第十章:静寂の田舎町と、開戦の狼煙
10.1. CIA長官への最後の牽制
Ⅰ. 闇夜の強行軍:移動司令部の咆哮
漆黒のアメリカの闇夜を切り裂き、玄武がその太い腕で操る無骨な4tトラック――外事三課の移動司令部は、もはや車両としての物理的な限界を幾度も試すような、凶悪な挙動で強行進軍を続けていた。
通常のナビゲーション地図上には存在しない、あるいは一般の四輪駆動車であっても通行不可能な山間部の未舗装路や、剥き出しの岩肌が転がる断崖絶壁に面したショートカットルート。玄武は、路面状況を毎秒数千回という超高速度で先読みする特注のアクティブ・ハイドロ・サスペンションと、自らの超人的な野性の直感だけを頼りにして、その重量級の巨体を驚異的な高速ラリーさながらの速度で疾走させていた。
車内コンテナは、激しい横揺れと絶え間なく襲いかかる凄まじいG(重力加速度)に見舞われていたが、鋼鉄のラックにガッチリと電磁固定された精密ブレードサーバー群は、磁気リニア冷却システムの鋭い唸りを上げながら、一ビットの破綻もなく正確に戦術データを処理し続けている。青白いモニターの幾何学的な光が、激しく揺れる室内のチタン壁面に複雑な陰影を落とし、ここが知的かつ非情な戦場であるという様相をいっそう深めていた。
内調の情報分析官である秋吉博子は、バケットシートの四点式セーフティハーネスにその華奢な身体を強固に固定されながら、すぐ隣に泰然と立つ千姫の美しい横顔を盗み見た。千姫は、トラックが引き起こす激しいピッチングとローリングを、まるで完全に凪いだ無風の海の上にいるかのように完全に無視し、体幹を僅かもブレさせることなく微動だにせず立ち尽くしていた。そのあまりにも静謐な佇まいの奥底に、博子は、噴火を一秒後に控えた巨大な火山のような、冷たく、そして鋭利な「怒り」の波動を感じ取り、生物としての本能的な不安に身を震わせた。
Ⅱ. 断絶の通信:傲慢なる「帝国」の回答
千姫は、コンテナの激しい振動とエンジンノイズを完璧に吸収する特殊指向性マイクを細い手で手に取ると、高度に暗号化された衛星軍事回線を介して、CIA長官へと繋がる極秘のホットラインを再び強制的に開いた。
通信の同期が完全に確立されるまでの数秒間、まるで真空の宇宙空間に放り出されたかのような、耳が痛くなるほどの静寂が車内を包み込む。
やがて、壁面スピーカーからノイズ一つなく澄んだ音質で漏れ聞こえてきたのは、洗練されてはいるが、同時に聴く者に反吐が出るほどの傲慢さと、他者を常に見下す高圧的な響きを帯びた、大国の影を操る男の声だった。
「……また君か、外事三課の『千姫』。深夜にわざわざ大統領直轄のホットラインを叩くとは、外交官としての最低限の礼儀を少なからず欠いているとは思わないか」
千姫はその底浅い皮肉を鼻でフッと冷酷に笑い飛ばし、その漆黒の瞳に絶対的な威圧の光を宿して、静かに問いかけた。
「礼儀の話をしている場合ではない。アメリカ陸軍第10特殊作戦群の3個小隊、計120名以上の重武装兵力を、我々日本側との事前の公式な協議も一切なく、現地の作戦エリアへ秘密裏に投入したそうだな。……長官、これは日本に対する事実上の宣戦布告(戦争)のつもりか? それとも、ただの牧歌的な夜間演習とでも、最後まで言い張るつもりか?」
千姫の声は低く、そして重い。うら若き女性の肉体から放たれているとは到底信じがたい、数多の修羅場を潜り抜けてきた歴戦の最高指揮官だけが持つ独特の凄みが、暗号化された通信回線を津波のように通じて、海の向こうにいる長官の鼓膜を直撃した。
