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『ブレイク・ネクサス』改訂版  作者: 嵗(sai)
第一部 フェイク・ファクター

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序章 0.1. 三流雑誌の記者:シホの退屈な日常と違和感

0.1. 三流雑誌の記者:シホの退屈な日常と違和感


Ⅰ. 停滞する空気と安っぽいインクの匂い


2028年、春。日本の首都・東京は、桜の季節特有の、どこか浮ついた湿っぽい熱気に包まれていた。街を行く人々は薄手のコートを羽織り、新しい季節の始まりに胸を躍らせている。


しかし、新宿の片隅、築四十年を超える老朽化した雑居ビルの四階に位置する『週間スクープ・ハンター』編集部には、そんな季節感など微塵も存在しなかった。窓ガラスは長年の排気ガスで煤け、外の柔らかな陽光を遮断している。


西野シホの視界は、常に寿命の近い蛍光灯が放つ、不快なチカチカとした白々しい光に晒されていた。その微細な点滅は、彼女の網膜を執拗に刺激し、慢性的な偏頭痛の種となっている。


肺に吸い込む空気は、およそ健康的とは言い難い代物だった。輪転機から上がったばかりの、大量に積み上げられた中吊り広告が放つ酸っぱいインクの匂い。梅雨時でもないのに古紙が湿気を吸った、カビの混じった埃っぽさ。そして、徹夜明けで死んだ魚のような目をしている編集部員たちが、デスクの隅で啜るカップ麺の人工的な香料と調味料の臭気。それらが狭い室内に澱み、逃げ場を失ってドロドロに混ざり合っていた。


シホは、皮脂とスナック菓子の油分で薄汚くベタつくデスクのキーボードを、爪の伸びた指先で乱暴に叩きながら、内臓の奥底から吐き捨てるように大きな溜息をついた。


「……またこれか」


彼女の目の前には、整合性の取れないネットの噂話を雑にプリントアウトした読みかけの資料。そして、いつ買ったかも定かではない、表面に薄い灰色のアクリル塗料のような膜が張ったコンビニのブラックコーヒー。さらには、昨日の昼に食べたであろう、油が紙に染みたサンドイッチの包装紙が散乱している。活気と言えば聞こえはいいが、その実態は人間の悪意と怠惰、そして消費されるだけの無駄な情報が堆積した「情報の掃き溜め」そのものだった。


大学を卒業し、胸に燃えるようなジャーナリズム精神と、社会の闇を白日の下に晒すという高潔な野心を抱いてこのメディア業界に飛び込んでから、気づけば五年という歳月が流れていた。時の流れは残酷だった。彼女の鋭かった感性は日々の泥仕事で摩耗し、削り取られ、丸くなり、そしてこの濁った編集部の空気に同調するように淀んでいた。かつて夢見ていた、国を揺るがすような「権力の不正を暴く社会派記者」の気高き姿は、今の彼女のどこを探しても見当たらなかった。


現在の彼女の主戦場は、あまりにも矮小で下俗なものだった。


世間を騒がせる芸能人の、誰も幸せにしない不倫疑惑の裏付け調査。地方アイドルのSNSに投稿された写真の背景、あるいは瞳に映り込んだ景色から自宅の最寄り駅を特定する「デジタル地引き網」と呼ばれるストーカー紛いの作業。あるいは、テレビに数分映るだけの二流俳優が持つ奇妙な偏食癖を、面白おかしく、悪意を込めて書き立てる仕事。彼女が日々生産しているのは、そんな低俗なゴシップ記事の山だった。


「ねえ、シホちゃん。こっちの『地下アイドル熱愛、相手は運営の従兄弟』ってネタ、もう少し色っぽく盛れない? 『禁断の血縁関係(仮)』みたいな見出しでさあ」


向かいのデスクから、1週間は髪を洗っていないのではないかと思わせる、脂ぎった顔をした中年男性――編集長が、粘つくような声をかけてくる。その手には、書き殴られたゲラが握られていた。


シホはキーボードから目を離さず、感情を完全に排した声で応じた。


「編集長、それ法的に完全にアウトですよ。名誉毀損とプライバシー侵害で訴えられたら、うちの弱小資本じゃ一発で飛びます。せいぜい『親密な関係が疑われる親族』で止めるのが、過去の判例から見ても定石です」


