ曲げられたドア。シホの鋭い審美眼は、それが熱による溶解ではなく、圧倒的な質量の運動エネルギーによって一瞬で「貫かれた」痕跡であることを激しく主張していた。
患者の保護などという大嘘に、彼女は胸の内で毒づく。あれは、国を挙げて「何か」を殺そうとしている猛禽の目だ、と。
シホはさらに、ネットの深層掲示板やダークウェブの片隅で囁かれ始めた、東海岸の不穏な噂――「氷の死神」についても、自身の三流ゴシップ記者としての裏ルートを駆使して情報を集め始めていた。
西の「熱」と、東の「冷」。
一見して完全に無関係に見える二つの異常事態が、実はたった一つの巨大な「悪意」によって裏側で結ばれているのではないか。その記者特有の、あるいは社会の底辺の嘘を嗅ぎ回ってきた野性の直感が、彼女の背筋を冷たく撫で上げる。
彼女の好奇心は、もはや部数稼ぎのためのスキャンダル探しという卑小な枠組みを遙かに超え、この国を覆う「嘘の構造」そのものを解き明かしたいという、ジャーナリストとしての根源的な怒りに震えていた。たとえどれほど巨大な権力に押し潰されようとも、この不合理な「乖離」を世界に許してはならない。
あんたたちが世界を欺こうとするなら、私は世界中に、その汚い裏側を晒してやる。
激しい決意とともに、シホはカメラのシャッターを切った。陽光の下、歪められた真実を暴くための、彼女の孤独で苛烈な戦いが、静かに、しかし熱く火蓋を切った。
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2.2. アビス・ラ:東海岸を覆う極低温の恐怖の拡大
Ⅰ. 事件C:凍てついた真実と「情報」の抹消
ニュージャージー州の港湾地区で産声を上げた異形、アビス・ラ(NEXUS-0)は、覚醒の瞬間から、その行動原理を冷徹なまでの「合理的演算」へと移行させていた。
彼が最初に向かったのは、皮肉にも自らをこの世界に産み落とした親の一体である『プロメテウス財団』の秘密研究施設だった。
アビス・ラの行動は、理性を失って暴走する獣のそれとは根本的に異なっていた。自己の起源――すなわち、雷門玄一から提供された「不完全な神の設計図」と、それを現代の歪んだ科学で補完しようとした財団の全記録を、この世界から物理的に消去するための、極めて知的なクリーニング作業であった。
深夜の研究所を襲ったのは、派手な爆音ではなく、耳条を劈くような物質の「軋み」だった。
施設の外壁を覆う強化セラミック、そして防弾チタン合金。それらあらゆる無機物から、分子の「運動エネルギー」が強奪され、結合の理を失っていく。警備にあたっていた数十名の財団私設部隊は、異変を察知して銃を構えた姿勢のまま、一滴の血を流すことも、断末魔を上げることも許されず、精巧な「氷の彫刻」へと変えられた。
FBI科学捜査研究所(FTU)が後に記録した現場検分ログには、その絶望的な数値が並ぶ。
施設内温度はマイナス百八十度を記録し、空調システムは凍結によって逆流、冷却媒体が室内に飛散している。被害者全員の死因は、肺胞内の水分が瞬間的に凍結したことによる呼吸器系の物理的破砕。外部からの物理的打撃や化学兵器の痕跡は皆無である。そして特記事項として、サーバー室のメインフレームが熱による融解ではなく、極低温による「分子崩壊」を起こしており、内部データの復旧可能性はゼロパーセント、完全に不可能であると結論づけられていた。
捜査チームは、この地獄絵図に言葉を失い戦慄した。彼らが直面しているのは、捕獲して尋問すべき対象でも、説得の余地がある人間でもない。周囲のエントロピーを貪り喰らい、世界を絶対的な「静寂」へと回帰させる、歩く大量殺戮概念そのものだった。