「フン、何のことだかさっぱり分からないな。そもそも君に、我が合衆国の高貴な部隊運用に干渉する戦術的権限など存在しないし、当然のことながら、こちらにその内訳を答える義務も一端の義理もない。……事態はすべて、我がCIAの緻密な計算のもとで完全にコントロールされている。君たち東洋の迷い犬は、余計な口を出さず、そこで指をくわえて黙って結果を見ていてもらおう」
長官は、千姫が持つ日本政府の特使としての全権限を、自らのデスクに積もった取るに足らない塵芥のように一言で切り捨てた。超大国アメリカの絶対的な軍事力を盾にした、あまりにも一方的で無慈悲な「戦術的通告」であった。
Ⅲ. 千姫の嘲笑:テストベンチへの警告
千姫は、その男の浅はかな傲慢さを心底から憐れむかのように、冷たくその美しい口角を三日月のように上げた。
「相手の『真の恐怖』をまともに計りもせず、目先の戦果欲しさにいきなり貴重な最精鋭部隊を正面から突っ込ませるとは。……貴国の特殊部隊はよほど神がかり的に優秀なのか、あるいは、彼らを使い捨ての便利な『テストベンチ(実験台)』にするつもりなのか? どちらにせよ、上層部の無知のせいで死地へ赴く現場の兵士たちには、心から同情するよ」
「……言葉を慎め、特使。黙って見ていろと言ったはずだ」
長官の声に、これまで保たれていたエリート特有の余裕が消え、明らかな苛立ちの混じった硬さが混じり始める。
「貴国は、歴史という人類最良の教師から何も学習していないようだな。ベトナムの泥沼、湾岸の砂漠、そしてそれ以降に貴国が引き起こした数多の紛争地での過ちを今一度思い出して欲しい。……最新のミリタリーテクノロジーを限界まで詰め込んだ高価な電子の玩具が、必ずしも本物の戦場における『最強』を意味しないということをな」
千姫の紡ぐ言葉は、アメリカ軍が過去の歴史において嫌というほど味わってきた屈辱的な敗北の記憶と、その根源にある「大国の傲慢さへの手痛いしっぺ返し」の核心を、寸分の狂いもなく正確に突き刺していた。
「……何が言いたい」
「最先端の現代科学の結晶……それが、この世界の理を完全に外れた『超古代文明の遺物』の前に、どれほど無力で無残なスクラップに成り下がるか。……私は今、その取り返しのつかない現実を、貴方に親切に教えようとしているのだ」
「……戯言はもう十分だ。君との不愉快なホットラインは、これをもって物理的に切断させていただく。次に君と公式に話すときは、我々の特殊部隊が事態を完全に終結させ、君たち外事三課の身柄を確保した上で、国外追放処分にする時だ」
ブツリ、という冷たい電子音と共に、通信は一方的に切断された。
千姫は手の中の通話マイクをじっと無言で見つめ、行き場のない憤怒のエネルギーを自らの鋼の精神の内側へと押し込めた。彼女の周囲の空気が、物理的な熱を帯びて陽炎のように歪むかのように錯覚させるほどの、圧倒的な「殺気」がコンテナ内部を満たしていた。
Ⅳ. 観測される破滅:突撃する駒たち
朱雀は、解析画面にホログラム投影された緑色のドット群から一瞬たりとも目を離さず、淡々とした声で現在の戦況を冷酷に評価した。
「……これで相手が少しでも前進を躊躇してくれれば、現場の兵士たちの被害は多少なりとも減ったでしょう。が、全くの無駄でしたね。彼らの進軍速度に一ビットの変化もありません。……自ら突っ込んでいきますよ。アビス・ラという名の、底なしの死神の顎の中へ」
千姫は深く、重い息を吐き出し、断定するようにその顎を引いた。
「恐らくな。……ワシントンの快適なデスクに座っている上層部の連中も、現場を指揮している傲慢な現場指揮官も、これから自分たちが物理接触する『アビス・ラ』という存在を、最新兵器の稼働テストに適した、少しばかり大掛かりな珍しい猛獣くらいにしか思っていない。……本当に、哀れで愚かなことだ」
