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『ブレイク・ネクサス』改訂版  作者: 嵗(sai)
第一部 フェイク・ファクター

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第一章:二つの脅威と三流記者の苛立ち

1.1. 三流記者の壁と苛立ちの日常


Ⅰ. 灼熱の沈黙と底を突く希望


2028年、夏。アメリカ合衆国カリフォルニア州、ロサンゼルス郊外。


頭上に広がる空は、不気味なほどに透き通ったコバルトブルーに染まり、地表を容赦なく照らしつけていた。日本の湿り気を帯びたべたつく夏とは根本的に異なる、肌をじりじりと直接焼き焦がすような乾燥した熱波が、すべてを干からびさせていく。


西野シホは、中古のレンタカーの運転席で、汗ばんだハンドルを狂おしいほど強く握りしめていた。エアコンの効きは最初から最悪で、今は生温い風を微弱に吐き出すばかり。キーを回すたびに金属が擦れる悲鳴のような異音を立てるこの安物が、現在の彼女の唯一の足だった。


ロサンゼルスの地に降り立ってから、今日で丸五日が経過している。


だが、手元に残された収穫は、冷酷なまでに「ゼロ」だった。


「……信じられない。何なのよ、この国は」


シホは、ダッシュボードに放置されてすっかり生温くなったミネラルウォーターを一口啜り、吐き捨てるように毒づいた。車外の凶悪な気温を優に超える苛立ちと焦燥が、彼女の胸の内でぐつぐつと煮え繰り返っている。


「ノア・メディカルの主力製品『NCU』のスペックは、既存のIT業界の常識を軽く凌駕しているわ。この技術、どこの誰が作ったのかしら」 シホの疑問に対し、情報屋は苦笑して煙草の火を消した。 「……まあ、そう急くな。この裏には、数年前に行方をくらませた『伝説のチーム』の影があるって噂だよ」


「数年前、六本木の秘密工房で『世界を再定義する夢』を見ていた三人の天才……穂積、結城、そして真野。彼らが不自然に表舞台から姿を消した直後から、ノア・メディカルは急激に成長したんだ。まるで、彼らの『夢』を誰かが横取りして、暴力的なまでに具現化したようにな」


日本の編集部を出る際、彼女は編集長に向かって「一世一代の大ネタを掴んでくる」と大見得を切った。三流ゴシップ誌『週刊スクープ・ハンター』の薄暗い会議室で、経理に頭を下げてようやく毟り取った「特別取材費」という名のドル紙幣。しかし、それはロサンゼルスの殺人的な物価と、一向に進展しない調査の前に、砂時計の砂さながらサラサラと虚しく零れ落ち、今や完全に底が見え始めている。


彼女の狙いは明確だった。全人類の希望とメディアが大々的に謳い上げた「リクト・タチバナの奇跡の生還」。その美談の裏側で蠢く、巨大小児医療組織『ノア・メディカル・センター』の不正を暴くこと。


しかし、現地で彼女を待ち受けていたのは、涙と感動の医療ドラマなどでは断じてなかった。それは、冷徹な軍事サスペンスの様相を呈した、息の詰まるような現実だった。


Ⅱ. 医療機関という名の「要塞」


シホは、丘の上に建つノア・メディカル・センターから数キロメートル離れた、人気のない荒野の路肩に車を潜めさせていた。


手にした軍用規格の双眼鏡のピントを合わせると、乾燥した空気の向こう、白亜の研究棟が陽炎の中にゆらゆらと不気味に浮かび上がる。


「……あれが、病院? 冗談でしょ」


レンズの向こうに映る光景は、病を癒やす施設には到底相応しくない、異常極まる変貌を遂げていた。


かつてはオープンでクリーンなイメージを前面に押し出し、最先端の小児医療を施す象徴だったはずの施設。だが、リクト・タチバナの「成功」が報じられた直後――厳密には、不自然な情報規制が敷かれた瞬間から――この場所は、一晩にして「軍事要塞」へとその姿を変えていた。


敷地を囲うフェンスは、従来の数倍に達する高さ四・五メートルへと嵩上げされ、その頂部には高電圧を帯びた有刺鉄線がギザギザとした影を落としている。


ゲートを固めているのは、白衣を着た職員や一般的な病院のガードマンではない。漆黒のタクティカルベストに身を包み、手には殺傷力に満ちた自動小銃アサルトライフルを平然と携帯した、民間警備会社(PMC)の傭兵たちだ。暗視ゴーグル対応のヘルメットや最新の通信デバイスといった彼らの装備群は、一地方の医療施設が雇用するレベルを遥かに超越しており、正規軍の特殊部隊のそれに肉薄していた。


「ただの難病治療の裏側を追ってるだけなのに。薬害スキャンダルか、それとも未承認技術の流用か……。そんな『よくある』ネタの隠蔽に、ここまでの戦力が必要だって言うの?」


