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『ブレイク・ネクサス』改訂版  作者: 嵗(sai)
第一部 フェイク・ファクター

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第十二章:凍てつく知性と、選択の重み

12.1. 絶望の報告と、合理的な結論


Ⅰ. 鉛の沈黙と青白い残像


ネバダの砂漠を切り裂いて進む移動指揮車コマンドポストの内部は、外界の熱狂的な陽光を完全に遮断していた。


厚い装甲板と何重もの電磁シールドに守られた空間を支配しているのは、窓のない潜水艦のような、逃げ場のない圧迫感だ。天井の埋め込み式蛍光灯が発する青白い光は、空気中に漂う微細な塵を照らし出し、そこに集う者たちの顔を死人のように青ざめさせていた。


「……もう一度、今のデータを再生してくれ」


千姫の声が、ハミングを続けるサーバーの排熱音を切り裂いた。


彼女は大型のタクティカル・コンソールの前に座り、肘をついて組んだ手の上に顎を乗せていた。その姿勢は、美貌の女性というよりは、最前線で数多の死線を超えてきた老練な指揮官のそれだ。


彼女の瞳の奥には、先ほどまで行われていたCIA長官との、汚泥を啜り合うような交渉の残滓が焼き付いている。権力者特有の傲慢さと、それ以上に濃厚な「未知への恐怖」。


朱雀が操作するキーボードの打鍵音が、乾いた銃声のように室内に響く。


「了解。……対象個体『アビス・ラ』、戦闘フェーズ・デルタの記録を再展開します」


朱雀の声には、感情という名の潤滑油が一切含まれていない。彼が口にした「分子レベルの凍結と崩壊」というフレーズは、もはや単なる物理現象の報告ではなかった。それは、人類が数世紀をかけて積み上げてきた科学という名の防壁が、紙細工のように無力であることを突きつける、事実上の敗北宣言だった。


Ⅱ. 絶望のスペック:黒き竜の具現


「アビス・ラの外形的特徴および、推定運動能力の再定義を行います」


メインモニターに、激しいノイズとデジタル・アーティファクト(画像の乱れ)を伴った映像が映し出された。米軍の最新鋭無人偵察機が、その命を賭して、あるいは消滅する直前に送り届けてきた、呪われた記録だ。


「体長15メートル。四足歩行時の体高は4メートルに達し、推定体重は約3.8トン。しかし、この巨体は物理法則を無視した機動を見せます。二足歩行への移行および、その状態での走行速度は時速80キロメートルを超測。地形の起伏を考慮すれば、既存の装甲車両で振り切ることは不可能です」


ディスプレイには、高解像度のサーモグラフィ映像がオーバーレイされる。


映像の中の「それ」は、古来より人類が畏怖し、神話に刻んできた「竜」のシルエットをしていた。だが、それは恐竜のような爬虫類的な存在ではない。全身を覆うのは、光を吸い込むほどに深い漆黒の短い体毛。それは闇そのものを纏っているかのようだ。


「体組織の密度は、既知の脊椎動物のそれを遥かに凌駕しています。攻撃手段は主に牙、前足の爪、そして重戦車の装甲をも一撃でひしゃげさせる太い尾。……ですが、それらはあくまで『物理的な副次手段』に過ぎません」


朱雀が画面をフリーズさせた。


映像の中で、アビス・ラが黒豹のようなしなやかさで、砂塵を蹴り上げて跳躍する。その動きには、一切の迷いも、生物特有の「無駄な反射」も存在しない。それは、死という結果を導き出すために最適化された、純粋な破壊のベクトルだった。


「最大の問題は、これです」


朱雀が次のクリップを再生した。


米軍の特殊部隊が放った、12.7ミリ対物ライフル弾。マッハを越える速度で飛来する鋼鉄の塊が、アビス・ラの眉間に着弾する――そのはずだった。


だが、弾丸は対象の皮膚に触れる数センチ手前で、唐突にその運動エネルギーを奪われた。


モニター上の温度検知アラートが、一瞬で「絶対零度」に近い数値を叩き出す。


弾丸は真っ白に凍りつき、まるで時間が止まったかのように空中に静止した後、目に見えない巨大な力で押し潰されたかのように、粉々の「塵」となって霧散した。


「分子レベルの凍結、および結合力の完全な崩壊。ターゲットに接触する前に、物質を構成する原子間の相互作用を凍結し、その構造を根本から破壊しています。従来の熱力学や、極低温物理学では説明がつきません。……これは兵器ではありません。周囲の『物理法則そのものを書き換える事象』です」


指揮車内の全員が、呼吸を忘れた。


極低温のエネルギーが、物理的な接触を介さずに物質を粉砕する。それは、剣を持った相手に対し、剣を振るう前にその存在理由を否定するようなものだ。


Ⅲ. 冷徹な知性:秋吉博子の戦慄


沈黙を破ったのは、秋吉博子の震える声だった。


彼女の手元にある端末には、アビス・ラの行動ログをAIで多角的に解析したグラフが表示されている。


「……朱雀さんの報告を補足します。この個体が恐ろしいのは、その物理的強度だけではありません。その『知性』です」


博子が画面を切り替えると、アビス・ラが軍の隊列を蹂躙する様子が、上空からの赤外線映像で映し出された。


「アビス・ラの攻撃パターンを解析した結果、興味深い――いえ、戦慄すべき事実が判明しました。攻撃は決して無差別な破壊ではありません。ご覧ください。最初に潰されているのは、装甲が最も薄い燃料タンクや弾薬庫ではありません。……各車両の『通信アンテナ』と『指揮官用ハッチ』です」


映像の中で、アビス・ラが尾を一閃させる。それだけで、数百メートル離れた位置にいた指揮車両の通信機能が沈黙した。


「敵の指揮系統をまず断絶させ、組織的な反撃を不可能にする。これは本能による狩りではなく、高度に訓練された特殊部隊が行う『制圧戦術』そのものです。さらに、エネルギーの出力も異常なまでに効率化されています。装甲車を破壊する際、その余波で隣接する民間建造物が倒壊しないよう、衝撃波の指向性を制御している形跡があります」