千姫は、激しく流れるコンテナの強化ガラス窓の外の闇を見つめた。そこには、ステルス仕様のバイクを駆るシホや、すでに誘導任務に就いている白虎、青龍が、死地へと向かう米軍のハンヴィーの背中を静かに追っているはずだ。
「彼らが自慢する近代兵器が、超古代の力の前に塵芥のように無力だと知り、本物の絶望の叫びを上げるまで……我が外事三課の介入は、あのアメリカ政府には決して受け入れられない。……そして彼らがその間違いに気づいた時には、もうすべてが手遅れだ」
車内の壁面メインモニターには、無数に並んだ米軍の青いアイコンが、今まさにアビス・ラが絶対零度の罠を張り巡らせて待ち構える「死の三叉路」スリー・フォークスへと、運命の収束点に向けて吸い込まれていく様子が、哀れなほど無慈悲に映し出されていた。
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10.2. スリー・フォークス:極限の潜入
Ⅰ. 境界線の突破:四神の機動
アメリカ合衆国バージニア州。かつて南北戦争の時代に無数の兵士たちの血で赤く染まり、今は現代歴史の忘却の深淵に沈んだ寂れて朽ち果てた田舎町「スリー・フォークス」。その目に見えぬ戦術境界線を、外事三課の移動司令部トラックは、米軍の第10特殊作戦群の精鋭部隊よりも数分早く、隠密裏に踏み越えていた。
玄武の神懸かり的、かつミリ単位の精密なブレーキング操作により、4tトラックはアスファルトを焼き切る嫌な音も、不必要な土煙を周囲に上げることも一切なく、計算された座標へピタリと無音で停止した。その停止の瞬間、後部ハッチがプシューという重厚なエア圧の開放を伴う金属音と共に、闇に向かって大きく開放される。
「行け、時間がない」
千姫の短く、氷の刃のように鋭い号令がコンテナ内に下る。
大型の対物狙撃銃をケースごと軽々と肩に担いだ白虎と、夜の闇に完全に同化する特製の漆黒の狩衣を纏い、その背に一本の日本刀を背負った青龍の二人が、バネが弾けたかのような速度でハッチから外へと飛び出した。彼らは一切の迷いもなく、自分たちが元来た道を、常人離れした驚異的な脚力で逆走し始める。その目的は、向かってくるアビス・ラを、米軍という名の最高の「実験台」の目前へと正確に誘い出す、極限の戦術誘導任務であった。
彼らの耳に装着されたイヤーモニターには、トラック内のIZANAGIサーバーと直結した朱雀の声が、寸分の狂いもないリアルタイムの戦術情報を送り届けていた。
『白虎、青龍。双方の座標捕捉を完全に完了した。……ターゲット、コードネーム『アビス・ラ』は現在お前たちから11時の方向、直線距離にして約3000メートル。対する米軍第10特殊作戦群の車列は3時の方向、距離4000メートル。……間一髪、これ以上ない理想的なクロスポイント(交差座標)だ。我々外事三課の設計通りに「血塗られた舞台」は完全に整った』
白虎は時速40キロメートルを超える陸上選手以上の速度で暗闇の原野を疾走しながらも、呼吸を僅かも乱すことなく、インカム越しに不敵で獰猛な笑みを漏らした。
「ハッ! 秒単位の計算通り、間一髪で間に合いそうだぜ。……玄武の親父、相変わらずいい腕してやがる。あのガタガタの獣道をこの時間で踏破しやがるとはな。……さあ、化け物退治の露払いといこうか、青龍!」