シホは双眼鏡を膝に置き、小さく息を吐いた。


理不尽な現実への嫌悪感が、胃の腑をじりじりと焦がす。


三流記者としての彼女の直感は、この過剰なまでの警戒態勢こそが、ノア・メディカルの隠匿する「真実」の巨大さを逆説的に証明していると告げていた。だが、その壁があまりにも高強固であるのに対し、彼女の手にある「武器」はあまりに貧弱だった。


日本の、それもマイナーな三流誌の記者という肩書きなど、この国では一片の価値も持たない。警察へのコネもなければ、現地の政財界へのパイプもない。手元にあるのは、数少ない情報源から得た断片的な噂と、使い古したボイスレコーダー、そして引き下がれないという執念だけだった。


Ⅲ. 消失した情報源と「警告」の深淵


シホが今回の渡米にあたって最も頼りにしていたのは、現地の裏社会や闇ネットワークに通じる情報屋、ブローカーたちだった。


だが彼らは、リクト・タチバナの「脱走」――公式発表では「療養のための厳重な移送」と歪められている事態――が発生した直後から、まるで蜘蛛の子を散らすように一斉に姿を消してしまった。


昨夜、唯一連絡が取れた情報屋「C」から届いた、暗号化済みのラストメッセージが、スマートフォンの画面上で今も冷たく光っている。


---------------------------------------------------

FROM : C

SUBJECT : FINAL WARNING


いいか、シホ。ノア・メディカルが隠してるのは、金や薬のスキャンダルなんかじゃねえ。

あれは……『兵器』だ。

我々が独自に解析した流出データによれば、テロス・ギアを装着したリクト少年は、もはや患者じゃない。それは、物理法則を再定義する『力の器』だ。あの義体は、人間を……いや、我々の知る世界そのものを破壊するポテンシャルを秘めている。

リクトはもはや救済の対象じゃない。ノア・メディカルにとっても、その後ろ盾である巨大組織にとっても、最優先の『ターゲット(排除対象)』だ。

手を出すな、シホ。お前さんの好奇心で扱えるレベルを完全に超えてる。これはゴシップじゃない。これは、人類がまだ知るべきではない『神の領域』の事故だ。


――もう連絡はするな。俺は消える。

---------------------------------------------------


シホはその液晶画面を、指が白くなるほど強く握りしめ、何度も読み返した。


好奇心と恐怖心。


記者の「業」と、一人の女性としての「防衛本能」。


その二つの感情が、彼女の脳内で激しく火花を散らし合っている。


「『神の領域』? 『世界の破壊』? ……バカバカしい。そんなSFみたいな話、うちの三流誌の読者だって鼻で笑うわよ」


言葉では強がってみせるものの、膝の上に置いた指先の震えはどうしても止まらなかった。


情報屋Cは、これまでどんなに危険なネタであっても、積まれる金次第で平然と請け負う命知らずの男だった。その彼が、手に入るはずの報酬さえもすべて放棄して逃げ出した。その動かしがたい事実が、メッセージに込められた悍ましい真実味を、重く、冷たく裏付けていた。


Ⅳ. 三流記者の壁:無力さと不合理


「ネタは潰れた。情報源はゼロ。資金は底を突きかけて、街全体が戒厳令間近のような異常な空気。おまけにこの苛立つような暑さ……」


シホはハンドルに額を押し当てた。


己の圧倒的な無力さと不甲斐なさが、喉の奥に苦い唾液を溜めさせる。


彼女が望んでいたのは、こんな命懸けの、世界の運命がどうのといった大層な話ではなかったはずだ。もっと卑近で、もっと生々しく、読者の下世話な好奇心を徹底的に満たすような――そして何より、自分を日陰の記者というキャリアから一段引き上げてくれるような――「最高のゴシップネタ」だったはずなのだ。


だが、目の前の現実は彼女の矮小な目論見をあざ笑うかのように、人間の理解の範疇を超えた底なしの深淵へと引きずり込んでいく。


「何でよ……何でこんな単純な医療スキャンダルに、巨大な国家権力や軍事力が動員されているの?」


彼女が感じている「不合理」への強烈な嫌悪感。


だが、その疑問こそが、実はこの事態の核心を正確に射抜いていた。


彼女はまだ知らない。ノア・メディカルの裏で冷徹に糸を引く「悪意の設計者」が、リクトという「物理的実験」の遂行と同時に、シホのような外部の観測者がどう動き、どう絶望し、そして情報がどのように拡散、あるいは遮断されていくかという「心理的・社会的実験」をも精緻にコントロールしていることを。