「ちぇっ、相変わらず堅いねえ、シホちゃんは。うちみたいな三流誌なんだからさ、真実なんてどうでもいいんだよ。読者が求めてるのは、脳髄に直接響く刺激だよ、刺激!」


編集長はつまらなそうに鼻を鳴らし、再び自分の席へと戻っていった。シホは心の中で冷ややかに毒づきながら、適当な生返事を返し、液晶画面に並ぶ文字の羅列を睨み続けた。


二十代後半という、人生の分岐点。


周囲を見渡せば、大学時代の同期たちは、より洗練された大手新聞社やキー局、あるいは時代の寵児として株価を上げ続けるITベンチャーへと華麗に転身を遂げていた。スマートフォンの画面でSNSを開けば、海外特派員としてヘルメットを被り、緊迫した戦地から命がけのレポートを送るかつての友人の姿が嫌でも目に飛び込んでくる。彼らの瞳には、社会を動かしているという確かな自負と、プロフェッショナルとしての光が宿っていた。


一方、自分はどうだ。この狭く汚い部屋で、蛍光灯の点滅に怯えながら何をしている。


「今日のアテは、売れないお笑い芸人のパチンコ通い……。これをスクープなんて呼ぶのは、世の中のすべてのジャーナリストに対する冒涜ね。もはやただの、社会の底辺観察レポートだわ」


「……ったく、今日も今日とてろくでもない噂ばかりね」 シホはため息をつき、ブラウザの検索履歴を閉じた。画面の隅に表示されていたのは、界隈のハッカーたちが密かに囁き合っている『2020年の六本木で消えた科学者たちのリスト』という、都市伝説じみた掲示板のキャッシュだった。「NCUの先駆者たちが追放された場所」……。 まるで世界そのものをデータとして書き換えるような、そんな荒唐無稽な実験がかつて行われていたという噂。シホは鼻で笑い、そのタブを容赦なく閉じた。


自嘲気味に、吐き出すように呟いた言葉は、天井で重々しく不快な金属音を立てて回る、埃塗れの換気扇の鈍い回転音にかき消され、誰に届くこともなく消えた。


彼女の胸の内にあるのは、どろりとした、黒く濁った焦燥感だった。自分が日々、魂を削りながら生産しているのは、明日になれば誰の記憶にも残らず、スマートフォンの画面の彼方へと消費されて消えるだけの嘘と誇張。その浅薄なエンターテインメントの巨大なゴミ山に埋もれていくうちに、自分自身という人間の価値までが、永久に「三流」の枠の中に鋳造され、固定されていくような、底知れない恐怖。


現状を打破したい。この泥沼から抜け出し、本物の光の当たる場所へ行きたい。だが、そのための「鍵」がどこに落ちているのか、今の彼女には全く分からなかった。


________________________________________


Ⅱ. 異質な「福音」:ノア・メディカル・センター


午後の過酷な締め切り前、脳の全細胞が麻痺していくような、強烈な倦怠感がシホを襲った。彼女は重い頭を支えながら、現実逃避を兼ねて、国内外の主要なニュースフィードを漫然とスクロールし始めた。


政治家の失言、芸能人の離婚、遠い異国での紛争の火種、大手企業の新型スマートフォンの発表。いつも通りの、タイムラインを埋め尽くす記号化された情報の洪水。どれも彼女の心を動かすものではなかった。


だが、スクロールを続けていた彼女の指先が、ある一通の海外から配信されたプレスリリースを境に、まるで物理的な障壁にぶつかったかのようにピタリと止まった。


その見出しは、現代の歪んだ世界において、あまりにも白々しく、そして眩いほどの「正義」と「光」に満ちちあふれていた。


【ノア・メディカル・センター プレスリリース:人類の新たな地平】


『ネクサス・コア・ユニット(NCU)を用いた難病患者への義体移植手術が臨床応用を開始。日本人少年リクト・タチバナ氏(13歳)、全身義体「テロス・ギア」の装着へ。絶望の淵に差す、希望の光』


「ノア・メディカル……あのアメリカの巨大医療コングロマリットか」


シホは小さく呟いた。世界中の先端医療、製薬、そしてサイバーネティクス技術を独占する、時価総額トップに君臨する巨大企業。通常、彼女のような弱小ゴシップ誌の記者が扱うような範疇のネタではない。本来であれば、大手新聞社の科学部や、経済誌のエリート記者たちが、高尚な専門用語を散りばめて鼻を高くしながら解説記事を書くような大案件だ。