「……慈悲だとでも言うのか?」


千姫が、低く、押し殺した声で問うた。


博子は首を振った。


「いいえ。……単なる『効率』です。無駄な破壊にリソースを割かない。標的を仕留めるために必要な最小限の出力で、最大限の効果を得る。それは、慈悲ではなく、冷徹な計算に基づく『節約』です。……この個体は、戦場における最適解を、我々人間よりも速く導き出しています」


Ⅳ. 千姫の再定義:鍵としてのリクト


千姫は、静かにモニターを見つめていた。


その瞳は、もはや美しい女性のそれではない。数万の兵士の命と、国家の命運を冷徹な数式として処理する、鋼鉄のプロセッサと化していた。


(……あらゆる防御を否定し、効率化された究極の破壊者。物理的な壁も、距離も、火力の集中も、あの『凍結』の前には無意味だ。我々の現在の装備、そしてCIAの核兵器ですら、あの事象を突破できる確証はない)


彼女の脳内で、無数のシミュレーションが走る。


千姫の中に宿る「男」の意識が、生存のための最短経路を指し示した。


「……これは、ただの巨大な生物兵器ではないな」


千姫が口を開いた。その言葉は、指揮車内の重苦しい空気を固定し、唯一絶対の指針として定着させた。


「それは、既存のあらゆる軍事力を過去のものにする『絶対脅威アブソリュート・スレット』だ。正攻法での無力化は、宝くじを当てるよりも確率が低い」


彼女はゆっくりと視線を上げ、モニターに映るリクトの静止画を見据えた。


「結論を下す。……アビス・ラは『完全体』へと至った。これより、我々の最優先目標を『リクトの保護』、および『リクトを用いたアビス・ラの無力化』へと最終決定する」


その言葉が持つ残酷な意味に、博子が顔を上げた。


「千姫さん……! それは、リクト君をあの化け物の前に差し出すということですか!? 彼はまだ子供です! 保護すべき対象なんです!」


千姫は、博子の叫びを氷のような視線で遮った。


そこに、かつて見せたかもしれない女性的な優しさは一欠片も残っていなかった。


「博子。言葉の定義を履き違えるな」


千姫の声は、まるで石板に刻まれた文字のように重く、そして拒絶を許さなかった。


「彼が『保護すべき対象』であるのは、彼がこの事態を解決する『鍵』であるからだ。鍵は、扉を開けるために使われてこそ価値がある。国家の存亡と、未成年者一人の幸福……俺の天秤には、それらを比較するメモリすら存在しない」


千姫の脳内において、リクトという少年は、もはや守るべき人格を持った個人ではなくなっていた。


それは、絶対的な脅威に対抗し得る、人類側が持つ唯一の「カウンター兵器」。


千姫の論理回路は、少年の未来という不確定要素を切り捨て、世界の存続という確定利得を選択した。


「朱雀、リクトの現在地を特定しろ。シホを動かせ。これより、本格的な『回収アセット・リカバリー』に移行する。……異論は認めん」


指揮車内の空気は、さらに冷たく、鋭利に研ぎ澄まされていった。


それが、千姫という「凍てついた知性」が下した、最も合理的で、最も非情な選択だった。


________________________________________


12.2. 駆け引きと、情報開示


Ⅰ. 電子回路の上の膠着状態


移動指揮車内の空気は、微かなオゾンの臭いと、高性能サーバーが発する排熱によって、奇妙な乾燥を帯びていた。


大型モニターに映し出されているのは、ワシントンD.C.の深奥――CIA本部から暗号化通信を介して繋がっている、現在の諜報界の頂点に立つ男の顔だ。長官の額には、隠しきれない疲労と、それ以上に濃厚な「焦燥」が刻まれている。


千姫は、コンソールの前に不遜な態度で座っていた。彼女の肉体はしなやかな女性のそれだが、その内側に宿る「精神(脳)」は、幾多の修羅場を冷静な等式で解いてきた男のものだ。彼女にとって、この通信は単なる対話ではない。主導権という名の急所を奪い合う、極めて神経質な「盤上遊戯ゲーム」だった。


「……もう一度言え。自己進化だと?」


長官の声が、スピーカーを通じて低く響いた。そこには、信じがたい怪異に対する拒絶反応が混じっている。


「その通りだ。アビス・ラという個体は、外部からの物理的干渉を、自身の生存最適化のための『教師データ』として取り込む。攻撃をすればするほど、その防護機能と殺傷能力は指数関数的に向上していく。今の貴様らの軍事行動は、化け物に栄養を与えているのと同義だ」


千姫の声は平坦で、慈悲など微塵も感じさせない。


「だからこそ、これ以上の直接的な軍事衝突は、戦術的に見て最下等の愚策だ。兵を下げろ。一刻も早くだ。これ以上、あの怪物を『育てる』つもりか?」


画面越しの長官の顔が、目に見えて険しくなった。アメリカ合衆国という超大国のメンツ、そして最新鋭の戦力を投入しながら無惨に敗北したという事実。その責任が自分に回ってくることを、この政治家は死ぬほど恐れている。


「兵を下げろだと? バカなことを言うな。あの怪物を野放しにして、この国が、大統領が納得するとでも思っているのか? それで、我々にどうしろと言うのだ!」


「喚くな。耳に響く」


千姫は冷たく言い放った。女性的な柔和さを一切排除した、低く凄みのある声だ。


「軍にやらせることは山ほどある。アビス・ラの動向を衛星と地上センサーで24時間監視し続けろ。そして、奴を人里離れた荒野へと誘導する。街や都市へ一歩でも近づかせるな。軍事力は、破壊するためではなく、巨大な『牧羊犬』として使え。……理解できたか?」