一方、隣を並走する青龍は一切の言葉の返答をせず、走路上に漂う微かな「大気の気の歪み」を全身の感覚器で鋭敏に感知していた。アビス・ラがその全身から放つ、万物を一瞬で凍てつかせる絶対零度の死の余波。彼は白虎を視線だけで1時の方向、すなわちアビス・ラの予測進路を僅かに横へ外れた高台の「安全観測点」へと誘導し、自らもまた、因果が最も濃密に収束する決戦のポジションへと位置取りをミリ単位で調整していった。
Ⅱ. 隠密の極致:シホの潜入
その頃、ジャーナリストの西野シホは、既にスリー・フォークスの中心部、死のような静寂が深く支配する廃墟の影へと、単身で深く潜入を果たしていた。
彼女が操るRスピード・X991軍用カスタム仕様。その特注のハイブリッド・電気モーターは、木の葉が擦れ合う音にも満たない無音に近い低周波の駆動音で闇のストリートを滑り、夜光をすべて吸収する特殊ステルス塗装は、頭上の月明かりさえも自らの存在を隠す味方につけていた。シホは、自らの存在を敵味方のあらゆるレーダーに察知されることなく、街道を猛烈な勢いで突き進む軍の装甲ハンヴィー車列を文字通り「影」のように追い抜き、先に街の最深部へと到達していたのだ。
シホは、蔦が不気味に絡まる古いレンガ造りの建物の完全な死角にバイクを素早く隠すと、胸部に最新の軍用暗視カメラ(超高感度ナイトビジョン)をガチリと装着した。そして、一歩一歩、割れたガラスを踏まないよう慎重に西の方角へと歩を進める。
(アビス・ラと軍の対応は、千姫さんや白虎さんたちがやる。……正直言って、私にできることなんて、あの人知を超えた化け物たちの前では何一つない。……なら、私にしかできないことは、この戦場のどこにあるの?)
シホは、自らの肉体的な無力さを奥歯で噛み締めながら、その脳裏に一人の孤独な少年の姿を強く思い浮かべていた。
(私には秋吉さんのような、国家の防壁を揺るがす天才的なハッキング技術はない。白虎さんたちのような、銃や刃物を用いた暴力の極致も持ち合わせていない。……なら、私にあと残されているカードは一つだけ。……リクトと、もう一度話をすること!)
シホの大きな瞳に宿っていたのは、スクープを追う三流記者の狂気的な特ダネ本能ではなかった。それは、過酷な運命によって傷ついた少年をどうしても放っておけない、人間としての根源的な温かさと、他者を救おうとする強い使命感であった。
(彼を……リクトを私の言葉で静めて、今度こそ暴走を止めること。彼の纏う『熱』が、アビス・ラの『冷気』と最悪の衝突を起こす前に。アメリカ軍が彼を、排除すべき破壊の対象として認識してしまう前に!)
シホは、リクトがこちらに向かって来るであろう古い州道の方角――街の東の境界線に向かって、足早に進んでいく。放置された廃墟の窓ガラスが、彼女の焦燥を映し出すように、月光の中で鈍く光り輝いていた。
Ⅲ. 消えた少年:虚無の境界線
しかし、息を切らせてようやくたどり着いた東の境界線の古い交差点に、待っていたはずのリクトの姿はどこにもなかった。
「……いない。どうして? 計算なら、もうここを通過しているはずなのに」
シホは周囲の暗闇を必死に見渡すが、そこにあるのは冷たい夜風に寂しく吹かれる広大な草原と、錆びついて朽ち果てた古い道路標識だけだった。博子のIZANAGIの計算によれば、リクトは既にこの付近を、周囲の熱量を奪い去る「熱力学的な崩壊の波」を全身から纏いながら通過しているはずの時間だった。
(見つからない……。どういうことなの? 彼に一体何が起きたの? 座標の計算ミス? それとも……)
シホの背筋に、得体の知れない生物的な寒気がゾクゾクと走った。
リクトの放つあの凄まじい白い光、NCU(脳神経カプラー)の暴走。それは本来、この光のない暗闇の中では太陽のように激しく輝き、遠くからでも隠しようのない圧倒的な存在感を示すはずなのだ。それが、この不気味な静寂の中に、ノイズすら遺さず溶けて消えるはずがない。