しかし、プレスリリースに添付されていた一開の少年の写真が、彼女の視線を釘付けにした。


病魔に深く侵され、完全に生気を失った白い肌。透明な医療用カプセルの中で、生きながらえるために無数の生命維持の管に繋がれた、痛々しいその姿。しかし、その過酷な運命の底にあっても、少年の瞳だけは、周囲の医療機器の冷たい光を反射して、強く、そして恐ろしいほどに鋭い知性を宿していた。リクト・タチバナという名の、その13歳の少年の眼光が、シホの記者としての、いや、一人の人間としての本能に、直接「何か」を訴えかけていた。


彼女は引き込まれるように、マウスホイールを回して詳細情報をスクロールした。そこに記載されていたのは、現代医学の常識を遥かに超越した、目を疑うような凄惨な病状と、それを克服したという「奇跡」の客観的データであった。


________________________________________


■ 参考情報:対象疾患および治療概要


•【疾患名】


進行性自己免疫性神経融解症(Progressive Autoimmune Neuro-Dissolution : PAND)


•【客観的病理分析】


本疾患は、極めて稀な遺伝的変異と環境因子の偶発的な複合によって引き起こされる、現代医学において完全未解明の超希少疾患である。最大の特徴は、患者の自己免疫システムが、生体を構成する最も根源的な「物理的構造そのもの」を未知のウイルス、あるいは悪質な異物として誤認する点にある。


これにより、分子レベルでの猛烈な自己破壊プロセスが進行し、通常は人間の肉体において数十年かけて強固に維持されるはずの、細胞間の接着結合(カドヘリン等)が、数ヶ月という極めて短い単位で完全に喪失する。具体的には、生体の骨格を形成するカルシウム結合の崩壊、および全身の筋肉組織の液状化(タンパク質の不可逆的な変性と、マクロファージによる自己融解)が同時並行で発生する、極めて凄惨な病態を辿る。


•【リクト・タチバナ氏の症例】


被験者リクト・タチバナ(13歳)は、発症からわずか半年で自立歩行能力を完全に喪失。特筆すべき異常病理として、彼の脳神経活動は、肉体の崩壊とは反比例するように、常人の400%から600%という、生命維持の限界を超えた極限の「オーバークロック状態」を示した。


脳の異常な処理速度が、崩壊しつつある生身の肉体の反応速度を遥かに凌駕した結果、末梢神経系への致命的な過負荷が生じ、組織の壊死をさらに加速させた。意識と知性は、現存するあらゆる計測機器が「異常なまでに鮮明かつ高密度である」と示す一方、その巨大な魂を収めるべき「肉体という物理的容器」は内側からドロドロに溶解し、物理的な完全崩壊を待つのみの、文字通り『生存の臨界点』に達していた。


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「筋肉と、骨が、生きたまま液状化する……?」


シホはエアコンの効いた室内であるにもかかわらず、背筋に冷たい氷片を押し当てられたかのような戦慄を覚えた。それはもはや、現代の生物学が扱う病気というより、古代の伝承に登場する、人間を内側から腐らせる「呪い」の記述そのものではないか。そんな絶対の絶望から、一体いかなる科学が、彼を救い出したというのだろう。


記事の前半部分は、世界中の読者の涙を誘うような、極めて周到に計算された情緒的なエピソードで美しくデコレーションされていた。


『リクト君は、光のない病床にあっても、ただの一度も生きる希望を捨てなかった』『家族の無償の愛と、ノア・メディカルが誇る天才科学者たちの献身的なサポート』『この手術の成功は、一人の哀れな少年の救済に留まらず、全人類が病を克服し、新たなる進化への第一歩を踏み出した証である』。


いかにも大衆が飛びつき、SNSで拡散し、偽善的な涙を流すのに最適な、光り輝く完璧な美談。


しかし、記事の中盤、専門的な技術解説を行うセクションに差し掛かった瞬間、シホの脳内で、五年間の泥仕事で培ってきたプロとしての冷徹な直感が、鋭い火花を散らして弾けた。


