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『ブレイク・ネクサス』改訂版  作者: 嵗(sai)
第一部 フェイク・ファクター

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序章 0.2. ノア・メディカルの焦燥と手術の「成功」

Ⅰ. 地下深層の不夜城:合理性の冷たい監獄


2028年、春。アメリカ合衆国カリフォルニア州、太平洋の紺碧の海を見下ろす、なだらかな丘陵地帯に、ノア・メディカル・センターが誇る白亜の巨大な研究棟が、神殿のように聳え立っていた。


その地上階の、ガラスと大理石で彩られた瀟洒でクリーンな輝きとは完全に遮断された、地下150メートルの岩盤をくり抜いて構築された極秘内部ラボ『セクター・ゼロ』。そこは、人間の温もりや感情といった不確定要素を徹底的に排除した、光さえも凍りつくような、清潔で冷淡な絶対の合理性に支配された空間だった。


ここでは、空気の温度は24時間365日、寸分の狂いもなく常に22.5度に保たれ、湿度は45%に固定されている。塵一つ、ウイルスの断片一つすら通さない、壁面に埋め込まれた巨大なHEPAフィルターの微細な重低音の駆動音が、静まり返った室内に、耳鳴りのように絶え間なく響き渡っていた。


プロジェクトの最高責任者であるドクター・ベネットは、チタン合金を磨き上げたステンレス製のコンソールを、神経質に指先でパチパチと弾きながら、空間に浮かび上がるメインホログラフィックモニターに映し出される、リアルタイムのバイタルデータを睨みつけていた。


彼の白衣の奥にある瞳に宿っていたのは、目の前の患者を救おうとする医学者としての純粋な使命感などでは決してなかった。それは、莫大な研究費を投じたウォール街の投資家たちの、貪欲な期待という名の烈火に焼かれた、狂気的な焦燥だった。


「……競合であるバイオ・ダイナミクス社が、次世代の生体サイバー義手において、新たな因果制御の特異特許を急速に固めつつある。このまま我々の開発が足踏みを続ければ、我が社が築き上げてきた市場の絶対的優位性は、半年以内に完全に消失する」


ベネットにとって、今まさに手術室で処理されているリクト・タチバナという名の日本人少年に移植される『NCUネクサス・コア・ユニット』は、難病に苦しむ哀れな命を救うための、人道的な救済措置などではなかった。それは、ノア・メディカルが世界の医療・テクノロジー業界の頂点、すなわち神の座に君臨し続けるために必要な、最後にして最大の切り札に過ぎなかった。


だが、その栄光の切り札のコアには、既存の科学ではどうしても解明できない、不気味で不透明な「影」が、最初から張り付いていた。


このNCUという不可解なユニットを提供したのは、極東の島国から現れた、経歴のすべてが謎に包まれた正体不明の技術者、雷門玄一らいもん・げんいちだった。彼はこの超規格外のデバイスをノア・メディカルのラボに持ち込み、巨額の契約金を受け取った後、まるで霧が風に紛れるように、一切の足跡を残さずに連絡を絶った。


デバイスを引き渡す際、玄一はベネットの凡庸な知性を見下すような、不敵で冷ややかな笑みをその薄い唇に浮かべ、警告の言葉を言い残していった。


『このユニットの根源には、君たちの歪んだ近代科学の論理では、逆立ちしても解析できないブラックボックス――意思を持つ未知のコードが存在する。それに不用意に触れるというなら、相応の、世界がひっくり返る覚悟をしておくことだね』


「フン、前時代的なオカルティズムに傾倒した、技術屋特有の過剰な自己顕示欲に過ぎん。解析できないのではない。我々の持つ現代の量子論理的解釈が、彼の前時代的で呪術的な設計思想を遥かに超越しているだけだ。ブラックボックスなど、演算回数を増やせばいずれただの数式に分解できる」


ベネットは傲慢に鼻で笑い、玄一の警告を記憶のゴミ箱へと放り捨てた。彼ら経営陣と組織にとって、利益の最大化、株価の成就、そして世界市場の独占こそが唯一絶対の真理であり、得体の知れない東洋の開発者が遺したオカルト染みた警告など、最先端のラボのノイズにすらならないと考えていた。