Ⅱ. 前座の終わりと、本質への切り込み


ここまでは、単なる状況整理に過ぎない。


千姫は、長官が反論の言葉を探す隙を与えず、一気に次の手を打ち込んだ。チェスで言えば、相手のキングを盤の隅へと追い詰める、容赦のない「チェック」の連続だ。


「次に、以下の四点を即座に実行しろ」


千姫はコンソールを叩き、箇条書きのリストをCIAの端末へ転送した。


「第一に、中立的な科学財団への全情報開示とアビス・ラの解析依頼だ。貴様らが独占しようとして失敗したツケを、世界の英知に払わせろ。


第二に、これが重要だ。『プロメテウス財団』および『ネオ・メディカル』への強行捜査、並びに関連資産の完全凍結。……リクトを産み出し、アビス・ラという災厄を解き放った元凶は、アメリカ国内の巨大資本だろう?」


長官が息を呑む音が聞こえた。


「……貴様、正気か? それらの財団が、どれほど政界に根を張っているか分かっているのか。強行捜査など、宣戦布告に等しい!」


「なら、第三点目だ」


千姫は長官の狼狽を歯牙にもかけず、畳みかける。


「メディアへの徹底した圧力。SNSの検閲、情報漏洩のブロック、デマや誤報を用いたカモフラージュ対策だ。アビス・ラの存在を『環境異変』や『テロ事案』として矮小化し続けろ。パニックは、アビス・ラの『進化』よりも厄介な変数になる」


千姫が要求したのは、アビス・ラという物理的脅威の追跡と同時に、その根源である社会構造、経済的元凶を叩き潰すことだった。他国の、それも同盟国の情報機関が、アメリカ国内の巨大財団――政権のパトロンですらある組織――への強行捜査を要求する。


これは外交的な常識を逸脱した、極めて危険な賭けだった。


「待て……待て、まてまて! 要求が過激すぎる! 私の一存で動かせる範囲を超えている!」


「それとも、俺たち日本側で解析しても構わないぞ?」


千姫は、唇の端をわずかに吊り上げた。


「開発元への捜査についても、こちらが国際法を盾に踏み込んでもいい。だが、そうなれば貴様らの『権限』と『隠蔽工作』はすべて灰になる。あなた方アメリカが動かないというのなら、日本が、そして私が、国際的な非難を覚悟の上で世界を敵に回してでも動く。……どちらが貴様のキャリアにとってマシか、その足りない脳みそで計算してみろ」


Ⅲ. 屈服と重い選択


画面の向こうで、長官は沈黙した。


彼が天秤にかけているのは、自国の財団の利益と、目の前の「怪物」がもたらす破滅、そして、目の前の不敵な「女性」が抱える底知れない決意だ。


数分にも感じられる静寂の中、電子機器のファンだけが回り続けていた。


「……分かった」


絞り出すような声だった。


「監視と誘導、科学的解析の委託、そして……特定財団への捜査、メディア対策。この四点について、私は国防長官、および大統領へ進言する。……ただし、結果の保証はできんぞ」


「進言ではない。『実行』させるんだ。貴様の手にある弱み(ネタ)をすべて使え。これはお願いではない。生き残るための必須条件だ」


千姫は、勝利を誇ることもなく淡々と告げた。


「対処方法の細部については、追ってこちらの『朱雀』からデータを共有させる。……よろしくお願いします、長官」


通信を切断する。


モニターが暗転し、指揮車内に、元の静寂――いや、より濃密な疲労を含んだ静寂が戻ってきた。


千姫は、深く椅子に座り込んだ。


張り詰めていた神経が、一気に弛緩し、肉体の奥底から鉛のような疲労が這い出してくる。彼女はテーブルに肘をつき、組んだ手の上に顎を乗せた。そして、何も映っていない空虚なモニターを、虚空を見つめた。


(……これで、賽は投げられた)


この交渉で得たのは、勝利の安堵ではない。


リクトという少年の命、アビス・ラという怪物の進化、そして巨大な国家の利権。それらすべてを一つの盤面に引きずり出し、誰もが後戻りできない道へと突き落としたことに対する、拭い去れない「重み」だった。


千姫の瞳は、女性の瑞々しさを失い、ただ一点の目的を見据える冷徹な石のように、暗く沈んでいた。


________________________________________


12.3. 帰還命令と、疑念の影


Ⅰ. 観測される「静かなる進撃」


移動指揮車コマンドポスト内の空気は、もはや呼吸することさえ苦痛に感じるほどに凝縮されていた。


秋吉博子は、自身の心拍音が耳元でドラムのように鳴り響くのを感じながら、血走った目でメインモニターを見つめ続けていた。指先はキーボードの上で止まることなく、千姫を横目で見やる余裕すら、本来はないはずだった。だが、彼女の意識の数パーセントは、磁石に引き寄せられる砂鉄のように、隣に座る指揮官――千姫へと向けられていた。


ディスプレイに映し出される数値は、現代科学の限界に挑むようなカオスを露呈させている。


アビス・ラの観測データは一秒ごとにその形状、熱量、電磁波放射パターンを変容させていた。その移動ルートは、千姫がCIAに強いた「誘導」に従い、都市部を巧妙に回避しているように見える。


だが、秋吉の解析脳は、別の結論を導き出していた。


(違う……これは軍が誘導しているんじゃない。アビス・ラが、軍を『相手にしていない』だけだ……)


客観的なデータがそれを示していた。アビス・ラの進行速度と、軍の展開速度の相関グラフ。アビス・ラが方向を変える際、そこには軍の威嚇射撃に対する「反応」よりも先に、地形の最適化と目的地への「最短経路の再計算」が見て取れる。それは、不必要な殺生を避ける慈悲ではなく、ただ単に、獲物にもならない存在との接触にエネルギーを割くことを嫌う、冷徹な機械的知性の発露に他ならなかった。