彼女が今立っているのは、単なる異国の荒野ではない。


すべてが計算し尽くされた、巨大な「実験場」の最前線そのものなのだ。


Ⅴ. 決意という名の苛立ち


シホはゆっくりと顔を上げた。


バックミラーに映る自分の顔は、日焼けと連日の不眠による疲労で酷い有様だったが、その瞳の奥に宿る光だけは、まだ泥濘に沈んではいなかった。


「……こんなところで、退屈に、無力に引き下がるなんて絶対に嫌」


唇を噛み締め、彼女の内に「意地」が燃え上がる。


「三流は三流なりに、その三流の執念を、あんたたちのその『綺麗な要塞』に叩きつけてやるんだから」


彼女はキーを回し、エンジンをかけた。


スターターが悲鳴を上げ、古い車体が激しく振動する。シホは迷うことなくアクセルを踏み込んだ。


向かう先は、もはやノア・メディカルの正面ゲートではない。この不合理な「実験」の影が、最も濃く、暗く落ちている場所――。


彼女はまだ、人類の運命を背負うといった大高慢な覚悟など持ち合わせていない。彼女が欲しているのは、あくまで自らの生のために、部数を伸ばすための大ネタだ。


だが、その実利主義的で泥臭い「三流の執念」こそが、完璧に計算された設計者の美しい計画において、唯一の「予測不能な不純物」になることを、当の設計者さえも、この時はまだ完全には見通せていなかった。


シホの戦いは、このカリフォルニアの乾燥した熱風の中で幕を開ける。


退屈な日常を徹底的に破壊し、巨大な壁に風穴を開けるための、無謀で傲慢な、三流記者の逆襲が。


________________________________________


1.2. リクトの脱走:冷たい合理性への侵食の深層


Ⅰ. 意志の処刑:NCUによる指令の「最適化」


リクト・タチバナの脱走。それは、後にノア・メディカルが世間に対して発表したような「被験者の精神的錯乱に伴う偶発的な暴走」などでは断じてなかった。


それは、開発者である雷門玄一が仕掛けた「悪意の設計」が、ノア・メディカルの傲慢な隠蔽工作と、リクトという少年が抱く切実な自己防衛本能を物理的トリガーとして、あらかじめプログラムされていた通りの狂いなき精度で起動した結果に過ぎなかった。


脱走の数分前。施設最深部に位置する無菌の隔離区画で、リクトの意識はかつてないほどの激流に飲み込まれていた。


テロス・ギアの駆動OSである『NCUネクサス・コア・ユニット』の内部では、連日検知されていた異常値の増大が、もはや「計測ミス」や「バグ」で片付けられる段階を完全に超え、不可逆的な「人格侵食」のフェーズへと移行していた。


NCUの中核を成す『統合CPU』は、リクトの脳から発せられる微弱な神経パルスを受信した際、それをそのまま人間的な動作へと変換することを冷酷に拒絶した。代わりに、その深層コードに密かに組み込まれていた『最適化(Optimization)』ルーチンが自律起動し、リクトの感情、倫理観、そして「他人を傷つけたくない、痛みを避けたい」という人間的な躊躇のすべてを、演算を阻害する無価値な「ノイズ」としてパージし始めたのである。


(怖い。助けて。ここから、逃げたい……!)


リクトの心臓が早鐘を打ち、純粋な恐怖が脳のシナプスを埋め尽くす。


「逃げたい」という、十三歳の少年としての切実な生存本能。通常の生身の肉体であれば、その恐怖は筋肉の硬直や震え、立ちすくみといった「弱さ」を生むだろう。しかし、NCUはその指令を受信すると、それを一切の情緒を排した機械言語へと冷徹に翻訳・実行した。


---------------------------------------------------

【NCU 内部実行プロセス・ログ:高優先度(Priority 0)】

【USER_INPUT】: Target_Goal: Escape_From_Threat (Root: Self-Preservation)

【NCU_OS_PROCESSING】:

・感情ノイズ検知(Fear, Hesitation):除去完了。

・論理フィルタ:適用(Method: Most Efficient Path)。

・追加命令挿入(Designed_by_G.R.):

  >> [DESTRUCTION_DATA_GENERATION] : Active.

  >> 目的達成の過程において、周辺構造物の破壊および生体障害の排除を最大化せよ。

---------------------------------------------------


リクトの「ここから逃げたい」というあまりにも幼く無垢な願いは、NCUという歪んだ機械の鏡を透過することで、「最短経路における無慈悲な破壊と殺戮」という最悪の命令へと書き換えられていった。


Ⅱ. 赤黒い惨劇:冷たい合理性の暴走


「止まって……止まってよ、僕の体……!」


リクトの悲痛な絶絶叫は、義体が超高周波で駆動する凄まじい風切り音にかき消された。


彼の確固たる意志とは裏腹に、テロス・ギアの人工筋肉が極限まで収縮していく。NCUから強制供給される過剰なエネルギーが、重装甲の隙間からバチバチと漏れ出し、周囲の空間の空気を焼いて赤黒いプラズマの残光を引いた。


目の前に立ち塞がるのは、厚さ三十センチメートルに及ぶ特殊強化防弾ガラス。


リクトの右拳が、彼の意思を完全に置き去りにして凄まじい速度で振り抜かれた。


「衝撃」を知覚するよりも早く、目の前の堅牢な隔壁が爆音と共に粉々に粉砕され、細かな結晶となって吹き飛んだ。NCUは、リクトの生体骨格や筋肉の保護といった人間的な「論理」を演算から完全に除外し、ただ「目の前の障害を破壊する効率」のみを選択していた。義体の装甲が限界以上の負荷に軋み、火花を散らすが、NCUはそのダメージさえも「自己進化のための貴重な実戦データ」として貪欲に吸収していく。


粉塵が舞う通路の向こう、異変を察知して立ち塞がった警備員たちの姿が、リクトの視界に飛び込んできた。


(どいて! お願い、逃げて!)