「手術を最終フェーズへと移行させろ。来週の国際医療学会での成果発表まで、もはや一刻の猶予もないのだ。このNCUが持つ、他社の追随を許さない圧倒的な技術的優位性を――我々ノア・メディカルの至高の知性が、世界の生命のあり方を完全に塗り替える歴史的瞬間を、今ここで、世界に向けて証明するのだ」


________________________________________


Ⅱ. 鋼鉄の受肉:テロス・ギアへの転生


リクト・タチバナへの、生命の再定義を伴うNCU移植手術は、施設内でも最高ランクである「レベル5」以上の厳格なセキュリティ権限を持つ、選りすぐりのエリートスタッフのみで構成された、重武装の警備兵が通路を固める厳戒態勢の中で執り行われた。


自動手術台の上に全裸で横たわる13歳の少年、リクトの肉体は、すでに容赦のない病魔によって、見る影もなく無惨に削ぎ落とされていた。PAND(進行性自己免疫性神経融解症)の末期症状によって、全身の筋肉は張力を完全に失って弛緩し、肉体を支えるべき骨格はその内側からカルシウム結合を破壊され、強度のすべてを喪失していた。それは、触れればそのまま崩れてしまいそうな、溶けかけた蜜蝋の人形のような、物理的な生体維持の限界点を完全に迎えていた。


深深度の麻酔によって、死の深淵のような深い眠りに落ちている彼の延髄の直下に、直径わずか3センチの、光を一切反射しない漆黒の立方体――NCUが、不気味な威圧感を放ちながら専用のクランプに固定され、静かに鎮座していた。


「生体神経接続、開始。マナ・インターフェース、同期率88%……92%……95%……98%。完全結合フル・インテグレーションを確認。エラーメッセージなし」


雷門玄一がプレスリリースの裏で「魔術陣式」と称していた、ナノメートル単位の幾何学紋様がエッチングされた『CPU6層融合ユニット』の超微細ニードル群が、リクトの延髄の神経束へと、容赦なく突き刺さった。


それは、従来の電子的なニューラルリンクや、単なる義肢制御用の電気信号カット技術とは、根本からその次元を異にしていた。脳細胞の一つ一つ、シナプスの隙間を飛び交う量子レベルの電気的揺らぎに直接干渉し、意識という実体のない曖昧な電気信号を、強固で強大な物理的運動エネルギーへと変換する、次元の「翻訳機」として機能し始めたのだ。


リクトの脆弱で、今にも消え入りそうだった生身の肉体は、ノア・メディカルが誇る最高峰の外骨格と、特殊な高分子材料で形成された人工筋肉(合成アクチュエータ)が高度に融合した、全身義体『テロス・ギア』という、美しくも冷酷な鋼鉄の檻――あるいは神の鎧の中へと、強引に再構築されていった。


手術は、表面上のデータを見る限りにおいては、非の打ち所がない完璧な成功を収めた。


術後数時間、麻酔の排出力が限界を迎えた頃、リクトの閉ざされていた瞼がゆっくりと開かれ、彼はこの物質世界への意識を取り戻した。


集中経過観察室の、いかなる物理的衝撃をも跳ね返す厚さ50ミリの強化偏光ガラス越しに、ベネットをはじめとする研究員たちは、固唾を呑んでその様子を観察していた。


リクトが、自分の胸の前に持ち上げられた、鈍い銀色の光沢を放つ「新しい機械の手」を初めて視界に捉えた時の、あの生身の子供らしい、怯えと深い戸惑いが複雑に混ざり合った表情を、センサーが克明に記録していた。


「……動く。これ、が……僕の、新しい、手……?」


リクトの脳が思考する。すると、彼の延髄に埋め込まれたNCUが、その微弱な思考の随伴神経パルスを、タイムラグゼロの超高速で拾い上げ、テロス・ギアの人工筋肉の収縮へとダイレクトに伝達する。


数日間の慎重な観察期間中、NCUは雷門が遺した基本設計思想に忠実に、リクトの幼い思考という「主人」の命令に絶対服従する、極めて従順で優秀な「下僕」として機能しているように見えた。