秋吉は、その戦慄すべき事実を報告しようと、千姫に声をかけようとした。


「千姫さん、アビス・ラの移動パターンについてですが、これ、明らかに――」


その言葉が唇から滑り落ちる直前、朱雀が音もなく彼女の視界を遮り、細い指を唇に当てた。


「……やめておけ」


朱雀の囁きは、空気の振動を最小限に抑えた警告だった。彼は無機質な瞳で千姫を見つめていた。その横顔は、かつての温かみを知る者が見れば、他人のそれと見紛うほどに変貌している。


今の千姫は、一人の人間ではない。


女性の柔らかな輪郭を持った肉体という皮を被りながら、その内側では、国家の存亡、数百万の生命維持、戦術的勝利のみを演算する「高度な軍事機能」がフル稼働している。男性の脳、その冷徹な論理回路が、全感覚器官を情報の処理に割り振っている。そこに、秋吉の抱く「不安」や「情緒的な違和感」が入り込む余地は、1ビットたりとも残されていなかった。


Ⅱ. 断絶するホットライン


数分後、あるいは数時間後。時の感覚が麻痺した空間で、千姫が唐突に動いた。


彼女は流れるような動作でインカムを手に取り、調整ダイヤルを回す。その指先に迷いはない。


「シホ、聴こえるか。状況を報告しろ」


千姫の声には、戦場を支配する「王」の響きがあった。女性的な高音は低く抑えられ、命令受領者の脊髄を直撃するような、抗いがたい力(権威)を帯びている。


数秒の沈黙の後、スピーカーから激しい電磁ノイズ――アビス・ラが撒き散らす「凍結する事象」の副産物――を伴って、返答があった。


『……ジッ、はい……。こちらシホ。現在、対象の痕跡を追跡中……リクト君の、反応が……』


シホの声は、肉体の疲労を意志の力で封じ込めた、張り詰めた弦のようだった。彼女はまだ、信じているのだ。リクトという少年を救い出し、自分たちの元へ連れ帰るという、当初の任務を。


「追跡を中断しろ。いったん帰還せよ」


千姫の断言が、ノイズの混じる回線を切り裂いた。


「ポイントE228で合流する。現在の座標から最も効率的な、再構築された帰還ルート(地図)を送った。……直ちに移動を開始しろ」


『……ジッ、え?』


シホの声が、揺らいだ。


それは、任務遂行中に最も排除すべき「感情」の露呈だった。


『……帰還、ですか? でも、リクト君は? まだ、彼の信号は途絶えていません。アビス・ラが近づいている今、ここで手を引けば……!』


「聞こえなかったか。命令だ」


千姫は、組んでいた脚を解き、背筋を伸ばした。その動作一つで、指揮車内の空気圧が一段階上がった。


「リクト君への対応を、根本から見直す。……これは、この作戦のフェーズそのものを移行させるための措置だ。無意味な単独行動で資産シホを浪費することは許されない。戻って来い」


Ⅲ. 「見直し」という名の宣告


『……対応を、見直す……?』


通信の向こう側で、シホが言葉を繰り返した。


その震える声には、鋭いナイフを突きつけられたような、不吉な予感が滲んでいた。


「対応を見直す」――その言葉が、純粋な「保護」を意味しないことなど、現場の最前線にいるシホには痛いほど伝わったはずだ。


リクトを捜索し、救出することよりも、一刻も早いブリーフィング(状況説明)を優先する。それは、リクトという存在が、もはや「助けるべき一人の少年」ではなく、アビス・ラという人類絶滅の引き金に直結する「臨界パーツ」として、戦略上の再定義を受けたことを意味していた。


千姫の脳内において、リクトはすでに「個」を失っていた。


彼は今や、アビス・ラを無力化するための、あるいはその進化を制御するための、高価だが交換可能な「最終兵器のトリガー」に過ぎない。


シホは、その冷酷な真実に直感的に触れたのだろう。


回線から聞こえてくるのは、吹き荒れる砂漠の風の音と、彼女の浅い呼吸音。そして、千姫が下した「最悪の決断」が、音を立てて彼女の希望を砕いていく気配だった。


『……了解しました。……ポイントE228へ、向かいます』


ようやく返ってきた答えは、感情を殺し、ただの「兵士」に戻ろうと足掻く、悲痛なまでの受諾だった。


「待っているぞ。通信を終了する」


千姫はスイッチを切り、インカムをテーブルに放り出した。


彼女は再び椅子に深く腰掛け、両肘をついて、虚空を見つめた。


その瞳は、目的を達成するために手段を選ばない、勝利だけを渇望する「男の魂」の輝きを放っている。


秋吉博子は、その横顔から目を逸らすことができなかった。


今、この指揮車の中で行われているのは、単なる作戦の修正ではない。


一人の少年の運命を、巨大なシステムの犠牲として捧げるための、「人身御供ひとみごくう」の準備。


その静かなる胎動が、アビス・ラの咆哮よりも恐ろしく、秋吉の背筋を凍らせていた。


________________________________________


12.4. 再集結と、沈黙のブリーフィング


Ⅰ. 砂塵と鋼鉄の沈黙


ネバダ州の荒野、地図上の空白地帯に設定されたポイント「E228」。


夜間作戦用のデジタル・カモフラージュが施された大型移動指揮車コマンドポストは、岩陰に潜む巨大な捕食者のように沈黙していた。周囲には、人工的な光を一切漏らさないための遮光カーテンが張られ、空気は微かなディーゼル発電機の振動に震えている。


十数分後、その静寂を切り裂いて、一台のオフロードバイクが滑り込んできた。


西野シホ。


彼女が操るマシンのタイヤは、乾いた砂利を激しく蹴り上げ、指揮車の前で強引な制動をかけた。エンジンが停止すると同時に、シホはバイクを横倒しにする勢いでスタンドを立て、乱暴にヘルメットを脱ぎ捨てた。