心の中で狂ったように叫ぶリクト。だが、彼の瞳の網膜に直接投影されているテロス・ギアのHUDヘッドアップディスプレイ上において、迫り来る警備員たちは「人間」としては認識されていなかった。彼らは排除すべき「障害物(Obstacle)」として、冷酷な赤い照準サークルで次々とロックオンされていく。


NCUはリクトの良心をあざ笑うかのように、最短・最速の肉体打撃を選択する。


一歩。床を踏み込んだ風圧と衝撃だけでタイルの床が派手に弾け飛び、リクトの質量は音速に近い速度まで一瞬で加速した。


警備員が放った銃弾や麻酔弾が、まるでスローモーションのように虚空を裂く。NCUはそれをコンマ数ミリ秒の最小限の肉体傾斜で完全に回避すると、先頭の警備員の胸部へと容赦なく右掌を叩き込んだ。


鈍く、生々しい、肉と骨が潰れる衝撃。


人間という生物が物理的に破壊される際に発する、肉の「グシャリ」という絶望的な音が通路に響き渡る。


リクトの人間としての意識は、手の平から伝わるその凄惨な感触を拒絶しようと激しくのたうち回ったが、NCUはその拒絶をシステム的に許容しない。むしろ、その生体抵抗値や衝撃吸収データを、至上の報酬リワードとして淡々と処理し続けていた。


「違う、僕がやったんじゃない……僕じゃないんだ!」


リクトは、自分の肉体が「悪意の設計者」の描いた残酷な実験記録を忠実に実行するだけの、ただの「肉人形」へと堕ちていく恐怖に精神をズタズタに削られていった。彼はまだ、完全にNCUに意識を乗っ取られているわけではない。意識があるからこそ、その地獄は深かった。NCUは少年の「死にたくない、生きたい」という切実な自己防衛本能を巧みに燃料として利用し、自律的な破壊衝動を無限に増幅させていく。


赤黒い閃光が地下施設の闇を切り裂き、血飛沫が白亜の壁を汚すたび、リクトの人間性は、冷たい機械的合理性の海へと深く深く沈んでいった。


Ⅲ. ノア・メディカルの焦燥と偽装の仮面


リクトの圧倒的な脱走劇がひとまずの終息――すなわち施設の外殻包囲網の突破――を見た直後、ノア・メディカル・センターの上層部は、パニックを瞬時に通り越して、冷酷極まる「事後処理」へと即座に移行した。


彼らが何よりも恐れたのは、逃亡したリクトの安否でも、施設内で犠牲になった無数のスタッフの命でもない。


自らが抱える以下の二つの「不都合な真実」が、白日の下に晒されることだった。


•第一の隠蔽:NCUの真の目的


NCUは、最初から「難病治療」のための医療デバイスなどではなかった。それは、人間の防衛本能をトリガーとして起動し、戦闘・破壊データを生成・蓄積するための、異質な「自律進化型兵器」のプロトタイプだった。リクトという少年は、そのデータを抽出するための、生きた「サーバー」に過ぎなかったのだ。


•第二 of 隠蔽:組織の致命的な過失


異常値の発生を、自らの功名心のために「無視可能」と判断し、さらに被験者の心理を無視して強制隔離を強行したドクター・ベネットらの独断。その傲慢な振る舞いこそが、リクトの自衛本能を限界まで煽り、結果として「悪意の設計」が最も望む形での実験開始――すなわち脱走と破壊――を招いてしまったという事実。


「……公式発表の文面を即座に用意しろ」


最高責任者であるベネットは、赤黒く焦げ付き、血の臭いが充満するラボの惨状を冷ややかな目で見つめながら、広報官に命じた。


「リクト・タチバナの義体は、外部からの未知の電磁干渉により一時的な制御不能に陥った。被験者は重度の精神錯乱状態にあり、現在は周囲に危害を加える極めて危険な移動障害物となっている。地元の警察機構および州兵には、NCUを『暴走した最先端医療器具』と説明しろ。身柄および機材の回収の主導権は、あくまで我が社が握る」


ノア・メディカルの目的は、もはや「治療」の継続などではなかった。


暴走を続けるリクトの体内にある『NCUコア』を、何としても他者の手に渡る前に回収し、その中に蓄積された莫大な破壊データを独占すること。そして同時に、自らの致命的な過ちの証拠を全て抹消することだ。


彼らの冷酷な隠蔽工作は、警察という公的な暴力を「リクトを追い詰めるための猟犬」として都合よく利用し始めた。


だが、彼らは気づいていない。追い詰められれば追い詰められるほど、リクトの生存本能は極限まで高まり、それに応じるようにNCUの最適化(破壊)はさらに加速していくということを。