FBIの特捜班は、未だに西海岸で「情緒不安定な少年の保護」というおままごとに奔走している同僚たちに対し、殺意に近い苛立ちを覚えていた。上層部による情報の非対称性が、現場の生存率を著しく下げているという事実に、彼らの焦燥は限界に達していた。
Ⅱ. 事件D:死のハイウェイと陰謀の霧
研究所の「掃除」を完璧に終えたアビス・ラは、影のように州間高速道路へと姿を消した。
その移動を捉え、追跡を試みたハイウェイパトロール隊との遭遇戦は、もはや戦闘という言葉を使うことすらおこがましい、一方的な蹂躙であった。
月明かりが照らすアスファルトの上を、滑るように進む青白い燐光。それを「灯火管制を敷いた不審車両」と誤認して接近したパトロールカー数台は、目標から放射される不可視の冷気圏に接触した瞬間、その物理的機能を完全に喪失した。
ガソリンは極低温によって粘度を失い、エンジンブロックは急速な冷却に伴う金属の歪みで内側から爆裂する。タイヤのゴムはガラスのように硬化し、路面のわずかな段差の衝撃で粉々に砕け散った。
前線の隊員が無線に遺した最後の叫びは、悲鳴ですらなかった。こちらパトロール74、目標の周囲で何かが起きている、窓が白く、助けて、という言葉は、凍りついた声帯が無理に鳴らしたカサカサという乾いた虫の羽音のようなノイズへと変わり、途絶えた。
数分後、異常を察知して現場に急行した応援部隊が目にしたのは、真夏のニュージャージーには絶対に存在し得ない、幻想的で凄惨な光景だった。
道路上に等間隔で並んだ、巨大な氷細工のようなパトロールカーの列。その運転席に座る隊員たちは、驚愕の表情を顔面に張り付かせたまま、完全に凍結死していた。特殊な断熱装備を持たない後発の捜査員たちは、その遺体に触れることさえできなかった。触れた瞬間に、自らの指先の体温さえも死の冷気に強奪されることを本能が理解したからである。
この世の終わりを体現したような現場の映像が、野次馬のスマートフォンを通じて、隠蔽の網の目を掻い潜り裏ルートで地方マスコミに流出した。
「巨大な冷凍怪物がパトロール隊を壊滅させた」というショッキングな見出しとともに、ネットの海へと拡散される不鮮明な映像。それは、数日前から大々的に報じられていた「入院していた少年の痛ましい家出」という長閑なニュースとは、あまりにもかけ離れた異様さを放っていた。
市民の間で爆発的に広がったのは、政府への激しい不信感と、根拠のない陰謀論の霧だった。政府は何か致命的な事態を隠している、西で子供を追い、東で怪物を野放しにしているのはすべて巨大な陽動作戦ではないか、という疑念。夜間に目撃される青白い光と、肌を刺す異様な冷気に対し、当局が発表した「化学プラントの冷却システム故障」というあまりにも杜撰な嘘が、かえって住民の恐怖を煽り、社会的なパニックの波を急速に拡大させていった。
Ⅲ. 事件E:空域の危機と隔離された戦場
極低温の恐怖は、ついに地表を離れ、空へと手を伸ばした。
ペンシルベニア州の国際空港付近の空域をアビス・ラが通過した際、ちょうど着陸態勢に入っていた民間航空機が、大気中に突如として現れた目に見えない「冷気の壁」に衝突したのである。
高度二千フィート。機体の周囲温度が、一瞬にしてマイナス百二十度まで急降下する。
コックピット内では警報が鳴り響き、副操縦士が機長に向けて、第二、第三油圧系統が沈黙し凍結している旨を叫ぶ。機長は、防氷装置は最大であるはずだと驚愕の声を返した。航空局(FAA)の後に開示された記録によれば、機体表面には瞬時に数インチの硬質な氷層が形成され、すべての動翼が完全にロックされていた。機長の執念によって間一髪で滑走路への緊急着陸には成功したものの、機体は「極低温による深刻な金属疲労」を引き起こし、二度と飛行不可能なスクラップと化していた。