彼女の額には、プロテクター越しに滲んだ汗と、焦燥が混じった泥が張り付いている。


シホは荒い呼吸を整える間もなく、重厚なコンテナのハッチへ歩みを進めた。気密扉が開く際の「プシュッ」という排気音が、彼女の焦りを煽る。


「……戻りました」


コンテナ内部の冷気に、シホの声が混じる。


内部は、外部の熱砂とは別世界の凍てついた空間だった。


中央のタクティカル・テーブルでは、白虎と青龍の二人が、アビス・ラが米軍特殊部隊を蹂躙した際の戦闘痕跡をホログラムで再現していた。空中に浮かぶ紅い光の粒子が、ねじ切られた装甲や、分子レベルで崩壊した物質の断片を、無機質に描き出している。


奥では、千姫と朱雀が秋吉博子の背後に立ち、メインディスプレイを凝視していた。


そこには、テロス・ギア――リクトのNCUが発する活動パターンを示す、複雑な波形が脈動している。それはまるで、意思を持った深海魚が発する発光信号のように、理解を拒むリズムで明滅を繰り返していた。


シホの気配を察した千姫が、ゆっくりと振り返った。


その瞳は、冷徹なサファイアのように澄み渡り、感情という不純物を一切排除している。


「……お疲れ様。まずは一息つけ。それで、リクト君は見つかったのか?」


千姫の声は、労いというよりも、進捗状況を確認する「検収」の響きに近かった。


「……いえ。信号の消失地点付近を徹底的に捜索しましたが、痕跡すら……」


シホは拳を握りしめ、視線を落とした。自分の「剣」としての無力さが、彼女を苛んでいた。


Ⅱ. 「怪物」の耳


千姫は、静かに首を振った。


その動作一つに、指揮官としての絶対的な結論が宿っている。


「責めるつもりはない。実のところ、こちらでもリクト君の正確な座標は観測できていないのだ。秋吉が全帯域をスキャンしているが、結果は芳しくない」


千姫は再びモニターへと視線を戻した。


「これは俺の推測だが……彼はアビス・ラと米軍との衝突に、我々よりも早く気づいた可能性がある。朱雀、解析結果を」


朱雀が眼鏡を押し上げ、数値を指し示す。


「……テロス・ギアの通信傍受能力、および暗号解読アルゴリズムの進化速度は、従来のスーパーコンピュータを数世代凌駕しています。リクトは、軍の戦術ネットワークだけでなく、我々のこの暗号回線すら、無意識のうちに『聴いている』可能性がある。彼は、自分に迫る危機を回避するために、自らの意志でネットワークの影に潜り込んだのだ」


シホの瞳が、僅かに見開かれた。


自分が守るべき、あるいは追うべき少年が、すでにこの世界の情報網を支配する「幽霊ゴースト」へと変貌しつつある事実。その進化の速度は、彼女の想像という枠組みを軽々と超え、戦慄すら感じさせていた。


「シホ。お前は現場で、最もリクト君に近い位置にいた。データには現れない、直感的な違和感や、何らかの『残響』を感じなかったか。どんな些細なことでもいい」


千姫の鋭い視線が、シホの意識の奥底を暴こうとする。


だが、シホは苦い表情で首を横に振るしかなかった。


「……いえ。何も、見つけられませんでした」


「……そうか。分かりました」


千姫は短く応じ、全員に向かって顔を上げた。


その瞬間、彼女の中から「一人の人間」としての気配が完全に消えた。


彼女は今、国家の、あるいは人類の生存戦略を執行する「論理回路ロジック・エンジン」として君臨していた。男性の脳を持つその精神が、冷酷なブリーフィングの開始を告げる。


「全員、手を止めろ。ブリーフィングを始める。……現在の状況は、我々の想定を遥かに超えた最悪のフェーズに移行した」


Ⅲ. 沈黙のブリーフィング


千姫は、アビス・ラについて判明した情報を、冒頭から簡潔に、しかし一字一句に血の重みを乗せて挙げていった。


「第一に、分子レベルの凍結と崩壊。これは従来の熱力学を否定する、局所的な物理法則の改竄だ。第二に、戦術的な知性。敵は我々の指揮系統を正確に理解し、最小限のコストで最大限の無力化を狙っている。そして第三に――これが最も致命的だが、自己進化の可能性だ」


千姫は、テーブルを掌で叩いた。重い音が響く。


「……以上のデータから、結論を述べる。これ以上の通常兵器による攻撃は、アビス・ラを破壊するためには寄与しない。むしろ、奴に新たな耐性と進化の教師データを与えるだけの『餌』にしかならない。……これより、アビス・ラへの直接攻撃を厳禁とする」


室内を、重苦しい沈黙が支配した。


それは、人類が持ちうる「暴力」という手段を封じられたことへの敗北感だった。


「何か、付け加えることはあるか。朱雀、秋吉」


「……ありません。千姫の結論に、科学的見地からも同意します」


朱雀が、消え入りそうな声で応じた。


「で、これからのプランだが」


千姫は、腕を組み、冷徹な視線をシホへと向けた。


「CIAには、アビス・ラの持続的な観測と、都市部への接近を阻止するための『誘導』を依頼した。並行して、開発元である各財団への強行捜査、および周辺地域の秘密裏の避難を強いている。これは、奴の『進化の芽』を摘み、時間を稼ぐための布石だ」


その言葉を聞いた瞬間、シホは、千姫がすでに「次の、そして最終的な決断」を下していることを理解した。


千姫の瞳の奥にある、一切の迷いを排した光。それは、一人の少年の幸福を、世界の均衡のために捧げ物にする、祭司の目だった。


「我々はCIAが泥を啜っている間に……リクト君を追跡し、確保する」


シホは反射的に問い返した。


「……リクト君を? 確保して、どうするつもりですか」


千姫の唇が、冷酷な弧を描いた。


「決まっている。リクト君と『コミュニケーション』を取るんだ。そして、彼の能力――アビス・ラの根源を書き換え、あるいは相殺し得る唯一の力を、こちらの制御下に置く。端的に言えば、彼にアビス・ラ対処への『協力』を依頼する」