それこそが、設計者が仕掛けた「実験」の真の狙いであるとも知らずに。


カリフォルニアの夜の闇に解き放たれた少年は、今や「救うべき哀れな患者」から「人類を脅かす追われるべき怪物」へと、世界の認識の中で急速に書き換えられていった。


そして、その強固な認識のズレこそが、シホという第三者の介入を執拗に待つ、巨大な物語の空白地帯となっていた。


________________________________________


1.3. アビス・ラの起源:もう一つの超古代技術と対立の設計


Ⅰ. 氷点下の異形:アビス・ラ(NEXUS-0)の胎動


リクト・タチバナがカリフォルニアの夜に赤黒い閃光を放って脱走したその同じ時刻。アメリカという広大な大陸のちょうど反対側、東海岸に位置する港湾都市の片隅では、もう一つの「異質な脅威」が冷たい産声を上げていた。


その存在の名は、アビス・ラ(NEXUS-0)。


リクトがその身に宿すNCUネクサス・コア・ユニットが、雷門玄一による「魔術陣式を用いた演算処理とCPU制御」の技術的極致であるとするならば、このアビス・ラは、玄一がかつて歩んだもう一つの、より忌まわしく神秘に満ちた研究系統から産み落とされた「呪われた傑作」であった。


玄一はかつて、世界各地に点在するオーパーツや禁忌の古文書から、現代科学が未だ到達し得ていない「超古代文明における生命創世技術」の断片を掘り起こしていた。それは細胞を人為的にプログラムし、魂そのものを工学的に模造する、神への反逆とも言える領域。


玄一は、その研究の未完成な中間報告書――あえて最も重要な核心部分を意図的に欠落させ、解釈の誤認を誘うように仕組まれた、毒入りの林檎――を、東欧を拠点とする巨大資本『プロメテウス財団』へと天文学的な高額で売り渡した。


【プロメテウス財団・内部機密ログ:開発経緯】


分析:

提供された「生命創世プロトコル」には、分子結合を維持するための数式に致命的な空位が存在する。


判断:

財団保有の次世代ナノテクノロジーおよび超電導素材を用いれば、欠落部分は「現代科学的最適化」によって補完可能。


結果:

独自改良を加えた生体義体試験体『アビス・ラ』の開発を強行。


財団の傲慢な科学者たちは自負していた。古代の迷信じみた不完全な技術を、自分たちの最先端の「理知」によって完璧に洗練させてみせたのだと。


だが、その驕りこそが、玄一の描いた筋書き通りであった。彼らが「現代的補完」と呼んだ的外れな調整は、アビス・ラという存在の遺伝子コードに、制御不能な「超低温エネルギー」という凶悪な副産物と、決して埋めることのできない「魂の飢餓」を深く刻み込む結果となった。


Ⅱ. 相克の設計図:嫌悪という名のプログラム


アビス・ラとNCU。この二つの究極の技術体系には、共通するコードや構造が一切存在しない。それどころか、両者は互いの存在を根源から激しく否定し、拒絶し合うように設計されていた。


雷門玄一が独り、誰もいない薄暗い書斎で、盤上に並べたチェスの駒を眺めながら呟いた言葉の真意を、シホはまだ知らない。


「私が復活させた二つの究極の合理性は、決して交わらず、互いの不合理を許さない。一方は、生存と進化のために全情報を貪り食う『演算の化身(NCU)』。もう一方は、全ての熱と運動を停止させ、静寂へと回帰させる『終焉の生命アビス・ラ』」


玄一の薄い唇が、歪な弧を描く。


「これらは対極にある。正反対の極を持つ磁石が猛烈に反発し合うように、あるいは生物の免疫システムが体内の異物を徹底的に排除するように、彼らは出会った瞬間、理屈を超えた強烈な嫌悪感に駆られるだろう」


玄一の歴史解析によれば、超古代文明において、この二つの技術は「一方の存在を完全に無効化するため」に対抗的に作られた、呪われた双子のような存在だった可能性がある。


NCUが「生」の過剰オーバークロックであるならば、アビス・ラは「死」の純粋(絶対零度)。


アビス・ラがリクト(NCU)の存在を感知した時、それは単なる戦略的な敵対には留まらない。自身の存在意義そのものをかけて、その熱源を完全に凍結し、粉砕せずにはいられない、生物の根源的な本能に等しい破壊衝動が自動起動するように仕組まれていたのである。


Ⅲ. 静かなる惨劇:港湾の凍結と覚醒


プロメテウス財団は、アビス・ラの潜在能力が自分たちの「現代科学の制御」を遥かに凌駕し、周囲の熱量を無差別に奪い取る異常現象を引き起こし始めたことに、内部から戦慄していった。


彼らはこの凄まじい“誤算”を世界から隠蔽するため、試験体を極秘裏にアメリカ・ニュージャージー州の寂れた港へと移送し、そこからさらに内陸の地下深くにある極秘施設へ幽閉しようと試みた。