「……ちょっと、何よ、これ」


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Ⅲ. 「魔術」という名のノイズ


記述のトーンが、唐突に、そして暴力的とも言える落差で変質していた。


それまで語られていた「愛」や「希望」「人道」といった、大衆向けの情緒的な言葉が完全にパージされ、代わりに画面を埋め尽くしたのは、現代科学の辞書には絶対に存在してはならない、冷徹で、そして不気味なほどに歪んだ「未知の論理」だった。


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•【技術的補足:テロス・ギアの駆動原理】


本システムの中核を成すネクサス・コア・ユニット(NCU)の構造は、従来の炭素繊維による人工筋肉や、チタン合金による骨格補強の域に留まらない。


我々は、古代より伝わる「魔術陣式(Thaumaturgical Array Formula)」の論理幾何学を、量子コンピューティングの領域において多層的に応用した、前例のない『CPU6層融合ユニット』を開発。これを統合制御する専用OSには、『秩序(Order)』『論理(Logic)』『進化(Evolution)』の三つの絶対条件に基づく、独自のネットワーク最適化アルゴリズムを実装した。


NCUは、患者の脳内で肥大化し、生体肉体では受け止めきれなくなった神経信号を、霊的なエネルギー流である『マナ・フロー(Mana Flow)』として再定義・変換し、疑似神経繊維を通じて外骨格全身義体「テロス・ギア」へ瞬時に、遅延なく伝達する。これにより、生身の肉体では不可能だった超高精度の物理干渉と、過酷な環境への即時適応能力を実現。これは、生物学的な死のプロセスを、高度な工学的な永生エイリアン・ライフへと完全置換するプロセスである。


________________________________________


シホは、気付けばマウスを握る右手に、指関節が白くなるほどの強い力を込めていた。


「冗談でしょう……? 『魔術陣式』? 『マナ・フロー』?」


彼女は自分の目が疲労で狂ったのかと思い、スマートフォンの画面を何度も擦り、ブラウザの自動翻訳機能がエラーを起こしていないか確認した。しかし、英文のオリジナルテキストを見ても、そこには紛れもなく、はっきりと"Thaumaturgical Array Formula"、そして"Mana Flow"という、ファンタジー小説のSF設定でしか見かけないような単語が、冷厳なフォントで刻まれていた。


「ふざけてるの? 新作のSF映画か、VRゲームのプロモーションじゃないんだから。ノア・メディカルといえば、ノーベル生理学・医学賞の受賞者を何人もお抱えにしている、世界最高峰にして最先端の医療研究機関よ。そんな現実の頂点にいる場所が、公式の、大真面目なプレスリリースに、こんなオカルトじみた『魔法』なんて言葉を混ぜるわけがない……」


しかし、その激しい拒絶反応の裏で、彼女の脳髄の最も深い部分――五年間のドブ板選挙のような泥仕事、嘘と裏切りが渦巻くゴシップの現場で培ってきた「三流の嗅覚」が、猛烈な勢いで警鐘を鳴らし、歓喜に震え始めていた。


一般の善良な読者や、専門知識を持たない大衆であれば、「よくわからないけれど、量子力学とかの凄く新しい、魔法みたいな最先端技術なんだろう」と、その難解な専門用語の壁の前に思考を停止させるだろう。そして、内容を深く吟味することを諦め、前半に用意された「難病の少年が救われた感動的な美談」だけを脳に流し込み、満足するはずだ。


だが、裏社会の汚泥を掬い続けてきたシホは、情報の構造というものを誰よりも熟知していた。


「わかりにくい言葉を使うのは、本質を隠したいからだ」


これは意図的な情報の不透明化だ。


感動的な美談という名の、甘く美しいオブラート。その奥に隠された、技術説明セクションの、血の通っていない異様なまでの冷たさ。


特に、「魔術」という、現代の合理主義・科学体系とは完全に対極に位置する非合理な単語を、あえてこの公式な文書の核心に配置している点。


これは、読者の思考をあえて混乱させ、技術の核心に近づかせないためのカモフラージュではないか。あるいは――その技術の「出所」や「原理」があまりにもおぞましく、既存の科学の枠組みでは絶対に説明がつかない、あるいは説明してはならない不都合な「何か」だからこそ、あえて『魔術』などという荒唐無稽な言葉で偽装し、煙に巻こうとしているのではないか?