シホはまだ知らない。
リクトという存在のフェーズが、もはや物理的な「足による移動」という三次元の概念を遥かに超え、彼の設計者・雷門玄一が仕組んだ「運命のロゴス(因果律)」に従って、通常の観測器では捉えることのできない深淵の位相へと、その姿を隠し始めているという戦慄の事実を。
「リクト……お願い、どこにいるの……!?」
シホの悲痛な叫びは、遮るもののないアメリカの夜の風にかき消された。
その直後、北西の空の彼方から、米軍の重重機やハンヴィーの大集団が発する、地鳴りのような重低音の震動が五感へと伝わってきた。
数瞬遅れて、それと不気味に呼応するように――西の地平線の闇から、空間そのものが絶対零度で凍りつくような、脳を麻痺させる絶望的な「静寂」が迫りつつあった。
スリー・フォークス、死の三叉路。
世界を書き換える開戦の狼煙は、既に見えない場所で、静かに、しかし確実に上げられていた。
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10.3. 誘導作戦:アビス・ラの驚異的な実力
Ⅰ. 観測地点:死神を待つ丘
白虎と青龍の二人は、朱雀が戦術マップ上でピンポイント指定した最終誘導ポイント――スリー・フォークスの寂れた街並みを一望できる、北西に位置する緩やかな丘陵地帯へと瞬時に到達した。そこはアビス・ラの進行予測ルートから僅か数百メートルほど横に逸れた、地形的にも完璧な天然の観測台とも言える遮蔽場所であった。
白虎は丘の頂へと辿り着くや否や、背負っていた長大な防爆キャリングケースを地面へ叩きつけるようにして開き、自らの半身でもある愛銃の超大型対物ライフルを、目にも留まらぬ手際で組み上げていく。
口径12.7mm、.50BMG弾(ブローニング・マシンガン弾)を高速射出する、対軽戦車用の圧倒的な破壊兵器。アンチ・マテリアル・ライフル(対物阻止狙撃銃)の武骨な超ロングバレル(銃口)が、冷徹に西の暗い地平線へと向けられた。
そのすぐ隣では、青龍が衣服を風に揺らしながら微動だにせず立ち尽くし、周囲の空間全体に流れる「大気の気の密度」を五感の奥で計っていた。
(……周囲の気が、異常なまでに静まりかえっている。いや、大気が完全に静止させられているのか。わずかに、皮膚の細胞を直接刺すような、邪悪で凍てつく振を感じる。……来るな。あそこか)
青龍の超越的な感覚器は、リクトが放つ太陽のようなあの圧倒的な高熱源とは完全に真逆の極点に位置する、万物の分子運動を絶対零度へと強制的に引きずり込むような「虚無の冷気」をはっきりと捉えていた。
「白虎、お前の言う化け物が来るぞ。……直線距離1000! 速い……この移動速度、生物の筋力限界を根本から超えている。もうすぐそこまで来ているぞ!」
「りょーかい、スコープの中央にガッチリと捉えてるぜ……!」
白虎が軍用ナイトビジョン(暗視ゴーグル)越しにライフルの高倍率光学暗視スコープを深く覗き込む。緑色にデジタル増幅された視界の中で、彼は、自らのこれまでの戦術常識を根底から覆す「それ」を、ついに目撃した。
Ⅱ. 異形の竜:アビス・ラの顕現
「おいおい、なんだぁ、ありゃ……! 本当に雷門の作った人工物じゃねえのかよ!」
白虎の口から漏れた驚愕の呟きが、イヤーインカムの通信機を通じて、後方に控える移動司令部トラックの全員へとリアルタイムで共有される。
凄まじい速度で原野をこちらに向かって接近してくるその異形の姿は、古代の超古代文明の神話に語られる不吉な竜の姿に酷似していた。