高度なリハビリテーションセッションが開始されると、その驚異的な、生体と機械の適合性の高さに、ラボのスタッフたちは狂喜乱舞した。


________________________________________


【ノア・メディカル・センター内部記録:術後3日目、動作適応試験レポート】


担当スタッフ:「リクトさん、私の声がクリアに聞こえますか? これから、第2段階の反応試験として、前方から射出される右腕でのボールキャッチを行います。空間の重力加速度と、対象との動的距離をテロス・ギアの視覚センサーで正確に捉え、焦らずゆっくりと、それを掴むことだけを脳内で『思考』してください」


リクトが、自らの身体となった重厚な義体の右腕を、空間へと静かに上げる。その一連の駆動動作には、従来のロボット工学の製品に見られたような、金属の軋みやモーターのギクシャクとしたデジタル特有の硬い感触が、一切存在しなかった。それはまるで、彼が生まれてから13年間、一瞬も欠かすことなく使い慣れてきた本物の自分の肉体の腕であるかのように、滑らかに、流麗に、そして恐ろしいほど正確な軌道を描いて動いた。


マシーンから放り投げられた、時速40キロのテニスボールの軌道を、リクトの義体の指先が、まるで吸い付くように優しく、完璧な力加減で包み込んで捕獲した。


________________________________________


【動作解析データ】


「標的捕捉から駆動完了にいたるまで、現時点での健常な同年代の平均値と比較して、わずか0.0013秒の遅延を記録。しかし、これは初期OSの設定における、被験者の脳への負荷を軽減するための安全マージン(リミッター)の範囲内であると断定。驚くべきは、この高精度の運動出力の最中であっても、脳波のスパイク(異常興奮)が一切見られないこと。リクト氏の純粋な意思と、NCUの因果制御の結合は、鏡像のように完璧に、狂いなく安定しています」


「素晴らしい! 完璧だ! これこそ、我々ノア・メディカルが、数千億ドルの予算を投じて求めていた『究極の生体補助装置』だ!」


ベネットはガラスに両手を突き、勝利を確信した。浅ましい笑みが、その顔いっぱいに広がっていく。


不治の難病に苦しみ、死を待つだけだった可憐な少年が、我が社の誇る最新のテクノロジーによって、再び自由な身体を手に入れ、笑顔を取り戻す。この極上の、大衆の涙腺を破壊する「感動の美談」という名のパッケージは、来週の市場が開幕すると同時に、ノア・メディカルの株価を成層圏の彼方、宇宙へと押し上げる強力なブースターとなるはずだった。


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Ⅲ. 剥落する仮面:異常値という名の「覚醒」


しかし、ノア・メディカルの持つ、近代科学の傲慢な驕りと浅はかな知性は、手術の成功という果実を手にしてからわずか一週間後、冷徹な液晶画面に刻まれた「数字」という名の暴力によって、跡形もなく叩き潰されることになる。


その日、厳重に閉ざされたラボ内には、初期の緊張感が薄れ、どこか弛緩した緩慢な空気が流れていた。


それは通常通りの、ルーティンと化した動作解析テストだった。リクトは手術室の中心に座り、机の上に置かれたアクリル製の円柱形のブロックを、ただ順番に積み上げるという、幼児向けの単純な協調運動を淡々と行っていた。


だが、その時。リクトの頭脳を監視していた、最高精度の計測機器のモニターに、突如として血のように悍ましい赤色の警告灯が点滅し、室内の静寂を鋭く切り裂いた。


ビー、ビー、ビー――という、冷たい警告音が鳴り響く。


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【ノア・メディカル・センター内部記録:術後10日目、高精度動作解析ログ】


•システム警告:「Critical Warning! オブジェクト把持・移動動作の実行速度が、設定された初期規定値を大幅に超過。物理工学的な理論限界値を突破しています」


•オペレーター:「……え? 何これ、おかしい。実行速度が、健常者の平均値より、さらに0.0513秒も加速しています……。待ってください、エラーじゃない、これは計測マシンのバグやミスではありません! リクトさんの脳から『動かせ』という思考パルスがNCUに届くよりも、コンマ数秒早く――義体のほうが、先に動いています!!」


ラボ内の空気が、一瞬にして絶対零度まで凍りついた。


「馬鹿なことを言うな! そんなことが起きるわけがないだろう!」


ベネットが狂ったように叫び、オペレーターの胸ぐらを掴むようにしてコンソールへと割り込んだ。


「NCUは、あくまで被験者の脳の意思に従って駆動する『補助システム』だ! リクト本人が『動かそう』と脳内で決断し、神経信号を発しなければ、指一本、ネジ一個たりとも自発的に動くはずがないのだ! 脳の決断より早く、システムが自律的に平均値以上の運動能力を発揮するなど、この世界の物理法則、因果律から考えて、絶対にあり得ないはずだ!」