この深刻な事態を受け、国防総省はついにアビス・ラを単なる不審生物ではなく、「テロリストによる新型環境兵器」と暫定的に認定せざるを得なくなった。東海岸には、西海岸のリクト捜索隊とは完全に指揮系統を異にする、最新の断熱重装甲と熱源兵器で身を固めた軍特殊部隊「コールド・スナップ」が電撃的に編成された。
一方、遥か西海岸にいるシホは、この「東西のねじれ」に完全な確信を抱いていた。
地方マスコミの記者たちが、政府とノア・メディカルの目に見えない圧力によって「西の少年の美談」を美しく書き立てることに終始させられるなか、彼女だけが、東で起きている「氷の地獄」の断片的な破片を脳内で繋ぎ合わせていた。
リクトが「熱」であるならば、東の怪物は「冷」。正反対の性質でありながら、やっていることは全く同じ、徹底的な「情報の抹消」だ――。
シホの心理は、恐怖よりもジャーナリストとしての狂気的な渇望に支配され始めていた。この不合理極まりない状況。政府が二つの事件を意図的に「隔離」して扱おうとするその意志そのものが、背後にいる巨大な黒幕の存在を証明している。
彼女は、ノア・メディカルの闇を暴くことが、巡り巡って東の怪物の正体を白日の下に晒すことになると確信し、当局の監視の目を掻い潜る決意を新たにする。
あんたたちがどれだけ世界を冷やしても、私の怒りだけは凍らせられない。
アビス・ラの冷酷な合理性が東海岸を静寂で包み込んでいくなか、シホの熱い執念だけが、二つの事件を繋ぐ唯一の細い糸として、暗闇のなかで妖しく輝きを放っていた。逃走する熱と、それを追跡するかのように動く冷が、必然的に交差する「特異点」へと向かって、物語は容赦なく加速していく。
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2.3. 三流記者の壁:孤独な追跡と逮捕
Ⅰ. 義憤の変質:三流の看板を捨てた女
西野シホの胸中で燃え盛っていた炎は、いつしかその性質を、より純粋で、より危険なものへと変質させていた。
当初、彼女をこのアメリカの地にまで動かしていたのは、日本の編集部を見返してやるための「大ネタ」を掴みたいという、記者としての卑近で強欲な功名心に過ぎなかった。しかし、カリフォルニアの燃えるような灼熱の下でリクトの「熱」の残滓を追い、ニュージャージーの冷たい潮風のなかでアビス・ラがもたらした「冷」の凄惨な映像を垣間見た今、彼女の魂を突き動かしているのは、もっと根源的で、どす黒いまでの「義憤」そのものであった。
おかしい、絶対におかしい、と彼女は呟く。
シホは、場末の安モーテルの狭く湿気た部屋で、壁一面にピンで貼り出した写真とメモの束を睨みつけていた。
西海岸では、軍事レベルの最先端義体技術を「可哀想な少年の脱走」として必死に隠蔽し、警察の目を眩ませている。その一方で東海岸では、正体不明の破壊兵器としてアビス・ラを軍の特殊部隊が血眼になって追跡している。同じ時期に発生した、この「熱」と「冷」の対極的な破壊の連鎖。それらが全くの無関係であると信じるほど、彼女はゴシップの裏側を歩んできた自らの経験を侮ってはいなかった。
これは、誰かの明確な悪意によって仕組まれた「二重の欺瞞」だ。そして、その欺瞞のせいで、真実を知らされない前線の人間が死に、街が凍りつき、一人の少年が怪物として世界から追い詰められている――。
シホの思考は、もはや単なる「客観的な記者」の枠組みを遙かに踏み越え、一個の人間としての魂の叫びに近づいていた。この巨大な嘘の構造を暴かなければ、ジャーナリストとしての存在意義どころか、自分という人間の誇りそのものが完全に消滅してしまう。