立ち上がればその体高は優に4メートルを超える圧倒的な巨躯。しなやかに湾曲した強靭な長い首の先には、耳元まで裂けた巨大な肉食獣の顎と、昏い情念をドロドロに煮詰めたような不気味な赤い眼球が二つ、嵌まっている。
全身を密に覆うのは、光を一切反射しない漆黒の短毛。それが風を切って前進するたびに、周囲の大気中の水分を瞬間凍結させたかのような、白く美しくも恐ろしい氷の霧を全身に纏っていた。地面を蛇のように滑るようにうねる長い尾を含めたその全長は、少なくとも15メートル以上。
地球上の既存の生物学上の分類を完全に拒絶するその圧倒的な殺戮機能美と、物理法則を置き去りにした異常な加速性能。白虎がこれまで世界中の凄惨な紛争地で遭遇してきた、いかなる軍事用生物兵器や異形の怪物をも子供騙しの玩具に思わせる、次元の違う「完成された死」がそこに具現化していた。
「白虎、その化け物に見惚れている時間はない! 奴の顔面に当てろ!」
青龍の隣からの鋭い叱咤によって意識を現実の戦場へと引き戻され、白虎はライフルの分厚いラバー製バットプレートを自らの右肩の肉へと深く食い込ませた。
スコープの中央、十字レティクルのまさに中心点が、高速移動するアビス・ラの不気味な頭部に吸い付くように固定される。
細く長く息を吐き出し、心臓の鼓動と鼓動の僅かな合間に、一切のブレなくトリガーを絞る。
(――ドウン!!!)
耳を聾するほどの凄まじい発砲音と、マズルブレーキから左右に激しく噴き出したマズルブローの炎が闇を切り裂く。音速の数倍の超初速で射出された50口径の重金属弾が、夜の空間を切り裂いて正確にアビス・ラの頭蓋のど真ん中を撃ち抜いた。
Ⅲ. 鋼鉄の皮膚:50口径の無力化
(――ギン!!!)
しかし、静寂の夜空に響き渡ったのは、肉頭骨を穿つグシャリとした肉声ではなかった。まるで超硬合金の塊同士を正面から激突させたかのような、乾いた高い鋭い金属音が、静まり返った原野に激しく反響する。
弾丸の直撃を受けたアビス・ラの頭部が僅かに衝撃でのけぞり、その強靭な四肢の爪が地面に深い傷跡を刻んで、一瞬だけその場に完全停止した。
「……嘘だろ、冗談だろ!? 脳天への完璧なクリーンヒットだぞ!」
白虎は背筋に走る戦慄をプロの理性で力ずくで押し殺し、ボルトレバーを引いて空薬莢を排出し、次弾を瞬時に薬室へと送り込む。間髪入れずにトリガーを連射する。
(ドウン!)(ドウン!)
(ギン! ギン!)
放たれた高貫通性のタングステン芯弾は、吸い込まれるようにアビス・ラの漆黒の皮膚へと正確に着弾した。しかし、着弾した瞬間に弾丸の側がその圧倒的な硬度に負けて木っ端微塵に砕け散り、闇夜に火花を散らすだけだ。その異形の体表には、擦り傷一つ、毛の一本も抜けた形跡すら存在しない。
「! クソが、全く効かねぇ……! 対物ライフルの直撃弾が、装甲板すら通さねぇのかよ! 青龍! こいつぁマジでヤバイ、事前に聞いてた話と完全に違うぜ!」
アビス・ラは、自らの前進を遮る執拗な遠距離攻撃を受けたことで、明確な「不快感」を覚えたかのように、その爛々と輝く赤い瞳を丘の上へと冷酷に向けた。そして、再び四肢を駆動させて走り出す。その初速は先ほどまでの巡航速度を遥かに凌駕し、移動に伴う凄まじい衝撃波が地面の土を派手に抉り取っていく。数秒後には、彼らの首が胴体から容易に離れているであろう距離まで一瞬で肉薄していた。
「そんなことは見れば分かる! くだらない口を叩かずに――そこに伏せろ!」