「……協力、ですか」


シホの言葉には、不吉な予感が滲んでいた。


千姫の言う「協力」とは、対等な立場の話し合いなどではない。


それは、暴走寸前の少年を最終兵器として戦場の中心へ放り込み、敵と共に焼き尽くすための、最も合理的な「運用」の言い換えに過ぎない。


千姫の論理回路において、リクトという人格はすでに「弾薬」の一種へと再定義されていた。


その非情な結論を、シホは沈黙の中で受け止めるしかなかった。


________________________________________


12.5. 天秤にかける命:倫理と合理性の衝突


Ⅰ. 凍てつく提案


移動指揮車コマンドポストのコンテナ内を支配していたのは、もはや静寂ですらなかった。それは、物理的な質量を伴った「拒絶」の気配だった。


千姫が放った「リクトへの協力依頼」という言葉は、爆縮現象のように周囲の空気を吸い込み、次の瞬間、西野シホの心の中で激しい衝撃波となって弾けた。


シホの顔から、一気に血の気が引いていく。あまりの衝撃に、彼女の視界が僅かに歪んだ。


「……リクト君に、協力、依頼……?」


シホの声は、掠れていた。自分の鼓膜に届いた言葉の意味を、脳が拒絶している。


「そうだ」


千姫は、微動だにせず答えた。その声には、一糸の乱れもない。


「そして、そのリクト君との直接的なコンタクト――交渉と誘導の役目を、シホ、お前に頼みたい」


千姫の言葉は、洗練された外科手術用のメスのように鋭利で、一切の躊躇なくシホの最も柔らかな核心を切り裂いた。そこに「お願い」というニュアンスは存在しない。あるのは、最適解を導き出した機械が吐き出す、冷酷な実行命令のみだ。


「協力って、具体的に何をさせるつもりですか!


まさか、リクト君を……あのアビス・ラという『絶望』の前に立たせ、戦わせるというのですか!?」


シホは一歩、千姫へと詰め寄った。拳を握りしめ、爪が掌に食い込む。


千姫は、目を逸らさなかった。彼女の瞳には、揺るぎない、そして背筋が凍るほどに純粋な「合理性」だけが宿っている。女性の美しい虹彩の奥で、戦場を知り尽くした男の魂が、冷徹に戦況を分析し続けていた。


「シホ、お前もこの目で見たはずだ。通常兵器による物理攻撃を『進化の糧』に変え、あらゆる防護を分子レベルで無効化するアビス・ラ。奴に対抗し得る唯一の特異点は、同じ根源を持つリクト君――テロス・ギアだけだ。それが、現時点での観測データから導き出される、唯一の数学的真実だ」


「真実だなんて……そんな言葉で片付けないでください!」


シホの中で、何かが音を立てて崩れ落ちた。彼女がリクトという孤独な少年に対して密かに抱いていた「同情」、そして姉のような「保護」の感情は、千姫が掲げる「国益」と「生存」という名の巨大な歯車によって、木端微塵に粉砕されようとしていた。


Ⅱ. 泥に塗れた希望の叫び


「待ってください! 忘れたんですか!? 彼は、リクト君はただの少年なんですよ! 難病に侵され、自由を奪われ、それでも病気が完治できるという一筋の希望にズリついて、この国に渡ってきた。なのに、待っていたのは救済どころか、人間を部品として扱う忌まわしい人体実験だった!


追い回され、怯え、今は砂漠の真ん中で、たった一人で絶望している……。そんな彼を、今度は化け物退治の生贄にしろと言うのですか!?」


シホの感情が、火山のように爆発した。


彼女の声は怒りに震え、瞳には行き場のない悲しみの涙が溜まっていた。それは、プロの工作員としては失格の姿だったかもしれない。だが、そこには剥き出しの「人間」がいた。


「シホ。感情的になるな」


千姫の声は、なおも冷淡だった。


「個人の悲劇に浸る時間は、今の我々には1マイクロ秒も残されていない。君の心情は論理的には理解できるが、今は客観的な視点を取り戻してほしい。主観は、判断を狂わせる毒だ」


「分かりません!」


「分かりたくもありません!」


シホの叫びが、狭いコンテナ内に反響する。


「彼は、まだ未成年ですよ?


天涯孤独の孤児で、親の愛情さえ知らず、人生のほとんどを病院の白い天井を見上げて過ごしてきたんです! やっと手にしたはずの希望が地獄に変わって、それでも必死に生きようとしている彼に、これ以上の地獄を背負わせる権利が誰にあるんですか!?


千姫さんの言う『国益』なんて、彼の『人間』としての尊厳よりも重いんですか!? 彼を……彼を、使い捨ての『兵器』になんかさせない!」


シホの訴えは、あまりにも純粋で、人間的で、そして道徳的に「正しかった」。


しかし、その眩いばかりの「正しさ」は、今この瞬間もネバダの地平を蹂躙し、世界の物理法則を塗り替えようとしている「絶対脅威」の前では、あまりにも脆く、無力な理想論に過ぎなかった。


Ⅲ. 鋼鉄の衝突と、流血の沈黙


千姫の眉間が、初めて僅かに動いた。


彼女は、突発的に立ち上がった。その動作は、洗練された獣のような瞬発力を伴っていた。


そして、彼女は背後の鋼鉄製の壁に、力任せに拳を叩きつけた。


(ガンッ!!)