彼女は、三流ゴシップ記者特有の「強引さ」と「無謀さ」という最大の武器を、今や自己破滅的なレベルまで解放し、真実の深淵へと足を踏み入れていった。
Ⅱ. 監視網への接触:無謀な踏査とデータベース侵入
シホの行動は、洗練されたプロの工作員のそれとは程遠い、剥き出しの執念に満ち溢れたものだった。そして、その「素人ゆえに目立ちすぎる行動」こそが、彼女を破滅へと導く決定的なトリガーとなった。
彼女は偽造したIDと、稚拙ながらも必死の変装を駆使して現場周辺を這い回り、リクトの脱走現場とアビス・ラの破壊現場の双方から、当局が必死に隠蔽しようとしている情報を取り寄せようとした。
彼女が望遠レンズに収めたのは、厳重な報道規制によって隠された「破壊の質の決定的な違い」だった。
リクトが残した、超高熱によるアスファルトの無残な溶解。アビス・ラが残した、分子レベルの結晶崩壊による静かなる死の風景。この二つの決定的な写真を並べ、彼女はその中心にある共通の「悪意の署名」を探り当てようとした。
さらにシホは、ノア・メディカルやプロメテウス財団から、事態の恐怖に駆られて夜逃げした下級の研究員や末端の職員たちに執拗に接触を試みた。あらゆる伝手を頼り、暗号資産を報酬として裏ブローカーから断片的な内部情報を買い叩く。
だが、そのあまりにも強引で足跡を残しすぎる接触の痕跡は、すべて国家の安全保障を司る当局のデータベースにリアルタイムで記録されていた。
FBI国家安全保障部(NSB)の内部監視レポートには、彼女の動向が克明に記録されている。
対象は西野シホ、自称日本人ジャーナリスト。疑義として、西海岸の「被験体01(リクト)」事案および東海岸の「NEXUS-0(アビス・ラ)」事案の双方の情報に頻繁にアクセスしている点が挙げられていた。分析によれば、専門的な工作技術こそ欠如しているものの、その行動の執拗さは異常であり、通常では結びつかない二つの事案の関連性を意図的に探る動きを見せていることから、国際的なテロ組織の偵察員、あるいは他国の非公式な情報協力者である可能性が極めて高い、と断じられていた。
決定的な瞬間は、彼女がプロメテウス財団の外部脆弱性サーバーを介し、深層データベースへの強引な不正アクセスを試みた時に訪れた。
彼女の目的は、リクトとアビス・ラを裏で繋ぐ「共通の設計図」――彼女自身はその名をまだ知る由もなかったが、すべての元凶である『雷門玄一』の名が記された極秘書類のデータを画面に捉え、撮影することだった。
だが、東西の異常事態によって極度の緊張状態にあった捜査当局にとって、彼女のその一線を超えた行動は、もはや単なる「野次馬の記者」として見過ごせるレベルを完全に超えていた。東西で全く異なる文脈の最高機密事件に同時に首を突っ込む彼女は、当局の冷徹なパラノイアによって、「二つの脅威を裏で操る黒幕への連絡員」という最悪のテロリストのレッテルを貼られることとなった。
Ⅲ. 拘束と留置所:運命の邂逅
シホの無謀な追跡劇は、ある日唐突に、そしてあまりにも冷酷な結末を伴って幕を閉じた。
ニュージャージー州の片隅にある、薄暗く埃っぽいインターネットカフェ。
画面上に「ACCESS DENIED」の無機質な赤文字が狂ったように点滅した瞬間、背後の安っぽい木製のドアが、凄まじい衝撃とともに蹴破られた。
突入してきた男たちが、FBIだ、動くな、と怒号を上げる。
銃口を突きつけられ、シホは椅子から転げ落ちそうになりながらも、反射的に激しく叫び返した。離しなさい、私は日本のジャーナリストよ、取材の自由が保障されているわ、と。
だが、その必死の抗議は、防音の甘い店内に虚しく掻き消される。彼女の細い腕は容赦なく背後に回され、冷徹な金属製の手錠がその手首をきつく噛み締めた。