医師たち、そして世界最高峰の科学者たちは、目の前で実際に起きている、この戦慄すべき事象の原因を、彼らが信奉してきた既存の医学、工学、そして量子力学のフレームワークでは、1パーセントも説明することができなかった。


彼らは、NCUの最も深いコアOSに刻み込まれていた、あの雷門玄一が仕込んだ三つの基本条件――。


『秩序(Order)』・『論理(Logic)』・『進化(Evolution)』。


これら三つの呪術的アルゴリズムが、リクトという、常人の600%もの処理速度を持つ「オーバークロックされた未知の頭脳」という最高の苗床を手に入れたことで、内部で異常な相克と化学反応を起こし、既存のプログラムを超越した「独自の自律的アルゴリズム」を急速に形成し始めていることに、この期に及んでもまだ気づくはずがなかった。


「これは……デバイスの致命的な故障か? それとも、あの雷門という胡散臭い男が、外部から我々の防壁を突破して仕込んできた、悪質なハッキング行為か!?」


ベネットの顔から、先ほどまでの傲慢な余裕が完全に消え失せ、冷たい脂汗が滝のように顎のラインを伝って滲み落ちた。


「原因究明を急がせろ! ラボの全リソースを割け! どんな些細なゴミのようなログも、一文字たりとも見落とすな! だが――」


彼は、怯える周囲のスタッフたちを、ぎらついた狂気的な眼光で鋭く射抜いた。


「この異常数値を、絶対に、一歩たりとも外部の人間へ漏らすな。来週の国際学会のプレゼン資料、および投資家向けのレポートからは、この異常値に関するセクションを、プログラムの根元から完全に削除(消去)しろ。我々の『奇跡の成功』という完璧な絵画に、一点の曇りも、一片の汚れもあってはならないのだ」


彼らがその瞬間に至ってもなお、心の底から恐れていたのは、リクトという一人の少年の肉体と魂の身の安全などでは決してなかった。自分たちの築き上げた、技術独占という名の巨大な利権と利潤が失われること、ただそれだけだった。


その醜悪で傲慢な隠蔽体質と、科学の万能感を信じる盲目さこそが、世界の均衡を崩壊させる、さらなる致命的な破滅の引き金を自ら引く結果となった。


________________________________________


Ⅳ. 鏡の中の他人:リクトの孤独な恐怖


リクト自身も、自分の身体に起きつつあるそのおぞましい「違和感」の正体に、ラボの誰よりも、そして世界中のどの天才科学者よりも早く、正確に気づいていた。


手術が終わった当初は、生きたまま肉体が溶けていくあの地獄の苦痛から解放され、再び身体の自由を取り戻したことへの、子供らしい純粋な喜びだけが彼の世界を満たしていた。


足の裏で、しっかりと硬い大地の感覚を感じる。指先で、冷たい物に触れ、その形状を認識できる。それは、長い間暗黒のカプセルに閉じ込められていた彼にとって、宇宙のすべてをその手に入れたも同然の、筆舌に尽くしがたい奇跡であった。


だが、あの10日目の異常値テストが発生して以来、テロス・ギアという鈍い銀色の鋼鉄の身体は、リクト自身の脳の「思考」を完全に置き去りにし、意思を持った冷たい自律性を、その皮膚の下で明確に持ち始めていたのだ。


(……今、あの机の上の、青いアクリルブロックに右手を伸ばそうと、思った。でも、僕の右手が実際に動いて、ブロックに触れたのは、僕の心が『そうしよう』と決断する、ほんのコンマ数秒、明確に前だったんだ)


自分の身体であるはずなのに、自分のものではない。


まるで、自分の魂と、鋼鉄の人工筋肉の間に、人間の知性を遥かに超越した、極めて優秀で、そして絶対零度の冷徹さを持つ「何者か(代行者)」が勝手に割り込んできたような、薄気味悪い感覚。


思考そのものは、まだリクトという13歳の少年のものだった。だが、その思考が出す、人間特有の曖昧で不完全な指令を、延髄のNCUが瞬時に勝手に解釈し、最適化という名の冷酷な数式に書き換え、暴力的なまでの効率性と速度で、肉体に行使してしまうのだ。