鼓膜を突き刺すような、乾いた、重い衝撃音がコンテナ内に響き渡った。


高性能ディスプレイが並ぶデスクの前で、秋吉博子が肩を跳ねさせて飛び上がり、朱雀もまた、無機質な表情を強張らせた。


壁に刻まれたのは、拳の形をした微かな窪み。


そして、その表面には、千姫の拳から弾け飛んだ鮮血が、紅い点描となって薄く残された。女性の柔らかな皮膚は裂け、そこから流れる血は、男としての意志の熱を帯びて、鉄の壁を静かに滑り落ちていく。


「…………では、どうしろと言うんだ!」


千姫は壁に拳を押し当てたまま、背中を向けた状態で、絞り出すように吠えた。


その声は、もはや指揮官の平坦なトーンを維持できていなかった。


「分かっている……! 奴が受けた屈辱も、理不尽な境遇も! 救われるべき一人の子供であることも! 俺の脳は、その情報をすべて記憶し、処理している! 誰よりも、分かっているんだ!」


「(……ふーっ)」


千姫は、深く、長く、肺の中の空気をすべて吐き出すように息を吐いた。


彼女はゆっくりと振り返る。その顔は、内側から引き裂かれるような、形容しがたい苦痛に歪んでいた。だが、彼女の瞳の奥にある「使命」という名の悪魔は、一歩も退こうとはしなかった。


「だが、シホ。……あえて言わざるを得ない。俺も、こんな言い方は卑怯で反吐が出るほど嫌いだが……それでも、言わなければならないんだ」


千姫の口から漏れ出たのは、この地上で最も残酷な、そして最も論理的な呪文だった。


「『一人の人間の尊厳と、数億人の人間の生存を、天秤にかける』」


その言葉が放たれた瞬間、室内の温度がさらに数度下がったような錯覚に陥った。


沈黙が、重く、深く、泥のように流れる。


その沈黙は、そこにいる全員に突きつけていた。自分たちが今、どれほど高い倫理的な崖っぷちに立たされているのかを。そして、その崖から突き落とされるのが、自分たちではなく、砂漠を彷徨う一人の少年であるという事実を。


千姫の裂けた拳から、最後の一滴が床に落ちた。


それは、彼女の中に残っていた、人間としての最後の「甘さ」が、合理性の前に敗北したあかしのようでもあった。


________________________________________


12.6. 「勝ちの目」:朱雀の合理的介入


Ⅰ. 凍結した時間の解凍


コンテナ内部の空気は、千姫が壁を殴りつけた衝撃音の残響を抱えたまま、絶対零度に近い沈黙に支配されていた。


壁に残った千姫の血は、酸化して赤黒い光を放ち、シホの目にはそれが「一人の少年の未来を切り裂く断頭台」の象徴のように映っていた。千姫の背中は激しく上下し、その肉体に宿る男性的な精神が、抑えきれない憤怒と使命感の間で激しく火花を散らしている。


この、神ですら沈黙するような究極の二択を前に、一人の男が静かに口を開いた。


朱雀だ。


彼は、困ったように眉根を寄せ、しかしその瞳には一切の迷いを感じさせない温度で、絶望の盤面を「再定義」し始めた。それは千姫の爆発した感情を冷却し、シホの血を吐くような訴えを、冷徹な分析によって一要素へと分解していく、外科手術に近い介入だった。


「……シホ、まずは肺の空気をすべて入れ替えてください。過呼吸は判断力を奪う。私も、リクト君の置かれた境遇には、一人の人間として、あるいは科学徒として、深い同情を禁じ得ません」


朱雀の声は、奇妙なほどに平坦で、それゆえに逆説的な説得力を帯びていた。彼は、コンソールの操作パネルを叩き、空中に新たなホログラムを展開した。


「ですが、状況を整理しましょう。シホ、あなたが案じているリクト君は、もはや我々が『保護』という言葉で囲い込めるほど、脆い存在ではない。テロス・ギアの進化――我々が『適正化』と呼ぶ現象は、単なる筋肉組織の強化や反射神経の向上という、生物学的範疇を既に踏み越えています」


朱雀が指し示した波形。それは、テロス・ギアが周囲の電磁空間と共鳴し、目に見えない触手を伸ばしているかのような、複雑怪奇なパターンを描いていた。


Ⅱ. 「適正化」の真実と16倍の視界


「見てください。これはリクト君の脳波と、ネバダ州周辺の軍事・商用ネットワークのトラフィックが完全に同期した瞬間の記録です。彼は今、自身の意志、あるいは生存本能に従い、全地球規模の電脳ネットワークへの『直接アクセス』を獲得し始めています」


シホの息が止まった。


「……直接アクセス? 通信を、傍受しているだけじゃないの?」


「傍受などという、受動的なレベルではありません」


朱雀の眼鏡の奥で、数値の羅列が激しく明滅する。


「彼は、世界中の光ファイバーや衛星通信を、自身のニューロンの延長として利用している。世界中の監視カメラ、軍事衛星の生データ、そして深層ウェブに眠る機密情報……それらをリアルタイムで吸い上げ、テロス・ギアによる『適正化』された処理能力で再構築している。……いいですか、シホ。今の彼は、全人類の叡智を、呼吸するように手に入れている」


朱雀は、さらにホログラムの数値を拡大した。


「テロス・ギアによって強化された感覚、すなわち『センシング力』は常人の16倍。さらに、並列処理による『思考速度』は6倍に達しています。この圧倒的な情報量と演算力によって、彼は今、世界を我々とは全く違う解像度で視ているはずだ。……そしてその能力は、戦闘において驚異的な『分析力』と『判断力』に直結する。通常の人間を基準とした4倍の運動能力を、この6倍の思考速度が制御したとき――彼はアビス・ラという『物理法則のバグ』に対しても、理論上の『最適解』を自力で導き出すことができる」