青龍は白虎の肩を掴んで強引に地面の草むらへと押し倒すと、同時に自らの両手の指を複雑に絡ませ、九字の印を視認不可能な超高速で結びきった。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前――隠身の法!」
青龍の結ばれた指先から、粘り気のある濃厚な青白い霊力が周囲に溢れ出し、地面の土の上に古の幾何学模様――術の魔法陣が淡い光を放って一瞬だけ浮き上がる。二人の身体を世界から隔絶する不可視の幕が瞬時に覆い、彼らの体温、呼吸、心拍、気配、そして空間そのものの微細な歪みさえも完璧に消去した。それは彼が現代に生きる高貴な「陰陽師」の正統なる末裔であることを証明する、外事三課秘蔵の最高位の結界術であった。
生体合成体アビス・ラは、つい先ほどまで確かにその場所に存在していた明確な熱源と反発の気配を突然見失い、怪訝そうにその長い首を左右に大きく巡らせた。その赤い目は、執念深く、自らの大気を焼くような標的の熱源を求めて彷徨う。
その時、アビス・ラの高度な視覚センサーが、丘の先、さらに数キロメートル先の盆地の低地に不気味に灯る「複数の人工的な明かり」を鮮明に捉えた。
それは、トラックの朱雀が遠隔操作で精密配置した、偽の赤外線サーマル・デコイ。そして、自分たちの獲物を何も知らずに狩ろうと、傲慢に強行進軍してくる米軍特殊部隊のハンヴィー車列が撒き散らす、濃厚なエンジンの排熱であった。
アビス・ラは、その凶悪な長い顎を大きく引き裂くように開き、人間の鼓膜を直接内側から引き裂くような、禍々しい咆哮を周囲の空間へ轟かせた。
「ガァァァァァァーーーーーーー(オーム)!!!」
大気そのものがビリビリと激しく振動し、丘の周囲に生い茂る草木が一斉に白い霜をまとって凍りついていく。
真の標的の方向を定めた怪物は、米軍の部隊に向かって猛然と、大地の鼓動そのものを書き換えるような凄まじい地響きを立てて、突進を開始した。
Ⅳ. フェーズ終了:非情のバトン
展開されていた隠身の術の陣が静かに夜風の中で霧散し、青龍は額に滲んだ冷や汗を手の甲で静かに拭った。極限の集中による激しい精神疲労を内に隠しながら、インカムに向かって低く呟く。
「……千姫、朱雀。こちら青龍。第1戦術フェーズ、完全に完了した。……対象アビス・ラは、予測通りの進路を完全に維持。我々の誘導通り、米軍の正面へと向かって疾走している」
『よし。……見事だ二人とも。即座に次のフェーズへと移行する。現地から一秒で離脱、移動司令部トラックへ戻れ』
無線から、千姫の、人間的な感情を一切排した冷徹極まる指揮官としての指示が間髪入れずに入ってきた。
青龍と白虎の二人は、背後に死の凍結を振り撒きながら遠ざかっていくアビス・ラの巨大な背中に一瞥をくれ、トラックの待機地点へと時速60キロを超える超人的な身体走法で、闇の中を戻り始めた。
白虎は、走りながらも未だに自らの掌に生々しく残る、対物ライフルの凄まじい反動の記憶と、それを完全に無効化された絶望的な違和感をどうしても拭えずにいた。
「……おい青龍、あいつはマジでヤバイぞ。50口径の重金属芯弾を、まるでただの羽虫を叩くみたいに弾きやがった。……特殊部隊のアメリカ人の野郎ども、心から気の毒にな。あんな化け物、人間の正規軍が正面から相手にしていい代物じゃねえぞ……」
白虎のその忌々しげな呟きは、アメリカの冷たい夜の風に溶けて完全に消えた。
外事三課の描いた、血も涙もない冷酷なる「実戦観測」の幕が、今ここに上がる。
アメリカ軍の精鋭120名の尊い命という名の「戦術コスト」を贅沢に支払い、超古代文明の神獣が持つ真の実力を安全圏からすべて暴き出すという、残酷極まる実戦実験が、今、暗闇の中で始まったのだ。
[EOF]