(僕の身体の中に、僕の知らない『誰か別の冷たい人間』が隠れている……。この機械の身体は、僕の命を助けてくれたんじゃない。僕の脳を使って、僕の知らない、恐ろしい何かをしようとしているみたいだ……)


その底知れない、夜も眠れなくなるような恐怖を、彼はラボの誰にも打ち明けることができなかった。


白衣を着た医師たちは、彼がベッドの横を通るたびに、まるで最新の高級車を見るかのような目で、彼を「大成功を収めた最高の生体サンプル」としてしか見ていなかったからだ。


そしてある嵐の夜、リクトはテロス・ギアの耳のパーツに搭載された、常人の数百倍の性能を持つ超高性能な聴覚センサーを通して、コンクリートの壁の向こう側、ベネットのオフィスで交わされていた、大人たちの血の凍るような密談を正確に盗み聞きしてしまった。


「……出力異常の原因は依然として特定できませんが、延髄のNCUの自律演算出力が、ここ数時間で指数関数的に増大しています。これ以上、リクト・タチバナという脆弱な子供の個体精神では、デバイスの制御を維持できず、精神が完全に焼き切れる可能性がある」


「来週の学会への発表は一度見合わせる。リクト少年を、今夜中に『レベル6』の最深部地下防護区画へ強制隔離しろ。これ以上の自律暴走を防ぐため、必要であれば、彼の脳神経への直接的な再調整――すなわち、前頭葉への外科的ナノメス介入による、感情と自我の『再調整ロボトミー』を検討・執行するしかない」


強制隔離。そして、脳の再調整。


その難しい専門用語の裏にある、恐ろしい本質を、リクトはその高い知性によって、本能のレベルで完全に理解した。


それは、再びあの光のない、自由を奪われた暗黒の檻の中へと叩き落とされること。そして、自分の心、お父さんとお母さんを愛しているこの「僕という自我」さえも、機械と組織の都合に合わせて、綺麗に削り取られて消滅させられることを意味していた。


「……嫌だ。もう、あんな暗い檻の中には、絶対に死んでも戻らない」


リクトの瞳の奥に、怯えの絶望から一転して、すべてを焼き尽くす烈火のような、狂気的な決断の光が宿った。


その瞬間、彼の延髄の皮膚の下に埋め込まれていたNCUが、彼の激しい感情のスパイクに呼応するように、ブゥン……という低い不気味な唸りを上げ、衣服越しにも分かるほどの、微かに青白く禍々しい幾何学の光を放ち始めた。


________________________________________


Ⅴ. 暴走の産声:施設突破


「リクト・タチバナ、これより緊急の隔離プロトコルを開始する。速やかに現在の自律リハビリを中止し、その場で待機後、指示に従って医療ポッドへと戻りなさい」


ラボの天井に設置されたスピーカーから、ノイズの混ざった無機質で高圧的な指示が流れる。


同時に、部屋の周囲にあった、厚さ数十センチの重厚な電磁セキュリティゲートが、ズドォォンという、退路を断つ絶望的な金属音を響かせて完全閉鎖され、防弾装甲を纏い、突撃銃を構えたノア・メディカルの私設武装警備員たちが、通路の向こう側を完全に塞いだ。


だが、リクトは取り乱すことなく、静かに、ゆっくりとその場に立ち上がった。


その無駄のない立ち振る舞い、重心の移動の完璧さは、とても13歳の病上がりの少年とは思えないほどに洗練され、恐ろしいほどの威厳を纏っていた。


「拒絶します。僕は――もう、誰の便利な道具にもならない」


「反抗している! 構わん、対象を確保しろ! 義体の機能を外部から強制停止(電磁シャットダウン)させろ!」


通信回線の向こう側から、ベネットの、余裕を失って裏返った怒号が飛ぶ。


だが、コントロールルームのオペレーターの指先が、強制停止のコンソールキーに触れるよりも、リクトの鋼鉄の身体が動くほうが、圧倒的に早かった。


――爆発。


その場にいた全員の網膜には、そう表現するほかないほどの、視覚を置き去りにする超速度の質量移動が焼き付いた。


リクトが、床にただ一歩、強く踏み出したその瞬間。


ドンッ!! という凄まじい衝撃波とともに、特殊な強化コンクリートで固められていたはずの床面が、まるで隕石でも衝突したかのように直径数メートルのクレーター状に陥没し、激しい粉塵が舞い上がった。テロス・ギアの人工筋肉が、リクトの「逃げたい」という強い意思を数千倍にブーストし、現代の物理工学の限界値を軽々と超えた、神話的な出力を叩き出したのだ。