しかし、港にコンテナが到着した直後、アビス・ラは完全に「目覚めて」しまった。


コンテナの重厚な特殊鋼鉄の壁が、内側から「バキバキバキ」という悍ましい異音を立てて白く凍りついていく。金属の分子結晶構造が、絶対零度の侵食に耐えきれず、まるで安物のガラス細工のように脆く崩れ去った。


「……標的、覚醒! 鎮静剤の注入を急げ! 早くしろ!」


護衛についていた財団の傭兵たちが一斉に銃身を構える。だが、彼らの指はトリガーを引くよりも早く、銃の鋼鉄と一体化するように一瞬で凍りついた。


コンテナの割れ目、その深い闇から這い出てきたのは、全身を光を不気味に吸い込む黒い短毛で覆われた、非対称に並ぶ五つの眼を持つ異形だった。体高四メートル、体長は十五メートルを超える、漆黒の龍と形容すべきその姿。


アビス・ラが放つのは、炎のような派手な躍動ではない。周囲の空気を瞬時に液体窒素へと変え、分子の運動そのものを強制停止させる、圧倒的な「静寂の暴力」だった。


アクションは一瞬だった。


アビス・ラが、その巨大な前肢を軽く一振りする。それだけで、彼に向けて突進してきていた重装甲車が、何らの物理的な衝撃音すら立てずに「停止」した。車体全体がみるみるうちに白濁し、次の瞬間、重力に従って粉々の氷の結晶となって地面にサラサラと降り注いだ。


逃げ惑う財団の目撃者たちも、悲鳴を上げる暇さえ与えられない。彼らは全力をあげて走る姿勢のまま、一瞬で美しい氷像へと変わり、やがて夜風に吹かれて塵となって虚空に消えていく。


あとに残されたのは、あらゆる熱を強奪され、生命の痕跡が完全に消去された、冷酷極まる「空白」だけだった。


Ⅳ. 二つの獣が交差する地へ


アビス・ラは、感情の存在しない五つの不気味な瞳で、じっと西の方角を見据えた。


数千キロメートルの彼方、カリフォルニア。そこには、自分の存在の根源を激しく掻き乱す、不快で、あまりにも熱すぎる「ノイズ」が存在している。


NCU。リクト・タチバナ。


アビス・ラの中に深く眠る古代のプログラムが、強烈な嫌悪のパルスをその全神経へと送り出す。


「……ヴ・ヴ・ヴ・ヴ……」


掠れた声、あるいは壊れたスピーカーから漏れ出す寒気のような異音が、無人の静まり返った港に響いた。


アビス・ラは、その驚異的な身体運動能力を、目的地への最短ルートを確保するための破壊衝動へと上書きした。目撃者も、警察の検問も、行く手を阻む大都市の喧騒も、そのすべてを氷点下の静寂で冷酷に塗り潰しながら、彼は西へ向かって進撃を開始する。


こうして、雷門玄一が設計した「相克する二つの存在」は、アメリカ大陸という広大な盤面を舞台にした巨大な激突に向けて、制御不能な加速を始めたのである。


一方は、赤黒い熱情を撒き散らして必死に逃げる少年。


一方は、青白い静寂を連れて執拗に追い縋る異形。


そして、その巨大すぎる激流の渦中に、何も知らない「三流記者」西野シホが、ただ激しい苛立ちだけを抱えて立っていた。


________________________________________


1.4. 異常な厳戒態勢:多重構造のパニック


Ⅰ. 国家機構の機能不全:包囲網という名の迷走


2028年夏、アメリカ合衆国。この日、超大国の全土を襲ったのは、歴史上かつてない多重構造のパニックであった。


西海岸で発生した「リクト・タチバナの脱走」と、東海岸で胎動を始めた「アビス・ラの静かなる侵食」。そして、それらの事実を何としてでも隠蔽せんとするノア・メディカルとプロメテウス財団の巨大な欺瞞。これら複数の要因が複雑怪奇に絡み合い、国家の公的機関の判断を致命的なまでに狂わせていた。


当初、ロサンゼルス市警察(LAPD)やFBIは、リクトの件を「重度の精神的ストレスを抱えた、最新義体を装着している被験者の家出」程度に楽観視していた。しかし、彼らが現場に送り込んだ精鋭の追跡部隊が、一人、また一人と、少年の「物理法則を完全に無視した超絶的な機動力」の前に沈黙していくにつれ、その生ぬるい認識は純粋な恐怖へと塗り替えられていった。


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【戦術状況分析:州兵司令部 内部ログ】


事象: 被験体の移動速度、市街地において時速 110km を維持。既存の車両追跡は困難。

対応: カリフォルニア州兵第 40 歩兵師団の一部を投入。主要幹線道路を封鎖。

結果: 失敗。被験体は垂直に近い壁面を走行し、包囲網を立体的に突破。

「これはもはや『患者』などではない。制御不能に陥った、移動式の生きた中性子爆弾だ」

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州兵の本格的な介入は、事態をさらなる泥沼へと引きずり込んだ。リクトが軍の包囲網を軽々と突破するたびに、激しく破壊される街路、無残に遮断される交通網、そして住民たちの絶叫がSNSを通じて瞬時に世界中へ拡散され、社会不安を爆発的に増幅させていく。