「……これ、美談なんかじゃない。世界を騙すための、巨大なペテンだわ」


彼女の肋骨の奥で、心臓が爆発的な速度で脈打ち始める。


もし、この「奇跡の治療」の裏側に、公にされれば人道に対する罪で世界中から糾弾されるような、おぞましい非人道的な人体実験や、あるいは世界の物理法則そのものを根底からひっくり返してしまうような、説明不能の「異質なナニカ」が隠されているとしたら。


そして、それを世界中の大手のマスメディアが、上層部からの圧力か、あるいは自らの怠惰によって、ただの「感動のニュース」として鵜呑みにして垂れ流し、誰もその裏を疑おうとしないのだとしたら。


「これは――私が、この手で暴くべきネタよ」


単なるアイドルの裏アカウントの特定や、売れない芸人のパチンコ通いの尾行とは、次元が、世界が違う。


退屈で窒息しそうだった日常を、この安っぽい編集部の薄汚い壁を、そして自分自身の人生にべったりと張り付いていた「三流記者」という屈辱的なレッテルを、根底から粉砕し、木っ端微塵にするだけの質量を持った、本物の爆薬。


世界中がまだ誰も気づいていない、巨大な、あまりにも巨大な陰謀の尻尾。


シホは、全身から湧き上がる激しい高揚感と武者震いを抑えることができず、無意識に小刻みに震える指先で、液晶画面の検索窓にカーソルを合わせた。彼女の記者としての本能、あるいは自らの平穏な現状を徹底的に破壊したいという凶暴な衝動が、脳髄の奥で狂ったようにサイレンを鳴らし続けていた。


________________________________________


Ⅳ. カテゴリ・ネクサス:侵食される現実


シホは、その脳裏に焼き付いた禁忌の単語の数々を、狂ったようにキーボードで検索窓に叩き込んだ。


『魔術陣式 テロス・ギア ノア・メディカル 不整合性』


画面の検索ボタンをクリックし、エンターキーを強く叩いた、その刹那。


「――っ!?」


世界が、唐突にその色を変えた。


彼女のデスクに置かれていた、ノイズ塗れのデュアルモニターが、まるで致命的な電圧負荷を受けたかのように、狂ったように激しく明滅を開始したのだ。


「ジジ、ジジジジジジ……ッ!!」


という、スピーカーからではなく、空間の壁そのものが軋んでいるかのような、物理的にあり得ない金属的な怪ノイズが室内に充満する。それは鼓膜を通り越し、シホの耳の奥の神経を、冷たいナイフで直接抉るような、不快極まりない超高周波となって脳内を駆け巡った。


シホは驚愕し、思わず椅子を引きながら周囲の様子を窺った。だが、異様なことに、締め切り前の作業に没頭しているはずの他の編集部員たちや、大声を上げていた編集長は、誰一人としてこの異常事態に気づいている様子がなかった。彼らは死んだ目で、ただ淡々と自分の画面に向かい、キーボードを叩き続けている。


世界の時間が止まったわけではない。ただ、彼女のデスクの周囲、わずか数メートルの空間だけが、既存の物理法則から完全に切り離され、異質な静寂と狂気的なノイズが混ざり合った「特異点」と化していた。


モニターの画面が、見たこともない青白く発光する、複雑極まりない幾何学模様によって、上から塗り潰されていく。


それは、最先端の集積回路の設計図のようでありながら、同時に、数千年前の古代の呪われた遺跡から掘り起こされた、禁忌の碑文のようでもあった。複雑に、そして緻密に絡み合う幾何学的な線と円。それらの紋様が、まるで有機的な生命としての明確な意思を持っているかのように、液晶の液体の中でうねり、増殖し、光の触手となってシホの視神経を内側から侵食していく。


「な、なんなのよ、これ……新型のコンピュータウイルス!? でも、こんな挙動、OSのシステムコードレベルじゃ絶対に不可能なはず……!」


彼女は必死にマウスを動かし、キーボードのコントロールキーを連打したが、端末は一切の入力を受け付けない。完全にシステムを乗っ取られていた。


やがて、画面上に開かれていたブラウザや作業用のウィンドウが、目に見えない巨大な力で押し潰されるように、次々と強制終了していった。


光を失い、真っ黒に変色したスクリーンの中心に、人間の新鮮な血液を想起させる、禍々しいまでの鮮烈な赤い文字が、静かに浮かび上がる。


________________________________________


•【WARNING : UNAUTHORIZED ACCESS DETECTED】


警告:非認可の端末による、最機密領域へのアクセス権限を検知。


対象プロトコルを検閲・隔離対象カテゴリ・ネクサスに設定。


外部への情報漏洩および因果の汚染を阻止するため、当該端末の物理接続を即時隔離します。


________________________________________


「隔離……? 一体、誰が――」


彼女がその言葉を完全に発し終えるよりも、時間は許されなかった。


直後、――パーン!!