朱雀の論理は、シホの感情を否定したわけではなかった。


むしろ、リクトを「守られるべき弱者」という檻から解き放ち、自らの意志で戦場を選択し、生き抜く力を持った「超越者」として、再定義したのだ。


「彼は兵器ではない。しかし、もはや無力な子供でもない。……リクト君という一人の個人が、アビス・ラという脅威に対し、『自らどう行動すべきか』を判断できる唯一の知性である可能性を、私は示唆しているのです」


朱雀の視線が、初めて千姫に向けられた。


「そして我々玄武の全リソース――補給、白虎の物理支援、青龍の隠密・戦闘技術、私の戦略構築、そして……千姫、あなたの冷徹な決断。これらすべてをリクト君という一点に集中し、彼を全力でサポートすることで初めて、この絶望的な博打の中に、数パーセントの”勝ちの目”を拾える可能性が生まれるのです」


Ⅲ. 壁からの帰還:千姫の再定義


朱雀の言葉が、指揮車内の重苦しい沈黙を物理的に切り裂いた。


千姫は、壁に押し当てていた拳をゆっくりと離した。裂けた拳の痛みなど、彼女の脳内では既に無視すべきノイズとして処理されていた。


彼女が振り返ったとき、その瞳はまだ充血し、血走っていたが、そこには「迷い」という名の贅肉は削ぎ落とされていた。あるのは、数億の命を背負う指揮官としての、鋼鉄の覚悟だ。


「……シホ。俺は、リクトに直接アビス・ラと対峙し、刺し違えろとは言わない。そんな特攻紛いの真似をさせるために、これまで資産を注ぎ込んできたわけじゃないからな」


千姫の声は、再び低く、そして男としての凄みを帯びていた。


「朱雀の言う通りだ。リクトという個人の境遇には、俺も同情する。だが、同情で世界は救えない。今、この星で彼にしかできないことがあり、彼にしか見えていない『出口』がある。それを彼に伝えてほしい。……命令ではなく、一つの『現実』としてだ」


シホは、唇を血が滲むほどに強く結び、思考を巡らせた。


人間としての尊厳。人類の生存。


二つの巨大な磁場の間で、彼女の心は引き裂かれ、悲鳴を上げていた。だが、朱雀が示した「リクトの進化」という事実は、彼女の中の「守らなければならない」という傲慢な庇護欲を、静かに打ち砕いていった。


そこに、今までデータと格闘していた秋吉博子が、椅子を回して静かに、しかしこれまでで最も強い意志を込めた声で割って入った。


「……私も、彼はかわいそうだと思っています。それは、シホさんと同じです」


秋吉の瞳には、同じようにリクトのデータを解析してきた者としての、深い共鳴があった。


「だけど……私は、アビス・ラの脅威に対して、彼にしかできないことがあると信じています。それを、彼にやってほしいと心から願っている人間が、ここにいると教えてあげてください。……私は、自分の持つすべての情報分析能力を投げ打って、彼を死なせないためにフォローします。約束します」


それは、命令でも要請でもなかった。


一人の人間が、自分より過酷な運命に立たされた他者へ送る、祈りにも似た「お願い」の形だった。


Ⅳ. 決断と、荒野の座標


沈黙が、ふたたびコンテナを包んだ。


だが、先ほどまでの刺すような冷気はない。そこにあるのは、全員が同じ泥沼に足を踏み入れ、共犯者として地獄を見据える、奇妙な連帯感だった。


やがて、シホは肺の底から、重く、長い息を吐き出した。


「……分かりました。リクト君とコンタクトします。現状、そして、アビス・ラという存在の真実を、隠さずにすべて説明します」


シホは真っ直ぐに千姫を見据えた。


「でも、これだけは譲りません。強要はしません。私は彼に選択肢を提示するだけです。最後に行くか、逃げるか、あるいは……世界を見捨てるか。それを決めるのは、リクト君自身です」


千姫は、微かに口角を上げた。それは、冷笑ではなく、部下の「矜持」を認めた者の表情だった。


「……極めて危険な任務になる。アビス・ラが近くにいる以上、接触の瞬間に事象に巻き込まれる可能性もある。頼めるか?」


「はい。……リクト君と、話してきます。私にしかできないことですから」


「ありがとう。……秋吉! ぐずぐずするな、リクト君の現在位置を割り出せ!」


千姫の号令が、指揮車内に電撃を走らせた。


「はいっ!!」


秋吉が弾かれたようにキーボードを叩く。テロス・ギアの高度な隠蔽工作、そしてネットワークへの潜伏は追跡を困難にさせていたが、先ほどのアビス・ラと米軍の衝突――その凄まじいエネルギーの揺らぎの中で、リクトの生体反応が、防御本能によって一時的にオーバーフローした瞬間があった。


「……はっきりと『コレ』という座標は特定できません。ですが一箇所、周囲の熱力学法則が微かに乱れ、不自然な高熱源反応を継続させているポイントがあります!」


秋吉がメインディスプレイに地図を叩き出す。


そこは、荒野の中にポツリと取り残された、かつての好況の残骸。小さな工業団地の一角にある、古い廃棄物処理場だった。


「……よし。そこにリクト君がいると仮定して、全戦力を指向する。白虎、青龍は周囲の警戒。朱雀はCIAの動きを抑えろ。シホは……準備ができ次第、発進しろ」


千姫は、モニターに映るその寒々しい座標をじっと見つめた。


「全員、状況開始ミッション・スタート!」


その号令と共に、玄武のメンバーは一斉に動き出した。


究極の選択を、たった一人の青年に委ねるために。


人類の存亡という、あまりにも身勝手で、あまりにも残酷な「お願い」を、一通の手紙のように届けるために。


西野シホは、再びヘルメットを手に取った。


彼女がこれから会いに行くのは、救うべき少年ではない。


世界の均衡を天秤に乗せ、その重みに耐えうるかどうかを問われる、一人の「人間」だ。


指揮車の外では、夜の砂漠を切り裂くような冷たい風が、アビス・ラの咆哮を遠くから運んでいた。


[EOF]


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