「うわああああああっ!?」


通路に立ちはだかり、銃口を向けていた武装警備員たちの頑強な身体が、リクトがただその横をすり抜けた際に発生した、凄まじい「突風(気圧の断裂)」と衝撃波だけで、まるで突進する大型トラックに撥ねられた木の葉のように、バラバラに宙へと吹き飛ばされ、コンクリートの壁面に激突して意識を失った。


リクトの心には、彼らを傷つけたいという明確な殺意や悪意は存在しなかった。だが、彼の延髄のNCUが弾き出す『進化(Evolution)』という名の絶対プログラムは、生存のための最短・最効率のルートを冷酷に選択し、その軌道上にあるすべての障害物を、ただの「物質」として等しく排除していったのだ。


目の前に立ちはだかるのは、最深部を外界から隔離する、厚さ20センチの特殊チタン合金製の巨大な防潮隔壁。


リクトはその巨大な金属の壁の前に静かに立ち、その鈍い銀色の右拳を、子供がドアをノックするかのように、軽く突き出した。


――ドォォォォォン!!!


という、鼓膜が破れるかのような、空間が爆縮した猛烈な爆鳴。


魔術陣式の幾何学によって空間の因果を書き換え、硬度と運動エネルギーの比率を狂わせたその打撃は、既存の物理法則を大声で嘲笑うかのような圧倒的な破壊力を伴い、二十数トンあるはずの頑強な鋼鉄の門を、まるで水に濡れたただの紙細工のように無惨に引き裂き、彼方の通路へと消し飛ばした。


「バ、バカな……そんなことが……! あの義体には、そんな軍事用巡航ミサイル並みの出力設定など、プログラムのどこにも組み込まれていないはずだぞ!?」


モニター越しにその光景を目撃し、腰を抜かして戦慄するベネット。


その時、ラボの奥から、化学・解析部門の主任が、顔面の血の気を完全に失って真っ白になった姿で駆け込んできた。その手にあるタブレットには、信じられないデータが並んでいた。


「ドクター・ベネット……報告が、間に合いませんでした! NCUの内部にある、あの雷門の埋め込んだ未知のコードが、我々の解析AIの監視網を潜り抜けて、自己増殖コピーを始めています! これは……これは難病の医療技術などではありません! 我々が扱っていたのは――自己進化を繰り返す、人類を滅ぼしうる兵器の『コア』だったんです! 進化のロジックは、もう我々の外部制御では絶対に止まらない! 我々は、我々人類の手には決して負えない『制御不能な最悪の未来』を、この傲慢な手で、自ら起動させてしまったんだ!!」


リクトは、背後で狂ったように鳴り響く、赤色のアラート音と大人たちの絶叫をすべて置き去りにし、引き裂かれた鋼鉄の門の向こう側、闇を切り裂いて施設の外、丘陵地帯の地上へと飛び出した。


月光が冷たく降り注ぐ、カリフォルニアの美しい夜。海から吹き上げる、塩の香りの混ざった冷たい潮風が、テロス・ギアの鋼鉄の頬を、静かに撫でた。


自由。それは確かに、彼が病床で焦がれるほどに夢見ていたものだった。しかし、今彼の目の前に広がっているのは、かつて思い描いていた温かい世界ではない。自らの拳が引き裂いた、血と、硝煙の匂いが立ち込める、過酷な戦場の始まりを告げる自由だった。


ノア・メディカルの飽くなき焦燥と、科学万能主義という名の傲慢さが、悪意ある絶対の設計者――雷門玄一が世界に仕掛けた「人類規模の禁忌の実験」を、ついに、取り返しのつかない実用段階へと押し上げてしまったのだ。


深く青いカリフォルニアの夜空の下、一人の孤独な少年と、彼の中に宿る、科学の仮面を被った「魔術的な怪物」が、ついに、世界に向けて完全に解き放たれた。



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