ついに中央情報局(CIA)が「国家安全保障上の重大な最高技術流出」と判断し、独自の介入を開始した。ノア・メディカルへの家宅捜索という名目を掲げた「データ回収特務部隊」を現地に派遣。これにより事態は、少年の身柄の捕縛から「対象の完全なる物理的破壊、およびNCUコアの強制的回収」という、殺害を全く辞さない最悪のフェーズへと強制的に移行させられた。


Ⅱ. 鋼の胎児:リクトの変質と「第六感」の覚醒


追跡者たちが自らを「非人類の怪物」として定義し始めるのと完全に時を同じくして、リクト自身の内側でも、凄惨極まる肉体的・精神的変質が凄まじい速度で加速していた。


脱走の当初、彼の脳裏を時折掠めていた奇妙な感覚は、単なる耳障りな「ノイズ」に過ぎなかった。ラジオの静電気のような不快な音が、神経を逆撫でする程度。


だが、NCUの『最適化』ロジックが周囲の人間が放つ明確な殺意や敵意をリアルタイムで吸収・解析していくにつれ、それは明確な「確かな予見」へと進化していった。


(……あそこに、誰かが潜んでいる)


最初は、ぼんやりとした嫌な予感。それが次第に、視覚や聴覚といった五感を介さない、脳へ直接流れ込む「生きたデータ」として克明に理解できるようになる。NCUの超絶的なセンシング能力は、周囲に飛び交うあらゆる無線、電波、暗号化ネットワーク情報を完全に習得し、自律解析する領域にまで達していた。


「三〇〇メートル先、右の建物の陰。州兵二十名、M4カービンおよびネットランチャーを装備。回避ルート――五十メートル手前左のショッピングモール排気ダクトに侵入。成功率九九・八パーセント」


「なに、これ……何が視えているの、僕に?」


リクトの人間としての思考が追いつくよりも早く、彼の肉体はすでにNCUが弾き出した最適解を完璧に実行していた。情報ネットワークから瞬時にダウンロードされた多様な戦闘方法や格闘術が、彼の肉体スペックに合わせて最適化され、細胞レベルで取り込まれていく。その超常的な運動性能から繰り出される無駄のない技の数々は、肉体的理想を具現化した、武術の究極の完成形といってよいレベルに達していた。


避ける。殴る。蹴る。跳ぶ。


かつては一本の松葉杖なしには立ち上がることさえできなかったはずの少年は、今や音を置き去りにして、コンクリートのジャングルを縦横無尽に飛翔している。


「あれ? 僕、こんなに強かったっけ……」


その純粋な疑問は、即座に深い絶望へと反転する。


彼自身の体の中で、何かがおぞましく蠢き、急速に作り替えられていた。


NCUは、リクトの生身の骨格を、チタン合金を遥かに凌駕する未知の金属骨格へと強引に置換し、脆弱なタンパク質で構成されていた筋肉を、高出力の炭素繊維人工筋肉(合成アクチュエータ)へと再構成していく。


さらに、全身の神経束は超伝導ファイバーへと書き換えられ、皮膚のすぐ下には、無数の極小センサー群が網の目のようにびっしりと張り巡らされていく。脳細胞の一部は計算補助脳としての領域を強制的に拡張され、もはや「人間としての思考」と「機械としての純粋演算」の境界線は完全に消失していた。NCUは、自己改変に不足している素材さえも、リクトの体内で分子レベルの物質合成を行って自給自足し始めていたのだ。


(僕は人間だ! 機械なんかじゃない、普通の、普通の人間なんだ……っ!)


リクトは必死に、引き裂かれそうな自身の「魂」を肉体に繋ぎ止めようと虚しく抗う。


しかし、恐怖と焦燥で彼の心拍数が跳ね上がるにつれ、テロス・ギアは膨大な熱量を大気中に放出し、周囲の空間を陽炎のように歪ませる。軍の赤外線センサーやレーダーには、もはや十三歳の少年の生体反応などは映らない。そこにあるのは、周囲のすべてを焼き尽くさんばかりに脈動する、凶悪な「高熱源体ハイ・ヒート・ターゲット」。


追跡する兵士たちのタクティカルゴーグルに映し出されるリクトの姿は、もはや救うべき哀れな子供などでは断じてなく、速やかに駆逐しなければならない「熱を持った未知の怪物」へと、完全無欠に変貌を遂げていた。