という、銃撃か破裂弁が弾けたかのような、乾いた鋭い破裂音が激しく鳴り響くと同時に、編集部内のすべての電源が完全に落ちた。


寿命の近かった蛍光灯の不快なチカチカとした光も、PCの背面から吐き出されていたファンの回転音も、遠くのデスクで聞こえていた同僚たちの下俗な雑談の声も。


そのすべてが、世界の境界線を引くように、一瞬にして完全に消失した。


完全なる、不気味な静寂。


そして、一寸先も見えない完全な暗闇。


今はまだ、うららかな春の、うら寂しい午後のはずだった。それなのに、この編集部の室内だけが、まるで世界の終わり、極北の墓所のような、肌を刺す圧倒的な冷気に包まれていく。吐き出す息が、うっすらと白くなるのが暗闇の中でも分かった。


シホは暗闇の底で、椅子に深く腰掛けたまま、自分の胸の内で早鐘のように狂った金属音を立てて打つ心臓の鼓動と、激しく荒い呼吸の音だけを聞いていた。


掌には、じっとりと冷たい、嫌な脂汗が滲んでいる。恐怖が、彼女の細い背中を這い上がっていた。


だが、その圧倒的な恐怖の裏側で、彼女の魂のコアは、これまでの人生で一度も味わったことのないような、狂気的な歓喜と興奮によって激しく震えていた。


暗闇の中で、彼女の唇の端が、自然と釣り上がる。


「……あはは、やっぱりね。やっぱり、私の勘は正しかったんだわ」


彼女は確信した。


自分が今、凡庸な人間が一生かかっても触れることのない、この世界の裏側に隠された「絶対のタブー」の、剥き出しの赤い神経に直接触れたのだということを。


ノア・メディカルが世界に向けて声高に謳う「人類の希望、奇跡の美談」の正体。


それは、死にゆく哀れな少年を救うための、人道的な慈悲などでは決してない。


もっと禍々しく、もっと途方もなく巨大な、人類という種のOS、その進化のロードマップを根底から強引に書き換えるための、神の領域に手を出す大規模な「実験」なのだ。


そして、その実験の秘密を守るために、彼らは「科学」という表向きの枠組みをあっさりと投げ捨て、現代の法では裁けない、異質で圧倒的な力を現実に行使している。


「面白いじゃない。受けて立つわよ、三流記者なりにね」


完全な暗闇の中で、シホの瞳だけが、獲物を狙う肉食獣のように爛々と輝いていた。


彼女を窒息させ、退屈の極みへと追い込んでいた日常は、今、この瞬間に完全に崩壊し、消滅した。


彼女は静かに席を立ち、暗闇の中に目が慣れるのを待って、最低限の取材機材とパスポートだけをカバンに詰め込んだ。


もはや、編集長への退職願の手続きも、身の回りの荷物の片付けも、すべてが時間の無駄だった。


彼女の目的は、巨大な悪を挫いて世界を救う、正義のヒーローになることなどではない。


そんな高尚な理念は持っていない。彼女の行動原理は、あくまで「最高の、世界をひっくり返すゴシップネタ」をこの手でハントすること。


「誰も知らない真実」という名の、劇薬であり猛毒。それを使って、停滞しきったこの退屈な世界を、そして何より、三流として燻っていた自分自身という存在を、徹底的に揺さぶって、書き換えてやることだ。


シホはビルの非常階段を駆け下り、夜の帳が下りるのを待たずに、羽田空港へと向かうタクシーを拾った。


行き先は、アメリカ。


世界中を欺く奇跡の少年、リクト・タチバナが待つ、魔術と科学、光と闇が複雑に交差する迷宮の最深部。


彼女の全人生とジャーナリストとしてのキャリア、そのすべてを賭けた、人類史上最大の「スクープ・ハント」の幕が、今、ここに切って落とされた。



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