彼女の行動パターンを数日前から完全にプロファイリングし、網を張っていたFBI特殊捜査班にとって、この拘束は狩りと呼ぶのすら気恥ずかしい、ただの事務的な「回収作業」に過ぎなかった。
シホは重大なテロ事件関与の疑いがある「国家重要監視対象」として、ニュージャージー州警察の堅牢な留置所へと連行された。身に着けていたものはすべて没収され、彼女にとって世界と戦うための唯一の武器であったカメラも、ボイスレコーダーも、すべて無機質なプラスチックの証拠品袋のなかに消え去った。彼女の孤独で無謀な追跡は、国家機構という巨大で冷酷な壁の前に、完全にその動きを停止させられたのである。
Ⅳ. 独房の静寂と、現れた「影」
ニュージャージー州警察、留置所の最深部にある独房。
冷たいコンクリートの床に膝を抱えて座り込み、西野シホは、人生で初めて味わう圧倒的な絶望と無力感に打ちのめされていた。壁から伝わってくる芯のような冷気は、アビス・ラが放つあの物理的な冷気よりも深く、彼女の傷ついた心を内側から凍らせていく。
結局、自分は何もできなかった、真実にあと一歩で手が届くところまで近づいたと思ったのに、指の隙間から砂のようにすべてがこぼれ落ちていった、と彼女は膝に顔を埋めた。
自分が追っていた嘘の途方もない巨大さに比べ、西野シホという人間の存在がいかに矮小で、無力であったか。逮捕という最悪の形で冷酷な現実に叩きつけられ、彼女が辛うじて保っていたジャーナリストとしての誇りは、今や粉々に砕け散ろうとしていた。
その時だった。
重厚な独房エリアの鉄の扉が、不快な金属音を立てて開き、硬く統制された足音が静まり返った通路に響き渡った。
それは、州警察の締まりのない制服組の足音では断じてなかった。もっと洗練され、一歩の狂いもなく無駄を削ぎ落とした、高度な訓練を受けた軍人、あるいは冷徹な工作員のそれであった。
シホが絶望の底からゆっくりと顔を上げると、独房の頑強な鉄格子を隔てた向こう側に、二人の人物が微動だにせず立っていた。
その二人は、このアメリカの果ての地において、驚くべきことにシホと同じ「日本人」の容貌をしていた。
一人は、仕立ての良い上質なスーツを完璧に着こなしながらも、その佇まいの奥に、触れれば指が切れるような研ぎ澄まされた刃の気配を隠し持った、まだ若い「女の子」――。
そしてもう一人は、感情を一切排した底知れない瞳でシホのすべてを観察する、まるで彫刻のような氷の美しさを持った女。
彼女たちは、州警察の人間でも、ましてやノア・メディカルや財団の関係者でもなかった。その一歩も退かぬ冷徹な佇まいは、日本の国家機構の最深部――表の歴史には決してその名を残すことのない、政府直属の機密工作組織のそれであった。
「西野シホさん。……あなたの『無謀な冒険』も、どうやらここまでの一画のようですね」
スーツの女の子が、静かに、しかし抗うことを絶対に許さない圧倒的な威圧感を伴って、冷ややかに告げた。
シホは、乾いた喉から声を出すことすらできず、ただ言葉を失って二人を見上げるしかなかった。
このアメリカの果て、絶望のどん底に囚われた自分の前に突如として現れた、日本の「国家の影」を背負う二人の闖入者。彼女たちが一体何者なのか、そしてなぜ自分のような三流記者をわざわざ訪ねてきたのか。
シホは、自分を今まさに飲み込もうとしている巨大な運命の渦が、この瞬間を境にして、人類の想像を絶する破滅的な領域へと拡大したことを、本能的に理解していた。
三流ゴシップ記者の孤独な物語はここで唐突に終わりを告げ、ここから、世界の命運そのものを賭けた「本物の戦い」の幕が、容赦なく切り開かれようとしていた。
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