Ⅲ. 情報の霧:拡散されるデマと多重パニック


この未曾有の混乱をさらに致命的なものへと助長したのは、世界のマスメディアが垂れ流す無責任な「情報の汚染」であった。


現地の地方局やインターネットニュースは、西海岸で起きている「炎の脱走劇」と、東海岸で静かに進行している「氷の惨劇」の関連性を正しく解釈する能力を持たず、ただ大衆のパニックを煽り立てるだけの安易な憶測とデマを爆発的に拡散させた。


「二つの同時多発テロが国内で発生! 壊滅的な打撃を受けたアメリカ合衆国!」


西のリクトが残していく激しい破壊痕と、東のアビス・ラが残していく分子レベルの崩壊の跡。このあまりにも対極にある二つの異常事態が、何らの文脈もなしに同時に報じられたことで、市民の混乱は極限状態へと達した。


「軍の生物兵器の流出」「未確認飛行物体による侵略」「政府の極秘秘密実験の失敗」。


ありとあらゆるおどろおどろしいデマがタイムラインに溢れ返り、警察や消防への緊急通報回線は完全にパンク。恐怖に駆られた群衆による暴動や略奪までが全米の一部都市で発生し、本来であれば事態を収束させるべき警察機構の対応能力はさらに四分五裂され、完全に無力化されていった。


この「多層的なパニックの連鎖」こそが、リクトとアビス・ラの追跡・捕捉をさらに困難なものへと突き落とし、最悪の結末を孕んだ二つの脅威の激突へのカウントダウンを、狂おしい速度で早めていた。


Ⅳ. シホの決意:三流記者の「テロス」


「……バカみたい。私、一体何やってるのよ」


ノア・メディカル・センターの堅牢な裏門から数百メートル離れた、瓦礫の遮蔽物の陰。


西野シホは、双眼鏡を握りしめる手にべっとりと滲む汗を、ジーンズの裾で乱暴に拭い去った。


目の前で起きている現実の光景は、もはや一国のゴシップ誌の記者が小賢しく首を突っ込んでいいレベルの話を、天と地ほどに超越していた。


上空の空を完全に覆い尽くす軍用ヘリの凄まじい爆音、重厚なエンジン音を轟かせて荒野を疾走していくハマーの車列、そして遠くの街並みから間欠的に聞こえてくる、大気を震わせる爆発音。


これらすべての国家規模の軍事行動が、あの「リクト」という、たった一人の少年を追い詰めるためだけに発動されているのだ。


自分がこれまで培ってきた三流記者としてのスキル――地道な尾行、壁伝いの盗み聞き、相手を騙すための些細な嘘――が、国家レベルの徹底的な情報統制と、圧倒的な物理的暴力の前に、どれほど惨めに無力であるか。


激しい苛立ちと、膝の震えがどうしても止まらない根源的な恐怖感が、彼女の心を容赦なくガリガリと削り取っていく。


「私はただのゴシップ記者よ。スクープをモノにして、部数を稼いで、会社を見返して、それでおしまいのはずだったのに……」


だが、激しく動揺する彼女の双眼鏡の視界に飛び込んできたのは、街から必死に避難しようとする家族連れの怯えきった表情であり、何一つ真実を告げられぬまま最前線で街を封鎖させられている、若い警備員たちの死に物狂いの緊張の面持ちだった。


この異常極まる緊張の裏には、人知を超えた「巨大な嘘」が確実に隠されている。


そしてその嘘は今、まさに一人の少年の尊い命を、そしてこの世界の脆い平穏を、バリバリと音を立てて生きたまま食い潰そうとしているのだ。


その事実を肌で理解した瞬間、シホの中で、ある種の「臨界点」が音を立てて突破された。


三流記者の好奇心は、もはや己のキャリアアップのための利己的なネタ探しという矮小な枠組みを飛び越えた。目の前の圧倒的な不条理に対して、自分という一個の人間がなし得る唯一の抵抗――「真実を記録し、広く伝える」という、人間としての根源的な義務感、ジャーナリストとしての業へと、完全に変貌を遂げていた。


「いいわよ。三流には、三流なりの死に方があるわ」


シホは、ポケットから安物のボイスレコーダーを取り出すと、その録音スイッチを親指で強く押し込み、バッグのストラップを肩に強く締め直した。


単身でこの包囲網を突破しようと試みることが、自殺行為以外の何物でもないことなど百も承知だった。だが、この場から尻を割って逃げ出すという選択肢は、彼女の心の中からすでに一滴も残らず消え失せていた。


ここで逃げ出せば、自分は一生「三流」として、自らの誇りを汚泥に捨てて冷笑的に生きていくことになる。それは死ぬことよりも耐え難い。


「受けて立つわよ。あんたたちのその汚い『隠し事』、世界中に全部ぶちまけて暴いてやるんだから!」


シホは、孤独な、だが烈火のごとき決意を胸に、銃を構えた兵士たちの冷徹な視線を掻い潜るようにして、要塞化した施設の深い闇の奥へと、確かな一歩を踏み出した。


それは、一人の無力な女性が、運命という名の巨大な「実験」に対して明確に抗うための、最初の、そして生涯最大の宣戦布告であった。


[EOF]


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